「リーマンショック」を最初に使い始めたのは誰か

民進党の議員が日本語文書に入っていた「リーマンショック」という言葉が英語文書にない、印象操作だと息巻いている。知らなかったのだが、この用語は和製英語なのだそうだ。政府は英語にはない表現なので使えなかったのだろう。wikipediaの対応する英語項目は「リーマンブラザーズの倒産」で、重要ではあるが金融危機の一部にしか過ぎない。

まあ、それだけの話なのだが、別の疑問が湧く。この和製英語は誰が使いだしたのだろうか。これも今回始めて知ったのだが、Google Newsにはニュースのアーカイブ記事を日付付きで検索する機能がある。調べてみたところ、ロイターの記事が見つかった。リーマンブラザーズが破綻した翌日に銀行の株を中心に値を下げた。これを金融業界の人が「リーマンショック」と呼んだのだろう。当初は鍵括弧付きで報道したのだが、そのうち一人歩きをすることになったようだ。今では2008年金融危機のこととして一般に通用している。

要は株価急落がリーマンショックだったことになる。日本人にとって経済危機とはすなわち株価が下がることなのだろう。欧米では住宅ローンの破綻が相次ぎ、全体的な金融危機になっていた。リーマンブラザーズの問題だけでもなかったわけだ。また、リーマン・ブラザーズが破綻したから金融危機が起った訳でもない。だから金融危機をリーマンブラザーズの破綻で代表させることはできないのだ。

このショックという言葉の元祖はニクソンショックだろう。一般的には、アメリカがドルを金に交換するのを停止したことを指す。ニクソンショックは英語だった。その後オイルショックという言葉が生まれたが、オイルショックも和製英語なのだそうだ。その後「〜ショック」という言葉は使われなくなったのだが、2000年代後半のITバブル崩壊の頃から株価急落の意味で頻繁に使われるようになった。英語ではショックと呼ばずにクライシスというのが一般的なようである。

リーマンショック(2008年金融危機)は100年に一度の未曾有の状態と言われた。それが8年で再来するというのは、1000年に一度の東日本大震災がもうじき起るというのに似ている。とはいえ、翻訳文書に「リーマンショック」という言葉がないから「印象操作だ」というのも滑稽な話だ。そもそも国内でしか通用しない和製英語なのだ。

Nuke is Cool!

昔、アメリカでマルチメディアタイトルの制作に携わったことがある。インターンとして学校からアサインされたのだ。多分、選ばれたのは日本人だったからだろう。そのマルチメディアタイトルは原爆に関する物だったのだ。そのときに驚いたのは、同世代の人たちが「Nuke is cool」だと考えていたことだ。核カッコイイくらいの意味合いだと思う。かなり感情的に反抗したのだが、英語がつたないせいもあったのか全く分かってもらえなかった。

ポイントになるのは、この人たちが特段強い反日感情を持っているわけではないということである。もし反日感情があればそもそも日本人など雇わない(インターンではあるがアルバイト程度のお金はもらっていたので)だろう。また、彼らはユダヤ系だったので、戦争に対する知識は平均のアメリカ人以上には持っている。さらに、マルチメディアタイトルを作るためにそれなりに勉強もしている。それでも放射能のあのマークをクールなシンボルとして扱い、ロック音楽に合わせたグラフィックスを作り「核カッコイイ」と日本人に悪気なく言ってしまうのだ。つまり、この言葉が日本人の心情を傷つけるなどとは考えていないことになる。彼らはかなり驚いたようで日本人を加えてしまったことに当惑していた。

今回オバマ大統領が広島を訪問したとき「アメリカは原爆投下を正当化している」と考える人が多かったようだが、若い世代はそこまでの知識を持っている訳ではない。どちらかといえば、スターウォーズのようなノリで捉えているのではないかと思う。日本人は広島・長崎を「悲惨な現実」と刷り込まれているので、そこに大きな文化的摩擦がうまれる。海外に出ている人は日の丸を背負っているような気分になりがちだ。

今回の件は「オバマ大統領が広島を訪問したことでアメリカ人の意識が変わった」などと捉えない方がよいと思う。アメリカは銃を所持する権利が認められている国なので「自衛のためには核を持つ」と考えることに抵抗感が少ないだろう。そもそも、覚えていないとか意識していない人も多い。殴った方は殴ったことを忘れてしまうものなのだ。日本人もアジア各国で行ったことを覚えていないが、被占領国はいつまでも覚えている。

