いじめられる側にも問題がある

NHKの「あさイチ」という番組でいじめ後遺症の特集をやっていた。いじめられた人がその後うつやフラッシュバックに苦しむというような内容だ。ここで、柳澤秀夫という解説委員の人がちょこまかと意見を言っていたのだが、はっきり言って有害なのでいじめ関連の話のときには外した方がいいと思った。

いじめ被害者は社会常識から祝福されていない

柳澤さんが有害な理由はいくつかある。まず、いじめ被害者が加害者の罪状に判決を下すことを有害だと決めつけていた。いじめられたことがなく、いじめについて真剣に考えたことがないのだろう。次に親が親身になってくれないことを不思議がっていた。これもとても有害な態度だ。共通するのは「社会常識」だ。

よく「いじめられる側にも問題がある」と言われるが、これはその通りだと思う。いじめられる側は「虐待してください」というシグナルを出している場合が多い。「違っている」ことが問題になるのだが、それだけではいじめは起きない。いじめ被害者はターゲットになりやすい。

これは誰かにそう仕込まれているからである。あサイチでは「自尊心のなさ」が大きなテーマになっているのだが、被害者は誰かに自尊心を奪われているのである。奪っているのはたいてい最初に接触した大人だ。すると結論としては「最初のいじめ加害者は親」ということになる。良識があるNHKにはとても受け入れられないだろう。

いい親もいれば悪い親もいる

よく「しつけの為にしかる」という人がいる。確かにそういうこともあるのだろうが、そうでない場合も多い。公共の場で騒いでいる子供をヒステリックに罵倒している親を見かけることがある。「静かにしない」ことに憤っているのだろうが、感情的にがなりたてて周りを不快にしているのは親そのものだ。自分が(所有物である)子供をコントロールできないことにかんしゃくを起こしており、周りが全く見えなくなっているのだ。「愛情」や「愛着」ではなく「支配・被支配」という関係があるのだろうし、客観的な状況判断ができなくなっていることがわかる。

家族という収奪者

人から物を盗むのは犯罪だが、弱いものから感情や自尊心を奪うのは犯罪とはみなされない。その「手口」にはいくつかある。

一つは最初から「奪って当然」と思っているようなタイプである。この人たちは相手の所有物には興味がなく自分のことしか考えていない。だから、奪っていること自体に気がつかない。いつも自分の問題に頭がいっぱいで相手が見えていない。そのくせ奪った相手が異議申し立てをすると「私は正しい」と主張しはじめる。つまりいつも何かと闘っているのだ。個人的にはこういう人を「トランプさん」と名付けている。毎日が選挙キャンペーンなのだが、一体何の為に戦っているのかわからないような人だ。

もう一つ経路は共依存である。自分に価値が感じられず、誰か「お世話をする人」を探している。お世話をする人はつねに自分より弱くてかわいそうでなければならない。ということで子供に「かわいそうで何もできない人」という自己認識を刷り込むのだ。最悪の場合には「トランプさん」に犠牲車を差し出すことも厭わない。さもなければ自分が闘争の相手になってしまうからだ。親が共依存の相手を探しているなどありえないことのように思えるが「母が重い娘」というのは珍しくなくない。

言語化できない苛立ちを弱いものにぶつける人もいる。いつもは普通に話しているがなんらかのスィッチが入り、子供のおもちゃを力任せに破壊したりテレビを壊したりする。しかしいじめらられる方は思い当たる節はないのでいつもビクビクと怯えていることになる。この怯えは対人恐怖となり学校でもなんとなく挙動不審になったりする。それがまた新しいいじめを生むのだ。

まずは第三者の存在が重要

個人的に幸いだったのは、いじめられていた時に先生が「いじめられる側にも問題がある」とはっきり言ってくれたことだった。先生の中にはシスターが大勢いたのでサラリーマン化した公立学校の先生よりも人生の苦難を多く見てきているのだ。ノン・クリスチャンの担任は成績で子どもを選別するような人が多かったが、クラスの他に課外授業のようなもののがあり「最悪の事態を防ぐ」仕組みがあったのも(後から考えるとだが)よかった。

よく「信じれば不幸はたちどころに消える」とか「災難が降りかかるのは信心が足りないからだ」などといって脅す宗教があるが、本物の宗教はそんなことはしない。それは宗教者たちが普段から理不尽な出来事に接しているからだ。信心があろうがなかろうが苦難は起こりうる。優しくしていればいつかわかってくれる人が現れますよというようにごまかしたりもしない。

