金持ちほどSNSを使うという事実

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グラフ下の数字が間違っている。実際には-75(年収75,000ドル以上)と30-(年収30,000ドル以下)だ。右の方が所得が低い。

昨日、Twitter経由でリクエストをもらったので調べ物をした。「見栄を張るのに画像系SNSを使う」というのが確かなら、画像系SNSをは所得の関係はどうなっているのかという疑問だった。調査結果はこちら

実際にはSNSによってばらつきがあった。所得が高いほどSNSを使う率が高いというのは確かだが、その傾向はバラバラだった。例えばインスタグラムは所得が低い人の方が多く使っているという傾向があるのだそうだ。

ここから言えそうなのは弱い紐帯を持っている人ほど収入が高そうだということだ。弱い紐帯というのは聞きなれない言葉だが、もともと「転職―ネットワークとキャリアの研究 (MINERVA社会学叢書)」という研究に出てくる用語だ。転職に成功した人はあまり強くないつながりを多数持っているということがわかったという内容である。

この傾向は現在でも生きているらしい。つまり、経済的に成功する人は、単に弱いつながりを多数持っているだけではなく、それを絶えずメンテナンスしているということになる。ここでいうSNSというのは、単に政治的な発言を一方的に主張し合う「破綻したカラオケ」や「セレブを一方的にフォローする」というものではなく「承認し承認される」という相互的なつながりである。

実際に高い階層にあればあるほど「パブリシティ」を意識して暮らしているのではないだろうか。パブリシティというと広告費を支払わない広告というような印象があるが、実際には自己のブランド化である。例えばヘルス企業であれば「人々の健康増進に貢献する」という印象を与えるために努力するのがパブリシティだ。高い階層の人は自分が承認されるためには他人も承認すべきだということを理解しているから、ネットワークは「破綻したカラオケ」にはならない。自己のブランド化というといやらしい響きがあるが、実際にはコミュニティの中でどう自分を位置付けるかという作業だ。

日本ではLINEとFacebookの間に違いが見られる。LINEは閉じたネットワークであり承認をめぐる争いが起こりやすい。無視されたから排除したなどというような「LINEいじめ」が頻繁に起こる。これはLINE参加者の社会的な地位が低く、閉じることによってしか環境をコントロールできないからだ。

一方、Facebookは外資系企業に勤めていた人たちや留学生を通じて広まったために「Facebookいじめ」のようなことは起こらなかった。Facebook参加者は「コミュニティに影響力を与える」ためにはどうすればいいのかを知っているのだ。つまりリテラシが高いのである。このためリテラシの低い人が間違って参加して起こる「Facebook疲れ」が起きている。身の丈に合わない生活を維持しなければならず疲れてしまうのだろう。

ただし、世界的に見ると(冒頭のグラフ)Facebookは所得が高いほど多く使われているということはないらしい。

さて、ここまで見てくると「よりよい暮らしをしたいならミューチュアルな関係性構築の方法を身に付けよ」という結論が出せる。これは最近荒れてきたといわれるTwitterでも見られる。一方的に他人を罵倒するようなつぶやきもあるし、コントリビューション(そもそもコントリビューションということすら理解できない人もいるだろう)なしにRTする人もいる。が、情報の交換を心がけている人もいて、一概に荒れているとはいえない。情報交換はコミュニティに対する貢献で、そのコミュニティは「通りすがり」程度の弱いものかもしれないのである。

唯一心配なのが欧米で起こっている動きである。成功した人の中にはより多くのサイコパスが含まれているという研究が幾つか出ているらしい。こうした人たちにとってはSNSはよい狩り場のように映るだろう。他人が自分の生活や価値観を晒しているので、利用できるからだ。逆に共感が必要な仕事は収入が低く抑えられるという傾向もある。つまり、コミュニティへの共感がいつも収入に結びつくとはいえないのだ。

 

 

