日本型破綻の特徴

小池都知事が豊洲移転の「犯人捜し」の結果を公表するそうだが、「誰が盛り土を最終決定したのか」見つからなかったのだという。マスコミは主犯の不在に驚いて(あるいは驚いたふりをして)いた。

日本人のコミュニティには幾つかの特徴がある。これはアメリカとは異なっており、中国などとも違っている。東洋的でも西洋的でもない日本人に独特のものだ。

  • 日本人は個人の意思決定を尊重せず、強いリーダーシップを敬遠する傾向がある。強いリーダーは自滅するか排除される。このため中心が空洞な組織が作られる。
  • 日本人はチームワークを嫌がり他者からの干渉を嫌う。逆に他のチームが困っていても助けない。

リーダーシップを忌避する傾向は幼い頃には完成する。国際的に見ると、先生には従うがそれは綺麗的な傾向があるのだという。おとなしくしているのは周りから問題児だと見なされたくないからであって先生を尊敬しているからでもそれが良いことだと考えているからでもない。こうした態度は社会に出てからも継続してみられる。いっけんおとなしいが、乳幼児を連れた親に道を譲らずにスマホを見ながら我先に行こうとするというような社会ができる。他人に興味がなく干渉もされたくないというのが日本人だ。

これだとプロジェクトは破綻しそうだが、その代りに周囲の状況を読む能力を発達させた。一般に「コンテクスト」とか「文脈」とか言われる。それを「読み合う」のだ。代わりに日本人はあまり言葉を信頼しない。契約や約束はその場の雰囲気を悪くしないために使われるのであって実質的な意味は持たない。題目は作られるが誰も反対ができないものが選ばれる。

コンテクストを読むために必要なのは共通の経験だ。同じような人たちが同じようなことをするからコンテクストを読み合うことができる。日本人が急速な変化を嫌うのは、コンテクストが読めなくなってしまうからだ。だから外から新しいアイディアが入ってきてもそれが取り入れられることはない。序列すら曖昧なので「いつ入社(入省)したか」ということがとても重要だ。

このようにして日本人は縄張りを中心に居心地の良い空間を作り出してきた。しかし、これが破綻することがある。全体的な責任者がはっきりしないので、問題が起きても止まって考えたり、作戦を変えたりできないからだ。

第二次世界戦では「防衛ラインを踏み込まれたらどうするか」という統合的な戦略を持たなかった。兵站なしで兵士を派遣して多くの餓死者を出し、沖縄を犠牲にして本土を守ろうとした。いわば時間稼ぎをしようとしたわけだが、時間稼ぎをしている間にプランBを考えるというようなことは一切しなかった。ドイツにはヒトラーという責任者がいたが、日本の裁判でわかったことは「この戦争が特定の責任者がいないにもかかわらず粛々と進行した」ということだった。第二次世界大戦は全体的な作戦(どうするかはよくわからないが、根性だけで本土だけは必死で守る)が破綻してもとまらず、広島と長崎の犠牲者が出てはじめて止まった。

東京オリンピック招致でも同じ問題が起きた。甘い見積もりで招致したあとで各部署が予算を膨らませて一括で東京都に請求することにした。その額は3兆円だそうだ。驚いたことに予算を監督する人は誰もいないそうだ。案の定「責任者を置くべきだ」という話になっているが、森喜朗会長はそれを拒否する構えだ。都から干渉されたくないのだろう。IOCは都と国が財政バックアップをするからという理由で開催都市を決定しているのだから、誰も責任者がいないことを知れば大いに驚くだろう。そもそも、誰も責任者がいないのに意思決定できていたのはどうしてなのだろうかという疑問が湧が、それでもなんとなく物事が決まってしまうのが日本人のすごいところなのだ。

豊洲の問題にも似たところはある。有害な土地を食品を扱う場所にふさわしい安全基準にすることはできなかった。安全基準は「絶対に誰も責任を問われることはない程度」に高く設定されるが、土地の造成は「予算が許す限り」に低く設定される。誰かがリーダーシップを取ってリスクコントロールするという発想はない。「何かあった時に責任が取れない」と考えるわけだ。結果的に合わて具体的な建物ができたところで、今までの説明が違っていたということがわかり計画が破綻した。ここでも活躍したのは現場の人たちだ。彼らは必要な予算を請求し、無理難題とされる「安全設計」はしなかった。彼ら建築家たちは現在「関東軍」と言われている。

