破綻する日本のサービス産業

Twitterに渦巻く不満の1/10でも生産性のある方向に向ければ日本はすごいことになるんじゃないかということを考える第2回目。本当はもう少し概念的なことを考えようと思ったのだが、ちょっと卑近な例を見つけたので、そちらを先に通すことにする。

家のものが携帯電話を変えたいと言い出したので、調べてみることにした。なぜ調べることにしたかとういうとNTT DoCoMoで電池パックを買うのに5時間待ちというのを経験していたからだ。知らないでうかうか携帯電話ショップにゆくと大変なことになる。ちなみに家のもののキャリアはauである。

日曜日にカタログをもらいに行ったのだが「カタログください」と店員に話しかけるのに1時間以上かかりそうだった。機種変については今日は受け付けられないかもしれませんという紙が張ってある。店の人に強引に話を聞いたら「午前中は機能の客を捌いていた」のだという。なんだか泣きそうである。ショップは明らかに疲弊していた。

人が足りないのは、auが代理店に渡す金をケチっており人件費が捻出できないからだと思うのだが、理由はそれだけではなさそうだ。携帯電話の機種の値段がどこにも書いていない。それにも理由がある。各種「インセンティブ」と抱き合わせになるので機種の値段がいくらになるか「買ってみないと分からない」のだ。

まあ、こうなる理由もわかっている。つまり、顧客に価格を明示してしまうと「じゃあ、余計なものいらないから安いほうで」となるに決まっている。言ってみればデフレが悪いのだ。こういう無駄なものにほいほい飛びつくのは若者と相場が決まっているのだが、今の若者には無駄なものにお金を使う余裕がない。新しいサービスが生まれないので企業は永遠の消耗戦を強いられることになる。その結果疲弊してゆくのは現場なのである。

そこで、ウェブに回ろうとした。auで機種変の見積もりを出そうと思ったら、IDとパスワードを申請してログインした上で各種割引を理解しなければならないようだ。IDはauの携帯電話で申請するそうだ。面倒なのでやめた。だから店頭に客が殺到するのだろうと思った。これに携帯電話に疎い高齢者という要素が加わる行列はもっと長くなる。携帯電話のキャリアはどこも客が捌ききれなくなっており、事実上破綻しているといってよい。

自然成長率という概念がある。産業を続けてゆくと資本と知的資本が集積するので放置しておいても経済は発展するとされているのだそうだ。これがかつては日本の場合4%程度と見込まれていたのだが、実際の成長率は3%程度だったそうだ。現在は人口が縮小しているので成長率は鈍化するのだが、それでも0にはならないはずだと考えられている。にもかかわらず日本の成長率はとても低い。どこかでロスがおきているはずなのだが「それが何なのかとてもいえない」というのが経済学者の合意するところらしい。

しかしミクロのレベルで見ると、壮大な無駄が起こっているのは明らかだ。料金体系をシンプルにしさえすれば代理店の待ちはかなり減るはずである。そうしないことで現場は混乱し、客も待たされる。つまり客の生産性すら奪われているということになる。だが、それを止めることはできない。

永遠の消耗が起こるの理由は明らかだ。誰も経済が成長するとは考えておらず、いわばバブル崩壊期の続きを生きているからだ。

ポイントはいくつかあると思うのだが、経済成長を誰も信用していないと言う点が大きいだろう。政府は間接的に信用を作ることはできるが、直接市場に働きかけることはできない。日本には信用があるとされているので通貨発行を増やしても価値が毀損することはなかった。だが、足元の国民がそれを信じていないのである。実際に「政府の金融政策についてどう思うか」と聞いてみると「私たちには関係がないし良く分からない」と言う人が多いはずだ。日本は臣民型政治ではなく「他人事政治」なのだ。

今回は携帯電話という卑近な例で「信用」を見ている。自分たちの生活が豊かになる確信がもてないから、誰も新しいサービスに飛びつかない。そこで価格競争を防ぐために料金体系を複雑にしたところ、生産性が打撃を受けるということになっている。すると携帯電話がほしかったと言う人まで排除されてしまう。まさに悪循環だ。

もちろん「信用」だけが原因ではないのだろう。同じようなことは運輸の現場や小売の現場でも起きている。みんなが忙しくなり深夜まで労働するようになると、それを支えるサービス産業の生産性が落ちてゆく。もっと単純な体系にすれば休める人たちは大勢いるし、もう少し生産的な活動にリソースを振り向けることができるようになるだろう。こうした産業には共通点が多い。

第一の特徴が寡占状態である。大手が生き残り顧客の奪い合いをやっている。全国的なインフラ網があり他社参入が難しいと言う側面を持っている。いきなり大手のようなサービスは作れない。次に、複雑な代理店方式をとっているのも特徴だ。最大のサービス産業は全国政党なのだが、これも代理店方式を採用している。日本の産業が行き着く最終的な形態なのだろう。代理店は忠誠心をお金と暖簾代(いわゆるブランド)だけで支えている点が特徴だ。

代理店方式は情報の流通と倫理に弊害がある。これを防止しようとして発展したのが終身雇用制なのだがバブル後にこれを放棄したことで、サービス産業の生産性が大きく損なわれているのではないだろうか。

日本のサービス産業は発展の最終形態に達している。多分このことが生産性の低下に結びついていることは間違いがないだろう。

日本の保守はどこにいっちゃったんだろうと言う話

ここ数日、政治っぽい話を書かないでプログラミングの話を書いていた。案の定アクセス数が減る。今のネットがどれだけ不満に満ち溢れいているかということを実感できるよい機会だと思った。今は「世の中はけしからん」と言う話に需要があるのだろう。これにはいろいろな理由があると思うのだが、比較的高い教育水準があるのにそれを生かしきれないことが背景にあるのではないかと思っている。