あまりショックを受けないように、一般的なアメリカ人が原爆に対してそれほど強い意識を持っていないことは知っておいた方がよいのではないかと思う。それでも相手を変えたいと思うなら、なぜ原爆が馬鹿げていて危険な兵器なのかということを「日本語で」説明できるようにしておいた方がよいと思う。だが、これはなかなか難しい。日本はアメリカの核兵器に頼った自国防衛を行っている。被害だけをクローズアップしたり、一方的に「悲しいお話」にすることもできないのだ。

もっとも、公の場で日本人にあえて「原爆は正当だった」などという人は多くないと思う。唐突に政治の話をしたり過去の諍いを蒸し返したりはするべきではないというのが、ポリティカル・コレクトネスだからである。

100円均一観葉植物の土は使えるのか

100円均一ショップで観葉植物の土を買った。ネットで調べると「100均の土は使わない方がよい」という話を多数見かける。本当のところはどうなのだろうか。

成分を見ると「ココピート」と堆肥を混ぜ合わせた土のようだ。赤玉土が入っているがごく少量。多分、100均の土を最大の欠点は、赤玉土に入っているだろう微量のミネラル成分が欠けているところなのではないかと思う。つまり、後から肥料を足してやることが前提になっているのだ。ココピートはピートモスと違って劣化による目詰まりは少ないそうだ。

ネットで調べるとココピートの原産地はスリランカだそうだ。輸入する際のトラブル(鉄くぎが入っていたり、塩害があったりする)が多数見つかった。多分もともとは産業ゴミ(つまりココヤシのゴミ)なのだろう。また有機質は酸度が高い可能性がある。一応、100均の土には酸度・塩分濃度に関する保証が書いてある。

今回植え替えたのはマダガスカルジャスミンとオリヅルランだ。マダガスカルジャスミンは10年選手なので扱いが雑になりがちだった。古土を使って植えていたのだが、土になじんでいない上に根に土が充満していない状態で半年放置されていた。そのような状態に比べると、100均の土は「まだ、まし」と言える。繊維質が根になじむので通気性はよくなるだろう。

またオリヅルランは持て余し気味で捨ててしまおうかというものだった。これは水苔でも育つほど丈夫なので土にはあまりこだわらなくても良さそうである。

土が余ったので余分な植木鉢にも入れた。ただし、使えるかどうかはオリヅルランなどの経過を見て判断したい。

ただし、どちらも肥料は必要そうなので、100均で観葉植物の肥料というものを買ってきた。コーヒー殻と紅茶殻でできているという怪しげなものだが、一応お守り代わりに蒔くことにした。繊細な植物には微量元素(マグネシウムなど)の補給が必要になるのだろう。また、酸度に弱い植物(タイム、ローズマリー、ラベンダーなど荒れ地で育つ植物)にはあまり使いたくない。また繊維質の土は乾燥には弱そうなので、素焼き鉢で外に置くというような使い道には向かなさそうである。最後にココピートは4〜5年でへたるそうなので、植え替えは必須だ。ただし、土を4年も放置するというのはなかなか考えにくい。

以上の特性をふまえると、100均の土はそこそこ使えそうである。植物繊維由来の土は軽いので持ち運びがラクな点はメリットと言えるだろうし、栄養を外から補給できるということはコントロールがラクということでもある。

いろいろ特性を考えると100均の土にも使い道はある。取り扱いが簡単そうなプラスティックの鉢も取り揃えているので、室内で気軽に観葉植物を育てるには悪い選択肢ではないのではないだろうか。

なお、100均には赤玉土や堆肥なども置いてある。これは小袋に入っており、ホームセンターなどと比べると単価が高いそうだ。しかし余った土を捨ててしまうよりも、少量買えた方が便利なこともあるかもしれない。六号鉢には2.2リットルの土が入るとされている。

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オバマ大統領と演劇的才能

オバマ大統領の広島訪問が終わった。終わってみると、その見事な演出家ぶりが印象に残った。メディアはオバマ大統領が被爆者代表と抱き合う<感動的な>写真を載せた。これはオバマ大統領が標榜する「リコンサリエーション」の見事な象徴といえる。ハバナ訪問に続いて「かつての敵国と和解した偉大な大統領」というレガシーが作られたのだ。