こうした個人的な経験から「いじめられる側にもそれなりの理由がある」と思う。知らず知らずの間に犠牲者としての役割を演じているからだ。自分でそれに気がつくのはとても難しいので、第三者の目が欠かせないのだ。コントロールできるのは自分だけなのだから、自分を変えてゆくしかないのだ。

収奪されるものは繰り返し奪われる

被害者としての低い自尊心を根底から覆すのは並大抵のことではない。その時に助けになるのが心理学を勉強した第三者の存在だ。逆に邪魔になるのが柳澤秀夫解説委員に代表される「何も考えたことがないのに社会的な常識」を振りかざす悪意のない大人だ。何も考えたことがないのに当然何かが言えると思い込んでいるからだ。

例えば「親は愛情があって子供を虐待などするはずがない」という建前はサバイバーを大いに苦しめるし、横浜の例で見たように「福島からきた転校生さえ黙っていれば丸く収まる」ようなことは決して珍しくない。社会は「美しい社会常識をいきる美しい私たち」を守る為ならなんでもする。例えば、あの福島の子さえいなければ「良い子がすくすく育つ横浜市」でいられる。これに加担している人は善意で踏みつける。逆に犠牲者は何回も踏みつけられるし、誰も助けてくれない。弁護人は自分しかいないのだ。

柳澤解説委員が驚いていた「加害者に判決を下す」行為は、いじめられることを客観化することが目的なのだろう。つまり、いじめ加害者が問題なのではなく、その受け止めが問題なのだ。

自殺しても構わないけれど

自殺するのは(よく考えた結果なら)構わないとは思うのだが、たいていの場合、加害者は「いじめるなら誰でもよい」と思っているはずだ。つまりいじめる側は大した理由があっていじめているわけではない。そもそも人の物を取っても何も思わないような人なのだろうし、取ったとすら思っていないかもしれない。人の物を取るのは犯罪だが、自尊心を奪うのは「気軽な娯楽」なのだ。

つまり、死んでもたいして意味がないのである。

だからいじめサバイバーは、どうにかしてこれを越えてゆくしかない。残酷なことに奪われた自尊心は戻ってこない(だからこそ重大な犯罪なのだが)のだが、それに変わるなんらかの技術を身につけるか、感情をオフにする術を身に付けるべきだろう。

正直いじめの当事者がこの文章を読んでくれるとは思わないのだが(それどころじゃないだろうから)それでも周りにいる大人は理解できないのなら黙っているべきだ。なんとか生きようとしてる人の邪魔をしてはいけない。

 

JASRAC騒動で思う事

JASRACが音楽教室からお金をとるというのでバッシングを受けている。これを見ていて「音楽業界ってわりといいように思われていたんだなあ」と微笑ましく思った。もともと他人の才能と權利を啜って食べている人たちの集まりだということが完全に忘れられている。

個人的な思い出になるのだが、先輩たちが夜の飲み屋でカラオケマシーンを蹴って回ったという話を聞いた事があった。ネットカラオケが発展する前、カラオケの光ディスクには2つの規格があったのだが、ある規格は振動に弱かったのである。それが壊れれば別の規格が採用される。つまり営業がやりやすくなるのだ。

また別のところではあるアーティストの葬式で築地本願寺の周りに列ができたという話を聞いた。アーティストが偉大だということがいいたいわけではなく、俺が仕切ったから地元の「その筋の方」から文句がこなかったという自慢話なのだ。つまりはその筋の方に対応する人たちが管理職にいたということになる。もともと音楽は興行を仕切らなければならないのだが、興行にはその筋の方が仕切っていたりする。もともと水商売に付随したビジネスであり「カタギ」との仕切りは曖昧だっただろう。

繰り返しになるが「人の権利で食べてゆく」ということはそういうことだということである。そもそもがタレントを搾り取る「興行」なので、きれいごとでは済まないのだ。

その代わりレーベルの權利処理はわりとしっかりしていた。CDは出荷時に「売るもの」と「デモ」に明確に区分される。返品は決してA在庫には戻さないでB在庫と呼ばれて別管理される。なぜこんな面倒なことをしているかというと、原盤印税を支払うためである。返品を元の在庫にもどしてしまうとそれだけ印税が減ってしまうのでアーティストに不利だ。かつてはこれを手計算していたようだが、オフィス用の小型汎用機が入って自前のシステム構築ができるようになった。多分、音楽教室の教本も楽譜の時点ではしっかりと計算されているのではないだろうか。

