菅野完さんに学ぶ「人を動かす」方法

菅野完さんがワイドショーの主役になった。事件そのものは冷静に考えると今後どう転ぶかはわからないのだが、フリーランスとして幾つか学べる点があるなと思った。一番印象に残ったのは「人を動かす」手法である。

「人を動かす」は、戦前に書かれて高度経済成長期にベストセラーになった本だ。今でも文庫版(人を動かす 文庫版)で読むことができる。肝になっているのは「相手のほしいものを与えてやる」ことで影響力を与えることだ。盗人にさえもそれなりの理があり、話を聞いてやるだけでなく相手に必要なものを与えることが重要であるということが語られる。作者のデール・カーネギーは貧しい農家に生まれ、紆余曲折を経てコーチングの講師として成功した。

古い本なので複雑な現代社会には有効でないと思いがちなのだが、意外と現在でも通用するようだ。多くの人が(マスコミによると怪しいジャーナリスト・ノンフィクションライターであるところの)菅野さんの主張に動かされて右往左往している。

人を動かすというと相手を説得したり強制したりすることを思い浮かべる。自民党の右派にはこうした考え方を持つ人が多いようで、憲法に国民を訓示する要素を加えたいなどと真顔で語る人もいる。他人に影響力を与えたいから政治家になるのだ。だがカーネギーは「相手を変えることはできない」という。変えられるのは自分だけだという主張だ。

菅野さんは立場としては籠池さんを追い詰める側にいたのだが、インサイダーになって話を聞く方が自分の仕事に有利だと思ったのだろう。そこで取った行動は「相手にじっくりと話を聞く」というものだった。つまり、自分の欲しいものを手に入れるために、自分を変えて相手が欲しているものを与えたのだ。それが結果的に籠池理事長の信頼を得ることになる。

これはなんでもないことのように思えるのだがマスコミから悪者として追いかけ回されて、細かい話のつじつまを突かれることに辟易していた籠池理事長がもっとも欲しがっているものだったのだろう。だから数日で籠池さん一家の「籠絡」に成功してしまった。

もう一つのポイントは、多分菅野さんがお金儲けを目的にしていたことではないだろうか。ご本人も含めて「政府に狙われる可能性があり危険でリスクがあるから儲けにはならない」と否定されるかもしれないしwikipediaを読むと政治運動に傾倒しているようだが、実際の菅野さんには(本人の自覚はともかく)政治的なこだわりはなさそうだ。左右の振れ幅が大きい。

実はこれが良かったのではないかと思う。大義や信条にとらわれてしまうと「敵か味方か」に分かれてしまうことが多い。すると、自分の考えや立場に固執して自分を変えることができなくなってしまう。相手を動かすためにはこれは有利ではないのかもしれない。

菅野さんにはこのような「守るべきポジション」がなく、相手に合わせて変わることができたようだ。つまり政治的信条ではなくお金儲け(あるいは生きてゆくこと)にフォーカスしているからこそ、柔軟な態度を取ることができた。

もちろん、籠池・菅野両氏が嘘をついているかもしれないし、今後「証拠が出てこない」ことで両者が嘘つきとしてワイドショーで消費されてしまう可能性はある。さらにあまり好ましくない行状もTwitterでは指摘もなされている。つまり、人格的に信頼できるかということは全く未知数だ。だからといって人に影響力を与えるという菅野さんの技術が無効ということにはならない。学べるところは学ぶべきだろう。

菅野氏は単なるお人好しではなく「ティザー」という手法を使うことでマスコミやTwitterの耳目を集めることに成功している。情報を一元管理して小出しにすることで期待感を煽って注意を引きつけるという手法を使っている。これがティザー(じらし)だ。なんとなく調べ物をすると「知っていること」や「考えたこと」などを全部言ってしまいたい衝動にかられるから、情報発信者がティザー手法を使うのはなかなか難しいことなのではないかと思う。だが人々は隠されるとより知りたくなる。ポジションや組織がない人は相手が何を欲しがるのかを知っている必要があるが、情報をを全部出してはいけないのだ

さらに菅野さんはマスコミを分断することに成功した。NHKにだけ情報を与えたといい横並びで情報を欲しがるマスコミに「いい子にしていたらあなたにだけ情報をあげますよ」と言っている。すると相手は競って言うことをきくようになるかもしれない。分断するだけでなく餌をもらうにはどうしたらいいかという条件を提示しているのだ

さらに情報ソースは1つしかないにもかかわらず、事前に聞いたことを小出しにしてあとで本人から語らせることによって、あたかも複数ソースから情報が出たように見せかけている。いろいろなところで情報を聞くと「第三者に裏打ちされている」ような印象が残るので信頼性が増すわけだが、実際には一人の話を聞いているだけな。籠池理事長は当初「言うことは全部言ってしまいたい」と思っていたのだろうが、それだと反発されるだけなので「言わない」ことを決めたのだろう。すると不思議と人は聞きたくなってしまう。籠池理事長もまた変わることで相手に影響を与える方法を学んでいるのかもしれない。

さらに貧しいライターがやっとありついたネタを(淀川を電車で渡るお金がなく十三大橋を歩いたそうだ)高給取りだか何もしないマスコミに手柄を横取りされかけているというストーリーを作ることで同情を引きつけるような演出も行っている。田崎史郎氏が早速「菅野さんは信頼できない」という発言をしていたが、これは却って菅野さんの同情論につながった。マスコミは明らかに劣位におり菅野さんから情報をもらいたがっている。菅野さんは勝っているのだがそこでガッツポーズをしてはいけないのである。

このように幾つかのテクニックは使っていらっしゃるようだが、かといって「人に影響力を与える」という手法の技術と価値が失われるわけではない。組織の裏打ちを持たない人は、菅野さんの手法に学ぶべきだろう。

相手が欲しいものにフォーカスするのは重要らしい。個人的には、このところ特に自分が書いたものに関して、相手の言うことを聞かないで言いたいことばかりを押し付けがちだったなあと大いに反省した。実はみんな作者の言いたいことには関心がなく、それをどう読んだかということを伝えたいと思っているだけなのだ。多分、自分が書いたものでさえ自分のものであり、読みたいと思った相手の動機がすべてなのだろう。

政治的議論がTwitterで成熟しないわけ

最近、ちょっとうんざりするような出来事があった。頂いたコメントをこちらが勘違いしたようなのだが、ダイレクトメッセージで縷々「私が言ったことと違う」ということをつづられた。確かに間違えたのはこちらが悪かったのかもしれないのだが、記録として出したいと申し出ると「もう、心理的にしんどいから嫌だ」となった。