注目する人は少ないが、医療費の高騰問題も起きている。患者に必要な治療費は言い値でいくらでもでてくる。これも患者が悪いというわけではない。専門性を持っていて外から規制を受けない医師が「関東軍」になっていて、無制限のお財布にお金を請求するからだ。厚生官僚の中には5年で破綻するという人がいるが「実際に破綻するまでは国は何もしないだろう」と言っている。形式上の責任者は総理大臣なのだが、問題の把握すらしていないようだ。この構造のため「甘えている患者が悪い」など言い出す人も出てくる始末だ。

このリーダーシップの不在と専門家の<暴走>という図式は至る所で見られる。このため日本の産業は触れるものだけが得意で、触れないもの(例えばITのような)ものは苦手だった。流通やサービスなどの無駄を全体的に最適化させるようなこともできなかった。一方で触れるものだけはなんとか間にあわせることができていたわけで、豊洲やオリンピックの問題は、私たちの社会が形のあるものすら作れなくなりつつあることを示している。

この構図は文化に根ざしたもので簡単に変えることはできない。この経験は数年後には地域社会と医療の崩壊という形で顕在化するだろう。

朝日新聞の「東京ガスは悪くない」論

豊洲移転問題についていろいろ書いているのだが、正直何が起こっているのかよく分からない。当初は「東京ガスが有毒な土地を都に売りつけて、政治家の一部にキックバックがあった」というようなシナリオを勝手に描いていたのだが、それは違っていたみたいだ。週刊誌2誌と女性週刊誌1誌を読んでみたが「東京ガスは土地の譲渡を渋っていた」と書いている。なぜ渋っていたのかはよく分からない。

週刊文春が仄めかすのは、石原都政下では外郭団体の含み損が表面化しつつありそれを整理する必要があったというストーリーだ。5000億円の損が累積していたが築地の土地を売れば都には莫大な資金が入るというのだ。しかし、他の媒体はそのような話はでてこない。文春の妄想なのか、独自取材の賜物なのかはよく分からない。さらに、東京都は真剣に一等地を売って儲けようという意思は無さそうだ。

誰も書いていないが、wikipediaを読むと石原氏は単式簿記をやめて複式簿記を採用したと書いてある。土地などの資産が認識されるので良さそうな方法だが、複数機関で借金しあったりしているとひた隠しにしていた問題が浮上することになる。同時期に銀行の貸し倒れが問題になっていて(こちらは普通の銀行が課さない中小企業に気前よく融資していた)その損金をどう処理するかが問題になっていた。

もし、築地を高値で売りたいならいろいろな計画が浮上していてもおかしくはないのだが、跡地はオリンピック巨大な駐車場になることになっている。後には「カジノを誘致したい」などという話ものあるようだが、公園(たいした儲けにはならない)を作ってくれという地元の要望もあるようである。もし都営カジノができれば、オリンピックで作った宿泊施設も含めて巨大なリゾート地が銀座の近くにできるわけだが、具体的な計画はなく、幼稚園児のお絵描きのような稚拙さが滲み出ている。政治家の考える「ビジネス」というのはそういうものかもしれない。

もともと、都が累積損を抱えたのはお台場湾岸エリアの開発に失敗したからだ。失敗したのは都市博で人を呼べば他人の金で開発ができ、お台場の土地が高く売れるぞという目算があったからだろう。今回は都市博がオリンピックに変わっただけなのである。ずさんさというか、商売っ気のなさがある。

その中で異彩を放っていたのは朝日新聞の経緯のまとめだ。これがどうにも怪しい代物だった。最初に書いてあるのは「東京ガスは土地を東京都には売りたくなかった」ことと「誰もあの土地が有毒だとは思わなかった」ということだ。東京ガスが土地を売りたくなかったが浜渦副知事がゴリ押ししたというのは半ばマスコミのコンセンサスになっているようだ。浜渦さんは時々殴り合いの喧嘩をする曰く付きの人物だったとwikipediaには描かれている。

いずれにせよ「読者にわかりやすく書かれた」豊洲市場移転問題のまとめ記事では誰も有毒物質のことは知らなかったが、あとで調査をした結果土地の汚染が判明したというストーリーが描かれている。これを素直に読むと「誰も悪くなかったが運が悪かったね」ということになる。日本人の「優しさ」によるものだが、これが集団思考的な問題を作り出しているということには気がついていないようだ。都政担当は記者クラブの中でインサイダー化しているのだろう。