プログラミングしながら国会論戦を聞いていると無駄な議論が多いように思えてくる。現状を否認したまま「うまく行った演技」をしている人たちと、うまく行かないことを安倍首相に対して絶叫している人たちの二種類がいる。何が原因で行き詰まっているのかよく分かっていないんだろうと思う。稼ぎがなくなっただんなを奥さんがなじっていると言う図だ。そのうち奥さんも働かざるを得なくなり家庭がぎすぎすしてゆく。

議論の中に感情が持ち込まれているのも大きな特徴だ。稲田大臣は頑として自分の論を曲げようとしない。さすがにあきれ果てた民進党議員はそれをなだめすかしていた。後は、保育施設がないと詰め寄っていた山尾しおり議員と、北海道の鉄道が立ち行かないからJR東日本が支援するべきだと絶叫していた共産党議員が印象的だった。

働き方改革も揉めていた。政府は高技能の仕事を作ろうとしてホワイトカラーエグゼンプションを導入しようとしているのだが、残業ゼロ法案だと疑われている。だが、制度を作ってしまうと人件費を削りたい企業に悪用されることは目に見えている。つまり政府や企業に信頼がないので、改革は何も進まない。改革はすなわち誰かが損をすることなのだ。これを「不利益分配の政治」という。

こうした議論のあり方に違和感を感じたのはプログラミングをしていたからかもしれない。プログラムが動かない(あるいは意図したとおりの結果にならない)のには理由がある。だから動かないと小さなプログラムに分割したり、すべてを取り去ってから少しずつ戻してゆくというような方法をとる。「動かない」のはプログラマが間違っているからなのだが、プログラマを責めたりはしない。そんなことをしてもプログラムは動くようにならない。「会議するならデバッグしろよ」とみんな思うわけである。

プログラミングから学べることはいくつもある。すでにある込み入ったものをなおすより作り直したほうが早い場合があると。作った実績はあるので、前のものよりもよいものができる可能性が高い。今あるシステムをすべて再現しようとすると大変なことになるから、新しいものは単機能で簡単なのものになる可能性は高い。でも簡単で軽量のほうが使い勝手が良い。

今までのシステムを捨てて新しいやり方をするということに不安を覚える気持ちは良く分かる。だが、今までのシステムは大きく複雑になりすぎているので、修正が難しい。

不連続はリスクのように思えるが実はそうではないということになるのだが、ほとんどの人はプログラミングの例で説明されてもピンと来ないだろう。だが、日本には中国から受け入れた農業を基にした知恵がある。

例えば、子丑寅卯……と続くシステムは種ができてから枯れるまでの植物の動きを追ったものだ。このシステムが教えるところは簡単で、できたものはやがて枯れてしまうのだが、枯れたからといって終わったわけではなく、種ができるということだ。つまり不連続なように見えて連続しているということを昔の人たちは知っていたのである。

こうした伝統は最近まで保守の政治家も持っていた。例えば政界への影響が大きかった安岡正篤などはこういうことを一生懸命研究しており、つまり昭和の保守の人たちは「大きくなったものはやがて滅んでゆく」と言うことを学識レベルで知っていたはずだ。今ある枯れかけた木を生かすのではなく、種を取るか挿し木をしたほうが早いということが分かっていたことになる。

今では「軍隊を作らないと諸外国に征服される」というのが保守だと解釈されているらしいのだが、これは開国時のトラウマにすぎない。天皇を中心に一つの家を作るのだというのも行き詰まった戦争に国民を総動員するために無理やり作られた反応である。つまり、激烈な印象として残っているトラウマを保守と思い込んでいるわけだ。日本の保守はレスポンシブさにアクティブの仮面をつけているだけなのである。

現在支配的なのは「縮小の原理」だが、これもバブル崩壊後の急性期のトラウマが元になっている。終身雇用制度が支配的だったので急に業務規模の縮小ができなかった。5年くらい「人を切れば生き残れるのに……」という気持ちがあり、それが20年以上続いている。今ある木を急に枯らすわけにはいかないという気持ちは分からないでもないのだが、もうその時期は終わっている。現在は新しい苗を探す時期なのだ。

苗を育てるためには、一人ひとりが何かを作ってゆく必要があるわけなのだが、何かを作れる技術と時間を持った人はほとんどいないのではないだろうか。そうした不満がTwitterに渦巻いており、非難合戦が繰り広げられているのことになる。そのエネルギーの1/10でも生産につなげれば状況は改善するはずだ。しかし、今は何かを生産してもマネタイズする手段がなく、それは単に無駄なこととみなされる。

実はお金はうなるほど余っているのだが投資先がないとされている。日本人はお金を米のように思っている。つまり無駄に消費すると減ってしまってお腹がすくと考えているのだが、実はお金は回さないと何の役にも立たない。うそだと思う人は一万円札を食べてみるといい。このように意外と古いマインドセットは単なる思い込みである可能性が高い。

万物は一定の状態をいつまでも保っていない。その時々にあったマインドセットを持つことが重要だ。保守思想とはこうしたサイクルをまわしてゆくための知恵を持っていたはずなのだが、いつの間にか失われてしまっているのだろう。古いものにしがみつくのは、少なくとも農業国だった日本では保守思想ではなかった。だから本当は保守的な思想はもっと見直されるべきなのだ。

 

タグシステムを作る

ということで、1システムを作り終えたので、ためしにもう一つ作ってみた。だいたい2日くらいで50枚の写真(今度は寄せ植え)をタグとカテゴリーで管理するシステムを完成させることができた。

散発的に作っていると「あれどうやって作るんだっけ」ということになるのだが、一通りレビューしてからやるとその時間が節約できる。こういう技術が集積したミニシステムは意外と重要なのかもしれない。一つの作業に入るまでの時間を「オーバーヘッド」と呼ぶのだが、役職が明確でない現在の正社員層の人たちは大変なんだろうなあと思う。

