豊洲移転問題を解決する3つの処方箋

昨日の減価償却についてのつぶやきを見たあとで、錯綜した議論の原因を探そうとおもいいろいろと調べてみた。簡単におさらいすると、豊洲市場移転問題の議論で「減価償却はサンクコストだから考えなくて良い」という話があり、それに対して築地存続派の人たちが「どんなのデタラメだ」と言っていたというのを見かけたという話だ。

これを例えるとこういう話になる。

バカ息子が突然訪ねてきて「築地の家は汚いし補修も大変だ。で豊洲に家を買っちゃったんだけど、ローンが払えなさそうなので代わりに払って欲しい。」と申し出る。豊洲のタワーマンションの景色が気に入ったらしい。

で、バカ息子は続けてこう説明する。でも、もう豊洲の家を買っちゃったし、これってサンクコストでしょ。サンクコストはネグっていいんだよ。築地は維持費がかかるけど、豊洲はそういうの(しばらくの間は)無視できるから、豊洲のキレイなマンションに住んだ方が生活が楽になるんだよね。

僕だったらバカ息子をぶん殴って<議論>は終わりだ。が、経済用語が出てくると「あれ、これってバカ息子の方が正しいんでは」という疑念がでてきてしまうのだ。

この議論はそもそも、豊洲移転について試算をやり直したところ「移転は難しい」という報告書が出たというのが端緒になっているようだ。移転ができる(つまり豊洲移転プロジェクトが正当化される)条件はいくつかあるのだが、利用料金を二倍にする(収益を増やす)か、初期投資費用を税金で賄う(負債を減らす)か、他の儲かっている市場と会計を合一にする(枠を変える)必要があるらしい。その中に「減価償却」という用語が使われており、それが一人歩きしたようだ。減価償却はイニシャルコストと追加でかかる補修費を指しているらしい。

この議論が混乱した最初のきっかけは小池さんだったようだ。カタカナ語が多いことで知られているのだが、付け焼き刃的な知識も多いのかもしれない。小池百合子都知事は「無駄な投資」の意味でサンクコストを使ったのではないかと思う。どうやら「私が介入した結果豊洲は安全になった」というシナリオがあり、豊洲の投資が無駄にならないようにという意味で「サンクコスト」という言葉を使ったのかもしれない。それを聞いた経済学の専門家(多分わかっていて)が議論をまぜっかえし、お調子者の政治家が追随した。そこで「それはおかしい」と直感的に考えた人が騒ぎ出したようだ。

減価償却がサンクコストかどうかが問題になるのは、キャッシュアウトしているにもかかわらず、会計上の支出はあとで起こるからだ。つまり、お金の出入りと会計上の処理が時間的にずれるために錯誤が生じるのだ。プロジェクト計算をする時に「あれ、キャッシュベースで考えるんだっけ、会計ベースなんだっけ」と迷うことがあるので「減価償却はサンクコストですよ」と暗記するわけである。過去の投資の失敗をなかったことにするために使う魔法の言葉ではない。

もともと豊洲の収支計画は議会に提出されており、工事も終わっているわけだから、何らかの形で支出は終わっているはずだ。つまり、議会が承認した結果キャッシュは外に出ている。だから今更「費用の負担をどうしましょうか」という議論が出てくること自体「あれ、何かおかしいな」という気がする。

その上、実務はもっとややこしいことになっているようだ。つまりキャッシュアウトと会計処理に時期的な違いがあるだけでなく、ローンの話が絡んでいるのではないだろうか。豊洲が失敗したと仮定して「無駄金」を払い続けることになっても、過去の承認がなかったことになるはずはない。つまり議論としては簡単で「あてにしていた収支計画がデタラメだったから、それを税金で補填しなければならない」というだけの話なのだ。移転しなければお金は全く入ってこないし、移転してしても期待ほどのお金は得られないということになる。

いずれにせよ「どうお金を工面するのか」という問題は「A/Bプロジェクトのバリュエーション」と分けて考えなければならない。それを一緒くたにするとわけがわからなくなるのは当然じゃないかと思うのだが、この一連の議論を追ってみると、それを気にしている人はいないように思える。

ではなぜそんなことが起こったのか。気にしてテレビを見ているとコンテンツビジネスに詳しい国際弁護士を名乗るコメンテーターが「イニシャルコスト」の意味で「減価償却」を使っているのを見つけた。わかって使っているのかもしれないが、これは議論をややこしくするだろうなあと思った。

ここで豊洲がいいのか築地がいいのかという議論をするつもりは一切ないし、そのような情報も会計知識もない。一つだけ言えるのは、議論の参加者に会計の基本的な知識がないために、いろいろな人がそれぞれの勝手な思い込みで議論を理解して問題を複雑化しているということである。その上雪だるま式に様々な問題が一緒くたになるのでいったい何を議論しているのかということがわからなくなっているようだ。

この状況を改善するためにはどうしたらいいのだろうか。3つほど処方箋を考えた。

一つは外野を黙らせることだ。誰が何を決めているかが明確になればこの問題は解決する。この原因を作っているのは小池都知事である。小池さんは「いつまでに何を決めたいのか」がさっぱりわからない。従って、誰が責任を持って何をどこまで決めるかが明確にならない。