ソーシャルメディアと収入の関係

面白い感想を見つけたので軽くまとめてみた。

まず、所得階層とソーシャルメディアの利用率を比べたレポートを見てみる。複数の調査を集めているので母数が調査によって異なるそうだ。

  • 学歴が低いほどソーシャルメディア利用率が下がる。
  • 収入が上がるほどSNSを使う。
  • 都市にいる人の方がSNSを使う。

お金持ちほどソーシャルメディアの利用率が高い理由は幾つか考えられる。いわゆる「弱い結びつき」が多いほど「顔が広く」なり、収入が増えるのではないかというものだ。多様性が収入と結びついているということである。プロフェッショナルほど人脈を作りたがるのだから、Linkedinなどはこうした傾向が強いかもしれない。

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グラフ下の数字が間違っている。実際には-75(年収75,000ドル以上)と30-(年収30,000ドル以下)だ。右の方が所得が低い。

Facebookももともと大学のネットワークからスタートしているので、ネットワークに偏りがあることが予想されるのだが、2015年の別の調査では違った結論が出た。収入が低い人はFacebookをよく使っているらしい。この調査は世界各国のユーザーをまとめたもののようだ。

インスタグラムについてはこれほどまとまった調査はない。たまたま見つけたものでは全く異なる結果が出た。収入の高さとは逆相関があるという。つまり貧しい人ほどインスタグラムを使っていることになる。これは2015年の調査結果とは異なる。インスタグラムを画像系と定義するなら、顕示性と画像系SNSには相関は見られないという結論が得られそうだ。むしろセレブ達の生活に憧れた人たちがインスタでセレブをフォローしているのかもしれないが、調査結果ごとにやや違った結果が出ているの詳しいことはわからない。インスタグラムは大学生レベルが使っている率が高いという結論も出ている。

日本の場合には労働環境が異なるので人脈作りが収入に結びつくかどうかはわからない。ただ、日このような記事が見つかった。やや古い記事なので外資系のサラリーマンなどを中心にFacebookが浸透したという経緯も考慮に入れるべきなのかもしれない。世界調査とは異なっていたことになる。

同じ画像系でもPinterestは収入が高い人ほどよく使われていることがわかる。ただ漫然と画像を集めただけでは面白くないサービスだし、クリエイティブな人ほど使い勝手が良さそうなサービスだ。Linkedinを合わせて考えると、目的を持ってSNSを使っている人ほど収入が高いのではないかという仮説が得られる。この延長として自己演出の一貫と捉えればよいのかもしれない。

ファッションでも「自分が着たい服」と「人からの視線を意識した服」は違っているはずで、こうした質はSNSの利用率だけでは測ることはできない。さらに「見る専門」の人と「情報発信する人」は異なっているはずだ。こうしたことは調査からはわからないので、有料のレポートを買うか、実感を足して推し量る必要があるのだろう。

今回は30分ほどGoogle検索しただけなので、全体像を掴むことはできない。もし、何かご存知の人がいれば何らかの手段でお知らせいただきたい。

 

Grammarly – 英語の宿題が楽になる?

ぼーっとYouTubeを見ていたらいきなり英語のコマーシャルが流れてきた。ちょっと見ていて「これはすごいぞ」と思った。Grammarlyというサービスで、単語の間違いや文法のエラーをチェックしてくれるのだ。

試しに一文書いてみた。英語は苦手な理由は2つある。冠詞が苦手でボキャブラリが貧弱なのだ。英語に文句を言っても仕方がないのだが、英語の冠詞には明確なルールがない。試しに書いた文章では、solutionは a solutionでなければならないのだという。

試しにThis has been a question for a long time. という文章を書いた。これをisに直しても文法が間違っているとは言われない。wasも大丈夫だった。時制もよくわからなくなる。だが本当にすごいのはここからで、isをダブルクリックすると言い換えを準備してくれる。アカデミック英語では必要ないのだが、クリエイティブライティングになるとボキャブラリが豊富だとポイントが高いとされる。この場合はremainなどが良いそうである。文脈も見ているんだなあと思った。疑問だったという代わりに、疑問として残っていると言えというのだ。

YouTubeのコマーシャルでは、履歴書の文法をチェックしたり、ボスにメールを送る前にチェックしてみようという提案になっている。つまり英語圏でも文法の間違いに悩んでいる人は大勢いるということになる。

