福島菌は「美しい日本」の伝統

福島からの避難者が「福島菌」と呼ばれていたというニュースをテレビで見た。これをいじめと捉えて登校しなくなった子もいるという。関連するニュースを検索して読んだところ、ちょっとした違和感を感じた。全ての関係者が「いじめはいけないこと」と言っているのだが、当事者の発言は一切ない。あたかも「いけないこと」と騒ぎ立てることで問題を隠蔽しようとしているかのように見える。つまり、日本人は何かを考えないために騒いでいるのだ。

生徒たちが福島から転校してきた子を「菌」扱いする理由は明白だ。親がそう言っているのだろう。福島県への偏見の根強さがわかる。同時に、いじめがいけないと考えているわけではなく、それを表面化させることがいけないと考えていることになる。

そもそも「菌」とは何だろうか。菌にはいくつかの属性がある。

  • 菌は目に見えない。
  • 菌に触れたり近づいたりすると伝染する。
  • つまり、保菌者に近づかなければ安全である。

菌は「穢れ」を科学的に言い換えたものであると考えられる。つまり、かなり古くからある伝統とだ。最近では、つるの剛士さんのようになんでも長ければ美しいと考える保守の人たちがいるので、彼らのいい方に習えば「美しい日本」の伝統ということになるだろう。

さて、なぜ穢れという概念が生まれたのか。それは病気などの災厄があった時、それがなぜ起きているかがわからないからだ。わからないがよくないものを「穢れ」と括って現実世界から切り離してしまう。すると残りの人たちは安心だということになるわけである。

そもそも非科学的なものを科学用語に置き換えているだけなので「放射能は移らない」などと反論してみても(実際にそのように書かれたエッセイをいくつか見つけた)何の意味もない。

放射能(そもそもこの言葉も科学的に間違っているのだが)を穢れ扱いしないためには正確な情報が必要だったのだが、最近考察しているように日本人は言語を客観的には扱えないので、これはほとんど不可能に近い。そこで一般のレベルでは「何だかわからないが厄介なもの」と括って不安を処理し、それを具体的に体現する避難者たちにぶつけていたのだろう。つまり、避難生徒はスケープゴートで、原因になったのは様々な思惑から情報を「料理」した(東京電力を擁護した人たちと逆に必要以上に煽った)人たちである。

この報道でわからないのは、なぜ先生がこれに加担したかという点だ。生徒と背後にいる親の知的レベルは奈良時代の疫病に対する理解とあまり変わりはない。疫病が起こると大仏を作って穢れを沈めたのと同じということだ。それもできなくなると汚れた都を捨てて新しい都に移って行くのが日本人の伝統だった。

だが、先生は科学的知識を持っているはずで、生徒や親を啓蒙する立場にある。考えられることはいくつもある。

「名付ける」ことによって、生徒を支配するという万能感を満たしていたという可能性がある。次の可能性はクラスを維持できておらず、生徒におもねるために生徒の間にある風俗を真似たという可能性だ。さらに先生のパフォーマンスは学級の成績で決まるから人間関係を些末な問題だと考えていたこともあり得る。最後に先生は科学的な態度を持っておらず、単に教科書をコピーするだけのマシーンになっていたという可能性もある。このような先生は聖書を与えられれば、人間が猿から生まれたなどということはありえないと教えるだろう。

「いじめはいけない」のは当たり前のことだし、子供が勉強する機会を奪われたことは人権上の問題であることはいうまでもない。ただ、それだけではこの問題は防ぐことはできない。問題はさらに悪化し「地下化」するだろう。

だらか、先生がなぜ子供を「菌呼ばわりしたのか」ということと生徒の間に蔓延していた福島からの移住者は穢れであるという間違った認識を修正しようとしなかったのか、改めて検証するべきだ。

この問題の奥に見えてくるのは「かわいそうな福島からの転校生」ではない。たかだか電源の問題で不安を感じている社会の方である。そうした不安が解消できなかったので、子供達にぶつけざるをえなかったということになる。

友達でもないのにツイッターで話しかけてはいけないのか

面白いツイートを見つけた。背景はよくわからないが、プロのライターさんで雑誌がバックグラウンドだと思う。知らない人から「ちょっと調べればわかる」ことに関する指摘が来るのが嫌らしい。普段から余白のあるツイートをしているので、それに突っ込んでくる人がいるのだろう。

余白があるということは知的だということなのだが、現在のツイッター事情には合わない。現在のツイッターは自分の主張を叫ぶ人たちばかりになっており、知的な余白を残す余裕はない。昔の雑誌というものに知的な余白があったのかという点はよくわからないのだが、今よりはおおらかだったのかもしれない。

もう一つ感じたのは雑誌とネットの違いだ。雑誌は送り手側と受け手側が分離しているが、ネットはそうではなかった。ゴーファーあたりから使い始めた人は、掲示板の割と平等な仕組みが新鮮に映ったはずだ日本人は文脈依存だがそれほど上下格差が強くないので、ネットの平等な仕組みに居心地の良さを感じた人も多かったのではないかと思える。