次にやることは、何を議論しているのかというスコープを明確にすることである。政治問題なので実行は難しそうだが、いつまでも揉めているよりは楽になりそうである。この場合は「リスク要因の確定」「投資のバリュエーション」「政治的な責任問題」などに分けられる。多分予算の話ができるのはそれ以降ではないだろうか。不確定要素が多い上に単純な意思決定もできていないのに、総合的な意思決定などできるはずがない。

最後にやることは共通言語の獲得である。が、これはすぐには難しい。今回の議論では会計用語の基礎と倫理問題(持続性や安心安全に関わる)の基礎を知っていないと議論に参加できない。アメリカでこういう不毛な議論が起こりにくいのは、マネージメントを行う人が、修士レベルで経営の基礎知識を学んでいるからだ。一つひとつは実務レベルの知識ではないので「こんなの勉強してどうするんだろう」などと思うわけだが、よく考えてみると、基本的な知識の粒を揃えておかないと議論すらできなくなってしまうのだなあと思う。その意味では日本人はバベルの塔に住んでいる。同じ言語を話しているつもりで全く相手のいうことがわかっていないのである。

ゲレンデの語源

ゲレンデという変な言葉がある。スキー場の中にある滑降コースのことだ。なぜゲレンデというのだろう。

もともとスキーはノルウェーで雪山を移動するための技術として発展したそうだ。ノルウェーのスキーは今でもノルディックスキーという競技名で残っている。クロスカントリーの他にジャンプ競技を含むそうだ。一方アルプス圏では山を滑降するアルペンスキーが人気だという。

日本のスキーは軍事技術としてオーストリア経由で導入された。オーストリアのテオドール・エードラー・フォン・レルヒという方が日本に持ち込んだとのことだ。もともと娯楽とみなされていたオーストリアのスキーは徐々に軍事技術としての役割が強調され、八甲田山の事故などを受けて日本でも注目された。このためドイツ語由来のスキー用語が多く残っている。ゲレンデはドイツ語でGeländeと綴るそうだ。

ドイツ語の成り立ちとしてゲレンデはゲ+ランドということで、集合的な土地という意味しかないという。英語のグラウンドと似ているなあと思ったのだが、gRandなので関係がなさそうである。英語のグラウンドには「基底」という様な意味があり、校庭のグラウンドなどのように使われる場所は「硬くて乾いている」というようなニュアンスがあるという。ゲレンデで検索をかけるとwikipediaの地形図の項目が出てきた。ドイツ語では起伏のある土地くらいの意味しかないようなので、正確にはスキーゲレンデと言わなければならないらしい。

さて、ゲレンデがドイツ語由来だということはわかったのだが、英語ではなんというのだろうか。スキー場はスキーリゾートとかスキーエリアと呼ぶようだ。Wikipediaにはスキー場にはピスト(piste)やスキー・トレイルがあると書いてある。さらに、ピストはもともとフランス語経由で英語のトレイルの意味だという。つまり、英語ではトレイルと呼び、ちょっと洒落てピストともいうのだろう。イギリスにはスキー場はそれほど多くなく、やはりアルプス圏(スイス、オーストリア、イタリア、フランス)などが本場のようだ。

試合と幸せ

昨日、甲子園で決着がつかない試合が2連続で行われた。そのニュースをみていて「試合」ってへんな漢字だなあと思った。なにを試し合うのかと思ったのだ。そこで語源を調べてみた。

行き当たったのがこのページで、もともとは和語で、為合うという漢字を充てていたそうである。由来は古く奈良時代ということだが、それ以前に文字がなかったことを考え合わせると、古くから使われていたのではないかと思われる。わりと純粋な和語なのだ。

試合の原型が武術にあることは間違いがなさそうだ。つまり今よりももっと真剣なものだったのだろう。リンク先の文章は幸せの語源を試合と同一としている。つまり、試合も幸せも、運命の流れがあり、それに合致しているかどうかということを意味していることになる。つまり、運命を受け入れるのが幸せであって、自ら希望して作り出すものではないのである。日本人が「なる」状態を好み「する」状態を嫌うということがわかる。

幸という字は手枷を意味しており、刑罰から免れることを意味するようになったという記述を見つけた。別の記述もあるので通説のようだ。すると中国人は不幸にならなかった状態を幸せだと捉えていたことになる。これも日本人が考える幸せとは違っている。どちらかというとHappyよりLuckyに近い考え方だ。Luckyの名詞形はLuckだが、これに当たる言葉は日本語にはない。運は巡り合わせの意味であり、必ずしもLuckを意味しない。

英語では試合はGameとかMatchという。二つの言葉が使われるのは日本語の試合が対戦と対戦の総体をどちらも試合と言っているからだ。Gameには競い合いやうでだめしというような意味があり、スポーツだけではなくトランプなどの遊戯から狩りまでを幅広く含んでいる。これはラテン語経由ではなく、古くからゲルマン系の言語にあった単語のようだ。ゲルマン諸語では「ease」の意味だったと説明されている。つまりレジャーに近い意味を持っていたことになる。一方、Matchはラテン語由来だそうだ。取り組みや対戦を意味していて、英語では動詞で使うと「合致している」とか「組み合わせが良い」という意味になる。この段落はここから引用した。

