車椅子競技とギャンブル

朝からパラリンピックを見ていてちょっとびっくりした。かわいそうな人たちの大会だという認識があったパラリンピックなのだが、車椅子レースに観客が興奮しているのだ。最近の競技用車椅子は、車椅子界のF1のような形をしていてスピードも出るらしい。人はレースというものに無意識に熱中するものなんだなあと思った。

また単に走れば良いというわけでもなさそうで、何か操作している。ハンドルがないのに曲線路を走っているのがとても不思議だが、操作テクニックや戦略的な位置取りなども問われるんだろうなあと思う。

ある意味、競輪レースを見ているようだったので、これは公営ギャンブルにできるのではないかと思った。

メリットは2つある。

第一に障害者が稼ぐことができれば認識は変わるだろう。かわいそうな人ではなく「羨ましい人」という認識が生まれる。リハビリにも具体的な目標ができるだろう。

次に経済的なメリットもある。ギャンブルは人々を熱狂させるので、お金が集まりやすい。その資金を障害者のために使うことができる。

一方で、このアイディアは実現しないだろうなあとも思う。「障害者を使って金儲けをするとは何事だ」という批判が容易に予想されるからだ。

しかし、よく考えてみるとエクストリームスポーツに挑戦をする障害者も増えている。開会式で見られたように、車椅子で宙返りして見せる人もいるし、足がないスケートボーダーをテレビでみたことがある。エクストリームスポーツはすでに市民権を得ており経済的にも成功している。わざわざ障害者スポーツという枠を作らなくても、新興のスポーツに挑戦する人が増えてゆくのかもしれない。

人々が失敗を認めなくなったわけ

内田樹という人が「人々が失敗を認めなくなったわけ」について考察している。すこし違和感を持った。

この「鬼の首を」というのは、現象であって原因ではない。故にこれを責めても問題は解決しない。

一つひとつ紐解いてみよう。順をおって考えると意外と簡単だ。

最初に感じる違和感はこれを日本人論にしているところだ。しかし、謝らない社会はどこにでもある。20年前にはアメリカに行ったら自分の間違いを認めてはいけないと言われた。これは日本が甘え型の社会だったからだ。「すみません」というのは単なるあいさつであって謝罪の意味はなかった。どちらかというと軋轢をつくらないために「私の方が間違っているかもしれませんが」と言っていたわけである。受ける方も「そうだ、お前は間違っている」などとは言わなかった。これが甘え型社会だ。

このようなことができたのは人々の地位が安定していからだ。ところが、バブルが崩壊してから人々の認識が変わった。社会が椅子取りゲーム化した。くじ引きでもして誰かを引きずりおろさないと全員は生き残れないという(あるいは間違った)認識が蔓延したのだ。こういう社会ではちょっとした間違いが生死に関わるので誰も間違いを認められなくなる。

日本社会はお互いに「間違い」を作らずに許しあってきた。そのために間違いから学ぼうという習慣も根付かなかった。さらに厄介なことに暗黙知を形式化しようという習慣もなかった。長い時間をかけて黙って通じるまで経験を共有することが前提になっている。

間違いを決して認めないはずのアメリカ社会で間違いが許容されるのは「その間違いには理由があるかもしれない」と考えるからだ。間違いを形式化して問題点を抽出するのだ。ところが日本は急激にサバイバル型に変質したために、間違いは学習の機会だという認識が根付かなかった。そのため「ワンアウト退場」という極端な社会が作られた。

さらに人件費の削減もこの傾向に拍車をかけた。

間違いを見つけて修正するという作業は知的に負荷がかかる。すくなくとも余力がないとできない作業だ。この知的な余力は金銭的な理由から省かれるようになった。例えばマクドナルドのアルバイトはオペーレションの間違いを自ら修正することは要求されるが、全体を最適化したり、人気のないメニューを修正したりする知的能力は要求されない。最初の社会は間違いを認めない社会だったのだが、現在では自分が間違っているかすらわからない社会になった。