朝日新聞の記事を読んで一瞬「ああ、そうか」などと思ったわけだが、その交渉過程は黒塗りだったという記事がTwitter経由で飛び込んできた。新しい情報が得られるというのはTwitterの良いところだなあと思う。この記事によるとどうやら「あの土地には何か有毒物質があるらしい」ということは知られていたようだ。土地を売る上では不安材料になるだろう。もともとエンジニアたちはあの工場が何を生産していて、副産物として何が産出されていたかは知っていたはずである。東京ガスが全く知らなかったということはありえない。

朝日新聞の記者も東京ガスと都の交渉記録が黒塗りだったことは知っているはずだ。これは「のり弁」資料と呼ばれ問題になっているからである。であるならば、朝日新聞の記者が書いた記事の目的は明らかだ。都当局は炎上中なのでもう抑えられないが、東京ガスに避難の矛先が向くのを抑える「防波堤」の役割があるということになる。東京ガスはマスコミにとっては巨大スポンサーなので非難が向くのは避けたいのかもしれない。

いずれにせよ油断ならない話である。どの媒体も信じることができず、各雑誌・新聞を読み比べた上でネットの読み物まで読んで総合的に判断するしかないということになってしまう。いずれにせよ黒塗り資料が表沙汰になってしまえば、誰が嘘をついていたかが明らかになってしまう。すると大型防波堤でせき止めていた洪水が一挙に街を押し流すようなことになってしまうのではないかと思う。

多分、現在豊洲問題が炎上しているのは、マスコミが「優しさ」故に問題を直視してこなかったからである。にもかかわらず一旦炎上するとそれを商売にしようとする業を持っている。よく倫理の教科書で問題になる「近視眼的な視点が長期的な問題を生み出す」という実例になっているように思える。

共産主義化が進む日本経済

先日、NHKで「人口が縮小してゆく社会」という特集をやっていた。深刻な内容だが、前半と後半が分離していた。

前半は豊島区で若年層の貧困化が進んでいるという内容だ。公共事業の増加を背景にして、建設業が主要産業になりつつある。建設業は雇用を創出するが増えているのは非正規雇用ばかりだ。家庭を作ることができないので、将来的には国が面倒を見る必要が出てくる。大阪で見られるような南北問題が東京にも波及しつつあるようだ。

後半は地方自治体が機能を果たせなくなり住民サービスを削減しているという話だ。生産年齢の人たちが都市に流出しており、税収がなく住民サービスが維持できない。そのため、住民がサービスを肩代わりしている。また、地域が蚕食されてしまうために集約化が必要になってきている。中には移動しただけで亡くなってしまう高齢者もいるそうだ。

いずれにせよ、一生の見通しが立つような働き手を抱えられる産業が日本から急速になくなりつつあるらしい。このままでは、住民は税金を納めることもできないし、新しい家庭を作ることもできない。そこで実質的に国が雇用主になって従業員である国民を支えるという姿が整いつつある。従業員には定年があるが、住民は定年しないので一生抱える必要がある。そこで働いてもらいましょうということになる。ただし、その労働が賃金で報いられるかどうかはよくわからない。住民サービスの代替えなどの無償労働が含まれるからだ。

かつてはJapan Incと呼ばれた日本社会だが、労働市場という側面から見ると、急速に社会主義化が進んでいることになる。

実は資本の面からも社会主義化が進行している、日経新聞によると東証1部上場企業の4社に1社の実質的な筆頭株主となっているということだブルームバーグの記事ではメジャーな金融機関は国が筆頭株主なのだそうだ。

日経の記事は「価格が分かりにくくなる」ということを心配している。だが、もっと深刻なのがガバナンスの低下だ。国が筆頭株主になってしまうと経営者を監視する人がいなくなるのだ。GPIFが「もっと配当をよこせ」と企業に迫ることはないだろうから、企業の収益力は悪化するだろう。企業は株主からのプレッシャーがあるからこそ新しい事業への投資を試みるのだ。

このプレッシャーがなければ集めた資金は死蔵されるか、既存の(ゆえに収益力の落ちた)事業に追加投資されることになる。さらに病状が進めばその企業を潰さない為に「政策的な」投資が続けることになるだろう。民間需要がなくなれば、国で需要を作ることになる。

誰も意図しないうちに、国が従業員を支え、企業を支配し、需要も国で作るという図式ができつつある。国家の共産主義化だ。これに計画生産と配給が加われば完璧だ。

いろいろ考えるところはあるのだが、憲法なども考察のテーマになりそうだ。現在の憲法は復古的だと言われている。明治期に復帰するというよりは戦中体制への復帰に見える。戦争という緊急事態だったので一時的に政争がなくなり「天皇のもとで政治が一致団結していた」唯一の時代だ。いわば、国が戦争という唯一の事業を行う為に共産主義化していた時代と言えるだろう。そう考えると、あの憲法草案は自民党の指導のもとで国が一大事業を行う為の共産主義憲法に見えてくる。これを未だに行っているのが北朝鮮だ。

