EXILEのダンスとジャニーズのダンスはどこがちがうのか

テレビ東京で4時間の音楽番組をやっており、そこにEXILE系のグループ「EXILE SECOND」が出てきた。常々、EXILE系の人たちの踊りはジャニーズと違っていると思っていたのだが、何がどう違うのか分からない。Yahoo!知恵袋で聞いてみたのだが、そもそもこの話題に興味がある人もいないらしい。体系的な研究はないようだ。

ジャニーズのダンスは伝統的な「歌謡曲ダンス」らしい。曲全体に流れがあり、動作が止まらない。源流をさかのぼるとバレエに行き着くのではないかと思う。全体的に優美に見える動きが多い。一方でEXILEのダンスには直線的な動きが多く、動作に切れ目があるようだ。リズムによるメリハリが付く。偏見だけでいうと「ストリート」というか「アフリカ系」の踊りなのではないかと思う。キーワードが断片的に浮かぶだけなのだが、ランニングマンはヒップホップであり、ヒップホップにはアップとダウンという二種類の相があるということである。あまりにも雑駁な感想なのだが、リズム重視なのは間違いがなさそうだ。

EXILEのダンスは組体操のように見える。日本人は生真面目なので、直線的なダンスを揃えてしまうのだろう。多分、アメリカ人はそこまで集団でダンスを揃えるという発想を持たないのではないかと思う。三代目 J Soul Brothersのダンスを見たが威圧的なのも特徴だ。足を大きく踏ん張って相手を脅かしてみせる動きが多い。これもストリートの影響なのではないかと感じた。

意外なことに踊りに着目すると、最近のジャニーズはあまり踊らないらしい。関ジャニ∞のダンスは途中で切れていた。昔のジャニーズのダンスがデザイナーが制作したブランドものの服だとすると、最近のジャニーズの踊りはカジュアル服のようだ。パーツパーツは印象的だが、全体としてはまとまりのない「振り」がダンスの代わりに使われている。

これが当たり前になると、却って本格的な踊りが時代錯誤に見えるようだ。なぜかSMAPはテレビ東京の番組には参加しないのだが、木村拓哉がきれいにダンスをすると「古くさいなあ」と思われたのではないかとすら思う。

かといって、ダンスのカジュアル化はジャニーズの踊り手が「ダンスができなくなった」ということを意味しないだろう。国分太一は普段は踊らない(キーボードなので踊れない)のだが、シブがき隊の一員として昔風のダンスをこなしていた。その他のジャニーズメンバーも基礎があって崩しているというところなのではないかと思う。

一方、その対極にいるのがAKB48グループだ。そもそもかわいい動作をさせることに力点が置かれている上に、ダンスの基礎もなさそうである。日本のダンスはこうした人たちでもそれなりに見せられるように進化してきたのではないかと関心した。

その点、E-Girlsは、胸を強調してみたり、足を開いてみたりと、大きくセクシーに見えるような動きが目立つ。体のコントロールという意味でも難易度は高そうだ。

ただし、日本人は男性も女性も幼形成熟を好むという印象がある。このE-Girlsはどのようなターゲットを意識しているのかよく分からない。男性が大人の女性を恋愛対象にするとは思えないし、かといって女性がE-Girlsのダンスをまねるのもなかなか難しそうである。

いずれにせよ、日本のダンスがどのような体系と歴史を持っているのかについて研究した人は多くなさそうだ。調べてみると面白いのではないかと思うが、多分踊れる人は実際に真似して踊ったほうが楽しいのかもしれない。

民主主義という暴力

イギリス国民がEUからの脱退を決めた。結果は重大で、世界の株価は下がり首相は辞任を表明した。スコットランドはイギリスから離脱すると息巻いている。一番驚いたのは当のイギリス人だったようだ。離脱に投票した人たちの中には「まさか過半数を取るとは思わなかった」という人がいるそうだ。ちょっと怒りを見せつけてやろうという軽い気持ちが大きな結果につながってしまったのだ。

このように民主的な意思決定プロセスは時に暴力的に作動する場合がある。なぜ、民主主義は暴力化するのだろうか。

人間は社会集団を維持するために暴力を封印して暮らしている。しかし、表面的に穏やかだからといってその人が暴力的でないという証明にはならない。イギリスで投票した一人ひとりの有権者たちが暴力的だったとは言えないが、その帰結は破壊的だった。一人ひとりが暴力だと思わないからこそ、大衆は暴力化するのだ。