日本人は試合というと武道の果し合いのような真剣なものを想像するが、英語圏ではもっと気楽なものを試合だと考えていることになる。語源は意外と言葉の気分を表している。甲子園の野球大会をゲームというと怒る人もいるのではないか。

面白いことにもっとも神聖で真剣な試合と思われる相撲は、試合という言葉は使わない。一般的に使われる取り組みはmacthの訳語だと思われるが、それについて記述した文章は見つけられなかった。相撲では取り組みという言葉すら一般的ではないようで「割」というそうだ。割とは対戦表のことであって、試合そのものを意味するわけではないようだ。このことから相撲が武道経由ではないことがわかる。どちらかというと農業祭祀の色彩が強いのではないか。いずれにせよ「力士をなぜ選手と言わないのか」などということを気にする人は誰もいないようだ。

道徳の文部科学省検定の何が問題か

道徳が教科になるということで教科書検定が厳しくなったようだ。パン屋が和菓子屋に改められたというのが反発を呼んでいる。そこでハフィントンポストの記事を読んでみたのだが、問題はそれだけではないようだ。ただ、いろいろ考えた結果、道徳って我々が思っているより暮らしに密着しているんじゃないかと思った。イデオロギー対立の道具に使って<議論>しちゃっていいのかというのが最終的に訴えたいことになってしまった。

ハフィントンポストによると「指導要領の内容を網羅するため」ということで、消防団に参加するパン屋のおじさんがおじいさんに改められたりしているという。国粋主義が強まっているという疑念はそれなりにあるのだが、それ以前に気になるのはフォーマリズムだ。

道徳の目的は、円滑な社会生活を送るために必要な姿勢を作り出すことだ。だから、子供の内部に社会や個人に対する肯定感を育てる必要がある。つまり、道徳教育でで語られることは「例示」にすぎず、多くの例示のなかから内部に「価値観」を作ってゆき、実践することが大切ということになる。

ところが、文部科学省の人たちは、内在的な規範の大切さがわからないようだ。外形的なことを暗記さえすればよいと考えるから「網羅」を目指すのだろう。記事によると教科書を作った人たちはこの点に大いに戸惑ったようだ。心でなく形ばかりが重要視されているというのだ。

同じような教科が英語だ。日本の英語教育は「教科書に書いてあることを覚えさえすればそれでよい」ということになっていて、それを英語が話せない先生が教える。だから英語が話したければ、学校教育をすべて忘れて英語を学び直すことになる。そうしないと実践的な英語が学べないからである。具体的にはアカデミックイングリッシュとかビジネスイングリッシュなどの語彙を覚えないと実践的な英語は話せない。そしてこれは受験英語とはかなり異なっている。

さて、ここまで書いてちょっと寝かせておいた。その間にバイト敬語を耳にする機会があり、道徳というのは思っているより言語性が強いのかもしれないと思い直した。

敬語は待遇表現なので、動詞とか形容詞の変格を勉強しただけでは身につかない。学校の敬語教育が型どおりのものでも構わないのは、我々が学校の外で待遇表現について学ぶからだ。主な通路は家庭と会社なのだが、家庭で基礎的な待遇に関する知識を学べないと敬語が身につかない。すると就職活動で不利になり最終的には経済格差につながる。

我々がそれに気がつかないのは実はかなり恵まれた家庭環境にいるからなのだが、バイト敬語の人たちは待遇表現の基礎を家庭で学ぶことができなかったはずだ。すなわち親も敬語が使えない可能性が高い。つまり社会格差は親から子に引き継がれてしまうということになる。社会的格差の誕生だ。

英語にも同じ側面がある。言葉が話せても裏にある個人主義文化が学べないと面接に対応できない。英語の面接では「御社のためになんでも頑張ります」などと言っても落とされてしまう。自分のスキルを例示して、だから御社に貢献できると言わなければならない。これはチームプレイに対する考え方が異なっているからなのである。つまり、言語には社会性があり、それによって選択肢が変わってきてしまうのである。

同じことがが倫理にも言える。文章を書いているような人間が「学校の道徳教育なんてくだらない」などと言えるのは、実は家庭で基礎的な道徳を学んでおり、その結果として就職活動にも困らなかったからだ。ところが中には親に倫理観念があまりなく、従って面接などでも「どう振舞っていいかわからない」子供もいるはずだ。敬語と同じでよい規範を持っている人は他人と信頼関係が結べるのでよく処遇される可能性が高い。すなわち、どのような倫理規範を内在的化したかというのは経済問題に直結してしまうのである。

学校で型どおりに道徳を学ぶということは、ほぼインスタントラーメンだけを食べさせられているというのに等しく栄養が得られない。普通の家庭に育った人はそれでも構わないわけだが、そうでない人は大きな影響を受ける。