ブログは活字のように見えてしまうので、議論の結果を残すのは「最終的な結論や事実ではなく、途中結果なのですよ」ということを示したいという意図がある。そういう作業をしておかないと、ここに書いてあることを鵜呑みにする人が出てくる。だが、これを申し出るときに「典型的な日本人は受けてくれないだろうなあ」と思っていた。案の定そうなったのでちょっとうんざりしたのだ。

なぜ、公開で意見を表明するのがしんどいのかということを取材するいい機会かなあと思ったのだが、それを普通の日本人に考えさせるのは不可能だろうとも思った。そこで勝手に想像するしかない。理由を三つ考えた。

第一の理由は日本人が異質なものに囲まれた経験がなく、他人に自分を分からせるという経験してこなかったことが挙げられる。さらに同調圧力が強く「同じ」であることが暗黙の前提になっている。つまりそもそも自分と完全に考えが一致しない人と接するのが苦手なのだ。

第二の理由は個人が持っている「見られたい自分像」がある。たいていの人は「周りに合わせる調和的な自分」が美しいと考えており、反論することで「反抗的だ」という印象を与えることを極端に嫌う。反抗的だと思われないにしても「言い出したんだからあなたが責任を取ってね」といわれるのが嫌なのだろう。このように「言っていること」よりも「誰が言ったか」という文脈が大切な文化でありなおかつ「誰も言わないのにそうなった」ということが好まれるので反論がしづらいのだ。

最後の理由は文脈だ。Twitterは多くの人が読んでおりどう解釈されるか分からない。これがもう一つの文脈である。なので「大切になればなるほど」「自分の人格の確信に近ければ近いほど」非公開の議論を求める傾向がある。ある意味告白に近いので「完璧に全く誤解がないように」伝えなければという気持ちになり、何回も推敲を重ねた挙句「やっぱり理解されないかもしれない」となってしまうのではないだろうか。

つまり事実を取り扱えない文脈依存と同質性のおかげで自分の意見が言えない。そこで「とてもしんどい」ということになってしまうのだろう。

ここまで「普通の日本人は」と書いてきた。ずいぶんと鼻に付く表現なのだがこれには理由がある。過去に付き合った日本人の中にも自分をうまく伝えられる人たちがいる。彼らの特徴は外国文化(といっても主にアメリカ文化になってしまうのだが)に接したことがあるという点である。だが、中国人やインド人のエンジニアにもある傾向なので、外国文化を知っていると、他人に自分を伝える技術を身に付けられるのではないかと思う。これを「アサーティブネス」と言っている。

アサーティブジャパンは、アサーティブとは自己主張を意味するが、自分の意見を押し通すことではないと説明している。日本語の訳語はないようだ。つまりわがままにならない自己主張だ。

海外経験のないビジネスマンでも、プレゼンテーションを担う企画職がアサーティブさを持っている場合がある。プレゼンターは自分たちのサービスを知らない相手に売り込むというミッションがあるので「相手にわからせる」訓練が行われるのではないかと考えることができる。

つまり日本人も自己主張ができるようになるということだ。日本人が自分を分からせる技術を持たないのは、単に家庭や学校で習わず職業的にも訓練されないからに過ぎないのではないだろうか。

誰もがアサーティブさを習うべきだとは思わないのだが、少なくとも誰かの意見を読んでそれが100%自分と同じだと思い込まないほうが良いと思うし、だれかが全くの誤読なしに自分の意見を受け入れてくれるとは思わないほうがよい。「それが自分と必ずしも同じではない」と分かると心理的なしんどさが生まれてストレスになるからである。だが、自分と全く同じ考えを持った人などいないわけで、そもそも誤読される可能性を前提に何かを言うべきだということになる。

さてTwitterで議論がかみ合わないことが多いのは、そもそも同質でない上に、異質なものと情報交換したり議論ができないことによるのかもしれない。日本人は公共空間では極力他人を当てにしないで生きている。これは異質なものとうまくやってゆく訓練を一切受けずに街を歩くからだろう。例えばコンビニでドアを開けると嫌な顔をされることが多い。それは「私にかまうな」ということである。異質なものはすべて敵なのでちょっとした親切も受けられないのだ。だが、Twitterはたまたまパーソナルなスマホ空間でやり取りされることが多いのでパーソナル空間に他者が土足で踏み込んでくるというような経験になるのではないだろうか。そこに不快さが生まれる。

さて現在日本には右と左という2つの極端な政治的流派があるとされているのだが、実は同質なのではないかと思うことがある。どちらも自分の中にある考えをまとめて他人に説明することができない。そこに不愉快な他者が入り込み「しんどくて不安」な気分になる。一方、不愉快な他人を排除したいという気持ちはみんなが共通で持っているので、敵を設定して争っている限りは同調圧力のない一体感を感じることができるのではないだろうか。

もっとも、アサーティブさというのは現在足りていない技術なので、ここをうまく突けば需要のある文章が書けるなあとは思う。実際に大衆扇動家というのはこのあたりの技術に長けているのではないだろうか。

NHKはどのような気持ちで連合の猿芝居を伝えたのか

NHKがひどいニュースを伝えていた。印象として思ったのはNHKスタッフが抱えているだろう無力感だ。

ニュースは安倍首相の力強いリーダーシップを讃える内容である。面子にこだわる経団連は繁忙期の労働時間100時間を基準にするという表現にこだわっていた。一方、連合は100時間未満にするという表現を主張した。そこで力強い領導様である我らが安倍首相が調停なさり連合の主張を支持なさったというのだ。

実はこの話いくつもの食い違いがある。連合が勝ったということになっているのだが、連合の代表は「100時間が目安になるのは困る」と言っているだけで実際は押し切られている。本来は労働者がすり減ってしまわないもっと短い時間を主張すべきだったのだが、それをやらずに(あるいはできずに)経営者と政府に押し切られてしまったのである。つまり連合は交渉に負けてしまったのである。これで民進党は100時間には反対できないので、高橋まつりさんを例に挙げて政府の無策を追求することもできなくなる。つまり民進党も負けた。

経営者は勝った側なのだが相撲と同じようにガッツポーズはしない。神妙な顔で「持ち帰ります」と言った。彼らは交渉には勝ったのだが「労働者を使い倒す以外に有効な経営手法を知らない」と言っているだけなので、経営者としては負けているというか終わっている。これは栄光ある大日本帝国陸軍が兵站は維持できないので兵士は飢えて死ぬだけだが戦線は維持できていると言っているのと同じことなのである。