背景には集団思考があるようだ。自分が極端な判断をしても誰かが調整して責任を持ってくれると考える心理状態を集団思考と呼ぶ。イギリス人は「ちょっと脅かしてやろう」と考えていたようだが、まさか自分たちのささやかな一票が国の形を大きく変えてしまうことになるとは思っていなかったのかもしれない。

  • 国民は根拠のない自信を持っている。
  • 叩く相手が見えず、軽い行動にはリスクがないと感じてしまうので、自分たちの行為が深刻なダメージを相手や自分に与えるとは想像できない。

情報そのものは氾濫しているが、国民一人ひとりの情報処理能力はきわめて限定的にしか動作しない。情報を埋もれさせて隠すのも簡単だし、逆に見つけさせるのも簡単だ。誰にでも分かるところに隠しておけば、誰かが見つけて拡散してくれるだろう。

  • 国民は自分のスケールでしか比較・検討・分析ができない。
  • 「市民感覚」は全てを網羅しているとは言えない。
  • 直近の変化にだけ反応し、蓄積する変化には対応しない。

大衆にとって最も分かりやすいのは「誰が正義で」「何が敵か」というメッセージのようだ。

民衆に暴力的な行動を起こさせるのは実に簡単だ。対立構造を作れば良い。いったん枠組みを作ることができれば同調圧力が働き運動体は自然に動き始める。「相手が優れていて序列的に上だ」と思わせてしまうと戦意が鈍るので「敵だ」と認識させるのがコツである。善と悪という構図さえ作り出すことができれば、運動は完成する。普段バラバラな人たちほど作られた枠組みに舞い上がりやすい。孤立した群衆は扇動者の味方なのだ。職場を破壊し地域社会や家族を分断すれば、国民は喜んで権力に従うということになる。

  • 権威との一体感を与える。
  • 新しい序列を与える。

キャメロン首相は国民投票で離脱派が負ければ保守党内の離脱派を抑えられると考えたようだ。しかし国民を理論的に説得することができなかった上に、壊滅的な結果をもたらし、世界経済を混乱に陥れることになった。つまり大衆的な暴力は火をつけることはできても制御はできないのだ。

一方で日本でも民主主義が破壊的な結果をもたらすことがある。舛添都知事を辞めさせるに至ったのは投票ですらなく、国民のチャンネル選択権だった。一人ひとりの国民が舛添裁判について見たがるのでメディアが燃え上がるために、舛添都知事は都知事の職を投げ出すことになった。市民感覚では不適切だが違法ではなかった。本来は法律そのものを是正すべきだが、法律は放置されたままだ。これが延焼しないように、自民党と公明党は舛添氏を切った。もし守っていれば政権批判にまで及んだかもしれない。

何が正義かという問題はきわめて流動的だ。しかしながら、イギリスの離脱派の勝利は、各地の分離主義者を力づけつつある。オランダでもEUからの離脱を訴える動きがあり、スコットランドもイングランドからの分離を訴えている。カタロニアもスペインから独立する法的根拠が得られると主張する人たちがいる。トランプ候補はアメリカも再独立すべきだ(何から?)と訴えており、サラ・ペイリンに至ってはアメリカは国連から脱退すべきだと訴えているのだ。

誰かが火をつけた暴力は延焼することがある。これをティッピングポイント(沸点)と呼ぶことがあるそうだ。

イオンモール無差別殺傷事件と報道

イオンモール釧路昭和で1人が殺され3人がけがをする事件が起きた。いずれも女性だった。松橋伸幸容疑者(33歳)はすぐに逮捕され「人生を終わりにしたかった。誰でも良かった」という旨の供述をした。

普段なら、殺人者の人となりなどを仔細に報道する様子が見られるのだが、今回はあまり報じられることはなかった。他に大きなニュースがあったからという事情もあるが、この容疑者が「精神疾患」を煩っていたことが分かったからだ。ネットの報道の中には病気は統合失調症だと伝えているものがあるのだが、大手マスコミは「精神疾患だ」としか言っていない。多分、報道コードの制限があるものと思われる。

松橋容疑者はホームセンターで包丁を買ってから市内の病院(何科の病院かは伝えられていない)に行ったあとでイオンモールに行き、すぐに包丁で女性たちを刺したそうだ。職場(新聞配達員だった)は病状を知らなかった。容疑者は家族と同居していたので、家族は病状を管理していたものと考えられるだろう。