個人的には葉巻の掲示板を(HTMLベースで)運営していたのだが、すぐにファンとお店の人が集まるコミュニティができビギナー、ベテラン、業者が交流していた。バーチャルとリアルのつながりもあり、掲示板を作ったということで美味しいワインを飲ませてもらうこともあった。

ネットは「リアル世界で知り合いだから気安く話しかける」などという文化ではなかったが「知らない人だからよそよそしく対応する」という文化でもなかった。

例えば葉巻という趣味はクローゼットの中のスノッブな趣味で、社会的には認知されていない。例えば上席が開示してしまうと「部下に押し付けた」ことになりかねない。ネットは好きな人だけが見ればいいわけで、社会とは違う文脈が選択可能だった。

逆に言えば社会では「好きでなくてもお付き合いしなければならない」ということが多かったのだと言える。

リアルとバーチャルを組み合わせるという文化(つまりはネット広告だ)もアメリカから持ち込まれた。例えばある葉巻会社は原宿にあるお店が新装開店するという案内を送ってきた。しかし、日本人スタッフにはぴんと来なかったようだ。日本人が集めた人たちは「自分たちのつて」で選んだリアルコミュニテイの人たちで、ネットの「見ず知らずの人たち」に訴求するという発想はなかった。ワインと葉巻の会を主催したのも香水などを扱っているマーケティング会社で、これも外資系だった。日本人はリアルのコミュニティから抜け出すことが本質的にできないのである。それだけコンテクストに依存しているということになるだろう。

最終的に日本ではバーチャルとリアルが窮屈に結びついてしまうことになった。最初に窮屈なつながりを目にしたのはあだ名でつながり合うmixiだった。職場の人からほのめかすように誘われたが「なぜと匿名でなければならないのか」意味がわからなかった。この結果、日本には3つのコミュニテイができた。

  • 匿名のままつぶやきに近いことをいい合う掲示板。リアルな空間に影響を及ぼすことを恐れていて防波堤を作っている。
  • リアルのつながりがそのまま持ち込まれたLINEのような空間。
  • 現実世界を反映しつつ正義がぶつかり合う世論。

リアルとバーチャルが強く結びついてしまうのはなぜなのだろうか。これはバーチャルでの関係性によってリアルが侵食される(つまりリアルでも同じ行動を取らなければならなくなる)と感じるからではないかと考えられる。つまり日本人は2つ以上のコミュニティを持てずに全てを同期しなければならないという前提を置いているということになる。例えばプライベートと仕事空間は別という気持ちになりにくいということだ。

さらに、相手に意見をされるということはそれに対する態度を決めなければならないという思いもあるのだろう。個人主義的な文化では「あなたはそう思っているのね、でも私は違うの」で済んでしまうのだが、日本人は「言霊」を置いてコミュニケーションが現実に影響を受けると考えている。

これは言葉だけではなく視線でさえも起こりえる。挨拶をすると目を背ける日本人が多いがこれは視線がその人を侵食すると考えるからだ。アメリカの場合は挨拶か笑顔が返ってくる。これはアメリカ人が礼儀正しいからというよりは、挨拶には防衛の意味もあるからである。視線を送ったからといってそこで関係性ができるということはありえない。

最近ではマンションで子供に挨拶をしないという申し入れがあったことが話題になった。これは日本人が挨拶=世界への侵入だと考えるからだろう。挨拶はたんに敵意のなさ(つまり攻撃しないという意思表明)に過ぎないという文化もあるのだ。

コンタクトが瞬間に関係性を作るという事例は他にもある。日本の電話機には「迷惑電話撃退機能」が付いているものがある。機械の声で「最初に名乗るように」と依頼してくれるボタンだ。もし名前を名乗らなかったり、売り込み電話だったりすると別のボタンを押す。すると丁重なガイドが流れて電話が切れるのである。論理的に考えるとボタンを押すのも「あんた誰だ」と聞くのも同じことなのだが、悪く思われたくないという気持ちがあるのだろう。

コミュニケーションが成立した瞬間に文脈が発生するということになる。これがいろいろな軋轢を生んでいるのだろうと考えることができる。

 

健全な日米同盟のためにはもはや有害な「識者」たち

オスプレイが墜落した事故を受けて、小川和久という「軍事の識者」の人が「ある論理」を展開している。オスプレイは、クラッシュではなく、ハードランディングだというのだ。小川さんの定義によれば、ハードランディングとはパイロットがコントロールした上でオスプレイを着陸させたという意味でクラッシュではないと言っている。故にクラッシュハードランディングはミューチュアリエクスクルーシブだということになる。

日本語で問題になったのは、不時着か墜落かということだった。だが実際には「墜落であり、もしパイロットの意思が働いていたとすれば、その墜落は不時着だった」ということになりそうで、あまり意味のな議論だ。まだ調査結果が出ていないのだから、不時着だったとは言えないがその可能性は排除されない。墜落という言葉に「コントロールがない」という含みがあるから避けたいのなら単に「落ちた」というべきだった。