この「ワンアウト退場型」の社会にはさまざまな弊害がある。人々は分かることだけをやり、その他のことをカッコで括って外部化するようになった。だから、自分の専門外のことに関しては恐ろしく無関心だ。そのためシステムが暴走を始めても誰も気に留めないし、理解しようともしない。ただ、この現象も珍しくはなく、2003年にはすでに『バカの壁』が書かれている。

社会や組織が学習できなくなると、すべてのシステムを外から力づくでとめるしか方法がなくなる。Twitterが発達して暴力的なブレーキとして働くようになったのはつい最近のことだ。人々は、ワンアウト退場型でどうエラーを修正方法するかについて学んだのだ。

アメリカは違ったやり方をしている。トップの首を定期的にすげ替えるのだ。日本は流動性が低い社会なので「退場」したらやり直しはできない。だから間違いを認めることは決してできない。

それでも日本社会が崩壊しないのは、とりあえずうまくいっているやり方だけを踏襲してゆけばなんとかやっていけるからである。学びの機会を失ってしまったので成長することはないが、崩壊もしないのである。

鬼の首を取ったように他人の間違いをあげつらうのは、それが唯一のエラー修正策だからである。社会にあったエラー修正策を見つけない限りその状態は続くだろう。できれば、社会全体が成長してゆくほうが良いのだが、エラーを認めないと成長ができない。

そのためには一人ひとりにの認識を変えるしかない。

 

蓮舫叩き

ここのところTwitter上で不快なツイートを見る機会が増えた。蓮舫氏の二重国籍疑惑について執拗に叩いている人がいるのだ。蓮舫氏は首相には不適格だというのが理由のようだが、多分誰も民進党が政権を取れるとは思っていないわけで「叩きたいから叩いているんだろうなあ」という印象が残る。

叩くなら内容のない民進党の議論を叩けばいいのだが、それだと耳目が集められない。そこで、出自を叩くことにしたのだ。

蓮舫氏を叩くのは、彼女が颯爽としているからだろう。加えて女性であり民族的に多様なバックグラウンドを持っている。日本人は同調圧力が強いので「おとなしくマジョリティのために雑巾掛けをしろ」という主張に違和感がないのだろう。しかし、それをダイレクトにいうと人種差別・女性差別ということになってしまうので、国籍離脱の手続きの問題にしているわけである。

「在日台湾人の代表ならいいが、日本人全体を代表でできない」という主張があった。「俺は女で外国人の下は嫌だね」と言っているのだ。素直に「俺は」といえば良いのだが、それを言えないので「日本人」に置き換えている。会社でも「みんな嫌だって言ってますよ」というのは「私は嫌ですよ」くらいの意味しかない。

やっかいなことに、こうした考え方の人は多い。心の中では「女は黙って男のいうことを聞いていればいいのだ」と考えているのだろうし「外国人は下働きしていればいいのだ」という意識があるのだろう。アメリカではAlt-Rightという運動体にまで発展したし、フランスでは公共の場ではブルカは着用してはいけないというような移民に対する排斥運動も起きている。人々の本音は世界を覆いつつある。

さて、もう一つの面白い点は国籍に関する認識のずれだ。一連の<議論>を見ていると、日本人は国籍を「その人の出自か所属」だと考えている節がある。一種の家のようなもので、同時に二つの家に所属することはできない。ところがこれも国際的にはスタンダードではない。

欧米では、国籍をナショナリティといわずにパスポートホルダーという言い方をすることがある。いわば資格のようなものだ。もともと出自が多様なアメリカでは外国人のステータスのままで何世代も止まられると困るという理由もあるのだろう。スイスのように意図的に周辺国から人材を集めてきた国もある。厳密には「スイス人」という民族はないので、これも当たり前の考え方だ。結果的に、これが国に多様性をもたらしてきた。これが過去20年停滞してきた日本と成長を続けた欧米の違いになっているのだろう。