だが、日本で英語を使う人は少ないので、学生の間で広まるんじゃないかと思う。英語の宿題やレポートをチェックすればボキャブラリが豊富で文法的な間違いがない文章が(本人がわかっているかどうかはともかく)書けてしまう。いわば機械を使ったカンニングだ。英語の先生が間違いを指摘されるようなことっもありそうだ。

GrammarlyはWebブラウザーでWebサービスとして使えるが、Chromeのプラグインとしても動作する。テキスト欄の英語もチェックしてくれるようである。アプリケーションもあるが手元の環境では動かなかった。

 

問題がおきたらマメに通報しておこう

日々の暮らしの潤いの一環としてTwitteで国政について愚痴るのも楽しいのだが、それにも飽きたら次は地域の問題に関心を持ってみましょうという話をしたい。

先日、公園を歩いていると、チェーンソーで草刈をしている人に出くわした。手に小石が当たったのだが、担当者は作業を止めるつもりはないらしい。そこで、担当者の会社名を聞きだしたうえで責任者に話を聞いた。

本来は安全義務があるのだが、作業者にそのことを伝えておらず、監督者も置いていなかった。なぜ、そうなるのかを聞いたところ「予算がないから監督者を置けない」という。

そこで市の担当者を聞き出してメールを送った。最近ではホームページにメールアドレスがある。すると「私は担当じゃない」との返事が返ってきた。市役所の関心事は市民の安全にはなく、誰の担当かとういうことだ。役所はバツが付くことを恐れるのである。

一週間ほどしてメールが来た。もともと業者は事業計画書の提出が求められている。事業計画書には安全管理者を置いて、従業員にも安全教育をすると書かれているのだという。

ただし、市としては事業計画を検証することはない。表向きは「対応をしている」としているのだが、実際には放置しているのである。つまり、事業計画とは建前を書いたものなのだということが分かる。予算が足りないということはないとも書き添えてあった。

面白いのは、こうした構造は草刈のような小さな公共事業から国立競技場の建設のような大きな問題にも共通だという点だろう。つまり、誰も関心を持たないことを前提に安い見積もりが立てられるのだが、国民の関心が集まると「ではもっと予算をくれ」ということになってしまうのである。最初から実施するつもりがないことを書いておいて、実際にやれということになってはじめて「その予算は組み込まれていませんでした」という話になるのだ。

市役所からの回答には「今後は気をつけます」と書いてあったのだが、これは過去に起きたことについては何もしませんという役所用語である。

ポイントになるのは「文書による回答を得た」ということだ。こうしたヒヤリの裏には同種の事故が隠れている。それが深刻になると表出し「炎上」が起きる。炎上が起きるほどの事故が起きたときには誰かの命が失われるということを意味する。すると事業者側は「想定外」だというはずだ。

だが、こうした文書が残っていれば「想定外」ではなかったということが分かる。結局、役所というのは監視がないと堕落してしまう運命にある。役所が堕落するのは成果を挙げることを求められていないからである。

よく「なぜいちいちなんでもTwitterで炎上するのか」という疑問を目にするが。基本的に日本の行政や企業は炎上を起こす運命にある。安全対策をとらず、自浄作用も働かないので、大騒ぎになって初めて問題化するからである。

ただし、いくつかのコツもありそうだ。第一のコツは消してパーソナルに取らないことである。小石が当たってムカッとしたのだが、多分担当者と言い争いをしても問題は解決しないだろう。背景にありそうな問題に当たる必要がある。

次のコツは「建前」を見つけることだ。この場合は、「市民の安心安全」というのが建前になる。法律は建前ベースで作られており、担当者がアサインされている。だから、建前をベースに責任者を見つけ出すべきなのである。

建前にならないことは「意見が分かれる」ということで政治家マターになってしまう。また地域間競争(どこの小学校を耐震化するかなどといった問題がある)なども政治家マターだ。こうした問題について興味があるのなら最寄の市議会議員に伝を付けるしかない。市議会議員に個人で当たるのは得策ではない。彼らは票のとりまとめをしてくれる人たちを期待している。多分、予算の使い方というような問題も政治家マターだろう。情報は公開されているが専門家でないと読み込めないからだ。