加害者であるはずの日本人と抱き合うとは何事かという声は当然出るだろう。そこでオバマ大統領は見事なツイストを用意していた。実はアメリカ人にも原爆被害者がいる。その人たちに光を当てたのが、この抱き合った人なのだ。決して謝罪しているわけではない。アメリカ人の恩人に感謝を示しているのだと主張できるわけだ。この人選が偶然であるはずはない。計算された筋書きだろう。

これは国内向けの対策であるだけではない。原爆は(当然のことながら)その場にいた人たちを分け隔てなく殺す。人類に対する罪であり、アメリカ軍だとか日本軍という隔てを超越してしまう恐ろしい兵器なのだ。アメリカ人は「日本人を殺したから正当だった」と考えるのだが、実は同胞も殺していたと知り、少なからず動揺したはずである。

スピーチ自体はあまり意味のないものだったが「アメリカ人にも被害者がいる」という話が予め知られていたら、このような演出は成り立たなかっただろう。演劇は新しい発見による緊張とその緩和が要点なのだ。

演出は偉大なリーダーにはなくてはならない資質だ。アメリカは1年以上もかけて大統領を選ぶので、こうした演劇的な才能が正否を分けるのだろう。オバマ大統領とスタッフたちが演出家としての才能を持っていることは間違いない。

一方、安倍首相は日米同盟は盤石なものであることを見せつけて、国内の支持を盤石なものにしようとした。いつでもバラクの隣に座りたがるその姿は、クラスのイケていない学生がスポーツ万能で勉強もできる学生と友達になりたがっているようにも見えた。その見事な小物ぶりがますますオバマ大統領を引き立てることになった。オバマ大統領はそんな晋三の肩を叩いて「これからもがんばろうな」と言ったそうである。

安倍首相はG7を自らの失敗を糊塗するのに利用しようとした。しかし「リーマンショック級の事態が起きている」という主張(妄想と言っても良いだろう)は世界のメディアから嘲笑された。日本のマスコミは消費税増税延期を既定路線として捉えており、描かれたシナリオを淡々と伝えるだけである。マスコミはもはや反対や論評すらしてくれない。意図は見え透いており、誰も驚かないのだ。安倍首相とそのブレーンに演出の才能がないのは明白だ。

オバマ大統領と安倍首相の一番の違いは何だろうか。それは、緊張を生み出す力とそれを解消する力の有無だろう。オバマ大統領にはリーダーシップがあるので人々の反対を押し切って状況を打破しようという意欲があった。一方安倍首相は基本的にはアメリカのフォロワーなので、独力で緊張を作り出すことはできなかった。むしろ、支持者たちの関心を惹き付けるのに腐心している。状況に振り回されているのである。

一方で、作り上げられた緊張は緩和させられなくてはならない。そのために使われるのが「共感力」なのである。安倍首相は基本的に空気が読めないので共感力がない。だから、安倍首相が作り出した緊張は単に状況を混乱させるだけなのだ。反対者と対話していないのだから当然だ。

つまり、シナリオを作り、状況をコントロールする人だけが演劇的才能を駆使できるのだ。

とはいえ、オバマ大統領の演劇的才能が良いことだったのかどうかは議論が分かれるところだろう。演劇的才能に頼りすぎるあまり「出落ち」のようになってしまい、現実を変えることはできなかった。大統領のピークは間違いなくYes We Canだろうし、ノーベル平和賞の受賞だろう。だが、その後、せっかく作った健康保険プランはうまく機能せず、銃犯罪もなくすことができない。演劇は他人の緊張を見ているから楽しいのであって、自分自身について考えるときには別の回路が働くのかもしれないし、大統領の手足となって実務を進めるパートナーに恵まれなかったのかもしれない。

消費されるニュースとブログメディア

オバマ大統領が広島を訪問するニュースが大きく報道された。これを見ていきなり「なぜ、オバマは謝らないんだろう」と考えた人が多かったらしい。検索での流入がリアルタイムで増えたのだ。そこでそれをタイトルにしたエントリーを30分で書いたところ、流入があった。

本来ならば「今回の歴史的な訪問を考えるきっかけにしてほしい」などときれいにまとめたいところなのだが、そうはならないだろう。テレビ中継が終わって流入はぴったりと止まった。NHKはニコ生のようにTwitterの反応を流せば面白かったのかもしれない。ニュースはその場のイベントとして共有されて、そのまま忘れされれてしまう。ユーザー(というのか視聴者というのか)はニュースに反応して消費したら、捨ててしまうのだ。その意味ではニュースはチューインガムに似ている。後には何も残らない。