さらにNHKも嘘をついている。ロイターは次のように伝えている。

[東京 13日 ロイター] – 政府が導入を検討する残業時間の上限規制を巡る経団連と連合の交渉が100時間を基準とすることで決着したことについて、安倍晋三首相は13日、「画期的」と評価した。

また安倍首相は「100時間を基準としつつ、なるべく100時間未満とするようお願いした」ことを明らかにした。

実は安倍首相は100時間を基準にと経団連を支持しており「なるべく〜お願いした」だけで決めすらなしなかった。時事通信はもっとめちゃくちゃなことになっている。首相の裁定を強調しつつ、結果は「玉虫色」と認めている。つまり政権が事実上過労死ラインを許容しているのだ。

つまり、この交渉は安倍首相のいうように「画期的」なものではない。誰も勝った人がいないだけでなく、伝えた人まで負け組になるというひどい内容だった。

しかし、NHKは「俺たちは報道機関だ」という気持ちが残っていたのだろう。過労死した家族の声を複数伝えて「到底納得できない」と言う声を伝えている。NHKはエリートなので今の地位を失うわけに行かず、したがって偉大な領導様のよき宣伝機関でいなければならない。そこで、過労死の犠牲者を表に出しておずおずと抵抗して見せたのだろう。

このようにこのニュースは受け手のリテラシーによってどのようにも取れるようになっている。つまり、騙されたい人は安倍首相の力強いリーダーシップを信じられるいうになっているし、そうでない人はそれなりの見方ができる。さらに複数ソースに当たれる人はそもそもこれが事実を調理したフェイクニュースだということがわかるのだ。フェイクと言うのが屈辱にあたるとすれば元の料理を子供の口にもあうように仕上げたインスタント食品と言って良いかもしれない。

NHKは主な受け手が子供ニュースすら理解に苦しむリテラシーしか持っていないことを知っていながら「隠れたメッセージ」を受け取ってくれることを祈っているように思える。

日本のマスコミってジャーナリズムの歴史とか教えないんだろうかという話

不思議なコラムを読んだ。長谷川幸洋さんという自称ジャーナリストさんが怒っている。どうも会社ともめているらしい。だがこれを読んでもさっぱり意味がわからない。いろいろ考えているうちに2つ不思議な点が浮かんだ。東京新聞ってジャーナリズムの基本的な歴史を社員に教えないんだなという感想を持ったという点と、日本の組織らしく職掌の文章化がされていないんだなという感想だ。

まず疑問に思ったのは東京新聞では一記者が会社を批判する記事を書いてそれが掲載されなかった時に「言論の自由」を盾にして掲載を迫る文化があるのかという点だ。もちろん内部での議論はするだろうが最終的には責任のある人が決めるのではないだろうか。そもそも紙面が限られているのですべての意見は載せられない。

もし記者がジャーナリストの良心として会社の方針に従いたくない場合には自分で発言の場を作るべきかもしれないし、そもそも新聞は記者の意見を発表する場所ですらない。新聞は経営的な判断から新聞の論調を決めなければならない。東京新聞のような後発は既存の新聞が持っていないニッチを探さざるをえないのでその傾向は強いだろう。

すると長谷川さんの特異性が浮かび上がってくる。論説委員という特殊な立場なので個人名で発言ができ、かつ新聞の論調を形作ることができる。さらに外部にも発言の場を持っており東京新聞の名前を使って個人的に収入が得られるはずだ。これらは特権的な地位と言える。そしてそれは個人の言論の自由の範囲を超えて東京新聞という組織を前提にしている。人々が長谷川さんの話に耳を傾けるのは「この人が東京新聞の論調を作っていて影響力がある人なのだな」と思うからだ。

もちろん社外でのプレゼンスを作ったのは長谷川さん個人の努力なのだろうから、それは最大限尊敬されるべきかもしれない。東京新聞が長谷川さんに社の名前を使うことを許しているのは東京新聞の宣伝になるからであろう。ゆえに長谷川さんが東京新聞の想定する読者が気に入らないことを言って東京新聞の商業的価値を毀損しようとした場合、新聞社はそれを差し止める権利は持っているはずである。

もちろん東京新聞が想定する読者を変えることもできるわけだが、それは内部で議論すればいい話であって、読者には関係がない。ここで「俺が正しい」とか「俺は正しくない」という価値判断が持ち込まれても外からは判断のしようがない。読者は「好きか嫌いか」しか言えないだろう。もちろんなんらかのイシューがあり、それが合理的かそうでないかということなら判断ができるわけだが、沖縄に基地を作るべきかなど言う問題は価値判断を含んでおり一概には決められない。

あるいは、東京新聞は末端の記者が黙々と記事を書き、偉くなった人たちがバラバラな意見を戦わせる言論プロレス的な見世物にするということはできるわけだが、それは言論の自由ではないし、読者も興味を持たないだろう。同じようなことを政党ベースでやっているのが民進党だが、有権者はもう民進党には興味を持たない。「決まってからお知らせしてね」と思うのみである。

ジャーナリズムはお金儲けなんかじゃないなどと思う人がいるかもしれないが、実は重要な要素だ。もともとは政党のビラのようだった新聞は、広告収入などを得ることで徐々に言論の自由を獲得してゆく。もし読者やスポンサーがジャーナリズムを支えるという文化がイギリスで発明されなければ、日本人は北朝鮮のように政府広報と自民党の機関紙だけを読まされていたかもしれない。

政党パンフレットが新聞になる過程ではできるだけ意見を偏らせないという方針が採られたようだが、それは貿易のために政治に影響されたくないという実利的な理由だったようである。

つまり「想定読者を決めて意見を整える」というのは言論の自由に大きく貢献しており、長谷川さんは知ってか知らずかそれを逸脱して騒いでいるように見える。自分の意見が同僚に否定されて頭に血が上っているのかもしれないし、体制に沿った意見のほうが儲かるのに、わざわざ儲からない反体制側にいる新聞社にいらいらしているのかもしれない。

もちろん、長谷川さんが外で意見を言うことに対して箝口令がひかれたりなんかすれば、それは言論の自由の侵害になるだろうが、東京新聞はそうは言っていない。もしそれに類することをすれば長谷川さんが大いに騒ぐことは明白だ。できるだけ刺激したくないのが本音なのではないか。

さて、ここまで書いてもやっぱり東京新聞は長谷川さんの言論の自由を侵害しているという人がいるかもしれない。長谷川さんは東京新聞の人なのだとすれば、東京新聞が東京新聞の言論の自由を侵害しているということになる。実際には東京新聞の中の人(仮に鈴木さんとしようか)と長谷川さんが対立しているわけで、東京新聞が長谷川さんを侵害することはできない。ということで「東京新聞の長谷川さん」は主語を巧みに使い分けて、あたかも集団が個人の自由を侵害しているような印象を与えているが、実際には新聞社内部の権力闘争に過ぎないのではないだろうか。