一方で民進党は配分だけを意識した政党だ。こちらもアプローチは違うが社会主義化を志向している。自民党の憲法草案は個人の財産権を制限しているのだが、こちらは自発的な明け渡しを要求する。一方で資産課税も民進党の特徴だ。資産には課税できないので、資産を使った時に課税する。これが消費税だ。

このように考えると共産主義というのは理想から生まれるのではなく、資本主義の死の形態なのかもしれない。

 

スマホに支配される人

先日面白い光景を見た。子育て世代は始終子供に付きまとわれている。小学校に入る前の子供は一日中、思いつきを垂れ流しており、その聞き手はお母さんだ。思考が外部に溢れているような状態なので、人間の思考というものがいかにとりとめのないものかということがわかる。

そこでお母さんは子供に古くなったスマホを与える。YouTubeを見せている間は子供は黙っているからだ。子供はかなり手慣れているようで、CMをスキップしていた。お母さんは、その空いた時間にスマホで友達と連絡を取っているようだ。結局、親子2人でスマホに向かうことになった。

ここで「ああ」と思った。なかなか返事が帰ってこない人なのだが、その理由がわかったからだ。主婦は時間がない。そこで空いた時間で友達に返信しているらしい。そこで連絡が必要な人がテトリスのように溜まってしまい「ご新規様」が受け付けられなくなるのである。時間を詰めて簡単に返信するという手段があるわけだが、それはやりたくないらしい。

これを改善するためにはいくつかの工夫が必要だ。第一に着信手段を集約する必要がある。次に情報を整理する時間を決めて、まとめて返信すればいい。言ってみればビジネスマンがよくやっているような方法だ。

一見すると「その場で返事ができない」ことが問題になりそうだが、実は最大のディレイは24時間で済む。1日経てば確実に返ってくるということがわかれば、意外と待てるものである。また、メッセージの総量が決まるので、それに掛けられる時間も決まる。さらに、注意力が散漫になることがないので生産性を挙げることもできる。

実は、この現象は、受信者・発信者ともに経験しているのではないかと思える。即時で返信がもらえるのはいいことのように思えるが、実は常に待っているという状態に陥っていることがわかる。ずっと待っているからこそ、これ以上の待ち時間が許容できない。つまり問題は待ち時間ではなく、自分のペースが作れないということなのだ。

多分「時間を決めて返信しろ」というようなことを直接アドバイスすると「私は忙しいのに、わかっていない」というレスポンスが予想されるのだが、実際には時間を決めた方が効率がよくなるということがわかるだろう。実際にそのような研究はいくつか出ている。

  1. マルチタスクで生産性が40%下がる。
  2. マルチタスクをしてはいけない理由

スマホが悪いわけではなく、マルチタスクに問題があることがわかるだろう。もっとも、常時スマホ依存をやめるためには、周りの人たちの協力が不可欠だ。

第一の障壁は人によって連絡手段が違うという点だろう。年配者ほどメールに依存する傾向がある。年配主婦はパソコンが扱えないので携帯メール+ファックスになる。一方で若年層はパソコンを持っておらずLINE一辺倒だ。急激に通信環境が変わってしまったので、かつてのように電話と手紙があれば用が足りるということはなくなっている。

さらに、周囲がそれなりのペースをつくる必要がある。下層の中間管理職や主婦のように時間の自由がきかない人たちになるとそれは難しくなる。つまり、生産性が悪い人たちはいつまで経ってもその状態から抜け出せず、生産性の良い人たちは協議して1日のペースが作れるようになる。ここでも格差が生まれることが予想されるのだ。

 

NHKが日本の労働環境の破壊を試みる

NHKが長時間労働の規制についてプロパガンダ番組を流している。メッセージはあからさまで、正社員の労働時間を減らせば、女性、外国人、高齢者が働きやすくなるというものだ。これは言い換えれば、企業にしがみついている正社員を減らせば非正規雇用の人たちの雇用機会が増えるということだ。企業は、非正規社員を増やせば人件費の大幅な削減もできるし、儲けがないときにはすぐに切ることができるようになる。

加えて、正社員を家庭に返して子育てや介護という無報酬労働に従事させようとしている。確かに政府としてはいろいろな問題が解決する魔法の杖のように見えるのだろう。

これが実現するためには「とりあえず、正社員が家に帰ればいい」と言っている。正社員が嫌な仕事にしがみついて長い時間職場に居座るのは自分の地位が脅かされないように常に見張るためだ。最近ではメールやSNSが発展しており、正社員は休日であっても通勤電車の中でも、顧客からの注文に応えなければならない。それは転落が取り返しのつかない結果を招きかねないからである。