この言葉を最初に使ったのは防衛省だったようでアメリカ軍の報告をそのまま引用したようである。あとになってあるテレビ局は「不時着後に大破」と言い換えていた。ちょっとした騒ぎになったので情報ソース(多分防衛省だろう)が言い換えたのではないか。

ご存知のようにその後さらなる炎上事件が起きた。四軍統合官という人がててきて「パイロットが陸地の被害を避けるために海に誘導した」と「机を叩きながら」まくしたてたのである。正式な調査は行われておらず、日本人は調査には加われないので、高官の予断どうりの発表がされることは明白だ。すると、反対派は「どうせ嘘に決まっている」と騒ぎ続けるだろう。

この四軍統合官の外交スキルのなさは呆れるばかりだが、もともと駐留沖縄軍は一度沖縄経営に失敗している。政治・外交スキルは期待できないのかもしれない。本土の私たちは忘れているが、沖縄の人たちはアメリカ軍政(つまり本当に植民地だった)を経験しており、これに激しく反発するであろうことは間違いがない。

さて、小川さんの問題に戻ろう。「あれは墜落ではなかった」と言いたい気持ちはわかるし、状況的にはパイロットが海に誘導した可能性は高い。パイロット個人の判断としてはむしろ「美談」と言っても良い。しかし、調査が出ていないことには変わりがなく「なぜ、小川さんがパイロットの意思を確認できたのか」ということがわからない。単に憶測で物を言っているか、アメリカ軍のいうことを鵜呑みにしているとしか考えられなくなる。生活のために植民地経営に加担する現地人みたいなもので、本人の正義感や糸とは裏腹に「愛国的観点から見ると裏切り者」ということになってしまうのだ。

さらに新しい用語を導入したことも混乱に拍車をかけかねない。ハードランディングという言葉を画像検索すと、タイヤが出さずに着陸して煙を吐いている飛行機の絵が大量に出てくる。英語ではあれがハードランディングなのだろう。日本語のwikipediaには項目があるものの、英語版にはないので一般的な用語でもなさそうだ。その他、金融・経営用語として使うようだ。経済が悪化するのを覚悟で金融政策を変えることも「ハードランディング」と呼ばれる。例えばハイパーインフレで政府が国債を償還できればそれはハードランディングだ。いずれにせよもともとは着陸形態を指す言葉で、墜落の対概念ではない。

新たな概念を持ち出すと、余計話がややこしくなる。識者は狭い自分たちの領域のことしか考えないので、これが「正しい」と主張する。そして、それに追随する人たちが出てくる。

なぜ、小川さんの発言は問題なのだろうか。それは、安保法制が成立する上で彼らが果たした役割が大きいからだ。いろいろな概念が持ち出され、挙げ句の果てには「集団的自衛」「自衛」「他衛」などの言葉が乱立し「自衛と集団的自衛はミューチュアリエクスクルーシブではなく重なるところが出てくる」などと言い出す人まで出てきた。自衛の中に一国で行う自衛と集団的自衛が含まれているので、どちらの意味で自衛を使っているとしても「一部が重なる」ということはない。

この弊害は大きかった。反対派は最後まで納得しなかったし今でも納得していない。何か事故が起これば彼らは再び騒ぎ出すだろう。さらにこの手の議論は「あれは危険ではない」と言い張る政府が考えることを放棄させる一因になった。南スーダンは内戦状態(エスニッククレンジングが始まっているという報道がある)なのだが、政府は今でも局地的な衝突に過ぎいないと言い張っている。結果的に現地の自衛隊は法整備が十分ではない中で戦うことになる。

そもそもオスプレイ墜落事故の背景には米軍のメンテナンスのまずさがありそうだが、加えて、現地軍の高官に外交と統治のスキルがないことが露呈している。それを言いくるめるために言葉を弄ぶのは、風邪をひいて熱が出ているのに「これは準高熱状態であるから病気ではない」などと言い張っているようなもので「早く薬を飲んで寝なさい」としか言いようがない。

健全な同盟を維持するための議論の素地を作るのが識者の役割であるべきなのだが、状況を混乱させるだけなら、むしろいなくなってくれた方がよいのではないか。

この際日米同盟は解体しては?