最後のコツは解決を求めないことだろう。どうしても「お前のためを思って言ってやっている」という気分になりがちなのだが(実際に僕はそう思った)こうした正義感が満たされることはない。解決を求めないのだから、忙しいのにわざわざ時間を潰す必要はない。できる範囲でやればいいのだ。

何回かやり取りをすると「役所ってこんなもんだなあ」と思える。まあ、Twitterで国政に対する愚痴を言うときにも新しい洞察が得られるかもしれないくらいの気持ちで取り組めば少しくらいはすみやすい世の中になるかもしれない。

かつてはたらい回しにされると、役所で何時間も待たなければならなかった。今ではメールでやり取りができるので、たらい回しもそれほど苦痛にならない。

ASKA報道は単なるいじめです

先日来ASKA容疑者が再び覚せい剤を使ったということで大騒ぎになっている。とても不思議な気持ちで見ていた。

全体の論調としては「再び使うのはバカだ」ということになっているようである。

しかし、覚せい剤をめぐる制度には問題がありそうだ。初犯は執行猶予がつくらしいのだが、実質的にはそのまま野放しになってしまう。そして覚せい剤を使うと自力で止めることはおろか、自分が中毒になっていることを認めらることすらできないらしい報道されているブログなどを読むと、そもそも現状認識ができなくなっているらしく「自分で正しい判断ができなかった」可能性が高い。

だから問題を解決するためには、法的に拘束した上で収容施設を作って治療するしかない。そのためには刑務所ではない施設が必要になる。

それではなぜASKA容疑者はそのまま実質的に放免されてしまったのか。それは国が対策費用を削減したいからだろう。刑務所に送り込めば、刑務所を新たに建設する必要がある。社会で監視する人も足りないようだ。ASKA容疑者には家族がいたので「家族に面倒を押し付けた」のだ。つまり、これは認知症の家族介護と同じ状態なのである。

これを「極論だ」という人はいるだろう。だが、認知症と言っても本人に意識が全くなくなるわけではない。中には車の運転ができる人(ただし家には帰れない)もいるし、PCデポに出かけて行って契約を結ぶことができる人もいる。この対処を専門性のない家族に丸投げしているのが現在の制度である。

となるとこの問題には「国と家族の関係」という根本問題がある。自民党の憲法草案にある「家族の相互扶助義務」の憲法条文化だ。だから「安倍がなんかやると(どうでもよい)芸能人の覚せい剤報道が増える」などと被害妄想丸出しのツイートをしている場合ではないのだ。

もちろん認知症の介護と覚せい剤患者は異なる。だから認知症の人を刑務所のような施設に入れろと言っているわけではない。認知症の場合は環境を変えてしまうと症状が悪化する場合があるはずなので、家で見守りが必要になるだろう。つまり、集中的に「管理可能」な覚せい剤使用者以上に高額の費用がかかることになる。

確かに「覚せい剤使用者の面倒は社会でしっかりみるべきだ」などというと、自分の責任で薬に手を出したのに、なぜ俺の税金が使われなければならないのかなどという人がいるかもしれない。確かに論としてはあり得る。で、あれば「他人の問題」なのだから、ほっておけばいい。あなたには関係のないことだ。

確かに覚せい剤患者は事故責任かもしれないのだが、家族はどうなのだろうか。彼らは専門知識も法的拘束力もなく、専門家に相談すれば家族を刑務所に追いやることになる状態で一体何ができたのか。

にもかかわらず、社会的な問題を絡めてこの問題が語られるのだろうか。そもそも他人の転落を見るのは楽しいが、それではあけすけすぎるので、ニュースのような体裁をとっているのだろう。

遠巻きに誰かが苦しんでいるのを冷ややかにみて何もしないのはいじめにすぎない。つまり、あの一連の報道はニュースのような体裁の、家族に対するいじめなのだ。