しかし、演奏の世界はわりといい加減なように思える。テレビでは、二次使用も口頭で(つまり書面を交わさずに)やるような慣行があるようだし、印税も一括で契約して「使っても使わなくても年間いくら」で包括的に契約することがあるようである。

「JASRAC管理楽曲でないと放送してやらない」というような話をたまに聞く。これがJASRAC以外の管理団体が成立しない理由だと思うのだが、テレビ局側は「使ってやっている」といういう意識がありこれを改めようとしない。管理団体ごとに詳細に印税を払うとなると放送の中で使われた楽曲をすべて抜き出してデータベースを作った上で放送件数を数える必要がある。事務処理が煩雑なので「それはやりたくない」のだろう。

放送の優遇があるおかげでJASRACは未だに大きな顔をしており「アーティストの權利を守ってやっている」といいつつ無茶をやるわけである。音楽教室も一括で契約すれば少ない事務処理で印税計算できるという目論見があるのではないかと思う。多分「演奏ごとにいくら払え」というような話にはしないのではないだろうか。しかし、だったら教本を作る時点で計算して払いきりにすればいい話ではないだろうか。

JASRACが批判されるのは「權利者に食べさせてもらっている分際」なのに大きな顔をしており、なおかつ事務処理が雑というかおざなりだからだろう。宇多田ヒカルのように「学校では無料で使って欲しい」というようなアーティストは「営利であっても使用を許諾する」という契約を結べばこれまでどおりで済む話なのだが、JASRACは個別計算による支払いを嫌がるのではないだろうか。今でも「営利目的で音楽を使う人は自分で調べて申告してこい」と殿様気分なのだから。また、音楽教室も印税支払のためのシステムを組むのに多額のお金がかかると考えるだろう。

音楽教室とJASRACの騒動は当事者同士が納得いく話し合い(ないしは法廷闘争)すればいいと思うのだが、音楽が「カタギ化」することには懸念もある。もともと面では救いきれない感情を慰撫するような役割があった。社会的に認知されない労働者が疲れて酒を煽るときに慰めてくれるのが演歌などの歌舞音曲だったという側面があるわけで、それがTwitterでの罵り合いに変わっていっているのである。やり場のない気持ちを収める場所が減りつつあるのではないだろうか。

Twitter バカの向こう側

NHKの「週刊ニュース深読み」を途中から見てちょっと暗い気持ちになった。東日本大震災の原発避難者がいじめられているというニュースに「いじめる側も放射能について漠然とした不安を持っている」という背景があるというのだ。知らないことが漠然とした不安を呼び、結果的に一番弱い子供に向かっていることになる。

嘘が飛び交っている

曖昧な情報が漠然とした不安を生んでいる。原子力発電所は国策で推進された歴史があり、自己保身のために様々な情報が錯綜することになった。さらにこれに是が非でも対抗したい人たちがいて不安を煽っている。

だが私たちは東日本大震災からなにも学ばなかった。豊洲の問題でも様々な思惑から様々な言説が飛び交った。中には豊洲移転を正当化するために築地の安全性を毀損する人たちが現れた。結果的に東京の魚そのものの信頼が揺らぐことに気がつかないのだろう。自分が正しいことさえ証明できれば、東京の魚なんてどうなってもいいという人ばかりなのかもしれない。

こうした状況で「正しい情報」を選択するのは難しい。さらに第一次情報がそもそも汚染されているということもわかってきた。「フェイクニュース」とか「オルトファクト」とか「ポストトゥルース」などという言葉が流行している。トランプ大統領が偽情報の発信源になり、日経新聞は政府関係者の「観測」を事実として流す。安倍首相は現実を捻じ曲げて建前を言い張っている。これらは「引用」が間違っているわけではない。「真実を隠蔽している」という見方はできるが、彼らが真実が何かをわかっているという保証もない。

私たちがやらなければならないこと

こんな中で私たちができることは何なのだろうか。最近の事例で考えてみたい。最近ネットではGPIFがトランプ大統領への貢物になるかもしれないというような言説が飛び交っている。このニュースを知るためにはかなり複雑な知識が必要になる。