もう一つ面白いのは検索ワードだ。本来なら「なんでオバマ謝らないんだよ」というのは、友達や家族に向けての言葉だろう。そういう話をする相手がいないことになる。代わりに、ソーシャルネットワーキングサイトで似たような人をフォローし、エンジンで似たような意見を探すのではないかと考えられる。本来の集団主義的な指向が崩れつつあるのではないかと考えられる。

これが良いことなのか悪いことなのかは分からない。ユーザーの時間は限られており、考えなければならないことはたくさんあるのだろう。いずれにせよ、送り手になる人はこれを現実として受け入れる必要がありそうだ。

そもそも「なぜ、オバマ謝らない」で検索した人がいるのだろうか。もともと広島・長崎での謝罪がなかったのは、アメリカに占領されアメリカを責めることができなかったことが出発点になっている。敗戦国なので戦争犯罪として断罪することもできなかった。また、物質的な豊かさに圧倒されて複雑なあこがれを持つようになった日本人も多かった。その上で被害者たちは苦しみ抜き、最終的に許すことを決めたわけだ。その一方で多くの日本人はそれを天災のように捉えることにした。決して他人ごとだったわけではなかっただろう。多くの都市が空襲に会っているからだ。

現在「オバマはなぜ謝らないのだろう」という疑問を持つ人が出てきたのは、占領の記憶が薄れ、アメリカが特別な国ではなくなりつつあるからだろう。そもそも、日本とアメリカが戦争をしていたという認識さえ、確かに共有されているかどうか怪しい。マスコミはある思い込みのもとに作られるので、こうした素朴な疑問や足下で起りつつある変化を見逃してしまうのだ。

一方で、個人のブログメディアは細かな変化を感じ取り、数十分でアップできてしまう。組織の意見に縛られることはないし、事実誤認が見つかれば書き直せば良いのだ。

新しい有権者としての奥田愛基

先日のエントリーでは、新しい顕示的消費という切り口から新しい消費者を眺めた。その延長線上にあったのは生産手段を持った消費者「プロシューマー」とその表現形のインフルエンサーだ。このような動きは様々なところで見られる。当然、政治も例外ではない。

去年の夏頃、学生たちがSEALDsという団体を立ち上げた。有権者の立場から政治運動に影響を与えようという行動だった。TwitterなどのSNSを使った運動と気軽に参加できるイベントが特徴だった。イベント消費は現代の顕示的消費の特徴の一つであり、奥田愛基氏はインフルエンサーと言える。

政治の世界は一般企業から大きく出遅れている。一般企業が消費者を囲い込もうとしていたのは1990年代の終わりから2000年代頃にかけてだと思われるが、政党は未だに「囲い込み」を行おうとしている。つまり、政党の支持者を作ろうとしているわけだ。

ところが有権者には囲い込まれようと言う気持ちはない。代わりに自分の持っている一票をどのように「消費するのが賢いのか」という選択を行おうとしているわけだ。当然、奥田氏側も「野党がしっかりしていればそもそも運動をする必要はなかった」としている。特に一つの政党に囲い込まれたわけではなさそうである。

ところが、旧来型の「囲い込み」にこだわっているとこの絵が見えにくくなる。一つの政策を指示することが、当然別の政党を敵視することだと考えてしまう訳である。マスコミは未だに「支持政党」を尋ねる設問を出し続け、有権者は「支持政党がありません」と答え続けている。そもそも、この絵が間違っているということに気がつくのはいつのことになるのだろうか。

もう一つ興味深いのが内発的動機への嫌悪感だ。奥田氏の運動に反発する人は「こんなに熱心に運動するということは、当然誰かからお金をもらっているのだろう」と考える。つまり、外的要因(お金や地位のこと)によってのみ人は動くという確固たる信念があるようだ。にも関わらず自分の持っている理想像を語らい、楽しげに集まる人たちというものが疎ましく思えるのだろう。

インスタグラムでリア充ぶりを発揮する人に憎悪の言葉をぶつければ「単に寂しい人」に見えるのだが、政治の世界では攻撃が許されている。中にはそれが「賢い」と誤認する人も多い。だが、よくよく考えれば、それは「信念がなくやりたいことも見つからないだけの」単なる寂しい人である。