識者たちはきれいごとを並べて、正社員と非正規雇用をスキルで評価されるべきだなどと言っているが、スマホに張り付いて顧客がクレームを言ってくるのかを待っている時間を労働時間として加算するわけには行かない。つまり、長時間労働は生産性とは何も関係がなく、正社員層の安全保障なのだ。

なぜ、このような理由が生まれたのかは明確だ。企業は人件費の抑制を20年近く続けており、非正規雇用に「堕ちて」しまうと生活が成り立たなくなるからだ。そのため労働者は生産性の向上などを考えている余裕はない。単に嫌なことを我慢しながら縄張りを守っているに過ぎない。恐怖心が生産性を向上させることはない。

それどころか散発的にイレギュラーな処理が要求されるので、生産性は著しく阻害される。例えていえば、常にリセットボタンのないテトリスをさせられているのと同じような状況に置かれているわけだ。

ここから解放されるためには、いわゆる「非正規」という人たちに正社員並みの賃金を支払うしかない。恐怖心が非生産性をドライブしていることが予想されるからである。

「格差を埋める」という言葉には高い方に合わせることと、低いところに合わせることの2種類がある。しかし、企業側のトレンドは人件費削減なので、どうしても「低い方に合わせる」ための改革になってしまいがちだ。そもそも生産性が下がっているので、高い賃金を支払うモチベーションは持ちにくいだろう。

企業の労働力削減意欲は強い。外国人の導入も多様性をつける方には向かわず、どうしたら海外に行かないで中国のような安い労働力を導入できるかという話になってしまう。地方の製造業や農村などのように、実質的には奴隷労働だと言われる外国人研修制度に頼らないと維持できない業種さえある。

真面目な話をすると、労働改革は非正規雇用が食べて行けるだけの給与を与えることで簡単に実現できる。そのためには蓄積した資本を労働者に開放すれば良い。実際にはその方向での改革は進まず、したがって労働者は自己防衛のために隠れて長時間労働にしがみつくことになるだろう。

政治がこの問題を解決できるとは思えない。最近では富山県の県議会議員が「老後に不安がある」という理由で領収書の捏造をしたのが発覚したばかりだ。こうした慣行は党派を超えて蔓延していた。他人の問題を解決できないばかりではなく、自らも同じような不安を抱えているのだから、問題を解決できるはずなどない。

政治のリーダーシップに期待できない以上、自発的に動くのは損だ。働き方改革はそのまま収入の減少に直結する。

NHKがなぜこのようなプロパガンダに邁進するのかはよくわからない。一部の正規職員が非正規プロダクションを搾取するような構造を狙っているのかもしれない。立派な放送センターの建設を画策する一方で、将来のテレビ離れを心配しており、PCやスマホへの課金を狙っている。実は将来不安に苛まれているのかもしれない。

もし、安倍政権の労働市場改革が成功すれば、正社員賃金は非正規雇用並みに抑えられ、非正規ばかりになった企業の生産性もマクドナルド化するのではないだろうか。生活を維持するためには、スキルが蓄積しないことがわかっていながら複数の仕事を掛け持ちせざるを得なくなるかもしれない。これは現在アメリカで起きていることなので想像するのはそれほど難しくないだろう。

Twitterの2ちゃんねる化と疲弊する中間層

さて、一週間に及ぶ社会実験が終わった。まずテレビで盛り上がっている豊洲移転問題について識者への反論記事を書いた。次にファッションと情報とデータ構築に関する短い記事を買き、今度はネットで盛り上がっている池田信夫と長谷川豊バッシングについて書いた。さらに築地に戻った。結果はごらんのとおり。

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築地問題がページビューを稼ぎ、ファッションでやや盛り下がった。しかし、池田信夫と長谷川豊の件で盛り返し、築地の問題ではまたページビューが下がった。集客数とページビューは比例すると考えて良さそうだ。analytics002

面白い点はいくつかある。山本一郎氏と築地の件はGoogleでの検索が多かった。山本氏は豊洲移転派なのでわざわざ検索して記事を読んでいる人が多いらしい。それに飽き足らず関連記事を読んでいる人が多いのかもしれない。