建前上は独立しているので安倍首相が年金機構に指示をすることはない。かといって年金機構が忖度しないとは限らない。もともとは援助だったのだが、最近では国内外で「投資と援助」を使い分けている。援助の枠組みが使われるのは、多分国会の監視が必要ないからだろう。これを糊塗するのに安倍首相がよく使うのがwin  winだ。さらにアメリカが「投資」を受け入れてくれるかもポイントだ。基軸通貨国なのでファイナンスしなくてもいいのである。プライベートセクターの投資が歓迎されるのは政府の債務にならないからなのだろう。

結局この複雑な体系のバランスを見て、野党をうまく使いながら主権者として判断することが求められているのだ。

だが、そもそ何が不安なのかすらよくわかっていない

問題を解析するのは一大事だが、そもそも何が心配なのかということを言葉にすることすらできていないのではないかと思う。事実とされていることを習う訓練はしたが、自分が考えていることを表現する手段は学んでこなかった。

ブログを始めた頃には「意見があるならコメントに書いてくれればいいのに……」と思っていたのだが、最近それは日本人にとってとてつもなく難しいことなんだなあということを実感している。

最近、Twitterでメンション付きの引用RTをもらった。何か言いたいことがあるのかもしれないが、なにが言いたいのかわからない。「豊洲問題で合理的に事実が扱えない」という記事についてのコメントらしい。

最近は「そもそも計測するからイケナイ」という人もいるから驚き。安全に気を使うのは当たり前で、そもそも論なんてアリエナイ

そもそも計測するからだめとは言っていないのだが「そんなこと言っていない。よく読め」というコメントもだせない。ケンカになってしまうだろう。安全に気を使うのは当たり前というのは同意するが「そもそも論なんてありえない」というのは意味がわからない。意味がわかれば対処の仕方もあるのかもしれないが、意味がわからないとどうすることもできない。

考えてみると、感情を言葉にすることも難しい。「なにかを呟かざるをえなかった」ということは心理的な不調和を抱えていたということなのだと思うのだが、言語化しない限りそれは単なる怒りとしてしか知覚されないのではないか。それを140文字にまるめて「それが批判なのか賛同なのか」を示しつつ「批判の場合はなぜ批判しているのか」を書くことはとてつもなくハードルが高い。

どうして豊洲や安保法制の問題が議論(例え単なる罵倒合戦だったとしても)として成り立つのは、ある程度利害関係が明確で文脈が存在するからなのだろう。文脈がないとそもそも言語化すら成り立たないほど、知的な砂漠化が進んでいいるのかもしれない。

Twitterはバカ発見器という言葉の裏にあるもの

批判は特に「相手にわからせる技術」が必要になる。そもそも自分の感情を言語化する技術もない状態で異なる意見がぶつかるとしたら、これはもう「相手をバカ」と思わないとやってゆけないということになる。この状態で情報に被爆しても、情報は毒にしかならない。

意思決定できないのは情報が足りないからだと思われていた。しかし情報が増えてもそれに対処しない限り意思決定をする必要があり、そのためにはまず自分の中にある感情を言語化する必要がある。相手にそれを話すかどうかはそれ以降の問題だ。だが、これがとてつもなく大変なのである。

 

共謀罪をめぐる混乱

どうもよく分からない。国会中継で金田法務大臣がぐだぐだな答弁を繰り返している。金田さんはテロ等準備罪(共謀罪)を成立させたいらしいのだが、どうして共謀罪を整備しなければならないのか、共謀罪がないとなぜ困るのか、誰が対象になるのかがすべて不透明なのだ。答弁席の後ろに法務官僚が陣取っており、その場で「お勉強する」という体たらくだ。答弁は二転三転している。具体的な事例も挙げられないし、何が対象なのかもわからないので審議しようがない。

これを見て「まだ法案が準備できていないのに自民党の失点稼ぎを狙っているんだな」と思ったのだが、どうもそうではないようだ。そもそもは1月6日に「今年は共謀罪をやりますよ」と菅官房長官が言ったらしいいのだ。

だがこれも実は見出しマジックである。実際の記事をよく読むと「テロ等準備罪」を作る下準備になる法律を提出すると言っているだけだ。共同通信社がこれに「共謀罪「一般人は対象外」」という見出しをつけている。