発想と作業が不可分に結びついているということもある。着手する前にあれこれ考えたのだが、結局パソコンの前に座って作り始めたほうが早かった。最初はjQueryを使った難しいシステムを考えていたのだが、フォームにボタンを足したり外したりすればいいのだということに気がついた。で、小さなスクリプトを書くと動いた。こういう集積が大きなプログラミングにつながってゆくのだ。逆にいくらやっても動かないとモチベーションが下がる。今回作った仕組みは標準のjavascriptでできてしまう。と同時にリクエストを発行しサーバー側で管理することにした。

実際にはデータベースがエラーを返すことがある(あるいは動いていない可能性もある)ので、ボタンをサーバー側で発行してajaxで戻してやってもいい(というより本来そうすべき)なのだが、できちゃったし使えるからいいやと思った。

実際に難しいのはUIの部分かもしれない。ボタンなので押すとデータが消えてしまうし、間違いが許されない。Wordpressではタグの横に小さな×印がついている。PHPで整形してから戻してやるとか、javascriptだけで構成する必要があるのだろう。文字が入力されたフォームを消したり、Enterキーだけでフォームをサブミットしたりと、細かいところで使い勝手のよさが変わってくるはずである。こういうのは職人技の集積なのだろう。

いずれにせよいったんタグが作れると、すべてのタグを取り出してメニュー化できるので写真の一覧システムが作れる。今回は寄せ植えなので「使っている植物」がタグになった。

前回のシステムではカテゴリーもデータベースに入っていたのだが、今回は配列で対応した。前のシステムではカテゴリが数字になっていてそれに対応する名前を付ける仕組みなので後からカテゴリ名が変更できるのだが、今回は配列を変えてもデータには反映されない。カテゴリ名を試行錯誤しなければならない場合(カテゴリ作りそのものが学習の一環になっている)とそうでない場合(今回は季節と植木鉢の種類)では、作り方が違うということになる。

しかし、何かを分類するためには「タグ」と「カテゴリ」があると良いということは分かったので、さまざまな写真の分類に利用できると思う。

ライフログの大切さ

今日はライフログの大切さについて考えたい。ライフログとは毎日の生活を記録したものだ。ライフログはどうして大切なのだろうか。

モチベーションの維持

第一に習熟度が分かる。去年の秋からダイエットをしている。徐々に体重を減らして5kgくらいやせた。とはいえ1カ月にikg減るか減らないかというペースなのであまり面白くない。だが、去年秋に買ったトップスを着ると「うわ、こんなに体型が違うんだ」と思うこともある。例えば毎日写真を撮影していればその進捗が中期で分かるだろう。写真を撮影してもダイエットそのものにはつながらないのだが、モチベーションの維持はできる。見た目で成果が上がらない場合にはライフログはきわめて有効だと思う。

無駄な買い物をなくす

次に計画上手が立てられるようになる。これはライフログに学習効果があるからだ。例えば、過去に作った寄せ植えの写真を撮影している。何気なく作ったものを後から見直すと意外と絵になっていることがある。作っているときにはあまり良さ(悪さもだが)が分からないのだ。これを時系列に並べると計画も立てやすい。いつごろ何を植えればよいかが分かる。

これとは別にクローゼットの中身をすべて撮影している。このブログでも何回か書いているが、ファッションが分からないので勉強したいと思っているのからだ。システムを組んで何をいつ着たかがわかるようにしている。必然的にクローゼットの一覧ができるのだが、これを見るだけでも「こういうアイテムはよく着ているんだな」とか「これが足りないな」ということが分かる。現在登録アイテム数は170程度なのだが、これくらいであれば一覧処理は可能である。こうして記録すると無駄なアイテムを買う必要がなくなるし、失敗したものを再び買わなくてもすむ。ファッションの場合「こなせないけど好き」というアイテムがあり、そういうのばかり買ってしまうことがあるのだ。

歴史的価値

大げさだと思うだろうが、ライフログには歴史的価値がある。例えばジーンズはめまぐるしく変化しているが、このアーカイブが意外と残っていない。雑誌が記録しているはずなのだが、ファッション雑誌は1年くらいで売れなくなってしまうらしく、廃棄されてしまう運命にある。逆に1990年代のMen’s NON-NOなどが3000円くらいで売られている。不景気のせいなのか古本屋も淘汰されていて通販でしが買えないことも多い。意外と「ちょい前」の情報がないのだ。

普段着ているもののような「下らない素材」はほかにもある。例えば高度経済成長期の超合金なども現代であればアーカイブの価値があるだろう。こうした情報がまとまっているというのは大きなことなのである。

情報はあふれているが見たいものがない

現在、Twitterなどで情報があふれている。さぞかし必要な情報が手に入れやすいだろうと思うのだが、意外とまとまった形で保存されていない。これはTwitterなどのSNSが引用形で流れてゆくメディアだからである。

さらにコンテンツ制作のためにお金をかけないことが流行しており、まとめサイトが氾濫している。これも引用なので情報の集約には役にたっていない。偽情報を拡散しているだけだったりする。これは彼らのいう「情報」が一次情報ではないからだ。で、あらためて一次情報って何だろうかと考えると、それぞれは、作った弁当とか、着た服とか、歩いた距離と方向とか、こどものおもちゃなどの下らないデータの集積なのだ。

それでも、意識して選んでいると、すこしづつ何かが分かってくるのは楽しい。多分、学習には快感が紐づいているからなのだろう。画像アーカイブはWordpressなどを使ってもそれなりに楽しめるが(エントリーにカテゴリーとタグが付けられるので1枚1エントリーにすると良いのかもしれない)、手作りでデータベースとプログラミングが楽しめると、柔軟な画像データベースが作れる。サーバーは1カ月ワンコインくらいから手に入る。