オスプレイの墜落事故がまた波紋を呼んでいる。今度は在沖縄米軍のトップが「感謝されるべきだ」と言ったというニュースが断片的に飛び込んできた。もう、なんか無駄にどきどきする。日本人が怒るに決まっているからだ。そしてアメリカ人がなぜ日本人が怒るかがわからないことも容易に予想できる。だったら、この際日米同盟は解体してはとすら思う。

沖縄は今回も「植民地的だ」と敵意をあらわにしている。意思決定に沖縄が絡めないことに対する苛立ちだろう。高官はニコルソンという名前なのだそうだが、明らかに外交官的なスキルや感覚はなさそうで、怒りをあらわにしたそうだ。これは日本人には受け入れられない。関係性に挑戦していると考えられるからだ。実際の映像を見たが、一生懸命事実を説明しているという感じだった。だがこれは伝わらないだろう。日本人が求めているのは実は事実ではなく「心象的事実」だからだ。

「心象的事実」とは何だろうか。日本人は事故を起こした時にまず謝る。それは客観的事実とは全く関係がない。世間を騒がせたことをお詫びするのである。不時着だろうが墜落だろうが関係がない。みんなの心が騒いだことにお詫びをする。それはマイナスとなり「どんな不利益でも引き受けざるをえない」ということになる。だから日本人は失敗するくらいなら何もしないことを選択する。だが、世間を騒がせたことをお詫びしない限りいつまでもバッシングが続く。日本人は一貫して関係性を生きている。関係性に起こった変化が事実なのだ。

ところがアメリカ人は現象を説明しようとする。説明した上で次に起こらないためになにをするのかを考えるのが普通だ。それはアメリカ人が対象物に焦点を当てているからだ。加えて、アメリカ人が物事をリスクで計算する。だから「感謝されるべきだ」という言葉の意味はわかる。本土に落ちていれば被害が出たかもしれない。だが、身を挺して海に持って行ったことで、兵士のリスクは増えが沖縄県民のリスクは減った。そもそも軍隊は地域を守るためにいる「正義の存在」なのだし、これは「美談」なのである。なのに日本人はその「事実」が理解できないと苛立つ。

「感謝してほしい」と考えた時、アメリカ人は盛んに「事実」を説明しようとする。彼らは正しいことをしているから説明したいというわけだ。しかし日本人には事実はどうでもよいことで、関係性こそが重要だ。「墜落・不時着問題」も構造としては簡単な誤解なのだが、関係が悪化しているので「いいわけだ」ということになる。日本人は「聞く耳を持たない」のだ。

沖縄を納得させるためには、沖縄を米軍の運営上の意思決定に加える必要がある。だが、ステイクスホルダーとして日本人を加えることはできない。安全保障上のリスクになってしまうからである。あとは金目の問題ということになるが、これも関係性を考えて「地域の貢献に感謝して」というような言い方が必要だ。金額も重要だが、意味づけ(これを文脈という)が重要なのだ。

さらにややこしいことに、日本人(東京)も日米同盟を関係で捉えている。だから代理人にはなれない。沖縄と東京の関係は違っているから沖縄の代理もできないし、アメリカ人が事実を説明したい時に関係性にこだわってしまうのでアメリカ人の代理もできない。

最近、面白いニュースがあった。オバマ大統領が「安倍さんが来たいというなら真珠湾に来ればいい」と言った。安倍首相はこれを快諾したが、それはオバマさんとの関係を重要視して忖度した(あるいはトランプ次期大統領との間でバランスをとった)からにすぎない。そもそも「自分の気持ちで行動する」ということが日本人には理解できない。それはマスコミも同じだったようだ。アメリカ人には逆に関係のために自分の気持ちを曲げるということが理解できないし、重要なことなのに「自分の気持ちがない」ということも理解はできない。そこで「単に安倍首相はアメリカの歓心を買いたいだけで、真珠湾の慰霊などどうでもいいのでは」と考えてしまうのだ。

日米はこれだけ文化が違うのだが、違いは2つしかない。文脈依存・非依存という軸とリスクについての考え方だ。たったこれだけのことなのだが、アウトプットはかなり違ってしまう。それを乗り越えるためにはまず「日米には違いがありお互いに理解できなくて当たり前なのだ」ということを理解する必要がある。安倍首相のように「日米は価値観を共有する」などと考えてはいけないわけである。

トランプ次期大統領とは仕事がしやすいかもしれない。彼は事実にだけフォーカスを当てている。アメリカ人は理解できないのに「日本人の文脈」を理解しようとしてきた。これがまずかったということも言えるだろう。

オスプレイ – 不時着か墜落か

また、いつもの無益な言い争いが始まった。オスプレイが墜落したらしい。それが「不時着」だと説明されたために、オスプレイ反対派が「あれが不時着だったら、御巣鷹山の事故も不時着だ」と騒ぎ出した。それを聞いて体制に乗って安心したい人たちが「左翼が騒いでいる」と騒ぎ出す。おきまりのコースだ。

死者はなく2名が怪我をしただけだったのだが、政府はことの重大性を認識しているようで、事故原因が究明されるまではオスプレイを飛ばさないようにと要請し、安倍首相は「重大事故」と表現したらしい。