政党マーケティングの世界は、今やメールマーケティングのような状態にある。一日に何通ものメールが送られるが、直にゴミ箱行きだ。人々が動くのは「お得情報」だけである。外的要因によってしか動かないことになる。ないしは「恐怖」だ。今動かないと大変なことになりますよというわけだが、たいていの場合それは詐欺メールだろう。だが、メールマーケティングが外的要因に依存するのは当たり前で、メールが受動的な手段だからだろう。ソーシャルネットワーキングは双方向性であり「内的動機付け」が重要になる。その人の自己認識とかどう見られたいかということが行動を作る訳だ。

企業がソーシャルネットワーキングに対応するまでには長い時間がかかった。マーケターが「ブランド・ロイヤリティ(ブランドへの忠誠)の醸成」にこだわり続けたからだ。今でもブランドは有効なのだがそれはラベルとして機能しているのであって、忠誠の対象ではない。

例えばAppleには忠誠心を持った顧客が多かったが、パソコンとしてはあまり広がらなかった。現在のAppleユーザーはiPhoneがカッコイイとか見栄えが良いと思うだろうが、決してAppleに忠誠心を持っている訳ではない。つまり、忠誠心を醸成すると広がりが失われてしまうのである。

このことから、野党側も奥田氏のような存在を有効に活用できたとも思えない。プロシューマ的人たちは「企業から独立している」ことが信用の源になっているのだから「付かず離れず」の距離を保っていた方が利得は大きかったはずだ。また、多くのインフルエンサーを集めるべきで、それを組織化してもあまり意味がないのではないかと思う。

顕示的消費の変遷

顕示的消費はヴェブレンが1890年代に出版した本で始めてコンセプトとして提示された。有閑階級(つまり働かなくても食べてゆける)人々が社会的な階級を誇示するために行う消費を顕示的消費と呼ぶ。社会階層意識がなくなるにつれて、顕示的消費は衰退するだろうというのが一般的な予想だ。

戦後の高度経済成長期の人々はこぞってよい車に乗りたがった。経済が豊かになるにつれ国民全体の社会的階層が上がってゆく実感があったからだだろう。最終的に、顕示的消費は一般の若者にも広がった。バブル時代の若者の間では、公園や劇場のようなまち渋谷を散策し、ブランドロゴが入った洋服を買うことが流行した。顕示的消費は「ブランド」と結びつくのが一般的だった。ところが低成長が続くとブランド品は売れなくなった。一般に余剰の所得が減少したからだと説明されている。こうして顕示的消費は消え、ユニクロだけが勝ち組になった。

ヴェブレンが観察したように、顕示的消費を支えていたのは社会階層だ。上流階級にあるファッションが流行る。それが映画などのメディアに乗って流され、デパートで展示される。庶民のうち比較的裕福な人が真似をし、広まる。するとファッションには顕示的効果がなくなるので、別の流行を探さざるを得なくなるというわけだ。だが、こうしたメカニズムは崩れつつある。誰が上流階級なのか、もはや判然としないからだ。

だが、顕示的な消費が消えたわけではなさそうだ。

例えば体面を保つための消費は残っている。友達の家を訪れる際に珍しいお菓子を持っていったり、玄関にフラワースタンドを飾るなどの消費は、社会的ステータスを保つために欠かせない。正月に手作りの(あるいは有名デパートの)お節を食べるというのも体面消費である。全体的に貧しくなったと言われていても、贈答品のお菓子の需要はそれほど減らないのだそうだ。顕示といってもクジャクのように見せびらかす物ではない。それは香水のようにほのめかすものなのである。

料理のように役割が移動するものもある。有閑階級は自分で料理などしなかった。料理は卑しいのだから顕示にはなり得ない。その後も料理は「主婦であればやって当たり前」のものであり顕示性はなかった。だが、現代では自分で作ったお弁当をインスタグラムにアップしたりすることがある。知識の量、手間、手先の器用さ、芸術的才能、流行を先取りするセンスといったものが必要だからだ。冷凍食品を買って済ますことができるからこそ、それが贅沢な物と見なされるのだ。

この料理をインスタグラムにアップするという形の顕示的消費にはいくつかの特徴がある。

弁当の作り手は消費者であり生産者でもある。トフラーが提唱し、もはや死語になった感すらある「プロシューマー」なのだ。プロシューマーという言葉は「商品開発に顧客の声を生かす」という形で企業に取り入れられたが、やがて衰退した。消費者が直接情報発信できるようになったからである。