中国人もナショナリティにこだわらない。平気で国籍を変更する。変更先はカナダやオーストラリアといったアングロサクソン圏だけでなく東南アジアなどの周辺国に及ぶ。タイの華僑のようにタイ化する人たちもいるが、ほとんどは中国人意識を持ち続ける。中には子供に違う国籍を与えようと動く人たちもいる。国ではなく家族が安全保障の単位になっており、財産を保持し家を存続するのためにリスクを分散しようとしているのだろう。こうした国際的なネットワークが華僑の強みになっている。かといって華僑が中華人民共和国に忠誠心を持っていると主張すれば笑われるだけだろう。「国なんかどうでもいいしあてにならない」と思っているわけだ。

日本が停滞しているのは外から新しい知識が入ってこなかったからなのだが、それは多様性を徹底的に排除してきたからだ。蓮舫叩きをする人たちは、心のなかでうすうす自分たちが出遅れていることに気がついているのだろう。多様性の重要さを認識しているが、それに対応できないことに気がついているのかもしれない。中途半端に英語ができたりするらしいが、読み書きはできるが話せないし、英語のコミュニティで相手にされなかった過去がある可能性もある。

だからこそ多様性を叩くのだ。結局、自分たちの能力のなさを恨んでいるかわいそうな人たちなのかもしれない。

私の方が正しいという戦争

浪岡中学校のいじめの記事への検索での流入が増えた。関心が強かったということなのだろうが、その関心の高さは必ずしも歓迎されるようなものではないかもしれない。「自殺を防ぐには」という用語での検索が増えたわけではない。「犯人の名前」という用語で検索されているのだ。多分、ネットで犯人探しが行われているのだろう。学校の生徒は誰がいじめたかを知っている(※同学年でバレー部に入っていった子達だということは特定されている)ので、学校関係者ではない人が検索していることになる。

このいじめは部活での対立が元になっている。なんらかの対立があり自殺した子がやめた。それでも対立は続き、テレビの報道(※ミヤネ屋のスクリーンショットがネットに出回っている)ではかなり陰湿ないじめが展開されたらしい。

一方で遺書を読むとなく亡くなった子も「自分が一方的に被害者だった」という自己認識を持つのを拒否していたようだ。遺書では「疲れた」といいつつも、いじめた相手を糾弾している。

学校側はこの状態を放置し(ミヤネ屋のアンケートが本当なら人権侵害を放置していたことになる)た挙句、いじめとは思っていなかったと主張した。管理責任の及ばないところで生徒が勝手に行ったと言いたいのだろう。テレビ局としてはこれを否定することで、視聴者にカタルシスを与えようとしている。いじめ報道としてはお約束のフォーマットだ。学校は問題を放置して否認することで周囲に「もっと分からせなければ」という正義に火をつけている。そればかりか亡くなった生徒にも「何が何でも告発しなければ」という動機を与えている。

親も「いじめがなくなるように」という名目で遺書を公開しているのだが、実際には「娘は悪くなっかった」という正義の主張になっている。つまりは、いじめた友達と放置した学校が悪いということだ。形式上は報復感情は表に出ていない。

こうしてこの事件は地域の大騒ぎになった。学校関係者は誰がいじめたかがわかっているわけで、遺書で名指しされた側(黒塗りにはなっているが)たちがいじめられることになるだろう。転校することもできない。浪岡中から来たというだけで被疑者扱いされてしまうからだ。掲示板には「私たちが疑われる前に犯人を見つけ出そう」という書き込みも見られた。青森市に吸収されたこの街にとっていじめは地域の恥なのだ。

「いじめを防がなければならない」という題目は忘れられ「人を一人殺しているのだから、いじめられても当然だ」という他罰的な感情に火をつけている。

もともとは小さな部活の「どちらの言い分が正しいのか」という問題だったのだろう。それが大勢の正義を巻き込んで、極めて大掛かりないじめに発展した。正義という感情はこのように燃え上がると戦争に近い状態を生み出す。

確かにいじめはいけないことなのだが、死に一発逆転の効果を与えてしまってよいのだろうかという疑問が湧く。これは新しいいじめを生むだけでなく、抗議の自殺という解決策に高い価値を与える。つまり、対立に没頭している人に「死ねば注目してもらえる」というオプションを与えてしまうのだ。

浪岡中のいじめ問題 – 自殺者は被害者なのか

ご両親が娘さんの名前を公表されたようだ。

「浪岡中・犯人・名前」で検索してこられる方へ。この文章には、犯人の名前に関する情報はありません。で、調べてどうするんですか?