英語のニュースではクラッシュと表現されているので「あれは不時着ではなく……」という非難が出るわけだが、意外なことに英語には不時着に当たる言葉はない。コントロールが利かずに落ちたというか、落ちたがなんとかコントロールしたという説明的な言い方になるようだ。そして、墜落事故でもコントロールが効いていれば日本語では「航空機不時着」と訳すことが多いようだ。中には死者が出ているのに「不時着」と表現されているケースもある、だが、全くコントロールを失って墜落したなら「墜落」で、誰かが落としたなら撃墜となる。大韓航空機はソ連に撃墜された「撃墜事件」と内部から北朝鮮の工作員に爆破された「爆破事件」がある。「爆破事件」は爆破された時点でコントロールを失っているので「墜落した」と表現されるようだ。「ハドソン川の奇跡」はハドソン川に誘導したので「不時着水」とされるようだ。英語版ではクラッシュでなくグライド(滑空)とされている。

現在は原因がわかっていないのだから「不時着」とは言えないことになるのだが、日本語で墜落と言ってしまうと「コントロールがきかずに落ちた」ということになるわけで、それは避けたかったということなのだろう。

不時着した結果として機体がバラバラになるということも考えられるので、必ずしも不時着とバラバラが相反するとも言えない。(その後、不時着を試みたが大破というわけのわからない表現になったテレビ局もある。)

なんとかコントロールできたとすれば海ではなく陸に落ちるのではないかとも考えられるし、逆に周辺に適当な場所がなく(本島南部で落ちたら市街地に突っ込むことになる)わざわざ海に落ちたということもあり得る。だが、それはこれからの調査によるわけだし、そもそもちゃんとした結果が国民に知らされるかはわからない。

こうした混乱が起こるのは、日本語に強力な造語能力があるからだ。見出しには漢字が使われることが多く「オスプレイが落ちた」という見出しは作りにくいのだが、実際に言えるのはそれだけだということになる。

今の時点では「コントロールを失って落ちたに決まっている」という人と「いやコントロールはできていたはずだし、そうあってほしい」という人がいるわけで、どちらもフェイクニュースということになってしまう。

プレミアムフライデーの憂鬱

プレミアムフライデーという試みが始まるそうだ。無能な経営者に役所が加わるとなんだかめちゃくちゃなことになるんだなあと思った。

プレミアムフライデーのニュースをみたのはNHKが「毎月末の金曜日に午後三時退社を推進する」と伝えていたからだ。これをみて「早く帰っても使う金がなければどうしようもないのではないか」とテレビにツッコんだ人は多かったのではないだろうか。だが、新聞を読むと少し印象が変わる。

ブラックフライデーという言葉がある。アメリカは感謝祭からホリデームードが高まり、家族と過ごす一ヶ月がクリスマスまで続く。クリスマスが終わると通常シーズンで日本のように正月が盛り上がることはない。ブラックフライデーは感謝祭後の月曜日を指すそうで、感謝祭ギフトの売り残し処分とホリデーシーズンギフトの売り出しを兼ねているのである。アメリカの小売はホリデーシーズンに25%近くを稼ぐという統計もあるそうである。

プレミアムフライデーはつまりホリデーシーズン前提にしているので、小売業界が「毎月正月が来たらエエのになあ」と夢想ことから始まっているようだ。

これに早期退社が加わったのは何故なのかはよくわからない。安倍首相が働き方改革を進めているので、そこから連想されたものではないかと考えられる。安部側近の世耕さんの頭の中は「どうやったら首相に気に入ってもらえるのか」ということで一杯いっぱいなのだろう。それを自動的に忖度するNHKが伝えることで、なんだか支離滅裂なメッセージが生まれてしまったわけだ。

給与者の所得は減り続けている。つまり使う金がないわけで、年に12回正月が来ても使う金はない。自民党政権になってやや上向いているものの、トレンドを解消するまでには至っていない。単にリーマンショックで過剰に落ち込んだ分が戻っている程度のことだ。

加えて、小売には智恵がないので、小売シーンを盛り上げるということになれば安売りに走ることは間違いがない。セールを企画する手間は省けるだろうが、単にそれだけに終わりそうである。

この2つが加わることで「いかに安く手に入れるか」ということはゲーム化しているように思える。例えば通販サイトは定期的に「値段を下げた」品物に関する情報が送られてくることがある。これは価格情報だけが行動のトリガーになっているからだ。

最近、近所のパルコが閉店した。多くのお客が閉店セールに通っていたのでさぞかし盛況なのだろうなあと思ったのだが、出口で袋を見るとABCマートとGUの袋を下げている人が多かった。そのうち主婦たちがワゴンに群がるようになる。つまり、一部のカテゴリーキラーとワゴンだけが盛り上がっているという状況だった。「安さがプレミアム」という状態が痛感できる。

給与所得が上がらない中でテレビが盛んに生活防衛術を喧伝したためにすっかり消費者行動として根付いてしまったのだろう。

もし、プレミアムフライデーを定着させたいなら、非正規雇用の給料を大幅に引き上げて(非正規転換が進んでいるので正社員の給与をあげても給与総額は変わらないだろう)金曜日に休めるようにしなければならない。仮に正社員が金曜日に退社するようになると、非正規の人たちは金曜日に休めなくなる。増加するお客に対応しなければならないからだ。さらに、毎月正月が来ればいいのだとすれば、平日に3日くらい休みがあれば良いのではないかと思う。