Twitterで社会正義を追求したり有名人の不正を正したりするのも楽しいのだが、現実が1mmも動くわけではないし、情報が拡散されるだけだ。情報を拡散したら集約する側に回ってみるのも悪くないのではないだろうか。

画像をストックするサービスを作る

ファッション雑誌を集めている。コーディネートの参考にするためだ。スキャンしてウェブサーバーにアップロードする。「公開」状態になってしまうとまずいので、ユーザーIDを入力してアクセスを制限する。

スキャンの自動化

スキャナーした写真はそのままでは使えない。多分ページをバラバラにしてそのまま保存すると言うこともできるのだろうが、コーディネートだけを切り取って色彩を補正する。これは手作業が必要だ。リサイズは自動化できるのだがエラーも多いので手作業でやっている。しかしファイル名を整えるのにはアップルスクリプトが使える。ファイルをドロップすると連番と日付を付けてくれる。

メタ情報が重要

写真が100を超えてしまうとどこになにがあるか分からなくなる。そこで、データベースに情報を入れておくのが重要だ。付加する情報は試行錯誤の後、次の4つになった。

  • 時期(年・月)
  • どの雑誌(あるいはカタログ)から抜いたのか:出典
  • カテゴリー
  • タグ

時期の情報は意外と大切で、例えばジーンズの形が時代によってかなりめまぐるしく違ってくるなどと言うことが分かる。だが実際には雑誌によってかなり時代性が異なるので、出典ごとに並べたほうが分かりやすい。

すべての写真はなんらかの目的のために収集されているので、何らかのカテゴリーに分類できる。カテゴリーはある程度の決まりを作ったうえで分類しないと収拾がつかなくなる。一方タグはいくつでも思いつくままに作れる。1つの写真に複数のタグということも可能なのだがUIはやや複雑になる。1つに写真に1つのタグでもそれなりに使える。

つまり自由に使える分類と固定化した分類の2つがあると利便性が増すのだ。

インターフェイスとスマホ対応

レスポンシブルデザインができて当たり前みたいな風潮があるので、最初は両対応にしようとしたのだが、これはやめたほうがよさそうだ。PCは一覧性がメリットだが、これをスマホで再現すると写真が良く見えない。ポイントは「予め写真の大きさやプロポーションが決められない」という点であり、既存のグリッドデザインでは対応できない。ただ、ウェブでみるためには写真の高さは640px程度に抑えておいたほうがよい。

PC版で異なる大きさとプロポーションの写真を並べるためにはmasonryというプラグインが使える。Pinterest(あるいはテトリス)のように写真が並べられるのだが、可変グリッドと言う名前がついているそうだ。jQueryを利用している。メニューはアンカーで並べたほうが全体像が掴みやすい気がする。

一方、スマホは写真を一枚づつスワイプしたほうがよい。FlickityというjQueryのプラグインが使える。写真の高さをCSSで(imgタグではなく)100%指定した上で並べるとそれなりの閲覧性が得られる。メニューをアンカーで並べるとうるさいのでプルダウンメニューを多用することになる。リストをプルダウン化するプラグインもあるのだが面倒なので利用しなかった。

これを切り替えるのだが、ありものを継ぎ足して作ったためにかなり場当たり的な構造になっている。切り替えにはJavascriptを使う。自作したほうがよいのだろうが、ネットには簡易的なものが落ちている。ただし、当たり前だがPCではスマホのデザインも使える。ということで実際にはスマホでアクセスしてきたときだけ、スマホ専用のデザインに切り替えるようになっている。

後作業

今回は数年に渡って開発したものを継ぎ足しながらシステムを作った。当初はlightbox.jsなどを利用していた。これはprototype.jsを使うのでjqueryベースのスクリプトとはあまりコンパリビリティがない。またタグ付けのシステムは画像をリストアイテムとして扱うのだが、可変グリッドシステムはdivを使っている。このためこの2つのインターフェイスには互換性がない。

本来ならば、使われているスクリプトやメニューを外部化したり整理したりということが必要になるのだろう。データベースのアクセスも2つのやり方が混在していたりする。こういうリファクタリングをやらないとプログラミング上手にはなれないと思うのだが、なんとなく「動けばいいや」と思ってしまうところがある。最初から別のシステムを作り直してもよいかもしれない。

行動が楽になる

画像データベースに限らないと思うのだが、こうしたシステムを作ると行動が楽になる。例えばカーディガンを着るときに「過去に見た写真」を数ある雑誌から探すのは面倒だが、このシステムを使えばスマホの画面から一発でほしい情報に到達できる。

NHK大阪とオルタナティブファクト

べっぴんさんを見ている。大して面白いわけではないが、なんとなく時計代わりというかつなぎになっている。嘘もあるのだが、嘘ではなくファンタジーだと思えば気にならない。

これについて面白い感想を持っている人がいた。時代設定と学生活動家の扮装が合わないと言うのだ。単に設定ミスともいえるが、意味づけまで考えてみるとちょっと見逃せない点もある。

もともと日本の学生運動家はそれなりの意識を持って活動していたはずだが、時代が経つにしたがって「ファッション化」してゆく。専門的なことは分からないが、まだ切実さがあった時代を扱っているはずなのに、ファッション化しつつあった時代の学生運動家を扱っている点に違和感を感じているのではないかと拝察した。さらにひどいことに「冒険したいから一生懸命バイトする」などと言い出しており、大して反体制の意欲はないことになってしまっている。

ある意味これは普通の人たちが学生運動にもっている感想なのだと思うが(ヘルメットと角棒でなんかしてはるわ)やはり専門的に見ている人たちから見ると失礼なのかもしれない。