共謀罪は「犯罪を準備しただけで処罰される」というものなのだが、犯罪の事実がなくても政府が一般人を拘束できるようになるので政治弾圧に利用される可能性がある。実際に日本は治安維持法が拡大解釈されてきた苦い歴史があるから、政府がいくら「一般人は対象外」と言っても誰も信じない。

これを「テロ」に置き換えたとしても無理がある。欧米の事例でもわかるようにテロに参加するのは外国から来た悪辣な人たちではなく「一般の市民」なのだし、裏をかいてやるのがテロなので「この犯罪だけ」ということを限定することもできない。

警察は共産党系の市民運動を監視している。政府がそれを望んでいるのかもハッキリしない。日本の意思決定は「空気の読み合い」なので責任が明確ではない。一部では暴力団が減っており警察が予算を縮小されないように「テロ監視を売り込んだ」という話がまことしやかに語られてる。実際には、「戦争法」デモが起きた時に「SEALDsデモは公安監視対象だからまともな就職ができなくなりますよ」という恫喝が行われた。こうした政治運動は政府を転覆するために行われているのだから(ただし民主的にだが……)これをテロだということは可能だし、時の権力者がこれを利用しないということはにわかには信頼できない。

さらに自民党は憲法草案で集会の自由を一部制限しようとしている。こちらは「公の秩序」というさらに曖昧な概念が用いられており、与党が勝手にカウンターを抑圧できるようになっている。

つまり状況を整理するとこうなる。

そもそも政府が信頼できないので共謀罪をきちんと運用してくれるかわからない。にもかかわらず政府は「雰囲気作り」を醸成しようとした。しかし通信社が「政府がやると言ったらもう通るのだろう」という見込みのもとに見出しを立てる。それがTwitter経由で拡散しコラムに書かれ野党が反対する。しかし、実際には法案はまだできていない。

実際には法案ができていないどころか「どれをテロ等準備罪」に含めるかということについて自民党と公明党で駆け引きしている最中だ。公明党は都議選を控えており「どの程度自民党にお付き合いするか」を思いあぐねている。自民党が右傾化しているので公明党の「平和の党」というイメージが毀損されているからだ。ある種の取引の最中だから、法務大臣も明確な答弁ができないのだろう。

ハッキリした混乱の原因が一つだけあるわけではなく、いつかの要素が絡まって「グダグタ答弁」になったようである。

 

流行と売れ筋は違う

「安倍首相の支持率が高いのはおかしい」という人がいる。トランプが大統領になれるはずはないという人も多かった。しかし、実際には安倍首相の支持率は高く、トランプは大統領になった。これは「アンケート」や「マーケティングリサーチ」がいかにあてにならないかの事例になっている。これを構造的に解説するのは難しいのだが「何が何だか分からない」というわけではないので、全く異なる事例からいろいろ観察して行きたい。

ファッションには流行がある。色々な人が色々なことを言っている。

WEAR

ここのところWEARというファッションSNSに投稿を続けている。なぜか「だらしない格好」を投稿すると評判が良い。最初はからかわれていると思ったのだが、どうやら「ゆる」ブームが来ているようだ。具体的にはワイドパンツやライズの高いジーンズなどが「来ている」ようだ。これはMen’s NON-NOなどがユルブームを牽引しているからだ。面白いことにMen’s NON-NOはしばらく前からこれを押しているのだが火がつくまでに数年かかった。雑誌が単独で押しているわけではなくドメスティック系のファッションコミュニティの意向があるのだろう。

ところが実際に閲覧されているのはウルトラライトダウンなのだ。つまり、ファッションコミュニティで評判がいい服と、実際に見られている(つまり購買の候補になっている)服は全く異なっているということがわかる。

Men’s NON-NOは売れていない

本屋に行ってきた。今一番売れている男性向け雑誌はSAFARIでMen’s NON-NO次ぐらいに来るのではないだろうか。確かにSAFARIは平積みされているのだが、Men’s NON-NOは1冊置かれているだけという店がある。代わりに置かれているのが、地方の若者(周回遅れで流行が来る)向けの雑誌だ。BITTERなどが置かれている。この一昔前の世代にはMen’s Eggを読んでいたのではないだろうか。