マスコミが病名を伝えないのは病気への偏見が助長されるのを恐れているからだろう。統合失調症の病状は投薬で抑制可能とされているのだが、社会復帰しても「何かしでかすのではないか」とされ、復帰が難しいケースが多いという。かつては「発祥したら病院に閉じ込めておけ」という風潮があったのだが、人権上の問題がある上に社会的な負担も大きいため社会復帰させるという方針に転換している。その方針への悪影響を恐れているという側面もありそうだ。

精神的な不調があると、鬱か統合失調症というラベルを付けて「とりあえず投薬する」というお粗末な実情があるのも確かだ。精神科医は病気が良くなってもならなくても処方箋さえ出していれば報酬が貰えるからだ。故に松橋容疑者の病状がどんなものであり、どのような不調を抱えていたのかは分からないし、それが病気に関係しているかも分からない。

報道をタブー視することには、偏見を助長しないという効果もあるが、劣悪な環境が改善される機会を奪っているという効果もあるのだ。よく分からないものにはふたをしましょうということで、それをきれいな言葉で「コンプライアンス」と呼んでいる。実情は目を背けているだけである。

一方で、テレビのコメンテーターは心神耗弱について心配していた。つまり、病気=善悪の判断が付かないという印象があるためだろう。放送コードに引っかからないように配慮しつつも「心神耗弱で無罪放免になってしまうのは好ましくない」という論調だった。視聴者が好みそうなことを言っているという自覚があるのだと思うのだが、視聴者はテレビが他人を罰するのを見たがっているという自覚があるのだろう。

ジャーナリズムの名前の元で「悪」を叩くということが横行しており、少しでも複雑な事情があり表立って叩けないと「商品価値がない」とばかりに次のセンセーショナルなニュースに飛びつくのである。

ネガティブな感情をネットにぶつけるとどうなるのか

Google Search Consoleで500エラーが増えた。対策は簡単だったのだが、これは情報が整理できたから言えることで、実際に問題が起きているときには「何がなんだか分からない」状態だった。

  • Google Search Consoleで500エラーが増えたら、サイトマップ・RSS・内部リンクを確認する。
  • 問題が発見できたら、問題を修正する。

今回は結局、内部リンク(グルーバルナビ)が原因だった。

マルチサイトで3つ運営しており、テンプレートもプラグインも共通の「はず」なのに、1つのサイトだけで問題が見られた。500エラーは大量にあるので「サイトマップ」が間違っているのだろうと「思い込んで」しまった。だが、いくら探してもデッドリンクは見つからない。

そこでGoogleのフォーラムとWordpressのフォーラムに問い合わせた。結果、Googleで不愉快な思いをしたのは過去のエントリーの通り。だが、Wordpressのフォーラムで問題は解決した。

もともと、www.xxx.com/2016/06/記事名/のようになっていたのだが、グローバルナビゲーションのトップに帰るリンクが単にindex.phpになっていたため、Googleがこれをwww.xxx.com/2016/06/記事名/index.phpと誤認したらしい。ここにアクセスするとWordpressが500エラーを起こすのだ。まあ、サイトを立ち上げるときにチェックしていれば防げた問題だ。

途中「500エラーを引き起こす原因があるとインデックスに不利だ」と考え、リンク形式をwww.xxx.com/?p=9999形式に変えた。だが、後でよく考えてみると、クロールエラーが出ているわけだから、ロボットはアクセスせず、従ってインデックスされているはずはない。だが、迷っているときには意外と基本的なところが分からなってしまうのだ。

ということで慌ててサイトマップを再送信したのだが、一件も登録されなかった。その後徐々に登録は進んだ。数日で1/3程度が登録された。しかし、古いインデックスは削除されない(Wordpressでは古い形式でアクセスするとトップページに戻る仕組みになっている)ので「内容は異なるがとりあえずアクセスできる」という状態になる)ために、ユーザーから見ると意図しない情報が表示される結果になる。

/?P=形式だと他のサイトにURLを貼りやすいので便利なのだが、結局もとの日本語URLに戻した方がよさそうだという結論になった。つまり、Wordpressではいったん情報が広まってしまうと、パーマリンクの設定を変えることは難しいようだ。