次に顕示の内容が価格ではなくなりつつある。消費者は生産手段を持たなかったので価格しか顕示できなかった。しかし現代では顕示できる内容は多岐に渡り、複雑化している。現代の顕示的消費者が顕示しているものは「選択」である。

おたくは顕示的消費ではない。他者に向けて発信されるのが顕示的消費だからだ。相手に評価されなければ顕示的消費とは呼べない。一方でおたくは生産手段を持つことができ、情報そのものに価値があるのだから、顕示的消費ではないといっても、それが無意味で無価値ということではない。

つまり、情報が重要な役割を占めている。料理は単に食べるものではなく、情報として二次利用されてはじめて価値が生まれるのだ。

こうした情報を「生産」する人たちが現れた。それがユーチューバーだ。ユーチューバーが見せているのは、たいていの場合単なる消費に過ぎない。だが、その消費を紹介するだけで、月々の暮らしを成り立たせることができるのである。ユーチューバーは子供たちのあこがれの職業になりつつある。「面白おかしく毎日を消費して暮らしたい」と考える子供たちが増えているようだ。つまり、消費こそが生活なのだ。

マーケティングの世界では情報発信の主体は生産者から消費者に移りつつあるらしい。選択肢が複雑になるにつれて「キュレーター(集める人たち)」が重要だと言われ始めたが、玄人の集団であるキュレーターの時代は来なかった。代わりにバブルを迎えたのがインフルエンサーだ。影響力があり情報発信手段を持った消費者にこぞって高いマーケティングフィーを払う企業が増えており、バブルの様相を呈しているとのことである。

これにともなって「情報を統制する」ことが難しくなると同時に無意味になりつつある。物の価値はどう消費されるかによって決まるわけであり、その情報を生産者は持っていないのだ。いまや解禁日や製品コンセプトについてコントロールが完全に正当化されるのは、映画やテレビ番組の宣伝だけになった。これは情報を売っているのだから、当然と言えば当然の帰結だ。

とはいえ、ソーシャルネットワーキングだけに頼るわけにも行かない。ユーザーは紹介する素材を求めている。アーンドメディアだけでは成り立たず、それを補間する(あるいはネタを提供する)意味でもオウンドメディアが必要なのだ。

消費という経済活動はヴェブレンの時代から大きく様変わりしたように見えるのだが、基本的な構造は似ている。人々は誰かに影響を受けたがっている。ただし、社会的階層や裕福さはそのあこがれの対象にはならないようだ。何が憧れられるのかということはあまり解明が進んでいないのではないかと思われる。

Twitterでバカとの接触を避けるには

最近、Twitterを見ると人の悪口を書き連ねている人たちがいる。名前の売れているジャーナリストや作家さんだ。困ったことだなあと思う。

有名になると一般人が絡んでくるらしい。政治家などにコメントをすると訳の分からないことを言ってくる人がいる。「構ってほしいのだろうなあ」と思う。言いがかりには2つのパターンがある。1つは文脈が破綻しているケース。多分、机の前で思い込みが形成されてしまっているのだろう。もう1つは有名な思い込み(例えば、アベは戦争をやりたがっているとか民主党は韓国人に占領されているというようなもの)に侵されている場合だ。

いずれの場合も、まず「ご指摘ありがとう」と言うと良い。相手は対立を求めているのだからそれを火消しするとよいわけだ。物事には両面があるので「そう思う根拠はなにか」と尋ねてみるのもよいだろう。根拠がなければ黙ってしまうし、根拠があればURLかなんかが貼られてくる。これをほめるとたいていの場合は泣き止む。情報は意外と新しい情報ソースだったりするし、最悪の場合でも新しい思い込みが分かったりする。

重要な概念は「コントリビューション」だ。日本語では「貢献」と訳される。つまり、議論の場合、新しい視野の形成や意見交換が目的なわけだから、参加者は誰であろう貢献が求められるのだ。よく英語では「You need to contribute」と言われるわけだが、日本人にはない感覚かもしれない。議論は公共圏であり、参加者が積極的に意義深いものにしなければならないのである。