この件は「誰が悪いんだろう」と考えたのだが、東京新聞が悪いとしかいいようがない。下記のようなことが取り決められていないことで問題が起きているからだ。

  • 社員にどのような範囲で社外活動を認めるか。
  • 論説はどの範囲で個人の意見を伝えるか。あるいは個人が意見を言うのか、集団で論調を決めてから個人が請け負う形にするのか。
  • 最終的な経営判断と新聞論調は誰がどのように決めて兼ね合いをとるのか。
  • 論説委員というステータスはどのよう(定年とか規約違反とか)に獲得され、どのようになくなるのか。

責任と権利が曖昧なのでこうした問題が起きている。社の内部に闊達な議論がないと言論が萎縮してしまうという気持ちがあり、あまり明文化したくなかったという理由があるのではないかと思うのだが、やはり経営が危うくなり社員を処遇できなくなると、名前をつかって稼ぎたいという人が出てくる。現在の言論空間にはプロレス化欲求(一暴れするとお客が集まる)があるのでそれに巻き込まれたのかもしれない。

そして東京新聞が悪いというときには当然「東京新聞の長谷川さん」もその中に含まれることになる。

民主党政権は売国政権だったのか

先日、かなり年齢のいった大人の人と話をした。バックグラウンドはややエンジニアよりだ。そこで民主党政権の話になった。民主党は中国に機密情報を売り渡したのだという。2ch的な話題でちょっとびっくりしたのだが「真実だ」という。今回はこの件が本当かということを(つまり民主党が売国政権だったか)ということではなく情報リテラシーについて書きたい。先日自尊心について「学校で習わないのでは」と書いたのだが、そういえば情報リテラシーについても小学校レベルでは習わない。

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神様は何にもしてくれない、かもしれない

話を聞いた人から「意図が正しく伝わっていない」という旨のコメントを頂いた。現在反論を載せていただけるように調整しているところだが反論を公開する形にするのは心理的にしんどいということなので、ここに注記だけを入れさせていただいた。 

反論がある場合はコメント欄に記入していただくことをお勧めする。コメントにはTwitterやDisqusなどのアカウントが必要だ。スパムや誹謗中傷の場合はこちらで差し止めることもあるが「事実誤認なのではないか」という指摘はそのまま掲載したいと思っている。過去にいじめについて書いた記事で事実と異なる受け取り方をしているのではないかという指摘を第三者から頂いたことがある。

ただし「身元が露見する」ことを恐れる人が多いのも事実なのでその場合は何らかの形でお知らせいただければできる限りの範囲で調整したいと思う。「反論」に心理的な壁があることも理解しているつもりである。

いずれにせよ印刷物ではなくブログなので書き換えや加筆を前提にしている。つまり最終成果物ではないということだ。ただし、反論して頂いたからといって100%満足できる結果にはならないかもしれない。お互いに聞いた話には誤解が生じるので「完全に分かり合う」ということはかなり難しいと考えているからだ。そこで受け取り方に相違があったという記録をできるだけ残したいと考えているが、もちろんそれだけでは満足感は得られないかもしれない。

最近は気楽な政治ネタが多いのだが、そもそもは分かり合えないことを前提にしたコミュニケーションの研究ブログなので、そのあたりのスタンスはご理解くださいとお願いするしかない。

2017/3/13


またショックなことがあった。スコッセッシの沈黙をベースにした映画を見て「それでも信仰を捨てなかったのは素晴らしい」という話を聞いたのだ。以前「肝っ玉おっかあと……」について書いたときに演劇空間が作り出す感情の強力さを書いたことがある(ブレヒトは感情に溺れずに第三者の視点から状況を見て欲しいと言っているのだが大竹しのぶの演技に感動したという人が出てくるのだ)のだが、やっぱり映画は怖いなあと思った。

もちろん、言ってくれた人は「キリスト教にゆかりがある」相手と考えて、良かれと思って言ってくれているのだと思うのだが、やっぱり違うんだよなあと思った。それを書くのは大人気ないなあと思ったのだが、この感覚は現在の日本人にとって重要だと思うのであえて書くことにする。

映画は見ていないので、慌ててスコセッシの映画評を探してみたのだが、やはり信仰と疑念というのがテーマだと捉えられているようだ。原作者の遠藤周作も「沈黙」を書いたときに自身の信仰に悩んでいたという話を読んだことがある。

子供の頃は結構神様を信じていて、神様にすがっていい子にしていれば苦しみから逃れられるのではないかと思ったことがあった。しかし、神様はいるんだかいないんだかよくわからないし、苦境から救ってくれることもない。シスターもいい子にしていれば神様が救ってくれるみたいなことは言わない。その後の人生でも神様は助けてくれなかった。見ることもできないし、いるかどうかもわからないものを「ただ信じる」というのは、実はかなりしんどいことではないかと思う。

一方で、恩寵を感じることがある。もうどうしようもない経験をした後でも、回復は訪れるし、最悪の時期は決して永遠には続かない。人には忘れたり回復したりという力があり、これは、努力をして得られるものではない。さらに、最悪の時期の体験が実は得難い実感を持っているということもある。毎日甘いものを食べても美味しくもなんともないのだが、灰色の時間に一雫たらされたような甘みは一生忘れられない。沈んだ気持ちで本を読んだ経験が後になって蓄積されるということもあるのだ。つまり冬を冬でいさせてくれるというのも恩寵なのかもしれない。

つまり、神様はいるともいえないし、かといっていないとも言い切れない。少なくともカトリック教会に通っていないので、キリスト教世界では信仰ではないということになる。

さて「沈黙」に出てくる隠れキリシタンはその後どうなっただろうか。実は彼らはそのままの形でカトリック教会に認められることはなかった。多分、日本流にアレンジされたキリスト教を信じていたことが理由で、背景にはうっすらとしたアジア人差別もあるのではないかと思う。このあたりの事情を書いた熊日ドットコムの記事があるが、正直事情がわからない人にはさっぱりだと思う。隠れキリシタンはその後明治維新期にカトリック教会と再接触して一部はカトリック教会に復帰したが、一部は独自の信仰を続けたということだ。

日本はヨーロッパの影響力が強いユネスコで、隠れキリシタンの世界文化遺産登録を目指しているそうなのだが、隠れキリシタンはカトリック世界では「亜流」とみなされることが多い。記事を読むと隠れキリシタンを「潜伏キリシタン」と区別して概念整理が行われているようだ。一方、宣教師と接触があった時代に入信した高山右近などは最近福者認定されたようだ。中には殉教者扱いされて列福したりした方もいると思う。