さて、問題に直面すると意外と視野狭窄に陥る。仮説に捉われてしまう訳だ。そこで外からの視線は大切だ。目が多ければ多いほど問題が解決しやすくなると言えるだろう。

実際にはネガティブな感情に捉われた人がいて憂さ晴らしのターゲットにされたりすることもあるのだが、それでも助力を求めるのは大切なことだと思った。今回当たったネガティブな人は「自分のせいでトラブルにあっているのに、人に助けを求めるとは……」という態度だった。普段から周囲に助けてもらえていないのかもしれない。そこで他人に「自己責任」を迫り、その環境が再生産されているのではないだろうか。

冷静に考えると助力を求めるべきとは思うが、問題が分からずにイライラしているところにネガティブな攻撃をぶつけられると、かなりストレスになるので、くれぐれも悩んだ人に出会ったら優しくしてあげたいものである。結局のところ、よいコミュニティを作れば、自分の問題解決も楽になる訳だし、ネガティブな感情ばかりぶつけていては、いざというときに助けを得られなくなるのだ。

なぜテロはなくならないのか

問題を解決するためには問題の原因を取り除くとよい。原因が特定できない場合、原因についての仮説を立てることになる。今回はなぜテロがなくならないのかを考えてみたい。

そもそもテロとは何だろうか。テロは政治的な目的のために人の命を奪う行為を指す。恐怖により人を従わせるのがテロである。故にテロ犯には政治的な意思がなければならない。犯人は死ぬかもしれないが、仲間がその意思を引き継ぐことになる。

しかし、この定義は広く受け入れられているとは言えない。最近のテロの定義は「イスラム教徒が起こすキリスト教世界の破壊」という定義だ。この定義を作ったのは9.11テロの後のブッシュ政権である。この解決策としてブッシュ大統領が提示したのは、外国にいるイスラム教徒の過激派(テロリスト)を殲滅するというものだった。

だが、この仮説と戦略は正しくなかったようだ。実際にはイスラム過激派に「インスパイア」されたホーム・グロウンテロと呼ばれる人たちはなくならない。中にはイスラム教とは全く関係なく殺人を行う人もいる。

ところが、いったん出来上がった「仮説」を取り下げるのも難しい。アメリカではトランプ候補が「イスラム教徒を入国禁止しろ」と主張している。だが皮肉なことにトランプ候補はイギリス人に命を狙われた。このイギリス人は自分の命を投げ出して政治的メッセージを伝えようという意味ではテロリストなので、トランプ氏の主張に従うと、イギリス人を入国禁止にしなければならなくなる。いったん入ってきたイギリス系の移民(建国に関わった人たちの多くはイギリス系だ)もテロリスト予備軍ということになってしまう。イスラム教徒だけがテロを起こす訳ではないので、この解決策は破綻している。

テロは不安だ。不安を解消するためには原因を取り除きたいと思うのは自然な感情だ。だが、これが結果的に「外国のイスラム教徒を叩く」という無意味な行動につながっている。だが、この行動は結果的に憎しみの再生産につながるだろう。

にも関わらず、テロに対するイスラム仮説がなくならないのは、この仮説が楽だからだろう。一般大衆は「イスラム教徒を叩いてさえいれば」テロが防げると誤認してしまう。つまり、人は自分の支出が一番少ない解決策を自然に選んでしまうということになるだろう。

そもそも、現在テロ行為の背景には格差の拡大があるようだ。もうこれ以上生活の改善が望めないと思った時「社会に見捨てられている」という感覚が生まれ、テロ行為が発生する原因になるということがいえそうだ。政治的主張というにはあまりにも未熟な怒りの表明である。故にテロをなくすためには格差をなくすべきだと言える。だが、そのためには自分が獲得したものを他人に渡さなければならない。これは非常に難しいため、テロはなくならないのだろう。

いずれにせよ欧米の指導者たちは社会の分断が結果的にテロを生み出すことに気がつき始めているようだ。そのために大量殺人が起きたときに「これはテロだ」と断定することに慎重になっている。たいていのケースにはそれなりの複雑な背景があり、それを解明しない限り問題の解決にならないとことを実感しはじめているのではないかと思われる。

政治を低級なバラエティ番組のような状況にしたのは誰か

自民党に質問というTwitterのハッシュタグを見ていた。内容はいわゆる「左派」と呼ばれる人たちがこれまで呟いていることとほとんど違いはなく、新しいアイディアや視点は発見できなかった。彼らは答えも分かっているようで、あえて質問する意味はなさそうなことばかりだ。例えば「憲法改正を争点にしないのはなぜか」と聞いているのだが、彼らが期待している答えは「国民に都合の悪いことを争点にしたくないからだ」というものだろう。だが、もちろん自民党がそんなことを答えるはずはない。