日本の男性服の流行には二軸ある。ファッション知能指数(そんなものがあるのかどうかはわからないが)高めの人たちとそうでない人たちの流行だ。そうでない人たちが「キレイめ」にキャッチアップしたころにはファッション上級者は飽きているのである。そして、ファッション上級者は今「古着」を見ている。過去の流行がアーカイブされていることがあるからだ。だが、これも都市の流行なのではないかと思う。

実際に街に出てみた

実際に街でどの程度「ゆる」服が流行っているのかを見てみた。面白いことに日曜日のお父さんが来そうなロードサイドのモールでは「ユニクロ系」の服を小綺麗に着ている人が多い。子供連れなので変な格好はできないだろうし、子供は走り回るから動きやすい方がいいに決まっている。

街(一応県庁所在地だ)の駅前を流してみたのだが大学生が一番よく着ているのはトレーニングウェアの下(つまりスエットパンツみたいなやつ)のようだった。実際にはちょうどよいサイズのジーンズをきっちり着ているだけでオシャレに見える。「普通の大学生っぽい服」が多い。「ゆる服」なんか誰もいないじゃないかと思ったその時にガウチョパンツみたいなものを着ている男性をみつけた。東京に遊びに行くのかもしれないなあと思った。まあ、100人に一人といったところだ。そういう配合なのだ。

ファッションの御大はなんと言っているか

小島健輔というコンサルタント(アパログに連載を持っているので御大なのだろう)は次のように言っている。

‘ノームコア’が終わってデザインと装飾、ボディフィットが復活するのに加え、キレイ目シフトで製品洗いなど汚め加工が疎まれると予測される。

実際に若者向けのファッションコミュニティとは真逆なことを言っている。ノームコアをゆるい着こなしと言っているのだが、かなり文脈がずれてしまっている。いっけん普通に見えるので「だらしなくファッショナブルではない」と思っているのだろう。これがファッションコンサルタントの予想なのだが「文脈は俺が作る」という意識もあるのかもしれない。立ち位置としては読売新聞の記者みたいなものだ。ノームコアはシンプルさが持ち味なのだが、この人にとっては「単にゆるくて汚い格好」に過ぎなかったのだろう。洋服はかくあるべきという持論があるのだと思われる。

こういう人が売り場を作るので若者は古着に傾倒してしまうのだろうが「現場をよく知っている」という矜持があり、ファッションコミュニティとの差異には気がつかないのではないだろうか。

中堅どころはこういう

南充浩という中堅どころのファッションジャーナリスト(なかなか味のある文章を書く人だ)は中年はビックシルエットを避けるべきと主張する。似合わないからなのだそうだ。しかし実際にファッションコミュニティに受け入れられようとすると、ビックシルエットになる。最初は「あれ、これ変だな」と思うのだが、そういう流行になっている。ここでいう流行とは逸脱が許容される狭い窓なので、つまりおじさんが「変だなあ」と思っていてもそれが変でなくなってしまう。中年だけが似合わないわけではなさそうで、つまり変な格好が流行っているのである。

南さんが若い頃どんな格好をしていたのかはわからないので、本当は変な格好をしていてある日まともになったのか、最初からそういう流行とは無縁だったのかはわからない。

まとめるとこうなる

これを無理矢理にまとめるとこうなる。

  • 表:最先端は誰からも理解されないが存在する。多分最初は業界だけの流行だろう。これがブームになることもあるがコミュニティができるまでには数年時間がかかる上に限定的である。
  • 裏:これを追随しているコミュニティがある。この人たちが食いつくころには最先端の人たちは離反している。
  • 中核:業界を動かしている人とたちはこの動きにはついて行けないし、自分たちの方が宇宙の中心だと信じている。彼らにはトレンドは単に奇異に見える。
  • 普通:マジョリティは業界の動きにも、権威の動きにも興味はなく、別の動機で動いている。

これは政治問題にも応用できる。ここから考察を重ねても良いのだが長くなりそうなので止めておく。政治にも「表と裏」があるのだが、一番の違いは裏が表を叩いているということだ。これは「社会のコンセンサス」が影響しているのではないかと思う。ファッションは好き勝手な格好をしていればいいのだが、社会は「正解」を求めることがある。つまり、ワイドパンツとキレイめのどちらかを選べということだ。そこで闘争が起きてしまうのではないだろうか。

Twitterは街に一つしかないユニクロでMen’s Eggの客がMen’s NON-NOの客を罵倒しているみたいなところだということになる。