例えば敬語が使えなかったり道徳的でない人が偉くなることがあるだろうという反論もありそうだが、どう振る舞えるかということが重要で、どう振舞っているかということはあまり関係がない。バイト敬語の人たちは使いたくても正しい敬語が使えない。マニュアル通りの対応はできるだろうが、それではマネージャークラスの面接には受からない。これを国際的に展開すると国粋主義的な道徳観を身につけた人は複雑さを扱う多国籍企業には採用してもらえないだろう。嘘だと思うなら、金日成絶対主義の教育を受けた人が北朝鮮の人が一人で東京で働くことを想像してみるとよいだろう。

つまり、道徳には極めて実務的で排他的な側面がある。だから、道徳の議論をするときにイデオロギー的な側面だけを考えるのは実は有害なのではないかと思う。

 

できるだけ手間をかけずに趣味の写真をまとめる

Webサイトを使ってコレクションの写真をまとめて発表したい。でも、できたらシステムのメンテナンスではなくコレクションそのものに集中したいですよね。そこで写真の管理を極力簡単にするようなワークフローを考えてみました。準備するのはPHPが動くウェブサーバーとMacintoshです。globは4.3以上で動くそうですがもうPHP5じゃないシステムは残っていないと思います。最新のバージョンではWeb共有はなくなってしまいましたが、ローカルでAppacheを走らせることは可能だそうです。

まずコレクションの写真を撮影したら作品ごとにフォルダーを作ります。Macintoshはフォルダーに写真を貼り付けられるのでフォルダーのサムネイルを写真にすると整理が楽です。Windowsの人はどうやって写真を管理しているのだろう。

  1. フォルダーを作る。
  2. コマンド+iで情報を表示しフォルダーアイコンを選択。
  3. 好きな写真をコピーして、貼り付けます。

前回作ったシステムに導入してゆくのですが、今回はあらかじめディレクトリとタイトル情報を配列化しておきました。こうするとデータベースを作らなくて済むので楽です。管理画面を作る必要もないし、phpMyAdminを毎回叩く必要もありません。で、コアになるコードはこれだけ。ファイルはアルファベット順に読まれるので時系列順に名前をつけておいたほうがいいです。これでファイルを追加するたびにデータベースを書き換えたりHTMLを書き換えたりする必要はなくなります。

foreach (glob($dir,GLOB_BRACE) as $imagefiles){
echo <<<EOF

<div class=”item”><a href=”$imagefiles” rel=”lightbox[images]”><img class=”centerimage” src=”$imagefiles” alt=”image”></a></div>
EOF;
}

<script src=”masonry.pkgd.min.js”></script>を使うと自動でグリッド上に並びます。Masonryなどは別途ダウンロードしてください。スマホでの表示を考えると横幅280ピクセル位がよさそうです。帯域が狭いときはサムネイルとなどを作ったほうがいいのかもしれませんが、面倒なので今回はやりません。回線が早いと読み込みにさほど時間もかからないので便利な時代になりました。サムネイル作りはPHPで自動できると思います。

<script src=”lightbox2/src/js/lightbox.js”></script>をライトボックス化のために導入します。面倒なので自分でプログラミングはしません。ライトボックスを使うとこのように大きな画像が表示できます。スマホで試したら自動で表示変更してくれました。ただスワイプじゃないのでちょっと気分が出ません。スワイプで使えるプラグインも探せばあるかも。 Masonryは最初の読み込みで不具合がでることがあるので、イメージがロードされた時に並べかえが必要です。そのためにもプラグインを導入します。<script src=”imagesloaded.pkgd.min.js”></script>です。イメージがロードされたらこれを読み込むと画像が整列するという仕組みです。

$(function() {
var $container = $(‘#container’); $(‘#container’).imagesLoaded( function() {
$container.masonry({ itemSelector: ‘.item’, isFitWidth: true, isAnimated: true
});
});
});

で、グリッドが自動なので縦と横の写真が混在していても大丈夫です。スマホでもなんとか表示できます。

DISQUSを使えばコメント欄もつけられます。Twitterでシェアなどもできますが、その場合にはmetaタグなんかを整備しておいたほうがいいです。これで、写真を軸にしたSNSも簡単に作れるわけです。今回の例は植物なので時系列で並べてますが、ジャンル別にディレクトリを分けてもいいと思います。

フリーランスが協力するということ

不思議な文章を読んだ。ブログで食べている人がいたが、Googleでの検索順位が下がってしまって食べられなくなったという話だ。ブログはGoogleがつくったエコシステムにあるので、収益がGoogleに依存してしまうのだ。つまりブログで食べて行くのはリスクが高い生き方でありお勧めできないという結論になっていた。

確かにブログで文章を書いても大した収入が得られるわけではないし、Googleが作ったプラットフォームに依存していただけでは不安定だ。だから活動を何らかの形でリアルに結びつけることが必要だという結論は容易に得られる。だが、どうもそうはならずに「やっぱりやめておこう」というのは、やめる理由を探すのが得意な日本人らしいなと思った。

リアルに拡張する方法はいくつもある。例えば、ブログ発信のスキルがあれば、オンラインコミュニケーションのプラットフォームが作れるようになる。Wordpressを使う技術やサーバーの管理方法の基礎などが学べるからだ。