多分、あの映画を見た人は「あれほどの過酷な体験をしたのにカトリックに認められなかった」ことを知るとショックを受けるかもしれない。日本流の見方をすると「彼らは報われなかった」ことになってしまう。

カトリック教会にも権威主義的なところがあり、準備に20年かけたというスコセッシはそのことを知っていたはずである。もし、隠れキリシタンが西洋世界で英雄視されていれば、資金集めに苦労することなどなかったはずである。やはり白人の宗教であって有色人種が独自に発展させた宗派というのは認められない。だが、西洋世界の人たちは自分たちが蔑視感情を持っていることは認めたがらないのではないだろうか。

さて、なぜ今ことのことが重要だと思うのかについて書きたい。日本の宗教はご利益化することが多い。信じるからには効能がないといけないと思うのだ。例えば花粉症が治るお札を売っている宗教もあるし、立派に先祖供養すれば霊障が取り除かれるという宗教もある。

真面目な宗教もあるのだろうがお金儲けも多く、被害者も出ている。特にオウム真理教のように、あれほど頭の良かった人たちがインチキな教祖に騙されてテロ事件を起こすなどということは再びあってはいけないことだと思う。

ただ、そうなる気持ちもわかる。何かにすがりたいという気持ちは誰にでもあるが、いったん通り過ぎてしまえば耐性がつく。しかし幼少期に経験がないと「ころっと騙される」ことがあると思うのだ。神秘体験などさせられて「神を感じたり」などするとひとたまりもないだろう。

さらに現在では国家神道が一部の人々を熱狂させている。彼らの目的は2600年という歴史と天皇の存在を傘にきて人々を平服させるということだが、政治家を巻き込んで「人々から人権を取り上げてしまおう」と言うところまで来ている。実はこれも耐性がない人が大人になってから「すばらしい大義」に触れてしまったところに問題があるように思える。三原じゅん子参議院議員のように日本書記を歴史的事実だと信じ込んでしまっている人もいる。

国家神道は、自然崇拝だった神道にキリスト教的なエッセンスをまぶした新興宗教だが、日頃、宗教に触れる機会がない人には「とてつもなく素晴らしいもの」に見えるのかもしれない。もし神道がすばらしいとしたらその基礎にあるのは教義を持たず他者を排除せずに取り込む包摂だと思う。仏教のように苦境を前提にしないし、キリスト教やイスラム教のように他者を排除することはない。だが、これが中国人や韓国人の排除につながっていることに矛盾を感じる人はすくないようだ。

「愛国教育の問題」は人間の中に存在する善の存在を信じておらず、子供は調教されなければならないという理念を持っているところだ。つまり恩寵を感じていないのだ。だが、なぜか優れた理念を教え込めるのは自分自身しかいないという信じ込みがあるのだが、結果的にはこれは虐待的な調教につながっている。さらにその理念はかなりゆがんでいて大義のためには法を曲げてもかまわず、いんちきをして国からお金を巻き上げてもかまわないと思い込んでいる。つまり「社会の中で善くあろう」という気持ちが全く存在せず、他社の権利への尊敬もない。

籠池元理事長が強烈なキャラだったのでそれだけが大きく取り上げられ勝ちなのだと思うが、同じような考え方を持っている人は多いのではないだろうか。つまり他人の善性は信じられないが、自分の善性は絶対だと考えていることになる。

これはまず自分の中にある善性や恩寵を感じたことがなく、その後得た信仰や大義について疑問を持ったことがないからこそ起こるのではないかと考えられる。こうしたことは世界中で起きている。白人だからキリストに絶対的に愛されているが、イスラム教徒は神の愛の対象外だと感じる人もいるし、イスラムこそが絶対でキリストこそ堕落した悪の根源だと思っている人もいる。そして自分の中にある善い性質に頼れば調和が得られるだろうとは考えず、他者を悪として排除すべきだという考えにつながってしまう。

信仰への疑いは現在社会ではきわめて重要な感覚であり、多くの人がそれを体感できなかったとしても理解すべきなのではないかと思う。

新しい籠池理事長は何度でも出てくるだろう

ちょっとショックな話を耳にした。前回、小学校では自分を大切にすることを教える前に大義だけを教えると自我が肥大した子供が育つのではないかと書いた。だがこれに対して「日本の小学校は自分を大切にしなさいとは教えない」という人がいたのだ。

結露だけを書くと、これからも籠池理事長みたいな人は出てくるだろう。また、民主主義を理解しない安倍首相の出現は当然の帰結ということになる。それは民主主義の基本がこの国では全く教えられていないからだ。

にわかには信じがたいのだが、これを教えてくれた人は、日本の学校では自分を抑えて相手に合わせろとしか習わなかったという。いくらなんでもそれは極端なのではと思って他の人の意見を募ったのだが、誰も応じる人はいなかった。黙っているのは意見がないか、言いにくいが概ね賛同していることを意味しているはずだ。従って日本の小学校では「自分を大切に」とは習っていない可能性が高いことになってしまう。ということは家庭で習わなければ一生習わないということになる。

例えば、一人ひとりの大切さを象徴する歌に「ビューティフルネーム」がある。だがこれも英語に堪能なタケカワユキヒデが作り、外国人が参加したバンドが歌っている。そのあとに出てくるのは「世界で一つだけの花」だが、こちらは性的マイノリティの人が作ったどちらかといえば多様性をテーマにした曲だ。つまり自尊心とは外来概念なのだ。

だが、「日本人は自分が大切だということを学ばない」という意見を受け入れると腑に落ちることが多いのもまた確かだ。まずネトウヨの言っていることがよくわかる。他人の権利を尊重することは「自分が我慢すること」につながる。確かに、自分が大切にされないのに、他人の権利ばかりを守れと言われても反発して当たり前である。だからネトウヨの人が言っていることは正しいということになる。

さらに籠池理事長や日本会議が言っていることももっともだ。

自分を大切にするから自ずと相手のことも尊重するというのは西洋式の民主主義の基本になっている。これを天賦人権という。だがこの基本をすっ飛ばしたままで民主主義を受け入れているということは、GHQが天皇に変わる権威だから受け入れたということになってしまう。であれば、選挙という戦いに勝てば自分たちが作った権威の方が正しいということになる。現在の安倍政権は選挙で民主的に選ばれているのだからこれが最高権威なわけで、権威側について都合のよいルールを(自分たちが押し付けられたように)押し付けても構わないという図式がなりたつ。