自民党・公明党政権は民意の合意がないままで諸政策を進めているので、積み残された民意(それは全国民の総意ではないのだろうが)は解消点のないまま渦巻いている。この鬱積した世論が噴出した形だ。

これを見ていて不思議だったのは、なぜ自民党が予め仕込みの質問をしなかったのかということだ。たいてい、最初の質問によって雰囲気が決まるわけだから、最初にアベノミクスを礼賛する質問をしていれば、いわゆる「アンチ」は寄り付かなかったはずである。それが山本一太議員の失態によるものか、Twitter社のキャンペーン・コンサルタントの不始末なのかは分からない。

いわゆるネトウヨの人たちは「くだらない」とは呟くものの、リスクを取ってその空気をはねのけようとまではしなかった。一番割りを食ったのは、本当に質問のあった人たちだろう。両親の介護サービスが削られているがなんとかしてほしいという質問が見られたが、このような切実な声はごく少数だ。政治が近いところにありそうで意外と誰も政治の恩恵や害を実感していないことが分かる。実際に政治の影響を受けている人たちは、それどころではないのだろうなとも思った。

いわゆる「ネット工作員」などという人たちは存在しないか無力な気もする。もしネット工作員がいるのなら、安倍政権礼賛のコメントで埋まっていたはずだ。ネット工作員の人たちが与えられているスクリプトが今回はうまく機能しなかったという可能性もある。または、空気を作って他人を叩くのは楽しいが、いったん「アンチ」の雰囲気ができてしまったことで工作員たちが萎縮してしまったのかもしれない。

ネット工作の役割は炎上を抑えることにある。左側のコメントに様々な手法で立ち向かい「火消し」してしまうのだ。いわゆる破壊工作である。普段は非常に有効な戦略だ。この破壊活動がないと舛添人民裁判のようなことが簡単に起ってしまうだろう。だが、彼らは安倍政権の政策について理解しているわけではないので、即興的な対応ができないのだろう。ましてや「質問の形を取って政権を礼賛する」などという高等なことはできないようだ。空気に反してまで立ち向かおうという姿勢もなさそうなので、いったん空気が変われば、簡単に駆逐されてしまうかもしれない。

このやり取りを見ていて、日本人は政治に興味がないのだろうなと思った。関心の対象になっているのは政治ではなく「部族の一員になって他部族を叩くこと」である。つまり、政治は一種の(それもかなり下等な類いの)エンターティンメントと化しているのだ。もっとも、エンターティンメントですらないのかもしれない。実情はいじめに近い。

この状況は自民党が作り出した物なので(多分、ネット工作などということを考えだしたのは自民党だ)同情するに値しない。しかしソーシャルメディアは「課題を発見し」「非顧客を発見する」のに向いたメディアだと考えると、宝の山から得られるはずの潜在的利益を毀損していることになる。生活に行き詰まっている人や、将来に不安を持っている人は多いだろうし、日本を成長させるアイディアを持っている人もいるはずなのだが、そういう人たちは不毛な「政治」議論から距離を置くことになるのだろう。

リステリンユーザーは食べることに大胆です

リステリンが不自然なコマーシャルを流している。それは「リステリンユーザーは食べることに大胆です」というものだ。日本語は主語を提示しないので、リステリンユーザーは大胆に食べるとこなしても不自然に聞こえる。多分「大胆に食べよう」くらいになるのでないだろうか。このキャンペーンは本国のものを輸入したらしい。翻訳したことで不自然さが生まれたのだろう。

「大胆に」と訳されているのは英語ではBoldだが、これは日本語でいう「ワイルドだろう?」に近いのではないかと思う。つまり「無茶な」というような意味である。アメリカでは若者はワイルドであることを求められているということになる。

そこで検索したところ、「大胆の研究」というビデオを見つけた。早口なのだが難しい言葉は使っていない。

https://www.youtube.com/watch?v=ZJsdda1t9fQ&feature=youtu.be

このビデオから分かるのはアメリカ人の問題解決指向だ。問題を解決するには科学的研究が必要だと宣言し、仮説(hypothesis)を立てている。そしてある程度のコンフィデンスレベルを満たした物を解決策とするわけだ。このビデオは多分パロディなのだが、それほど教育の中に定着している(あるいは蔓延している)考え方なのだと言えるだろう。