また別の何かを紹介するブログも作れる。例えばおもちゃのコレクションが好きな人はそれを成果物にしても良いのではないだろうか。収入が得られたら個人的な趣味の分野の資金に使える。サーバー費用+趣味の費用くらいだったらそれほど無理なハードルにはならないだろう。いきなり「生計を立てよう」とするととてつもなく高いハードルになるが、月にワンコインくらい稼ぐのは「なんとか頑張ればできる」範囲だろう。

た海外の人たちは自分の知識をためておいてレジュメ(職務経歴書)のようにして使っているようだ。日本では弁護士などが専門知識の解説をやっていることがあり、IT技術者が技術文書をまとめておくポータルサイトもある。ただ、日本の会社はジョブディスクリプションがはっきりしないことが多く、専門分野を持っていることが疎んじられたりすることはある。なおかつ会社が知識を持っているという意識が強いので会社が専門的な情報発信を嫌うのかもしれない。これは社員のネットワーキングを阻害し、知識の陳腐化を招く大変危険な行為だがなかなか気がつけないのだろう。

また、アメリカではフリーランスの労働人口が1/2に達するという統計もあり、専門知識を開示するニーズが高いのかもしれない。

ブログを書いている人とプラットフォームを提供しているGoogleやYouTubeはサプライヤーとバイヤーの関係にあるのだから、同じ分野の人たちと協力してより良いニッチを作ることも可能だ。お互いの文章を紹介しあったりするだけでもよいはずである。特に政治的なブログを書いている人たちは専門家を集めてネットワークを作り、お金を出し合ってディレクトリサービスを立ち上げたり、腐敗した政治家の調査を分担してまとまったレポートを書いたりできるはずである。

ところがいくつかの理由でこれは難しい。日本人のフリーランスはコンサルタント商売が多い。企業の下請けとして何でもやるが、自分では何も作れないという人たちだ。おのずからフリーライダー志向が強くなりボランタリーなネットワーキングを私物化したり、客を奪おうと考える人が増える。そこまでの悪意がなくても専門知識(デザインやプログラミングなどが多い)を無料でもらおうとする人も多く見かける。これは自分たちがそのような使われ方をしているからだろう。形にならないものはタダというもっとも悪い文化を継承しているのだ。

次に社会人的スキルがないことがある。いったんフリーとして成功してしまうと「俺は周りに気を使わなくても生きていけるのだ」というような気分になってしまうようだ。さらに成果主義にたいする間違った考え方があるので、アフィリエイト収入を自慢してみたり、企業で真面目に働いている人をバカにするような発言を目にすることも多い。フリーランスの専門職が当たり前のアメリカと違って、やはりフリーでも生きて行けるのは特別すごい人に違いないという思い込みがあるのかもしれない。個人の能力に対する過度な自信があると、確かに協力してニッチを作ろうという気持ちにはなれないかもしれない。

さらにパイが限られているという幻想もある。例えば総放送時間が限られているテレビで俳優がやてゆくためにはテレビ局に気に入られる必要があり、結果的に労働環境が悪化する。そこで組合を作ればよいのだが「非組合員が優先して使われるのではないか」という恐怖心からなかなか協力関係に踏み出せない。ネットには総放送時間の縛りはないはずなのだが、どうしても同じような発想から抜け出せないのかもしれない。

バブル崩壊の過程でITバブルが起きた時、パートナー企業やフリーランスが台頭するのではないかという期待があったが、それはうまく行かなかった。結果的に非正規雇用が発展し、企業は労働者を囲い込みつつ、必要がなくなったら切るというような雇用慣行が横行することになった。結果的には知識が停滞するという現象が起きており、経済自体が縮小を始めた。本来なら普通にやっていても少しづつは成長するはずなのだが(日本人は優秀なので先進国と同じレベルで成長しないはずはない)それが起こらない。そこで現実を見渡すと「疲れているからもうどうでもいいよ」という人たちを多く見かける。

つまり、組織に属さない人たちがどのように協力してゆくかというのは個人の問題だけではなく社会にとても大切なテーマなのだが、意外と見過ごされているのではないだろうか。

石原慎太郎氏をバカにすることは脳梗塞の方々をバカするということだという言説について思うこと

石原慎太郎氏が証人喚問された。冒頭に「脳梗塞を患っているから過去の記憶が曖昧である」というようなことをおっしゃった。その時「海馬が不調なので」というような説明をしていた。とても胸が痛んだ。

胸が痛んだのは海馬の働きを知っていたからだ。人は何かを体験すると情報が海馬にゆき、必要な情報を洗い出したあと、大脳新皮質でファイリングする。海馬は入力装置と記憶装置をつなぐ場所にある。だから海馬が壊れてしまうと新しいことが覚えられなくなるが、古い記憶は残る。ハードディスクは残っているので情報そのものは残っているからだ。なお、情報が残っているということと取り出せるかということは違うのだが、情報を取り出すのは海馬ではない。

ここから理屈ではなく即座に分かることは、石原さんが「知っている人が聞けばすぐに嘘と分かることを言っている」ということである。多分、自分の症状を医者から聞いてよく理解できていないのではないだろうか。字が書けないというのは本当かもしれない。すると、ファイルそのものが壊れているか、ファイルを取り出すところが壊れている可能性はある。しかしそれは「海馬」ではない。