しかし、そんなことをしなくても昔は「花金」という言葉があり大いに消費していた。花金だけでは飽き足らず花木(はなもく)という言葉さえあった。週休二日制度が定着しゆっくり休めるようになったことで、金曜日に遊ぶようになったのだ。プレミアムフライデーにはその頃の記憶があるのではないかと考えらえる。

プレミアムフライデーは、過去の成功体験と海外のイベントに極端に弱い今のおじさん世代の痛々しさが感じられる企画である。

ギャンブル依存症の解消はパチンコの解禁から

今回のお話は自動的に「お前は反日勢力か」という批判を受けやすそうなトピックだ。ギャンブル依存症を解消するためにはパチンコをギャンブルとして解禁すべきだという主張だからである。パチンコ業界には多くの半島系の人たちが絡んでいると考えられており「反日」批判に結びつきやすい。

パチンコの市場規模は23兆円だそうだ。日本のGDPは500兆円規模なので、その大きさがわかる。参加人口は1000万人だという話がある。(遊戯通信Web)パチンコはレジャーだということになっているのだが、実際には脱法ギャンブルである。

パチンコ人口や売り上げは減りつつある。もちろん原因はスマホの普及だろう。スマホゲームがギャンブルの代わりになっているものと考えられる。それでも10人に一人はパチンコをやっているわけで、その規模の大きさを実感することができる。

さて、依存症を国レベルで対策するとすれば、まずやらなければならないのはそれを「ギャンブルだ」ということを認めさせることである。例えば「アルコール依存症」を治療するならば、まず「アルコールだけどアルコール扱いされていない」という曖昧な存在を排除しなければならない。

ということで、パチンコはギャンブルなのだということを認めない限り、法的な枠組みを作ってギャンブル依存症対策はできないということになる。法的には単なるレジャーなのにギャンブル異存として治療できないからである。となると、カジノを解禁するなら、ギャンブル依存症を無視するか、ギャンブル様なものを全てギャンブルとして認めるべきだということになる。

グレーゾーンはそれだけではない。スマホゲームというもっと曖昧な領域がある。スマホゲーム依存症がどの程度蔓延しているのかというような統計はなさそうだ。これはスマホゲームの成果に換金性がないからだろう。加えて、スマホゲームは数少ないテレビの有力なスポンサーになっているので、テレビ局としてはスマホゲームの売り上げを削ぐ様なことはしたくないはずである。社会的に表沙汰にはならないことになっている。加えてスマホゲーム依存はインターネット依存に分類されがちだ。ソーシャリングにインターネットを使っているうちに、それなしではいられなくなるという対人不安の一種である。

日本人はギャンブルに依存しやすい傾向を持っているようだ。換金もできないスマホゲームに人々が夢中になることからも日本人がギャンブルに弱いことが見て取れるが、もっと客観的な統計もある。WIkipediaをそのまま引用する。

日本では2007年厚生労働省の助成を受けた研究班がギャンブル依存症のリスクのある人に関する調査を開始した[109]。多くの公営競技について地方自治体一部事務組合が主催しまたは投票券の発売を行っているにもかかわらず長らく行政がギャンブル依存症に関する実態調査を行っていないことは、かねてから批判の対象となっていた[110]2009年に発表された厚生労働省の助成を受けた研究班による研究調査結果によると、日本の成人男性の9.6%、同じく女性の1.6%、全体平均で5.6%がギャンブル依存症のリスクがあった[111]。これはアメリカの0.6%、マカオの1.78%などと比較して極めて高い数値であると言える。この年の成人人口(国勢調査推計)から計算すれば、男性は483万人、女性は76万人、合わせて559万人がギャンブル依存症のリスクを持つ人となる[112]

そもそも国際的にギャンブル依存が突出しているのだ。行政が放置しているためにギャンブル依存症が蔓延したのか、もともと心理的にギャンブルに弱い人種なのかということはよくわからない。日本の新聞が賭博に拒絶反応を示すのは、日本人がギャンブルと上手く付き合えていないからなのだということがわかる。

日本の成長戦略にはもうギャンブルに頼るしかないという弱気な見方もできるのだが、どうせ解禁するなら上手く付き合って行くに越したことはない。ということで、パチンコをギャンブルとして解禁した上で、依存症対策をきっちり行い、正しい距離を取れる様になってから、カジノを解禁してもよいのではないかと思われる。

そのためには国会での真摯な議論が求められるわけで、般若心経を唱えたり、審議拒否している場合ではないのではないかと思える。

安倍首相から国民のみなさんへの書かれなかった手紙

本日は、国民の、皆様に、お伝えしたいことが、あります。バブル崩壊後、いろんなことを、やってきました。最終的にはお金を印刷しまくって株価を上げるということまでやりましたが、全て失敗に終わりました。特に地方の状態は悲惨です。各地にリゾート施設を作りましたが、全て失敗に終わっています。生き残っているのはディズニーランドとユニバーサルスタジオだけです。それでも製造業を生き延びさせるためには、農業を犠牲にして地方を切り捨てるしかない。そこまでして嘘までついて推し進めたTPPもトランプに台無しにされてしまいました。しかし、相手はアメリカの次期大統領です。尻尾を振るしかないじゃありませんか。