またいじめについてのニュースを読んでしまった。今度は青森県の浪岡中学校だという。このニュースを読んで、いじめによる死はなくならないのだろうなあと思った。学校側はトラブルは認識していったがそれをいじめだとは認識していなかったという。一瞬何を言っているのかよくわからなかったのだが、要するに「自殺しても事件化しなければいじめではない」という姿勢を示しているようだ。死ぬまで表面化しないのだから自殺は防ぎようがないのだ。

今回の考察にもつらい部分がある。公共の場で堂々と主張できないような内容だし、家族を失って悲しんでいる当事者にこれをぶつけることはとてもできそうにない。事実、この文章を読んだ人から「自分の意見を通すために遺書の内容を曲解している」という指摘が来た。指摘はコメント欄にある。どちらが正しいのかという<議論>が背景にあるのだと思う。

こうした指摘を受けても「それでも」と思うのだ。正しさというものが作り出す短絡さは多くの人を苦しめ、あるいは取り返しが付かない結果を生み出しかねない。その苦しみから救ってくれる人は誰もいない。ただ、本人だけが自分自身をそこから解放できるのだと。

いじめられる人は「弱者だ」と仮置きされることが多い。テレビの報道を見る限り自殺の練習をさせられたとか万引きをしないと言って殴られたいうような陰湿ないじめが行われていたらしいことが伺える。これだけを見るといじめられた生徒は一方的な被害者だったような印象を持つ。いわば群れの中で一方的に搾取されるような存在である。

もし、いじめられるものが弱者だったら、誰かにその窮状を訴えるべきだということになる。先生がなんとかしてもらえるように訴えるべきで、もしそれができないとしたら教育委員会に訴えるなどというのが効果的かもしれない。だが、そもそもアサーティブな生徒ががいじめられるはずはない。手を出すと面倒だからである。このようにすればいじめのコストを高めればいじめはなくなるだろう。

だが、こうしたアサーティブさは問題を解決してくれるのだろうか。このケースでは、亡くなった生徒の遺書が残っているのだが、黒塗りになった生徒◉との間に「どちらが正しいのか」というような構造があったような印象を持った。ここが今回引っかかったところである。

各紙の話を総合すると一年生の時にバレー部に入っており良い成績を残したが、◉たちのグループとの間に対立があり部活を辞めた。遺書では「頑張って◉と7名で優勝を狙ってほしい」と言っている。教室の片隅で閉じこもっているようなタイプではなく、一年生のときには学年生徒会会長を務めていたという。

「せいぜい」頑張ってと入れていたが、遺書には「せいぜい」とは入っておらず、したがって文意を大いに捻じ曲げているという指摘がありまましたので、取り除きました。また主観を客観化する意図はありませんので「印象を持った」などとしています。ただし、そういった印象を持つことは<正しくないから>けしからんというご意見はあるかもしれません。コメントには「原文を当たった上で考えて欲しい」ということがかかれていますが、その点については同意です。(2016/10/18)

当人の中にも「一方的にいじめられる弱者ではない」という認識があったのではないかと思える。テレビの情報が確かなら完全な虐待だが、当人は特別ひどい虐待はないと逆に否認している。

この遺書だけから類推すると「アサーティブさ」の方法が間違っているということになる。死んでしまえば、◉が悪となり、放置した学校は間違っていたということになるからだ。自殺が全ての問題を解決する手段になると考えていたとしたら実に悲しいことなのだが、その可能性が排除できない。

この場合先生がやるべきだったのは、いじめの防止ではなく、絶対的な正義などないということを双方に納得させることだったということになるのではないか思った。「どういじめを防ぐか」という視点ではこの問題は解決できないのではないか。それは被害者と加害者を作ることになり、加害者が「間違っている」という印象を作るからだ。