一方、Twitterは明らかにネガティブな感情にドライブされている。「テレビはもう終わりかも」という煽りをつけてタイトルは煽らずに書いたらTwitterからの流入が増えた。一方でブログ記事に石原氏は老害だと書いて、Twitterでは煽らなかったら、それほど人は集まらなかった。Twitterのタイムラインは常に他者を罵倒する扇情的なつぶやきが流れている。使用者も高齢化しつつあるようだ。つまり、かつての2ちゃんねる化が進んでいることになる。

普段の生活がポジティブなものであれば、わざわざ個人の時間を使ってネガティブな情報を探す必要はないのではないかと思う。普段の生活にネガティブなものが溜まっているからこそ、その犯人探しが進んでいるのではないだろうか。一方で、論評の内容の批判の強さと関連してページビューが集まっているわけではなく、タイトルと煽りにドライブされている。考えたり、作戦を立てる時間はなくなっているのではないだろうか。

こうした傾向を見ると、扇情的な煽り文句をつけて文章を書きたくなるが、さじ加減が難しい。大衆は高いところから他者を批判したがっている。このために明らかに地位が低いものと弱いものを叩くわけだ。しかしながら、自分が他者より「一歩優れた地位にある」ようなデモンストレーションをすると、今度は叩かれる側に転落する。人々は正義の側にたって悪を叩きたがるのだが、正義のヒーローを気取った瞬間に叩かれる側に回る。

ただ、煽るために扇情的な文章を書きたくなる気持ちはよくわかる。顕著に数字に現れるからだ。これを後追いするテレビも同じような傾向になることは間違いがないだろう。最近のテレビは毎日のように豊洲の犯人探しが行われている。

Twitterは2ちゃんねる化が進んでいるというのは間違いがなさそうだ。世界的にはアクティブユーザーが停滞しており、身売りも検討されているようだ。

ユニクロのチノパンと色落ち

昨年の11月に「さすがにズボンぐらいは新品じゃなきゃまずいだろ」と思ってユニクロでチノパンを買った。2,900円だった。それが半年くらい経ってこんな感じになった。半年間毎日履いていたせいもあるのかもしれないが、洗濯を繰り返すたびに色が落ちていった。




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ジーンズの色が落ちるのはなんとなく「味」と認識されるのだと思うのだがチノパンは色があせると単に汚いだけだ。おしゃれさんと呼ばれたいわけではないが、最低限こぎれいな格好をした方がよいことはわかる。ということで、「新品を買えば安心」というわけではないということが分かった。

こういう経験をすると、なんとなく「中古ショップでも良いのかな」という気持ちになる。丈詰めしていないユニクロやH&Mのパンツが500円以下で取引されていることがあるのだ。なぜか履きつぶした感じもない。


この記事を書いたのが2016年なのだがその後新古品のようなものは少なくともユニクロではあまり見られなくなった。はっきりしたことはわからないが、成績のために売り上げを競わせることはなくなったのではないかと思う。もっとも、ウールマークがついたようなものは未だに出回っている。


もしかして新品を流している人がいるのではないかなあとすら思える。誰がわざわざそんなことをするかはわからないが、もしかしたらお店のスタッフや店長さんが売り上げを増すために流しているのかもしれないなあなどと疑った。

プレミアムコットンのTシャツとウールマークの付いたユニクロのセーターをそれぞれ280円で購入できた。天然素材の価格が値上がりしているので、ユニクロからはウールマークがついた商品は消えかけている。天然素材にこだわると中古ショップに行った方がよいというような状態なのである。

下手に安いボトムを買うと色褪せが怖いということを学んだんので、DIESELのパンツを2本買った。あまり流行に左右されないストレートなジーンズなら色落ちしても構わないし、味にもなるからだ。かつては中古品でも高価なものとみなされていたDIESELだが1500円+税という価格で手に入ったりする。

かつてはユニクロを着ていると恥ずかしいという認識があり、その後ユニクロでも構わないということになった。しかし、時代はさらに進んでいて中古ショップの方が良いものが手に入るという時代になりつつあるようである。これがアパレル産業について良いこととは思えない。

アパレル産業の現場の人が現状をどう捉えているのかということを知りたいと思った。

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書くことは癒しなのか凶器なのか

先日来、書くということについて幾つかの記事を読んだり情報に接したりした。一つ目の記事はタイトルだけだが「日本人はレールを外れるとブロガーくらいしか希望がなくなる」というもの。次はヘイト発言を繰り返す池田信夫氏のツイートや、透析患者は自己責任だから死んでしまえという長谷川豊氏などの自称識者たちの暴力的な発言だ。