そんな今理性に頼ることはできません。理性を吹き飛ばしてお金を使ってもらう必要があります。認知力が衰えた高齢者を騙すか、カジノで興奮してもらうしかないのです。

もちろん、そんな現実に日本人が耐えられるわけはありません。中国が伸びています。シンガポールも伸びています。そして背後には台湾もいます。早晩、日本人も自分たちの惨めさに気がつくでしょう。そんな惨めな私たちが頼れるものがあります。それが日本神話です。神話によると日本は世界で一番古い国です。もっともそれに対抗した韓国は自分たちの方が古いと言っていますが……

神話によって国の長さを測っている国は日本と韓国しかありません。でもそんなことはどうでもいいのです。私がそれを真実だといえば、それが「まさに」事実なのであります。紀元前660年が神武天皇の即位したとしただとはどこにも書かれていません。でも、そんなことはどうでもいいのです。

人権とか民主主義とかそんな面倒なことは忘れてしまいましょう。博打と神話に彩られた誇らしい国で、夢だけをみて生きて行きましょう。それがまさに未来思考なのであります。

フライデーの罪と現行憲法

フライデーで薬物疑惑報道が出た直後、成宮寛貴さんが引退した。直後のTwitterではフライデーは許せないというような書き込みがあふれた。その多くは「成宮さんはクスリなんかやっていない」とか「心情的に許せない」などというものだ。フライデーのTwitterアカウントには非難の声が殺到しているという。

しかし、問題はそこではない。フライデーは明確に憲法違反を犯したのではないかと思われる。ここは、理路整然と追い詰めるべきだ。

問題はセクシャリティの暴露である。「成宮さんはゲイだ」といううわさはあったのだが、本人は否定しないまでも表ざたにはしてこなかった。芸能人は女性からあこがれられる必要があり、邪魔だと考えたのかもしれない。

セクシャリティの開示はプライバシーにあたる。プライバシーは憲法第十三条で守られている。すべての国民には幸福を追求する権利がありそれを侵されてはならないとされているのだ。どこまでがプライバシーに当たるかは議論があるのかもしれないが、政治的信条、出自、信仰、セクシャリティなど人格の中核にあるものがプライバシーだ。自分で選んだものもあるし、変えられないものもあるが、そこが変わってしまうと「その人がその人らしくいられなくなる」ものを暴かれてはいけないのである。

もちろん幸福追求権は別の権利とぶつかることがある。それが表現の自由である。表現の自由は政治的な信条などを自由に発言するという民主主義の基礎の一つだ。このため、政治家のプライバシーは制限されることがある。公私混同を「プライバシーだ」と守ってしまうと民主主義そのものが破壊されかねない。だが、これは極めて例外的なケースである。

成宮さんの場合、報道で得られる公益は何もなさそうだ。フライデーは記事を出すことで「薬物汚染にメスを入れる」など主張するかもしれないが、薬物使用の証拠があるのなら警察に持ち込むべきだった。実際に事務所との間ではそのようなやり取りがあったようだ。しかし、警察に持ち込んでもフライデーには一銭も入らないわけで、つまりこれは単なる金儲けである。

成宮さんはプライバシー侵害によって「役者のイメージ」を損なわれ幸福追求の権利を失ったと言える。実際の損害は1億円に上るという報道もある。

成宮さんが薬物を扱っていたかということと、プライバシーの問題は独立している。つまり、クスリをやった人はプライバシーを暴かれて人生をめちゃくちゃにしてよいということにはならない。しかし、マスコミはこの事実から逃げている。普段からフライデーをコンテンツとして引用しており依存関係にある上に、クスリの使用を擁護するのかという炎上を恐れているのだろう。

また「自称インテリ」のリベラルな人たちの間からも成宮さんを擁護しようという動きは出てこなかった。欧米だと同性愛者の擁護は人権派が関心を寄せる問題なのだが、日本人の意識はまだまだ遅れている。日本の人権派は政権に敵対することが自己目的化しており、他人の人権には実はさほど関心がないのかもしれない。

ここまで書いてくると、不倫報道はどうなのかという疑問が出てくるのではないだろうか。もちろん「アウト」ということになる。こちらは不倫とプライバシーが直接リンクされているので、基準があいまいになりがちだ。

しかし、仮にマスコミに社会的に罰を与えるという機能があるとしても(そんな機能はないのだが)、妻がいる夫の側が裁かれるはずである。実際に裁かれるのはどちらか有名な方だ。「見出しとして強い」方がフィーチャーされるということになっている。これは単なる商業主義に過ぎない。他人のプライバシーを盗んで売っているということになる。