ここからさらに、この人は自分にとって重要である症状についてさえ、科学的知識を理解しておらず、専門家(つまり医者)が言っていることもわからないということになる。従って豊洲問題についても核心部分については理解していないであろうという見込みが立つ。つまり専門家や市場長などが専門的なことを伝えても「右から左に聞き流して」いたんだろうなあということがわかってしまうのだ。彼にとって重要なのは土地の移動が子飼いの部下や協力者に何をもたらすかということだけなのだろう。

さらに胸が痛んだのは、かつては一世を風靡した作家が、その一番大切であるはずの言葉を歪めてまでいろいろなことを隠蔽しなければならなかったという点である。政治家でいるというのはそういうことなのかもしれないが、であったとしてもそれは隠し通して欲しかった。

確かに発語のしにくさはあるようで声が嗄れていた。歩き方が不自然だったという感想を持った方もいらっしゃったようだ。だから、石原さんが全く健康体と主張するつもりはない。ある程度の配慮が必要なことはいうまでもないだろう。そもそも先のエントリーで観察したように尋問する側も「グル」のようなので、尋問が儀式に終わることも容易に想像できてしまう。

石原さんはペラペラと過去の自分の業績を開陳していたのだが「自分に都合が良いことはよく覚えており」「都合の悪いことを合理的に判断して隠す」ほどの知性を維持していることは明らかだった。仮に記憶の一部が欠落してたとしても、記憶が選択的であるということを意味している。パリの街で誰と食事をしたかとか隅田川を誰と歩いたとか記憶はかなりのディテールを持っているようだ。つまり記憶の取り出し機能が障害しているというのもかなり疑わしいように思える。

つまり、質疑が進むにつれて「病気を利用したんだ」ということが明らかになってゆく。これは同じ症状に苦しむ方にとってはとても不誠実な態度と言えるのだが、そんなことにかまってはいられないほどの事情を抱えているのだろうということがうかがえる。

さらに小池百合子都知事を糾弾するためにいろいろな勉強をされたのだろう。これは新規記憶だから海馬に影響があるなら難しい作業だが、難なくこなしていた。

唯一「障害」を感じさせるのは、自分と意見の異なる相手の言っていることは全く理解できていないという様子を見せたところだ。複雑な文節は理解不能のようだ。だが、これは脳梗塞の影響ではなく、そもそも自分と異なる相手のいうことを聞けないのではないだろうか。相手の意見を聞いてこなかった人が老年になって相手を理解できなくなることは珍しくない。こういう人たちには特徴がある。相手から話を聞いたあとワンポーズあって、表情に「?マーク」が浮かび、自説を騰々と述べるということだ。つまり、人の話を聞いてこなかったので、相手の会話を理解する能力を失っているのか、そもそも相手を理解する共感能力を持ち合わせずそれを隠蔽する能力を失っているのだ。

ついには精神科医まで動員され「傲慢症候群」という診断さえ下されてしまった。

「自分の言いたいことだけを言いたい。都合の悪いことには答えたくない。批判は受けたくない。特権意識が強く、自分勝手です。石原さんは、イギリスの政治家で神経科医のデービッド・オーエン氏が『傲慢症候群』と名づけた典型のように見えます。権力の座に長くいるとなる人格障害の一種です」

ここからわかるのはかつて一世を風靡した作家が、ちやほやされた挙句に相手への共感能力を失い、身内においしい思いをさせるために無茶をした結果、世間から叩かれているという構図だ。確かに石原さんは自分たちの仲間のためにとても一生懸命に働いたのかもしれないのだが、その結果は都政に様々な混乱をもたらしている。

石原さんは右派のスターだったので擁護したい気持ちはわかるのだが、彼の「愛国」が実は単なる身びいきに過ぎなかったということを認めるべきだろう。さらに、時々自分と違う意見を聞いて理解する訓練をしないと、最終的には石原さんのようになってしまうということも記憶しておくべきかもしれない。

日常を演じる人たち

デフレが進むロードサイドがいやでたまらない……のだが

家の近所にショッピングセンターがある。GUとハードオフと100円ショップがメインの典型的なロードサイドだ。常々「都心のおしゃれなところに行きたいなあ」とか「デフレ嫌だなあ」などと不満に思っている。ファミリー層がメインであり、当然なんとなく都心に出るのではない普段着のスタイルの人が多い。東京が羨ましいとまでは言わないが、美浜区いいなあ位は思う。

なんとなく変な日常

コンビニという名のコンビニの前に咲く早咲きの桜

早咲きの桜が咲き始めた暖かい三連休ということもあり、中央部にあるガーデニングショップでイベントをやっている。ピザとかマフィンなどの屋台が並び、家族連れが来ていた。その様子をなんとなく眺めていて、あることに気がついた。

ファミリー層に帽子着用率が高い。ぷらっと買い物に行くのに帽子を着用することなどないわけで「見られることを意識しているんだなあ」と思った。子供を撮影するカメラが一眼レフだったりもする。報道の人みたいだ。で、認識が180度変わってしまった。彼らは都市のアクターとして見られることを意識した上でわざとリラックスした格好をしているのではないかと思ったのだ。つまり、ゆるい日常がトレンドなのだ。