ただ、NHK大阪が<蹂躙>しているのはこれだけではない。ヴァン・ヂャケットの創業者について、闇市でふらふらしていた若者が十年経って戻ってきたらトレンドセッターになっていたみたいな話にしている。モデルになっている人物はもともと裕福な家の出で大学でもいろいろな遊びを経験した人だ。これが戦後アメリカの上流階級と接触しそのライフスタイルを日本に紹介した。その途中でアメリカ流のマーケティングが日本に持ち込まれることになった。つまりアパレル業界から見ると、この人物設定はかなり乱暴な改変なのだ。いまだに信者も多い人なので、NHKは誰がモデルになったか明かしていないはずである。

さらに今朝は使用人だった2名が「二人で冒険に出る」ことになっているが、これは使用人の死を扱わずに捌けさせるためだろうが、冷静に考えてみるとかなり乱暴だ。「最後まで面倒見ろよ」などとつっこんでしまった。

このようにかなり乱暴なドラマなのだが、NHK大阪が考証に手抜きをしているわけではないだろう。例えば「ごちそうさん」では食べ物に並々ならぬ関心があり念入りに時代考証もされていたはずだ。つまり専門的なことに対してはとても大きな関心があり、それ以外のことにはまったく関心がないということが伺える。

昭和の暮らしを描くということは、本来ならば専門家集団の考証が必要なはずなのだが、自分の守備範囲以外の点にはまるで興味がない。それだけではなく、自分の印象でいとも簡単に情報を操作してしまうのである。見ている人もアパレルとか活動かとか老人の行く末などには興味がないのでそれほど違和感を感じないのだろう。

ただし、学生運動に興味があった人もアパレルにはそれほど関心がないわけで「ほかの設定もめちゃくちゃですよね(笑)」みたいなことを指摘すると面倒になったのか「朝ドラには興味がありません」と返信してきた。まあ、専門分野には興味があるが、それ以外のことが分からないというのは特に珍しい現象でもないのだろう。

こうした視野の狭さは日本ではあまり非難されないし「専門的だ」として賞賛されたりするのだが、さまざまな弊害を生み出す素地にもなっている。例えばプログラマはプログラミングにしか興味がなく操作性の悪い仕様を運用側に押し付けたりする。営業もプログラミングに関心がなく「できますよ」などと気軽に言う。かつての日本の企業はこれを防ぐために正社員をローテーションしたりしていたのだが、正社員を削減した結果知識のサイロ化が急速に進むことになった。

専門性のわなについての事例には事欠かない。例えば大本営などはさらに悲惨で、現場で何が起きていても「よく分からないから」という理由で、仲間内の都合のよいストーリーを押し付けてしまうだけでなく、作戦が失敗すると現実を曲げ始めた。悪意を持って騙そうとしたわけではなく、当事者たちは「仕方がなかった」と思っているのではないだろうか。

NHKの朝ドラは「女の人が仕事をするのはとっても大変」ということを描きたいドラマだ。そこで受け手が興味を持つ点については念入りに考証するのだが、それ以外ことにはたいして時間をかけない。多分、日本型のオルトファクトというのは人を騙そうと言う悪意から生まれるわけではないのだろうが、結果として生じることがありえるのだろうし、多くの場合にはそれほど害もないものなのだろう。

女性であると言う苛烈さ

つくづく、女性でいると言うことは大変なことなんだなと思った。常に他人の価値基準で生きており、数での競い合いを強要されているようだ。小島さんはバレンタインデーで男性が数のコンペティションを強要されているという図式を想像しているようだが、そういう実感はない。

なぜこういうプレッシャーを感じないのだろうかと思ったのだが、答えは簡単でまったくモテないからである。かといってこの世の終わりだとも思わない。モテについて女性ほどの苛烈さがないからかもだろう。もうちょっと難しい言い方をすると男性のほうが価値をはかる軸が多いということになる。

かといってチョコに興味がないわけではない。過去にビーン・トゥー・バーをもらったことがあるがよく分からなかった。くれた人はネスレのチョコと一緒にくれたのであまりこだわりがなかったのだと思う。が、産地で豆の味が違うならちょっと勉強したら楽しいだろうなあとは思った。

同じように、男性はシガーやワインを共有することがある。こうした農産物には土と関連するストーリーみたいなものがあるからである。シガーはアメリカのボーイズクラブでは頻繁にやり取りされているし、ワインも気の会った人としか飲みたくない。工業的に味が制御できないので、そういう違いを時間をかけて楽しむような人とじゃないと話していても面白くないのである。

確かに高いほうがおいしいものにあたる可能性が高いのだが、かといって高ければいいというものでもないし、そもそも「おいしい」という価値基準を構築するのに時間がかかる。だから「高いワインだからおいしいでしょ」といわれてもあまりぴんとこないし、口に出しては言われないが軽蔑されることさえある。

さらに土地の農産物は記憶とも結びつきやすい。安いジンファンデル(ドイツっぽい名前なのだがドイツでは知られていないのだそうだ)の方が思い出の味だったりもするわけだ。「あの時馬鹿話して楽しかったなあな」どという記憶が土のにおいとセットになっている。

ところが女性のチョコはコンペティションの対象になっていて、値段と数が評価の対象になっているようだ。つまり待遇の記号になっている。バレンタインデーにチョコを配ると言う昭和の風習は消えつつあるらしい。「バレンタインデーにチョコを渡すリスクが怖い」ということのようだ。ステレオタイプで考えると男性の方が食べ物に興味がなく、女性の方が細やかな知識と関心がありそうなのだけど、実際には逆なのかもしれない。

そういえば女性が見るグルメ番組にはやたらに権威付けの薀蓄が多く、男性が好きそうなカレーとかラーメンには系統とかのシステムに関する情報が多い。男性にとって食事は趣味の領域であり(日常的に準備する役割をになうことが少ないからだとは思うので、こっちのほうが優れているとは言わない)、女性にとっては待遇を決める材料なのかもしれない。