ただし、このビデオの「科学的研究」はかなりいい加減である。Studies show that studies show things (研究は研究した結果を示す)と言っているのだが、これは何も言っていないのに等しいし、95%のコンフィデンスレベルに対してMath (算数・数学)says that’s high!と言う。

アメリカ人は「科学的に割り切って、仮説をどんどん立てて、問題を解決してゆこう」と考える。だが、科学的なソリューションを好むから論理的というわけでもなさそうだ。

多分、日本のコマーシャルは「リステリンユーザーは大胆」という「疑似事実」や「仮説」の宣言そのものが不自然に感じられるのではないかと思う。日本人にとって「事実」には仮説は含まれないのだ。それよりも多分、大胆だと思われる芸能人を見せて、それと「同一化」させる方が日本人には好ましく感じられるのではないかと思う。両国の文化はかなり異なっており、直接持ち込むとちぐはぐな感じが残るのだ。

女はややこしいなあと思った話……

今回は、やや炎上含みのタイトルを付けてみた。最近「暴君と化す大衆」というテーマで考え事をする機会が多くなった。舛添人民裁判やトランプ候補のポピュリズムなど、素材には事欠かない。まだ考え途中なのだが、いくつか分かったことがある。

  • 人には誰にも「これは絶対に正しい」という領域(これを正義と言ったりする)がある。
  • そして人は正義を基準にして序列を作り上に立ちたがる。

「人がいかに正義を身につけるようになったか」という点がポイントだ。例えば若者が選挙に行かなくなったのは、自分たちが政治の主因こうであるという感覚を見いだせなくなったからだと思うのだが、ではなぜ中高年は疑いもせず自分たちの市民感覚が政治に反映されるべきだと考えるのかというような疑問が出てくる。

いずれにせよ、この2つが結びつくと、暴力としての大衆が表れるというわけだ。こうした図式は至る所に見られるのだが、特に注目しているのが「ご近所付き合い」である。簡単に正義と正義が対立しやすい上に逃げ場がない。また家という財産が絡むので後に引けなくなってしまうのだ。

さて、今回こんな体験をした。正義が形成される経路が分かり面白かった。

運営するサイトの1つで不可解な現象が起きている。Googleが不正なURLでアクセスしてくるのだ。不正なので500エラーが返っているようだ。気持ち悪いのでなんとかしたい。検索してみたもののこんな現象は起きていないようなのでGoogleのフォーラムに投稿してみた。

この手のフォーラムには「エキスパート」と呼ばれる人がいる。一般の投稿者のうちでフォーラムに貢献する人を「エキスパート」と呼んでいるのだ。その「エキスパート」の女性は、このような経験をしたことがないらしいのだが、日課として書き込みをしているらしく「〜ではないか」というようなアドバイスをくれた。

しかし、あまり的を得ているとは思えなかったので「そうではありませんでした」と書いた。すると次に来たのは「あなたは私の言っていることを理解していないようだが、あなたが言っているようなことは100%起こりえない」という返事が来た。怒っているようである。

内心「知らないなら黙っていればいいのに……」と思った。そこで「だから女はなあ」と思ったのだ。女性の上役や部下などにありがちな態度だなあと感じた。

その後トラブルはWordpressのフォーラムで解決した。グランドナビゲーションに間違いがあり、そこからクロールしていたらしい。RSSやサイトマップではなかった。「Wordpressで解決しました」と書き込んだところ、Googleの掲示板では次のような書き込みがあった。相当怒っているらしい。これはそのまま残っている。

低級なバグなのに人を否定する偉そうな態度が取れた物だなと感動する。低級な知識しかないようだから他人に対する物言いを改めよ。

それでも収まらなかったらしく、リンクをたどりWordpressのフォーラムにやってきて「この人は理解力がない低級な書き込みをしている」と書き込んでいた。Wordpress側の世話人は「ここはWordpressの問題を書き込む場所だ」といって発言を削除した。

政治的な発言を書き込むブログではかなり注意して発言しているのだが、技術的な内容なので油断していたという反省点はある。しかし、実際に燃え上がるのはこういう些細なやり取りなのだなあと思った。そう考えると、政治的な「炎上案件」も、人工的に作られている物は除いて、実際には「俺のいうことを否定された」「善意でやっているのに言うことを聞かなかった」などの些細なことが発端になっている可能性が高いのではないだろうか。