情報発信されることを意識した店が増えている

このガーデニングショップはちょっと変わっていてスマホで店内を撮影していいことになっておりインスタ映えする植物が飾られていたりする。右にある花の寄せ上は特に見るべきところがなく「花がたくさん咲いているね」くらいで終わりそうだが、実は中央に植わっている葉っぱが高い。ガーデニング好きはこれをみて「うわーいいなあ」などと思ったりするのだ。

つまり「見られることを意識する」作りになっているわけだ。そこに見られることを意識した客がやってきて子供を遊ばせることになる。いわゆる「顕示行動」だが、それはとてもさりげない。SNSが発展し「見られること」が一般化してきているのだが、その中でさりげなさを演じるという組み立てになっている。昔のトレンディードラマの主人公が「ナチュラルな演技」をしていたのと同じことが郊外のショッピングモールで起きているともいえる。つまり、店は品物を提供しているわけではない。これらは単に舞台装置に過ぎないのである。

本当の日常は緊張に満ちている

なぜ彼らはリラックスした格好をしたがるのかということはすぐにわかった。帰ってきてTwitterをチェックすると安倍政権打倒のツイートが途切れることなく流れてくる。ワイドショーは森友ネタで埋め尽くされる。知らず知らずのうちにかなり緊張した毎日を送っていることが分かる。トレンドは一般層とは違う方向を目指すのだから、当然普段通りの暮らしとか、リラックスして緊張がない状態というのが嗜好されることになる。

トレンドと非トレンドの逆転現象

バブル世代にとって「おしゃれをする」というのはちょっと頑張って私鉄に乗って渋谷あたりに繰り出すことを意味した。住んでいる地域では浮いてしまいそうな「ちょっと頑張った格好」をすることがおしゃれなのである。これを「格上げ」などと言ったりする。そういう頭があるので「ファッション=頑張ること」になりがちで、個人的にも「ああ、リラックスがトレンドなのかあ」と思うまで、その図式を疑うことはなかった。

しばらく観察していたのだが、体型が崩れていたり、ポイントがなくだらしなく着こなしている人もいる。つまり汚く見えないようにリラックスした格好をするのは実はかなり難しい。そもそも普段考えるおしゃれとベクトルが180度真逆なので、どうしていいのかが全くわからない。つまりリラックスして「気を使ってませんよ」という格好をするのはかなり難しいのだ。そのちょっとした差異に使われるのが帽子なのかもしれない。

ここから類推するとあからさまな「トレンド」は忌避される傾向にあるのではないだろうか。つまり、足が長く見えるとかモテるいう触れ込みのデニムなどは好まれそうもない。一番トレンドと離れたところにあるとさえ言えるのかもしれない。かといって古着屋で安い服を寄せ集めましたなどというスタイルは嫌われるだろう。実際にここから程近いホームセンターはそういう人たち(主に高齢者だが)であふれている。

普段から青山や銀座あたりで生活して、トレンドを扱っている人たちは「普通の人たちはトレンドには興味がないのではないか」などと思うかもしれない。だが、それは必ずしも正しくないかもしれない。憧れのために一歩格上げすること自体がダサいのだ。

体験というよりは演技に近いのかもしれない

こうした行為は体験型として一括りにすることができるのだが、一つだけ違いがある。それは誰かに見られることを意識しているという点だ。仲間内のおしゃべりが楽しいわけではなく、それを誰かに見て欲しいのである。

それは、おしゃれな屋台などで食べ物を買って愛らしい子どもと芝生で食べるというような体験だ。もしそうだとすると、いろいろなものを提案しても「ふーん」と思われるだけで見向きもされないだろう。

植物そのものが欲しいならずっと安いものがホームセンターで買える。そうしたところには高齢者が押し寄せて値段を厳しく吟味して買い物をしてゆく。戦後のもののない時代から急速にものが満たされてゆくという経験をした人たちである。彼らにとって劇場体験というと海外旅行だ。ちょっと無理をして非日常空間を味わい、お土産と一緒に写真を渡すというような行動である。

こうした人たちは「世の中ユニクロとニトリばかりになってものが売れなくなった」と嘆いている。実際には「何を買うか」ではなく「何をするか」ということに視点は移っているのかもしれない。いわゆる産業のサービス化だが、サービスを受けるというよりは日常を演じる演劇に近い。

企画書を書く人こそTwitterをオフにしてリラックスを求めて街に出るべきなのかもしれないと思った。一生懸命ものやサービスを押し付けると消費者は逃げてゆくだろう。消費者ではなくアクターだと再定義した上で、舞台を整えて脚本を書いてあげるのはどうだろうか。

菅野完氏はなぜうさんくさいジャーナリストと呼ばれるのか

立派なジャーナリストの田崎史郎さんがさまざまなワイドショーで菅野さんのことを「あの人の信頼性は……」と揶揄している。田崎さんは安倍さんの寿司トモとして知られており、安倍さんをかばっていることはかなり明白である。だが、報道機関の出身なので立派なジャーナリストとして通る。だが今日は田崎史郎さんのうさんくささではなく、菅野さんのうさんくさについて考えたい。