だから周囲が「いじめられる人を被害者だ」という認識を持つのは危険かもしれないと思う。いじめられる側にも問題があるという認識に立たない限り、たんに「アサーティブになれ」といじめの被害者を説得することはできない。さらに、結果的に人が亡くなったケースだけを特別視すると別の意味で死を利用することが可能になってしまう。

これを防ぐためには「自殺者を出したことは恥ずかしいことだ」という意識を捨ててオープンな調査をすべきだと思う。だが、人が一人亡くなっているわけで、これはなかなか難しいことだというのは十分に理解できる。

実際に掲示板では犯人探しが始まっている。中には浪岡中学校出身だというだけで犯人扱いされるから報道機関にいじめた奴の名前を通報しろという人までいる。その他大勢は「誰がいじめたのか実名を晒せ」と書き込んでいる。すでに実名が何人もでていて(もちろん加害者かどうかはわからない)これがさらなるいじめに発展するかもしれない。

ある意味、内戦のような精神状態になっているのではないかと思う。いったん命に関わる問題が起こると、あちら側とこちら側という意識が生まれ、統合が難しくなってしまうのである。自殺やいじめについて考えるためには、実は内戦が止められなくなった国や民族がどのような末路をたどるのかを考えると良いかもしれないと思った。

安倍首相は北方領土を返してもらおうなどとは思っていない

最近、北方領土返還運動に2つの動きがあった。1つは北方領土が返還されてもロシア人の権益は守りますよという条件提示で、もう1つはロシアとの経済協力だ。いろいろ考えたのだが、北方領土返還を中心において考えるとなんかモヤモヤする。このモヤモヤの原因は何だろうか。

安倍首相を取り巻いている右側の人たちが、日本に居留する外国人の権利を容認するはずはない。在日韓国人・朝鮮人に「国へ帰れ」などという人たちなのだ。ゆえに実現可能だと思うならば、支持者たちから大きな反対運動が起きていただろう。

一方でロシアへの経済協力を見ても「日本側の大企業が得をしそうな話」ばかりだ。欧米各国はロシアと対峙しており経済的なサンクションができている。特にウクライナとの関係が悪化しクリミア半島がロシアに組み入れられから緊張は高まっている。逆にいえば、ここに抜け駆けのチャンスが生まれているのだが、サンクションに抜け穴があると効果が薄れるので、何か理由がないと経済協力がやりにくい。

ロシアがソ連だった時代、一番密接な関係を持っていたのは共産党なのだろうが、ソ連が解体してからは権益上の空白地になっている。安倍政権はロシア権益を取り込みたいのだろう。現在、ロシア権益に一番近いのは鈴木宗男氏だから、彼を復権させたいのも当然といえば当然のことなのかもしれない。

何の理由もなくロシアに利益供与すれば野党が追及する理由を与えかねない。しかし「北方領土を取り戻そう」という大義名分さえあれば、いくらでも投資することができると安倍政権は考えたのではないだろうか。政府の関与が強まれば、政治家たちがうけるキックバックも大きくなるし利権の分配を通じて国内の権力基盤も確固たるものになる。

反対の立場に立てばわかるのだが、韓国が「経済援助してやるから対馬をよこせ」などと言っても国内世論が応じるとは思えない。ロシアは北方領土を第二次世界大戦で勝ち取った正当な領土だと信じているのだから、経済協力くらいで領土について妥協することはないだろう。小クリルと呼ばれる人もあまりいない二島くらいは返してくれるかもしれない。さらに、向こうから見れば自民党がロシア権益を欲しがっていることは明白だろう。相手(つまり自民党)にいい思いをさせた上にお土産まで渡す義理はない。交渉上の主導権はロシア側にある。欲しがっているのは日本だからだ。

自民党はロシア権益が欲しいだけで、北方領土はそのためのエクスキューズに過ぎないと考えると全てが落ちるわけである。分からないとモヤモヤとするニュースだが、一度わかってしまうと、なんてことはない問題だということになる。

Addicted – ある中毒性の告白

始まりはほんの小さな不安だった。10年以上使っているパソコンをつくづくと見ていて、ああこれのどこが最初に壊れるのだろうかと思ったのだ。バックアップは取ってあったのでデータが消えることはないのだが、電源が壊れるか、ハードディスクが飛ぶか、それとも画面がダメになるかと不安になってしまった。