日本人には悪い癖がある。何か問題があると過去の経験に基づいた「解決策」を提示する。そこで未知の問題にぶつかると、それを例外としてなかったことにしたがるのだ。なぜそのように思うのかは分からないが、多分「自分の管轄するドメインの平和が乱された」という気分になるのではないだろうか。

例えば組み体操の例で考えてみよう。組体操では事故が起きる。最初先生は「お前の鍛錬が足りないからだ」と「親切心で」アドバイスしてくる。だが、組体操には根本的な問題があり生徒の鍛錬だけでは事故は防げない。最悪、死亡事故や障害が残るケースもあるのだが、すると今度はそれを「運が悪かった」と例外扱いしたがるのだ。曰く「この生徒には才能がなかった」とか「やりたくないなら見学すればいい」というような具合である。

本当はその人が組体操界を背負って経っている訳ではないはずなのだが、ついその気になってしまうのだろう。組体操についてよく知っているという自負があり、問題が解決できないと、人格が否定されたと考えてしまうのではないかと思う。

実際に組体操の本家である日本体育大学は「現在学校で行われている組体操は危険だ」と言っている。つまり、背負って立っていると考えているものは間違いである可能性が高い。だが、それでも「人よりも高く」するのがやめられない。専門家として振る舞ってきたペルソナを捨てられないのだ。

このような倒錯した正義感は至る所で見られる。Yahoo!知恵袋などでは日常的に見られる光景である。「知識がある」方が偉いのであり「偉くない人が言うことを聞くべきだ」という図式が生まれる。「知識」を使って人を脅す書き込みも少なくない。世の中は不快な出来事に満ちているのに、なぜか不快を再生産し続けるのだ。

問題解決ができないと「お前が悪い」「そんな問題は存在せずに自己責任だ」ということになる。「自己責任」という言葉の裏には「私には解決できない」という気持ちが見え隠れしているると思った方がいい。「保育所が見つからない。お母さんの自己責任だ」というのは「私には解決策が思い浮かばないから、なかったことにしろ」というのとだいたい同じ意味である。問題を解決したい人は、まず「その問題が存在すること」を証明させられることになり、そこで疲弊してしまう。

問題を解決したい場合、まず「問題」と「人格」を分けて考える必要がある。最近アドラー心理学が流行しているようだが、課題の分離をすることで問題解決がしやすくなるし、感情的な議論は少なくなるだろう。

さて、ここまで書いてきていよいよ「だから、女は」の部分だ。女を差別するのかと言われそうだが、実際に差別している。ではこの差別はどこから生まれるのだろうか。男性は総合職化するにつれて「課題と人格を分離」することを学ぶ。専門知識だけでは課題が解決できなくなるし、全く専門が異なる人たちの相手もしなければならないからである。総合職にならない人は「使われる側」なので、そもそも相手を仕切れる人なのだという望みは持たない。

だが、女性は違う。女性は専門職のエキスパートとして過ごすことが多い。そのうちに専門知識の多寡がその人の評価につながることになる。さらに悪いことに男性管理職は「細かいことが分からない」ので、細かいことを職人である女性に任せることになる。さらに「先生や親の言うことを聞くのが良い子」という教育もあるので、専門知識の「お城」ができてしまうのだ。場合によっては「私らしい感性」が持ち味になることもあり、さらに人格と課題の癒着が進む。

こういう女性は自分の経験が通用する限りにおいては「実に面倒見がよい」可能性が高い。しかし、いったん限界に達すると「問題それをなかったこと」にしたがる。「私のいうことを聞けなければ知りませんよ」となるのだ。

これは「気質」によるものではないと思う。例えば経営学を勉強しに来ている女性は課題と人格の分離ができていたように思える。多分、分離しないと課題がこなせないからだろう。ある種の差別があり、それが「だから、女は」という評価を再生産してしまうのだと思う。

こうした、私のいうこと聞きなさい的な「正義」は至る所に蔓延しており、問題の解決を難しくしている。

いずれにせよ、余計な感情的な軋轢を防ぐのは意外と簡単かもしれない。単に目の前にある共通の「課題に注目」すればよいのである。

 

5分で写真からイラストを作る方法

ウェブサイトなどにイラストが欲しい。しかし、絵なんか描けないという人も多いのではないだろうか。Photoshopがあれば簡単に写真からイラストを作ることができる。手順を2つご紹介する。