ここで「人権というものはそこまで守られるべきものなのか」と考える人も出てくるのではないだろうか。実際、プライバシーを切り売りしている芸能人は多いし、受け手の側もそれを当たり前だと考えている。制度上、裁判を3回受けるまで罰せられることはない(三審制)はずなのだが、疑惑が出た時点で社会的に裁かれることも横行している。

つまり、そもそも人権は日本の社会には根付いていない。それでも他人の人権侵害が最低限に抑えれているのは「押し付けられた」憲法という歯止めがあるからである。憲法改正には理想を現実にひきつけて、今でも横行している人権侵害を当たり前のものにしてしまおうという堕落があると考えられる。

いずれにせよ、成宮さんは今大変な混乱の中にいる。こういう時こそ周りの人やファン、一人ひとりのつてを使ってどういう手段で制裁ができるのかという世論を作らなければならないのではないだろうか。そろそろ他人のプライバシーを侵害してお金儲けをするようなことをジャーナリズムだと呼ぶのはやめた方が良い。それはとても野蛮なことである。

DeNA – パクリサイトより怖いのは何か

DeNAがパクリサイト疑惑でまとめサイトを閉鎖して謝罪会見を開いたらしい。ネットではいろいろ話題になったようだが(ネットの人たちがDeNAの経営陣について詳しい情報を持っているのにはちょっと感心した)、改めて調べてみようという気にはならなかった。

メディアが存続するためには信頼を維持しなければならない。しかしDeNAをはじめとしたネットメディアには信頼維持のための仕組みがなかったようだ。その場で儲けることができればそれでよいと考えているからだろう。

パクリが悪いかどうかは議論が分かれるところだ。最近は「引用」という体裁でコンテンツを持ってくることが横行している。これが許されてしまうのは引用がトラフィックを作る可能性があるからだ。例えば、Pinterestは全てが「パクリ」なのだが画像の引用元にトラフィックを返す仕組みがある。こうした行為はキュレーションと呼ばれる。

DeNAが炎上したのは、トラフィックを返す仕組みがなく、かつ信頼性も担保されていなかったからだろう。なかには勝手に情報を改ざんされた上に引用元としてクレジットされていた人もいるそうだ。情報を盗まれた上に信用まで傷つけられ、それを改善する仕組みもなかった。だから炎上迄止まらなかったのである。

ということで、炎上しなければ同じようなことが続いていたことになる。ネット企業で怖いのはビッグデータだ。ビッグデータは統計的データなのだが、一つひとつはプライバシーの塊といえる。プライバシーを保護しつつ、新しい知見の創出につなげるのがビッグデータのよいところだ。

新しい知見が必要なのは、暮らしをよりよくしたいという意欲があるからだろう。もし、それがないとしたら「今稼げればよい」ということになってしまう。一番手っ取り早いのがビッグデータに加工しないでリストを売り払うことだ。個人情報保護法ができて以降、リストの取得は難しくなっている。例えばベネッセは長期凋落傾向にある。ベネッセは住民票からのデータで成功した会社だが役所が情報をださなくなった結果新一年生にリーチできなくなってしまった。こうした会社はリストを欲しがっている。「リスト開拓にネットがつかえないか」とか「ただでリストをもらえないか」などとかなり真顔で考えている。

DeNAは今日が儲かれば良い会社だということがわかった。多分、ばれなければ個人情報を売り渡すことでもなんでもするだろう。バレれば企業の信頼は崩れるかもしれないのだが、日銭が稼げる。上が「やれ」といえば下はやるだろうし、実際に手を下すのは社員ではなく、契約アナリストのような人だろう。

今回はライターが社員でなかったことも問題を悪化させた。契約ライターなので、会社がなくなっても別に困らないからだ。持続可能性には関心がない。謝罪会見では次のように語られた。仕組みがあっても利用する人がいなかったのは会社を維持可能にしなければならないという動機を持った人がいなかったからだろう。

「今回、キュレーションメディア事業のみが取りざたされているが、他の事業部において不適切な運営や業務があったら是正される仕組みは整えている。それなのに今回なぜ、外部からの指摘やお叱りを受けるまで是正できなかったのか、その点は改善しなくてはいけない」(南場会長)

この件の怖いところは、一般(NHKくらいしか見ない人)レベルには全く露出がなかったという点だろう。「ネットはうさんくさい」ということにしかならないのだ。第三者機関を作ると言っているがこの結果も大きくは報じられないだろう。

第三者委員会の調査はパクリ問題に矮小化されるのだろうが、実際には儲かりそうな事業に投資して、社の成長にコミットしない契約業者に事業を実施させるという構造自体に問題がある。会社が成長したら分配する仕組みがないと事業は衰退するのである。それが分析できないと改善もできないわけで、同じような問題は再発するだろう。ただこれはDeNAの儲けの仕組みに関わっており、直ちに改善するのは難しそうだ。

DeNAはショッピングデータや医療データ(遺伝子情報)などを扱っているようだ。だから、こういった企業には近づかないに限る。