世の中の分析するのは楽しいのだが、ここら辺でやめておく。個人的には鯉にえさをばら撒くみたいにチョコをばら撒く人をみると、食べ物に関心がない人なんだろうなあと思ってちょっと切ない気持ちになる。

ただ、女性はチョコの数を競うような男性が好きなのかももしれないとは思う。何事も「競う」というのはテストステロンの強い影響下にあるということで、多分男性的な魅力は高いだろう。こういう人は競争に(例え負けたとしても)快感を得ているはずだ。

山本一郎騒動とフジテレビの凋落

山本一郎氏が炎上している。知っている人は知っていると思うのだが、ぜんぜん知らないと言う人もいるのではないだろうか。つまり、騒ぎは局地的に起きている。

「山本一郎氏はIT関連の投資をしているみたいだけど、本当は何をしている人なんだろうね」という人だ。もともと別のハンドルネームで知られていたのだが、いつのまにかフジテレビのコメンテータになっていた。コンテンツ業界のどろどろを面白おかしく書く作風はなかなか面白かったのだが、最近Twitterでおかしな言動を繰り返すようになった。

山本一郎氏はTwitter界隈ではとにかく評判が悪い。例えば豊洲では大方が「豊洲移転は無理だろう」という見方をしているのだが、それに逆らっている。のんさんが改名騒ぎを起こしたときも事務所は悪くないという側についた。体制側の弁護を買って出ることで1%の代弁をし、99%の不興を買うのである。

この山本氏に経歴詐称疑惑が持ち上がった。映画評論家の町山智浩氏が「追い込み」をかけたからだ。過去のプロジェクトや留学先を「盛っていた」らしい。これに小田嶋隆氏が参入した。ネット上ではすでに「病的なうそつき」とういう評判になっている。ネットにはこの手の揉め事のウォッチャーがおり頼みもしないのにこれを拡散する。山本氏本人は反論せずスルーしようとしている。今回の件について本人のコメントはこちら。訴訟をほのめかしていると言う話もある。しかし、いつもの作風だと「ああいえばこういう」はずで、スルーはちょっと不自然な印象だ。

この揉め事自体は言論プロレスの一種なので特に興味はないのだが、この人がフジテレビのコメンテータをしているのは問題だなあと思う。フジテレビはショーンK氏を司会にしようとした報道番組が頓挫したばかりだ。ショーンK氏は華やかな経歴を持ったイケメンハーフだったが、実際には整形した日本人で経歴も大方が嘘だった。

どうして山本氏が経歴を詐称したのかと考えてみたのだが、テレビではそっちのほうが受けがよかったからだろう。しかし、テレビの視聴者に受け企画を立てる人は企画書にインパクトのある経歴が書きたいのではないだろうか。だが、実際に企画書が通ってしまうとそれを確かめる必要はなくなってしまう。

そう考えるとフジテレビが凋落していった意味が分かる。フジテレビは何が受けるかより社内でどのような企画書が受けるかということを基準に番組を作っているのではないだろうか。受け手が何を求めているのかが分からないのに視聴率が取れるはずはないわけで、これが全体的な凋落につながっているのだろう。

こうしたことは経営コンサルの世界でも起きているのではないだろうか。経営コンサルの中には経営者向けの芸者さんが混じっている。重用されるのは美貌ではなく経歴書の美しさだ。多分、本当にアメリカの有名大学のMBAを持っている人もいるだろうし、そうでないのに偽装している人もいるかもしれない。しかし経営コンサルをありがたがるような会社の社長がMBAの知識を持っているとは思えない。本物と偽者の区別がつかないわけだ。そうしたコンサルを導入した会社の中には社員の意向や現実を無視して経営者に受けそうな「改革」を実行するところが出てくる。そういう会社は経営が傾いてゆくことになるだろうが、社長は気にしない。その痛みは一時的なものだと思い込んでいるからだ。

山本氏のキャリアが本物か偽者かは分からないのだが、そもそも自由を目指してフリーランスや経営者になったはずなのにテレビの要請に応えて自分の経歴をつまびらかにできないのだとすると本末転倒と言えるだろう。と同時に、昼間の世界にのこのこと出てこない限りは芸者さんの化粧を剥いではいけない気もする。

多分、もうテレビはまともな世界ではないのだ。

 

稲田防衛大臣と文脈の奴隷

いじめ問題についてみている。多分議論のゴールはいじめで死ぬ子供をなくすことなのだが、千葉市教育委員会の人と話をして考えこんでしまった。生徒や保護者の中には「学校にいじめを認めさせたいだけ」と考える人がいるのだそうだ。もちろん、この話は納得できる。報道でも「学校にいじめを認めさせたい」というだけで両親が奔走するケースがあるからだ。

なぜ学校がかたくなにいじめを認めないのかというと、それを認めてしまうと学校と教育委員会の管理責任という問題が出るからである。つまり解釈によって事実の意味づけがまったく変わってしまう。そこで千葉市の担当者は「いつも想定外のことが起こる」と言っていた。人間関係の問題なのですべてイレギュラーケースなのだろうが、役人は事前に規定してすべて管理できると思ってしまうのだ。

この裏には担当者の責任の希薄さがある。もともと先生に権限と責任感があればこうした問題が起こるはずはない。しかし現場の先生の意識は希薄化している。しかし、現場の意識付けをせずに(多分こういうと研修をやっていますなどと言うのだろうが)規則や制度でカバーしようとするのだ。そのために千葉市の「いじめ防止マニュアル」はとても複雑なものになっている。