これらを考え合わせると、これからの日本では、経済的自由を得るためには他人を貶めたり権利を奪ったりしなければならないという結論が得られる。

確かに、他人を傷つける記事には人気がある。タイトルだけでも他人を攻撃するようなものをつけるとページビューが数倍違うことがある。しかも、検索エンジン経由閲覧している人が多い。そのような用語で<情報>を探し回っている人が多いということになる。ニュースサイトをクリックするわけではなく、わざわざ探しているのだ。それだけストレスが多いのだろう。

一方で別の書く作業も目にした。乳がんで闘病中の小林麻央さんが自身のブログを開設したのだ。病状はあまりおもわしくないようで、本人もそのことを知っている。これは、小林さんががん患者であるということを受け入れたということを意味しているのだろう。日常生活が中断されて茫然自失の時間があり、ようやく現状を受け入れようとしているのだ。書くことがセラピーになっているということもあると思うのだが、再び「書き出す」ということが重要なのだろう。人間には誰にでも回復しようとする力が備わっている。そうやすやすと「完璧な絶望」の中に沈むことはできない。

二つの「書く」という作業にはどのような違いがあるのだろうか。

第一に、池田さんや長谷川さんの意識は外に向いている。一方で内側には不調は起こりえないという暗黙の前提がある。池田さんは自らが「純血の」日本人だという意識があり、その外側にいる人たちを攻撃している。また、長谷川さんは自らは節制していて、絶対に糖尿病にはかからず、従って透析の世話にはならないと考えている。こうしたことを考えているうちは自らの中にある不調を考えなくても済む。

テレビは常にネタを探している。ネタは、オリンピック選手などの活躍をもてはやすか、他人を貶めることしかない。職業的に書いている人たちはこのうち貶めるべき他人を探すかかりというわけだ。うまく盛り上がったネタ(平たく言えばいじめなのだが)があれば製作会社が仕入れてテレビに売り込む。

他人の不幸をネタにすればいくらでも稼げそうだが、実際には自分の信用度を担保にしている。なんらかの問題解決に役立てば何倍にもなって帰ってくるかもしれないが、逆に自分の信頼を失うこともある。そのうち「騒ぎを作ろうとしているのだな」と考えられるようになれば、その人はテレビ局から見ればもう用済みだ。

もともと識者たちは専門分野から解決策を提示したり、多様な意見を出してコミュニティに資することがその役割のはずだ。皮肉なことに今回挙げた二人はどちらもテレビの出身だ。テレビ局には報道が問題解決などできるはずはないという強い信念ががあるのだろう。また、自分たちはいい給料をもらいながら、他人の不幸を取り上げても、決して自分たちの元には不調は訪れないし、あの人たちは自己責任なのだという間違った確信があるのかもしれない。

一方、小林さんは自らに向き合わざるをえない時間があり、その結果を書いている。つまり、その意識は内側に向いている。どうにもならないという焦燥感がある一方で、それでも生きていて、子供を愛おしいとかごはんがおいしいと思ったり、「また情報発信したい」と思えるということを学んだにちがいない。どうしようもない絶望があったとしても、人は少しづつ回復するし、何もしないで生きてゆくということはできないものなのだ。生活の自由度が狭まっても書くことはできるわけで、書きたいというのは、新しく歩み始めるための最初の一歩になり得るのである。

「書く」ということは、毒にもなれば、薬にもなる。正しく使えば癒しを得られるし、見知らぬ他人の助けになるかもしれない。一方で、自分の評判を削りながら陥れる他人を探し続けるという人生もあり得る。

日本人にインターネットは向いていないかも……

先日来、LookbookとWEARを比べている。いくつか違いがある。WEARはファッションサイトなので服を中心に組み立てられている。一瞬当たり前のように感じられるのだが、Lookbookをみるとそうでもないことが分かる。Lookbookは「私をどう演出するか」という点に力点が置かれていて、服はその要素の一つだ。とはいえ服がおろそかになることはなく、ポイントになる要素(例えば靴など)は強調されている。これを実現するためには、自分を素材だとみなして客観視しなければならない。だが、訓練なしでは難しい。

一番の違いは顔の処理だ。WEARには未だに目を隠している人が多い。中にはうつむいていたり、サングラスで目を隠す人もいる。中には手を口に当てて口だけ隠している人たちがいた。彼らは洋服を見せたいのであって、顔を晒したくない。体は隠さなくて良いのかと思うのだが、そこにはコンプレックスはないようだ。つまり、個人として特定されたくないのだろう。