まず、スマホなどで適当に写真を撮る。加工するのでベタな絵で構わない。これはあじさい。構図もまったく工夫されていない。

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次にこの写真のレイヤーを複製する。レイヤーは2つ作る。一つは「フィルタ」から「表現手法」の「輪郭検出」を選ぶ。「イメージ」から「色調補正」の「彩度を下げる」を選ぶ。もう一つは「イメージ」から「色調補正」の「ポスタリゼーション」を選択し色数を下げておく。今回は3色にした。

必ずふちの絵を上にしてレイヤーの重ね方で調整する。「比較(暗)」や「焼き込みカラー」などから工夫すると良い。すると、ディテールが消えて描いたような写真が得られる。適当に撮影したとは思えない。

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次のやり方はもっと簡単だ。「フィルタ」から「インク画(外形)」を選ぶだけ。

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サイトのバナーやデスクトップピクチャーなどに応用できる。これはベンチで食べる前のドーナツとパンを並べて撮った写真。こんなどうでもよい素材でもポップな壁紙にできる。簡単にイラストが増産できるのだが、くれぐれも自分が著作権を持っている写真で試して頂きたい。

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ブログ用にキーワードを見つける

このブログは趣味で書いているので、好きなことを書けばよい。だが、アクセス数目当てでコンテンツを開発するとなるとそうも行かない。ある程度作戦を立ててコンテンツを作らなければならないだろう。マーケティングに活かしたいならなおさらだ。さて、そのためにはどのようにすればよいのだろうか。

ここでは、ガーデニングについてのブログ用のキーワードマップを作ってみる。必要な技術はネットワーク図を書くツールと表計算ソフトだ。今回はCytoscapeとOpenOfficeを使った。

まず、いくつかの種になるキーワードを抜き出してGoogle Trendで調べてみる。例えば、ガーデニング、ハーブ、などである。これをGoogle Trendで検索すると関連キーワードが出てくる。芋づる式にキーワードが出てくるので、これをノートに書き出す。最後Open Office(もちろんExcelでも構わない)にワード,関連,ワードという形でまとめてゆく。最終的にCSVデータになる。これをCytoscapeにかけるとネットワーク図が作られる。プロセスは実に簡単である。Google Trendから直接CSVデータをエクスポートすることもできるのだが、今回はやらなかった。全ての用語を拾うと単語数は爆発的に増える。

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リサーチの目的は表データを作った時点で半分ほど完了している。例えばガーデニングや庭などのトレンドは2004年をピークにして下がっている。一方、プランター、ベランダ、観葉植物、野菜などはトレンド化している。花を育てるよりも、実用的な野菜を育てることに関心が移っており、なおかつベランダやプランターなどに関心が向いているようだ。ガーデニングで玄関に寄せ植えを作ったりするのだが、これもダウントレンド傾向だ。代わりに人気が集まっているのは「玄関の風水」らしい。アパートの玄関は北側にあり日当りが悪く植物を育てることができないのかもしれない。

以外と植物の名前で検索する人は少ない。代わりに人気のあるワードは「レシピ、育て方」などの用事語である。つまり、ユーザーは(当たり前なのだが)用事を済ませるために検索をするわけだ。だから「リシマキア、バラ、キュウリ」などのワードで検索する人はそれほど多くないわけだ。バジルなどは育てるのは簡単なので、できた後どう料理するかが気になるのだろう。「レシピ」や「ソースの作り方」などの用事語が重要なのだ。

ということで、発見もある。例えば日陰の庭を持て余している人は多いらしい。またむき出しの地面をどうにかして植えたいという人も多いのだろう。グランドカバーという言葉がある。これも用事語の一つだ。それに付随して、クリーピングタイムとかリシマキアなどというグランドカバープランツが検索されている。スターになるワードもある。グランドカバープランツ界のスターはヒメワレダイソウである。リッピアとも呼ばれて育てるのが簡単にな割に強いとされている。

よくマーケティングの教科書に「人々の用事を満たすために」商品を開発せよなどと書いてあるのだが、実際に用事を見つけるのには手間がかかる。かつては高いお金を出してパネルとモデレータを雇って特別な部屋を借りてリサーチするのが一般的だった。しかし、現代ではある程度のリサーチであればGoogleで検索すればよいのである。もちろん、それまでにワードの蓄積があるだろうから、おおざっぱなトレンド把握以上のことができるだろう。逆に商品を目の前にして「次のフェアでどのように売り出そう」などと考えると、ユーザーの用事を見失うかもしれない。

このようなチャートはブレインストーミングの材料としても使えそうだ。もう、やっている人も多いかもしれないが。