文脈と意味づけが重要なので、家族はマスコミに訴えて文脈の構成を変えようとする。メンバーが変わると意味づけが変わる。横浜のケースはこの意味付けを当事者がコントロールできなくなった事例である。Twitterが意味づけ決め、教育委員会の独立性を無視して盛り上がってしまった。

ここらでふと考え込んでしまったのは「子供の苦痛」とか「その延長線上にある死」というものが、解釈によって変化しうるだろうかいう問題だ。

個人的には変化はしないだろうと思う。死という現象は変わらず、その意味付けが変わるに過ぎないと思うからである。いわゆる「文脈費依存」なのだが、これは少数派の考え刀のではないかと思う。

だが、死がいじめによる自殺だと認められないと「その子供の死が犬死になる」と考える人は多いのではないだろうか。つまり、現象より意味づけのほうが重要だという文脈依存の考え方だ。

日本人には合理的思考はできないというと悲観する人が多いと思うのだが、これは文脈が構成要因やその場の雰囲気やメンバーの範囲、数によって変わりうるからである。事象だけに注目すると合理的に考えやすい。ただそれだけのことである。だが、それができない。そこで範囲を限って文脈を固定しようとする。これが「隠蔽」だ。

さて、の文章を書こうと思ったのは、まったく別のニュースを見たからである。稲田防衛大臣が「戦闘行為だと認めてしまうと憲法第九条に抵触しかねないので、衝突と言った」と答弁したとして大騒ぎになっている。これも意味づけ(解釈)の問題だ。

安保法制を作るにあたって、まず政府は官邸で文脈を作ったのだろう。しかしそれは国民には理解されないことはわかっていた。想定外の衝突が起こる可能性を排除してストーリーを守った。しかし、その事態(武力衝突でも戦闘でもどうでもいいのだが、要するに武器で人が殺される可能性である)が起きてしまった。そこで「隠す」事に決めたのだろう。

解釈の問題は、現場の兵士自衛隊員の安全にはまったく関係がないのだが、国会ではこれだけが大問題になっている。もし、戦闘があったとすると、自動的に危険な区域に自衛隊員を送ったことになってしまう。すると政府の責任問題になる。だから「衝突です」と言った。

このまったく関係がない二つの案件に共通するのは「解釈」だけが問題になり、現場(自衛隊とか子供とか)のことは省みられないと言う点だ。国会は自衛隊員の安全については議論しておらず、教育委員会はいじめについては議論していないということになる。だから、問題は何も解決しない。

そもそも法律には目的というものがあるはずなのだが、その目的については誰も関心を寄せない。そして、いったん意味づけが決まってしまうとそれを覆すのはとても困難だ。いじめられて子供を亡くした親は「世間はそれを認めてくれない」といいつつ孤独な戦いを強いられることとなる。それを認めさせる戦いをしているうちに、疲弊して当初の目的がわからなくなる。次の自殺者が出て、教育委員会が頭を下げるか下げないかということを議論することになる。この繰り返しだ。自衛隊でも同じ問題が起こるだろうが、もっと念入りに隠蔽されるのではないか。

しかし、教育委員会が頭を下げたところで子供が生き返るわけではないし、誰に責任があるかによって恐喝をやめる子供などいないのだ。

稲田さんがなぜあのような答弁をしたのかはわからない。個人的には河野太郎さんがなぜこのタイミングで資料を「発見」したのかが気になる。散々「危険性はない」と言わせておいて、資料が出て「ほら危険を認識していたではないか」ということになれば政権が危機に陥るのは明白だからだ。つまり内側で文脈を破壊する行為が行われていることになる。あるいは役人が破壊工作をしているのかもしれないが、派閥の再編などが加速しているようだし、背景に何らかの動きがあるのかもしれない。

安倍首相は稲田防衛大臣に答弁を続けさせるべきだろう。最近彼女は場面場面で相手が聞きたいことをいっていたという主張を始めている。政治生命は終わったと言ってよい。これがボスである安倍首相に類焼しない(彼が言わせたのではなく、稲田さんが勝手に言ったことにする)ように、食い止めつつそこで炎に焼かれるべきなのであろう。彼女の解釈能力が失われると、政権の文脈生成能力自体が空白化し、誰も政権の言うことを信じなくなる。日本のような文脈依存世界ではこれは社会的な死を意味する。

と、同時に見ていた私たちも、去年の夏にいったい何をしていたのかを思い返してみるとよい。際限なく無意味な言葉遊びに興じているうちに、憲法第九条の意味とか、平和国家として再出発してから成功を収めたことの意味をまったく忘れていることに気がつくのだ。

われわれは等しく文脈の奴隷なのである。

いじめ問題 – 千葉市教育委員会の回答

千葉市の教育委員会にいじめ問題について問い合わせたところ回答をもらった。回答は文末にそのまま載せた。なお問い合わせは1月24日に行ったのだが、回答までに2週間を要した。担当者曰く部門間での調整が必要だったそうだ。皮肉なことにこれが一番の問題点だ。

いじめがあったときにどう対処するかというのは細かいマニュアルにまとめられている。一読してみたが素人がとても読みきれるものではない。いろいろなことを想定しているからだというと聞こえはいいのだが、責任者を置いて意思決定を分担させたほうがいい。これをやらないのは、誰も責任を取りたくないからだろう。そこで事前にあれこれと決めておくのだ。官僚的なリスク回避のために生徒児童が犠牲になっているのである。