民主主義を権威主義的に受け入れたという可能性を考えたことがなかったので、かなりショッキングだったが、これでいろいろなことに説明がついてしまうのも確かだ。憲法や平和主義も権威主義的に受け入れている可能性があり、憲法第9条が聖典のように扱われているというのも説明がつく。国連第一主義という権威主義の一種なのだろうということになってしまうが、小沢一郎のいうことなどを思い返すとそれも納得できる。アメリカ中心主義と違う基軸を作るのに国連を持ち出しているのだ。

普通の人は「学校で先生から民主主義だと習ったから民主主義を採用している」ということになる。であれば学校で教育勅語を習えば天皇のために死ぬことを選ぶということになる。権威をめぐる争いなので誰かが正しいということは誰かが間違いということになる。闘争であって議論ではないので、折り合うことなどありえない。

さらにショックなことに日本型民主主義が話し合いでなく、誰が多数派かということで決まってしまうというのも説明できてしまう。数が権威だと考えられているのだろう。

じゃああんたは自分を大切にしろと小学校で習ったのかと反論されそうだが、実は習った。ミッションスクールなので状況が特殊だ。キリスト教では人間は神様に許されて存在しているということになっている。神という概念が受け入れられなければ「自然があるから生きていられる」という理解でも構わないと思う。つまり神の恩寵があるから人間は存在していられるわけだ。同じように他人も神から許されて存在するので大切にしましょうということになる。

ただ、ミッションスクールは聖書の価値観を押し付けない。自発的に信仰心を持たなければ意味がないと考えるからだと思う。聖書研究みたいな課外授業もあるのだが、信徒になれとは言われない。同級生の中には神社の息子もいたので、信仰による差別もないはずだ。実際に特に洗礼を受けようという気にはならなかった。

自分を大切にしましょうと教える宗教はキリスト教だけではない。仏教でも「どんな人にも仏性(ぶっせいではなくぶっしょうと読む)がある」というような教え方をするはずで(調べてみると原始仏教にはなかった概念だそうだが)、仏性を個人から大衆に広げてゆくというような考え方があるはずだ。

このようにするするといろいろなことがわかってくるのだが、分からない点もある。日本人が自尊心を持たないという理論が正しければ日本人は他者に盲従して相手に常に従うはずである。だが実際にはそうなっておらずTwitterに人の話を聞く人はいない。あるいは他人が書いたことの筋を無視して自分のいいように勝手に解釈する人がとても多い。つまり、これほど自分好きな人たちもいないという印象がある。自尊心がないのにどうしてこれほどまでに自分好きなのか、それが何によって裏打ちされているのかがさっぱりわからないのだ。

いずれにせよ「自分を大切にしない」限り天賦人権が理解できるはずはないので、日本人には民主主義が理解できないことになる。接木をしたバラみたいなもので根元からノイバラのように出てくるのが、教育勅語に代表される権威主義的な考え方なのかもしれない。

もしこれが正しいとすると、自分自身で剪定はできないはずで、誰かに刈り取ってもらわなければならないということになる。つまり、西洋世界の指導と監視がないと世界で振る舞えないということで(国際村ではそれがルールだから従っておこうかくらいの気持ちなのかもしれない)、それがなくなれば民主主義は容易に崩壊するだろう。

ということでこれからも籠池理事長みたいな人は出てくるだろうし、日本会議が多数派工作をして、これといってやりたいことがない二世の政治家を担いで日本の民主主義を骨抜きにするということは起こるだろうという結論になる

籠池理事長に伝える教育勅語が悪い理由

籠池理事長がカメラの面前で「教育勅語がなぜ悪い」と開き直っていた。現代社会を生きる大人ならなぜ悪いかをきっちり説明できるべきだと思う。あなたは、なぜ教育勅語が良くないか説明できるだろうか。この際、戦後GHQが教育勅語を否定したとか憲法に違反するからという説明は脇においておく。憲法は人間が決めたものなのでいくらでも変えられるからだ。

籠池理事長によると教育勅語には12の徳目が並べられているそうである。この徳目は悪くない。問題はそれが安易に天皇崇拝につながる点である。親を敬いなさいというのは否定できないわけだが、天皇は親だとなり、だから親のために死ぬべきだとつながる。

だが、天皇が悪いというわけでは必ずしもない。

実際には教育勅語を持ち出す人は必ずしも天皇を崇拝しているわけではない。ここには隠れたもう一つの論理がある。彼らは「自分たちは天皇の代理だから自分たちのために命をかけなければならない」といっている。

戦前の軍隊は「天皇のために命をかけて戦え」と言いながら、実際には自分たちの失敗を糊塗するために多くの兵隊を見殺しにした。もし本当に「兄弟を大切にしなければならない」のなら多くの兵隊を餓死させることはなかったはずである。沖縄などはさらに悲惨で大本営の自己保身のために捨て石にされた。実際には準植民地のような扱いをされていたからだ。

なぜこのようなことが起こるのか。それは、大きなもののために身を捧げろといいながら、その大きなものを自分たちが勝手に決めているからである。自分がまず身を捧げるなどという人はまずいないのだ。

しかしこれ以上のことは西洋流の教育原理を見てみないと分からない。西洋流では自分の欲望は大切だと教わる。と同時に相手も自分と同じ欲望を持っている。自分も大切なのだから相手も大切であるとなる。そこで初めて相手への尊敬へとつながるのである。さらに協力し合うことでより大きな目標を達成することができるということになり、大義へとつながってゆく。

ここから分かるのは「自分を大切にすること」という概念で、これを自尊心と呼んでいる。健全な自尊心を持っているからこそ相手や社会を大切に思うことができるわけである。

ところが最初に教育勅語や大学を教えてしまうとこうした自尊心を育てる前に「大義のために身を捧げる」ことを覚える。そこで自己犠牲の精神を発揮すればよいのだがそうはならない。

普通の子供は、自分の意思が必ずしも社会に通らないことを学ぶ。自分も相手も一人の個であって等しく尊重されなければならないし、主張してみたところで実力が伴わないかもしれない。このようにして自分というものが形成される。これを仮に自我と呼んでおこう。

ところがいきなり大義に触れてしまうと自我を制限なしに肥大させることが可能になる。自分は省みられる価値もないつまらない存在だが、大義の代理人となることで相手を平伏させることができると考えてしまうのだ。肥大する自我の背景には自分のことが尊敬できないという気持ちがあるわけで、自尊心がないのに相手を尊敬できるはずなどないのだ。