最初に漁ったのは近所の中古ショップだった。見つけたのはWindows XPの画面の小さいパソコンだった。YouTubeなどは問題なく見られるような速さになったのだが、これもChromeで「アップデートできません」と出るようになった。XPを実用で使うのは危険だという記事もよく目にする。

そこでヤフオクを物色し始めた。3000円ほどでMac MiniのG4を手に入れて持っているパソコンの環境を移した。しかしモニターを買わなかったので結局古いパソコンを主に使い続けることになった。さらに、ヤフオクでOS10.7という中途半端にしかアップデートできないノートパソコンを4000円ほどで手に入れた。これもChromeで「アップーデートできません」と出るようになったが、もとのパソコンに比べれば使える。

結局最終的に行き着いたのは今のところ最新のOSが入れられるデスクトップパソコンだった。モニター一体型だがモニターが壊れている。そのため2000円と格安で手に入れることができた。これに外付けのモニター(500円で買ってきた)を組み合わせて使うことにした。

ここで本来の目的は充足したのだが、あることに気がついた。いろいろやっているうちに「探して、手に入れる」ことに中毒していた。今でも何かを期待してヤフオクを覗いている。もう目的を達成したのに「探すこと」の中毒性から抜けられなくなってしまったのだ。

よく、議論を複雑にしないために本来の目的にフォーカスすべきだなどと書くわけだが、本来の目的に集中するのは意外と難しい。探索の中毒性は本来やるべきことがどうでもよくなるくらい強烈だ。「こうしたらこうなるのではないか」と考えるとやってみたくなる。パソコンのOSの入れ替えに夢中になりノートパソコンを一台ダメにした。本来OSを入れ替えるくらいでパソコンが吹き飛ぶことはないわけで、それほど入り込んでいたということになる。

最終目的のにフォーカスして最初から最新OSが使える機器を手に入れていれば、途中の無駄な出費はなかったはずだ。最終OSに行かなかったのは「どうせそんなものは手に入れられない」と思ったからなのだが、実際にはそんなことはなかった。実際の価格付けは性能とは関係なく値段によって決まっているようだ。100台ほどの落札価格を調べたのだが3000円近辺に山がある。需要と供給の理論では性能と価格の間に相関性があるはずなのだが、アフォーダブルプライスという概念もあるようだ。

中毒性がどこにあるのかはわからない。ちょっとした不安とちょっとしたリソースがドライブになっていることは確かだが、不安がなくても探索の中毒にはまっていたかもしれない。

無駄遣いしないためには、少々値段が張っても最終目的にかなうものを買った方がよい。妥協しても不安が解消されないので探索のループから抜けられないからだ。

こうした中毒性は探索だけではない。ネット上で「俺は正しい、あいつは間違っている」というトラブルを起こしている人を知っているのだが、対決などもそれ自体が中毒性を持ちやすい。人が目的を達成するためにモチベーションを維持する仕組みがいくつかあるのだが、それが暴走しているのだろうと思われる。これをやめるためにはどうしたらよいかと思うのだが、中長期的に考えてたり、長い文章を読んだりする状態にはないはずなので「収束するまで見守る」しか手がない。リソースを断つという方法もあるが、対決の場合「燃料」は逐次投下されるので、これもなかなか難しそうだ。

オークションは不確実に見えるのだが、中期的にデータを取ってみるとだいたいの相場がわかる。いっけん不確実に見えるが実は統計的に処理できる程度の<不確実性>にすぎない。ただし、データの整形には時間と手間がかかるのも確かだ。

一方、需要と供給を超えて「買わせたい」人は、少々難易度をあげた方がよいことになる。オークションや中古ショップに中毒性があるのは「わざわざ探さなければならず」「いつ手に入るかわからない」という不確実性があるからだろう。「いつでも買える」という状況ができてしまうと消費者は合理的になりプレミアムを支払ってでも何かを買いたいという意欲を失ってしまうのだ。