その一方で、顔を晒すとどんな不都合があるのかは、実はよくわかっていないのではないだろうか。

特定されたくないとはいえ、無視されるのも嫌なようだ。その証拠に顔を隠しても「いいねをお願いします」というような記述がある。個人を特定されて嫌なフィードバックを貰うのはいやだが、承認だけはしてほしいということになるだろう。

pdca承認を得るためには試行錯誤をして失敗を減らすしかない。このために古くから用いられるのがPDCAサイクルだ。デミング博士らが提唱し、日本には製造業を中心に広まった。日本版ではAはActになっているが、英語版ではAdjustという説もあるそうだ。

悪い評判を聞かないとこのサイクルが回せない。

一方で、フィードバックする側にも問題がある。改善を求めるわけではなく、批判が人格の全否定になることが一般化している。

距離が掴めない関係で、ネガティブな意見をいう技術がないのだ。他人のフィードバックがない分だけ、自分の意見や価値観が絶対的だと思ってしまうのだろう。つまり、この関係は受信者と発信者に共通の問題のように思える。

注目が得られない人は、ある程度来たところで発信をやめてしまうと思うのだが、成功してしまっった場合にも別の問題が起こる。ある時点でネガティブなフィードバックに接するとどうしてよいのかがわからなくなる。そこで相手をブロックするということが起こるのではないだろうか。

そもそも、情報発信をするとネガティブなフィードバックがあるいう仮定は間違っている。情報発信をしている人は多いので、わざわざ好んでネガティブなフィードバックを送ってくる人は多くない。それほど気にすることはないのではないかと思える。

多様性が許容できないのにネットを使いたがる老人

最近、Twitter上で「蓮舫の国籍を取り上げろ」と息巻いている人がいる。賛同者はほとんどいないし、自分が何を主張しているのかよくわかっていないようだ。一応、法律違反だからダメだということになっているのだが、法律が理念を実現するための道具だということが忘れられている。

彼らの本音は多様性の排除だ。まず多様性を武器にした蓮舫新代表に対する攻撃からはじまり、同じく多様性を持ったTBSのアナウンサーに対する個人攻撃になった。さらに人権や多様性の観点から二重国籍の人たちを擁護する識者を馬鹿呼ばわりしはじめた。

二重国籍はある種の特権だ。たまたま両親が別の国の出身であるとか、別の国で生まれたという偶然がなければ二重国籍状態にはならないからだ。多分、特権を持った人がもてはやされるのが許せないのだろう。

ここから本能的に自分が多様な世界にキャッチアップできないことを知っているのだろうということがわかる。

二重国籍は現行の法律では問題行動なのだが、変化が多い現代社会では有利に働くことが多い。国際競争力ということを考えると、多様な才能を日本社会に取り込むことができるかという問題が持つ意味は大きい。だから、これを機会に現行法制をどう変更してゆくかという議論が始まってもおかしくない。

これを見ていて、インターネット論壇も来るところまできたなあと思った。もともとネットに注目していた人たちは最先端の人たちだった。そもそもアクセスするためにはそれなりの技術が必要だったからだ。ゆえに初期のインターネットは多様な意見の大切さを知っていた。他者の意見に触れることで、新しい視座を得ることができるからだ。実はネットが出始めの頃は、気軽に他者の意見に触れるような環境はなかったのだ。

しかし、ある時点から出版社や新聞社で食べられなくなった人たちが集まるようになってくると状況が変わり8時メタ。多様な意見に触れることがよいという考え方は持たずに、自分たちが場を支配したいという気持ちが強い。他者が許容できないのだ。もともと出版社や新聞社は入った時点で「許されたものしか発言できない」という特権を得られるので、ネットでそれを再現しようとしたのかもしれない。現実世界で特権を失ってしまったからこそ、新天地のネットで王になりたいという気持ちが強いということも考えられる。

他者が許容できないので、とうぜん多様性も許容できない。ゆえに二重国籍など考えられない。良識的な意見も許容しないらしく、異論を唱えるものをことごとくブロックしているらしい。

日本社会では他者を許容できないことが成功の要因になることがある。組織は既得権防衛のための装置だからだ。しかしインタネットは基本的に多様な意見を排除できない。ブロックするというのは、自分の意見が相手に伝わらなくなるということなので、自らの影響力を排除するということなのだが、基本的なネットの仕組みがよくわかっていないのだろう。

もちろん、ブロックはネットの「間違った使い方」とは言えない。さらに言えば、自分で出資して会員制の空間を作っても良い。それができないのは、この人たちがもともとあった会員制のサロンを追い出されてしまったからだろう。

その意味では蓮舫問題は「ネットに不適合な人達」をあぶり出す装置になっている。