いわゆるネトウヨという人たちが匿名で他人の権利を侵害したがるのはこの自尊心のなさの現われだといえるわけだが、籠池理事長の場合、経歴の「ちょっとした」変更や名前の変更にそれが現れている。大学卒の立派な学歴で県庁に就職できたにも関わらず、自分を大きく見せるために自治省出身だといっていたそうだ。これは自分ががんばったことを否定しているのと同じことなのだが、本人も周囲もそれをあまり分かっていないのだろうか。

籠池さんは、つまらない自分を大きく見せないと相手にしてもらえないと感じてしまったようなのだが、有力政治家の名前をちらつかせることで役人を平伏させることができたのだから、本来の自分自身として振舞うことなどできなくなってしまった点は理解できる。つまり、実力ではなく経歴や所属などの背景を重視する日本は自尊心が育ちにくい社会なのだろう。

その背景には「自分は大切なのですよ」とか「努力は尊いのですよ」ということを教わる機会を逸したまま、権威によって自我を膨らませてきた哀れな社会の姿があるように思える。

教育勅語を現代教育に取り入れたいと考える人は、その権威を背景に相手を平伏させることができるという見込みを持っているのだろう。だがそれは間違いなのではないだろうか。実際には、自尊心を持たないまま大義に触れて、自分を見せびらかしたり、相手を従わせようとする大人が増殖する可能性が高い。

複数の籠池さんが「俺こそが天皇の使いである」と言いながら罵り合っている姿を想像すると実感が得やすい。実際に高齢になっても平和への思いから突き動かされるように行動される天皇を尻目に、私利私欲のためにアフリカの難民の苦境や自衛隊の苦悩を省みない政治家を見ていると、実際にはもうそのような世界を生きているのかもしれないとさえ思うのだ。

 

若者はなぜ嘘をつくようになったのか

今回はよくあるバブル親父の若者バッシングなので気分を害する人は読まないほうがいいと思う。

マクドナルドのアルバイトは平気で嘘をつく

今月からdポイントが使えるようになったのでマクドナルドでポイントカードを使おうとした。ただしポイントが少し足りない。レジの子は「現金かポイントしか使えません」と言う。

もちろん100円のことなので出してもよいのだが「前回はポイントが足りない時だけ現金で補填できるとそこのおばさんに言われたよ」と言ってみた。実際にはポイントが足りない分の補填ができるのだが、バイトの子はそれを知らなかったのだ。

最近の子は「知らない」と言わずに「できない」という。だからこちら側に知識があるときには「それは違うのではないか」と指摘したほうが良い。バブル世代から見るとこれは「嘘」なのだが、この年代の人には悪びれた様子がない。

おじさんはなぜそれを嘘だと思うのか

おじさんがこれを嘘だと思って腹をたてる裏には「企業は全体として顧客に奉仕しているのであって、今対応している人はその代表者だ」という思い込みがある。一方、現在の労働者は「自分は時給で言われたことをやっているだけ」という気分があるのだろう。この差が非常に大きい。しかし、腹を立てたところでこれが現在の労働者(いわゆる若者)に通じるはずはない。

嘘の裏には何があるのか

どうしてこのようなことが起こるのだろうか。これを説明するのは少々難しい。短く言うと「成果だけを求められるのだが組織のサポートがない」状況にあり「自分のやったことが組織の評判に影響する」ことが実感できないからではないかと思う。つまり、かつてはそうではなかったのである。ただこれを言い立てても「俺の若い頃はなあ」的な話になってしまう。

バブルが崩壊して以降、人々は(労働者だけでなく学生も)有能であることを求められるようになった。基本的には選別型の「成果主義」で失敗が許されないからだ。さらに努力しないと脱落するという恐怖心も大きい。これがバブル期以前に育った人との決定的な違いだ。

つまりサポートもないのに有能さを求められるという状況に置かれている。そこで「学習」ができなくなってしまうのだ。つまりスキルがないというのは地頭が悪くて無能ということではなく必要な知識を身につけられないということなのである。知らないことはバカであると思い込んでしまうのだが、実際には学んでゆけば良い。これがわからないということになる。

人を育てている余裕がない

この背景には組織に人を育てる時間はなくなったという事情がありそうだ。バブル期以前に育った人を馬鹿にする風潮もあるのでわからないことを聞こうという気持ちになれない。バブル入社組が馬鹿にされるのは、彼らが大学でほんわかとした生活を送っていてもそこそこの企業に入れたからだ。その直後の就職氷河期には、留学して英語を身につけたのにそれでも採用されなかったというような人がゴロゴロいる。そこでバブル組は努力しないバカと思われるのだろう。

バブル入社組と呼ばれる人は上がつまっていたために人を育てる管理職経験ができなかった。余裕もないし、気持ちもないし、スキルもないという状況は、労働者ばかりが悪いというわけではないのだろう。

スキル信仰とドラマ

こうした状況をよく表しているのがドラマ『ドクターX』だ。組織に縛られずに生きてゆくためには超絶スキルを持っていなければならず、絶対に失敗もしない。そうでない人は組織に使い倒されて、バブル入社組のように上司にペコペコするだけの情けない組織人にならざるをえないという世界観である。だが、大門未知子がどうやって技能を習得したかということは語られない。どうやら組織からスキル教育されたという形跡がないということがわかるのみである。さらに大門未知子の口ぶりはかなり失礼なものだが、これは組織というものが基本的に自己保身だけを目的にした労働者には全く意味がない集団だという含みがある。

この前進になっているドラマは資格をたくさん持った篠原涼子(派遣社員でお時給の範囲でしか仕事をしないが、仕事内容だけは誰にも文句のつけようがないというキャラクターである)だ。彼女も組織を信じず、ある意味破綻した性格に描かれている。

両者に共通するのは、スキルは求められるがどうやって身につけて良いか組織が全く教えてくれないという世界だ。

根深い有能神話

こうしたキャラクターが受けるのは「有能神話」があるからなのだと思うのだが、実際の人はそれほど有能にはなれない。そこであたかも「自分が知っていることがすべてである」と言い張ることで有能さをアピールしてしまうのではないだろうか。

若者は嘘をつくが、こうした「嘘つき」はかなり蔓延している。最近のコールセンターは「私どもでサポートできるのはここまででございます」といって会話を打ち切ろうとする。あくまでも丁寧な口ぶりであり、さらにスキルを攻撃されることをとても嫌がる。自分たちに電話をしてくる客ではなかったと考えることで体面を守ろうとしているのではないかと考えられる。

ただ、この人たちが「親身になって客の話を聞き」「わからないことを聞く」社員(あるいは非正規労働者)になろうとしたら何が起こるだろうか。多分上席から「もっと効率よく接客しろ」と言われるかもしれないし「一度教えたはずなのに聞いていなかったのか」と責められるのではないだろうか。ひどい場合には契約打ち切りも覚悟しなければならないかもしれない。そもそも組織が成長しても労働者には何の得もないわけで、だったら自分のできる範囲で仕事をしたほうがよいというのは自然な成り行きだ。