菅野さんは自分で情報の入手過程などを実況している。普通のジャーナリストは情報の入手過程をつまびらかにすることはなく、あくまでも第三者的な立場で情報の信頼性を確保する。「伝える側」と「伝えられる側」の間に線を引いているのだ。線が引けるのはジャーナリストの生活が確保されているからだろう。ジャーナリストは専業でやってゆけるから、政治のような面倒なことに関わらなくても済む。

菅野さんが自身をどう定義付けているのかはわからないのだが、政権の存続に関わるようになったので自動的にジャーナリストという文脈で語られることになった。しかし、彼は客観的な伝え手ではなく、信条がありアクターという側面も持っている。故に「伝える」役割のジャーナリストの範疇には入らない。これが、伝統的なジャーナリストである田崎さんから見て菅野さんが「うさんくさく」見える原因だ。もちろん、見ている我々も「菅野さんは嘘をついているかもしれない」と思う。それは菅野さんが客観的な語り手ではなく、意図を持っているからである。可能性としては嘘をつく動機がある。

さて、ここで疑問が湧く。田崎さんは報道機関出身という肩書きを持っており「解説」という立場から第三者的なコメントができるキャリアがある。ではなぜ一線を踏み越えて安倍首相のエージェントとして機能しなければならないのかという疑問だ。

なぜこうなってしまったのかと考えるのは興味深い。報道機関の収入源が先細りリタイア後の収入が確保できなくなってしまったのではないかと考えた。同じことは東京新聞内で闘争を繰り広げられる長谷川氏にも言える。自分のポジションを持って組織と対立している。これは組織を忖度する日本社会ではなかなか考えられないことである。

はっきりとはわからないものの、デフレがジャーナリストをアクターにしてしまっているのではないかと考えられる。裏で政権と繋がっていると噂されるマスコミの実力者は多いが、表舞台にしゃしゃり出てくることはなかった。NHKなどは政権との影響が出るのを恐れてか、同じく寿司トモの島田敏男解説委員を日曜討論の政治の回から外しているようだ。

つまり「うさんくさいジャーナリスト」が出てくる裏には、ジャーナリズムの弱体化があると考えてよく、フリーランス化という背景があるのではないかと思えてくる。つまり(たいていの二極化と同じように)これも同じ現象の表と裏なのだ。

だが、こうした動きは他でも起きている。それがYouTuberの台頭だ。もともとブログライターは顔出しせずに記事を書いていたが、最近ではブログライターさえ「タレント化」することが求められているようだ。切り込み隊長のように本当にタレントになった挙句にネタになってしまうこともある。スタティックな文章ではなく動画の方が好まれるのだ。その内容を見てみるとバラエティー番組にもできそうにないような身近なネタが多い。

テレビ局はYouTubeコンテンツをバラエティの出来損ないだと考えるのだろうし、YouTuberたちはタレントになれなかった胡散臭い人たちに思えるかもしれない。しかし、小学生くらいになるとバラエティ番組は退屈で見ていられないと考えるようだ。彼らにとってはスタジオで制作されるのは退屈な作り物で、番組ができるところまでを含めてリアルで見ていたいのだろう。また視聴者のフィードバックが番組に影響を与えることもある。つまり視聴者も制作スタッフ化している。

「既存の番組がくだらなくなったからYouTubeが受けるんだ」という見方もできるわけだが、視聴者の習熟度が上がり、なおかつインタラクティビティが増したからこそ、新しい形態のタレントが生まれ、今までジャーナリストとみなされなかった人が政権に影響を与えるようなことすら起きていると考えることもできる。視聴者が生産技術(安価なビデオカメラや映像編集機材)を持つことで、世代交代が広がっているのである。イノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすとき (Harvard business school press)で書かれたことが現実に起きているわけだが、日本では組織的なイノベーションが起きないという思い込みがある。意外と何が創造的破壊なのかというのはわかりにくいように思える。

つまりうさんくさいのではなく次世代なのである。これは映画から見てテレビがうさんくさかったのとおなじような見え方なのだろう。田崎史郎さんは伝統的なやり方で「大きな組織」を頼ってフリーランス化したのだが、別のやり方でフリーランス化した人もいるということなんだろう。

ただし、菅野さんの存在が無条件に賞賛されるということもないだろう。新しい形態は倫理的な問題を抱えてもブレーキが効かない。YouTubeでは著作権を無視してネットを炎上させたり、おでんに指を突っ込んで訴えられるというような事例が出ている。報道に必要な基本的な知識がないわけだから、これも当然と言える。

常々、日本人は変化を拒んでいると書いているのだが、変化は意外なところで起きているのかもしれない。

森友事件と政権の死 – 日本型組織は誰が動かしているか

昨日は森友学園問題でワイドショーは1日大にぎわいだった。「安倍を倒せ」と息巻く人も多かった。これだけ盛り上がった背景には安倍政権を取り巻くもやもやとした雰囲気があるのだろう。ドラマが盛り上がるためにはその前段にもやもやがなければならない。

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