このため「管理責任がどうだった」という文脈ばかりが重要視され、実態が掴みにくくなっている。

回答のポイントは以下のとおり。

  • 生徒・児童が訴えを起こすことができるルートは複数あり、制度は充実している。学校を通さないことも可能だ。つまり、制度には問題はなさそうだ。
  • (千葉の場合)市長は再調査を命じることはできるが、判断そのものを操作することはできない。横浜にこのような制度がないならぜひ作るべきだろう。
  • 制度上、教育委員会は裁定や判断には責任を追わないことになっている。これは法律上決められている。ただし「自主的な辞任」はあり得る。
  • 認定は教育委員会が行うことになっている。横浜の教育長は「第三者機関がいじめの事実はなかったと言っているから認定できない」と言っていたのだが、これは必ずしも正しくないのだろう。ただし、調査を依頼しておいてそれを全く無視した裁定も出せないかもしれない。このあたりの責任分担が実はあいまいになっているのだ。
  • 教育委員会や第三者委員会は「善意の第三者」ということになっており、組織的な隠ぺいに関わるかもしれないというような可能性は(少なくとも法律上では)考慮されていない。これは制度上は教育委員会と学校は別系統だからだ。

千葉市の教育委員会の担当者は(あくまでも話の中での個人の感想であり、他市の事情に口は挟めないのだが……)「教育委員会は最終裁定を出す前だった」のではないかと言っていた。つまり、運用にはある程度の「柔軟さ」がありこれが曖昧さを生んでいるようだ。

また、以前の繰り返しになるが学校側の管理責任を教育委員会が隠蔽するなどということは法律上は想定されていないので、教育委員の人選は極めて大切だ。横浜市民は「150万円のおごり」がいじめに該当すると思うのであれば、林市長には投票してはいけないと思う。人事と予算は市長の大切な仕事なのだからこれをお座なりにするような市長は不適格だからだ。

一方で、保護者の中には、いじめがあったということを学校にはわかって欲しいが世間的には騒いでほしくない(学校を変わっても特定されることがあり得る)と考える当事者もいるということだ。結局「自殺の意味づけ」の問題になってしまうのだが、自殺だと認定されたとしても、児童生徒が戻ってくるわけではない。しかも、学校がそれを認めてしまうと「管理責任」という文脈が生まれてしまうということになる。大人が右往左往しているうちに隙間が生まれて、次から次へと同じような問題が生じることになる。

もちろん、「みんな仲良く」が前提になっている学校教育の場に「被害者・加害者」という概念を持ち込むのは辛いことだろう。しかし、いじめで自殺を選ぶ子供がいることも事実だ。1月末には松戸市で中学生が自殺したが、市教育委員会はいじめを否定している。須賀川では数日前にいじめ自殺があり、市教育委員会が深々と頭を下げたのだが、子供が生き返るわけでもない。去年の11月になくなった生徒に親に加害生徒が謝罪したという報道もあった。

最後にこの話題はすっかり騒ぎが落ち着いてしまった。他罰的な感情で興味を持っている人が多いことがわかる。つまり騒げるならなんでもいいと考えている人も多いのだろう。

市教育委員会の回答内容は下記の通り。リンク太字はこちら側で加えた。なお途中当該児童生徒という言葉が出てくるがこれは「被害者」を指すそうである。

1)本市のいじめに関しての第三者的相談窓口としては、以下の機関等が主なものとなります。いずれも、児童生徒や保護者が直接相談できます。

  1. 24時間子供SOSダイヤル
  2. 千葉市教育相談ダイヤル
  3. 子どもの人権110番
  4. 千葉市児童相談所
  5. 青少年サポートセンター
  6. 千葉市教育センター
  7. 千葉市教育委員会学校教育部指導課
  8. 県警少年センター

なお、いじめによる重大事態における調査依頼窓口は、学校を経由しない場合は千葉市教育委員会学校教育部指導課となります。

2)「千葉市いじめ防止基本方針」で規定されており、いじめによる重大事態が発生した場合、教育委員会は市長に報告することになっています。また、重大事態についての調査が行われた場合、その結果の報告を教育委員会は市長に行うことになっています。さらに、その報告を受けて市長が、必要があると認めた場合は、市長の附属機関である第三者委員会が再調査を行います。

なお、「千葉市いじめ防止基本方針」は千葉市教育委員会指導課のホームページに掲載していますので御参照ください。

3)「千葉市いじめ防止基本方針」に規定されており、教育委員が自ら調査を行うことはありません。重大事態の調査主体は「学校」「教育委員会事務局」「教育委員会の附属機関である第三者委員会」のいずれかとなり、その決定は教育委員会が行います。

4)議事過程は原則非公開となっていますが、調査結果(第三者委員会の答申)は原則公表となります。ただし、調査結果について当該児童生徒や保護者が公表に反対の意思を示したときは、この限りではありません。

また、いじめの認定は、調査結果を基に教育委員会が行うことを原則としています。

5)校長や教諭等の教職員の処分については、千葉市教育委員会が定めている「懲戒処分の指針」に則って行います。なお、処分はどのような非違行為があったか等により判断するものであるため、いじめの認定だけをもって校長・教諭等を処分することはありません。

6)改正後の「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」においては、教育委員及び教育長は、特別職にあたるため処分されることはありません。ただし、同法律の経過措置として、改正法の施行前から継続して在職する教育長については、処分されることは、制度上はありえます。その場合、対象となる事案がどのようなものかによって、処分されるか否か、処分の程度は異なってきます。

教育委員及び教育長の辞任については、制度上は可能です。

 7)教育委員会の附属機関の答申として出される調査結果については、教育委員会及び市長が修正等を行うことはありません。また、学校、教育委員会事務局の調査については、市長の意向とは別に行うものです。

保護者が調査結果に不服がある場合については、「千葉市いじめ防止基本方針」において、「(調査組織による調査結果の) 説明結果を踏まえていじめを受けた児童生徒又はその保護者が希望する場合には、いじめを受けた児童生徒又その保護者等の所見をまとめた文書の提供を受け、調査結果の報告に添えて市長に提出する。」という規定があります。また、2)でお答えしたとおり、教育委員会からの報告を受けて、市長の判断で再調査を行うことがありえます。