組織は個人にスキルを与えてくれないし、育てる時間もないのだ。

有能神話が切り捨ててゆくもの

このように「労働者が間違えるのは自己責任だ」という論がまかり通っている。これはバブル世代が人の育て方を知らないし育てるつもりがないということであり、一概に「若者が悪い」とばかりは言い切れない。

一度言われたことができなかったということはよくあることで、何回か間違えながら育ってゆくというのが本来の姿だ。そもそもそうやって人を育てるのが組織だったはずである。一連の流れを通じて組織として知識が循環して育ってゆく。これが組織が学習するということである。人員に余裕があった時にはこうした輪が回っていたのだが、余裕がなくなるとこうした余裕は「無駄」として切り捨てられた。さらに正規社員と非正規社員の分断もあり、知識が流通しない学習ができない組織ができたものと考えられる。

労働者は今持っているスキルが100%だと思い込むことで何が起こるだろうか。これ以上成長することはできないということだ。今回体験した例では「若いアルバイトがおばちゃんに聞かない」という世界である。個人としての損失というのもあるだろうが、ロスはそれだけではない。

通常は黙っていても年に数パーセントは生産性が上がりGDPが成長してゆくそうなのだが、日本はそれが見られない。学者の中にも定説はないそうなのだが、組織が「必要な無駄」をなくしてしまったために、組織が全体で学習することができなくなってしまったことに原因があるのではないかと思う。

社会を全く信用しない社会

この有能神話はかなり浸透しているのではないだろうか。最近気になった(が、全く見なかった)ドラマに『嫌われる勇気」というものがある。アドラーは全くそんなことを言っていないはずなのだが「感情を遮断して社会と分離しないと目的を達成できない」という思い込みが、アドラー心理学をかなりゆがめている。しかし、このドラマのようにアドラー心理学をとった人は多いはずだし、だからこそドラマになったのだろう。

もはや組織のことを慮ってしまうと組織に取り殺されてしまうという思い込みがかなり定着しているのではないかと思う。

こうした気持ちは社会全体に蔓延している。<議論>と称して攻撃してくる人に「お前の知識は足りない」と罵倒する人を時々見かける。これは若者だけではなく、かなり年配の人にまで見られる傾向だ。社会全体が「知識不足を善導し」てゆけばまともな議論空間ができると思うのだが、基本的にすべての人は不愉快な競争相手にすぎないなので、協力して公共空間を作ろうという気分になれないのだろう。

さらには国のトップリーダーまでが破綻した論理を振りかざすような状況になっている。これで「社会を信頼しろ」などというのが無理な注文なのかもしれない。

奥野総一郎議員の辻立ち

愛生町の道端で民進党衆議院議員奥野総一郎さんが辻立ちしていた。先週も殿台のローソンの前で拝見したので多分週末にはやっているのだろう。こういうことでしか日本は変わらないんだろうなあと思いながら通り過ぎた。

この話、当初は「希望はないけど、だったら気持ちが大切なんだよな」という筋で話を考えていたのだが、一晩寝かせてみて「意外とチャンスなのでは」と考え直した。ポジティブなアイディアというのはとても重要なように思える。

さて、話を元に戻す。正直言って民進党には全く期待していない。信号待ちの間の一分くらいで聞いた内容は「明治期に戻って人に投資すべき」という内容だったのだが、ぱっとしない内容だ。民進党のこの「人に投資しろ」はその後消費税の増税議論につながる。しかも自分たちで言い出すつもりもなく自民党にやらせてがっかりした有権者の票をもらおうというさもしささえ感じさせる作戦なのだ。日教組がバックの議員もいるので、教育現場に利益誘導するつもりではなどと考えてしまう。

にも関わらずこの辻立ちがいいなと思ったのは、多分誰にも知られないような活動だからだ。多分、駅(田舎とはいえ、駅くらいはある)とかショッピングモールみたいなところで演説したほうが効率的なわけだし、場所を決めて予め告知するともっと集客ができるだろう。人気がある議員や著名人を呼んでくるという方法もある。

ではなぜそういう演説会がつまらないのか。それは「安部打倒デモ」みたいな内容になることが大いに予想されるからである。この「安倍倒せ」は一部では猛烈に盛り上がっているが一般的な広がりは一切ない。つまり、予めトピックを決めてしまうと、想定の範囲にしか話が広がらない。

であれば「国会議員なのに、こんなところにも来るんだ」という驚きがある。一回や二回では変わらないかもしれないのだが、続けているうちに少しづつ印象が変わるかもしれない。

今の民進党には「何も期待しない」という人が大半だろう。蓮舫代表になってから「民進党って口先だけだよね」感は増した。多分テレビ的なパフォーマンスはできるんだろうが、全く驚きがない。テレビ慣れしすぎた人を起用したのはよくなかった。「地道さ」とか「実直さ」は今の民進党にもっとも足りない資質だろう。

Twitterを使って民情を煽るという方法ももちろん考えられるし、これは有効に使ったほうがいい。しかしTwitterは破壊行為には向いているが建設的な議論はできない。それは人々が「予め想定された範囲」でしか発信もリアクションもしないからだ。

さて、ここまでが寝る前に考えた話の筋である。驚きと実直さのアピールからはじめるのがよいのではないかというものだ。しかし一晩寝て考えがちょっと変わった。

これに車載(自転車で回っているのだが)カメラとPCと通信装置をつければライブ配信ができるわけだ。これをYouTubeなどで流しておいて人を集めるという手があるよなと思ったのだ。国家議員YouTuberという人はいないと思うのだが、国会議員に言いたいことがあるやつはここに集まれなどとやれば、ライブイベントの出来上がりである。

この国会議員YouTuberのメリットは、今までにないアイディアや不満などが直接聴取できるというところだろう。民進党は「言いたいことだけいう」という一方通行的な政党なのだが、彼らがいうことを誰も聞いてくれないという状態にある。

Twitterに欠けているのは「話を聞いたり、読んだりしてくれる」受け手だ。辻立ちは人の話を聞くよいチャンスなのだが、単にのぼりをもって演説している人に話しかけるのはなかなかハードルが高い。ライブ配信はイベントとして楽しそうだし、話しかけるきっかけになるのではないか。

意外と地道で地味な活動が最先端に近いのだなあと妙に感心した。まあ、民進党の議員がやるかどうかはわからないが、街頭演説をやっている議員は多いので、そのうち誰かが始めるだろう。