ただ、反発心から対抗してくる人はまだマシかもしれない。コメント欄に熱心にコメントを寄せる人がいるのだが、何がいいたいのかさっぱり分からないことがほとんどだ。どうやら「承認を求めている」ようである。こちらが何かを主張すればそれに賛同しようと待ち構えているのだろう。だが、こちらも特定の主張を持っているわけではないので(詳しく言うと個人的には主張はあるが、課題とは別である)こういうのが一番困るわけだ。

ただし、こういう人たちを見ていると、日本人は課題と人格が不可分だということは分かる。主張があると「こういう人格の人だ」と見なしてしまうのだろう。傍証としては、主張のある呟きをするとTwitterのプロフィール欄の閲覧が増えるというものがある。同意していて仲間を求めているか、反対に人格攻撃の機会を探している物と思われる。

逆に「課題と人格を分離してしまえば、否定されても腹が立たない」ことになる。英語では「Don’t personalize」というのだが、Personalizeには適当な訳語がない。辞書的には「議論や批評を特定の個人向けのことと考える」と訳すのだそうだ。

実際には批評はPersonalなものと捉えられがちである。昔、投瓶通信という記事を書いたのだが東浩紀という有名な評論家(著作は読んだことがないが、その界隈では大家なのだろう)が「こんなことをいう奴がいるから困る」というツイートを投げてきたことがある。すると、多くの閲覧者が集まった。ずいぶん前の話だ。道を歩いていたら絡まれて殴られた。さあけんかが始まるぞということで見物人が集まったわけだ。

そこで思ったのは次の2点だ。第一に「人格攻撃は(すくなくとも欧米のコンテクストでは)学問のない人がやることである」ということ。日本では賢くて有名な人でもこういうことをやってしまうほど言論空間が未成熟なのかという驚きである。次に文脈がなく(つまり、なんで怒っているのかがさっぱり分からない)単に反発的な言動を期待しているということである。

多分、日本の言論空間というものは昔からこのような殴り合いを人前で見せる、いわばプロレスのような側面があったのだろう。

例えばこんなこともしてはいけない。池田信夫という人が(この人もその界隈では影響力があるのだろう)神道は宗教ではないと言っている。これも宗教とはキリスト教などの<立派な>宗教であるべきという思い込みに侵された主張だ。現代ではシャーマニズムのようなものも宗教に分類されている。キリスト教至上主義を反省した結果である。池田さんは常々社外学は科学ではないし、大学に人文学系の学科は要らないと主張しているので、知識が思い込みレベルで止まってしまっているのだろう。だが、こういう主張に「それは違いますよ」などという引用ツイートをしてはいけない。すぐさまブロックされてしまうからだ。つまりそれは「池田さんという大家の賢さに挑戦した」ということになってしまうのだ。

なぜ、このような事態が蔓延するのだろうか。それは日本の言論界が社会の意思決定にアクセスできなかったからだろう。議論が問題解決の手段にはならず、単なる娯楽として生き残るしかなかったのだ。この顕著な例が「朝まで生テレビ」である。延々と熱い議論が繰り広げられるが、それが政策の意思決定に反映されることはない。となると、その主眼は討論者同士の殴り合いになってしまう。それを見て育った人は「議論とはその程度のものであろう」という認識が再生産される。この殴り合いをTVタックルなどでうまくやったのが民主党だったが、後にそこから逃れることができなくなり、逆に叩いてよい存在に没落した。

Twitterも単なるエンターティンメント(つまり分かっていて殴り合いのふりをする)であるうちは良かったのだが、現在では訴訟合戦に発展しているようだ。主張に対して人格攻撃することが当たり前になっており、それが名誉毀損だということになってしまうのである。

一般人が真似をするから、こういう不毛な議論は今すぐやめた方が良い。とはいえ他人はコントロールできないわけだから、課題と人格を分離してみる訓練を積んだ方がよいだろう。ついでにあなたが話をする相手は文脈を共有していない可能性があることを考慮に入れるとよいかもしれない。ルールはこの二つしかないわけで、意外と簡単に実行できるのではないだろうか。

ご近所のシルバーデモクラシー

またぎきなので正確なところは分からない。

仲がよさそうなご近所さんたちだが、いろいろと問題があるらしい。ご近所にはやたらに決まりを作りたがるひとたちがいる。「困っている人がいるから町内会レベルで互助組織を作り住民の状況を調査すべきだ」と言い出す人がいるのだそうだ。で、実際に困っている人のリストを作ろうとすると「プライバシーの問題があり、そんなリストを公開するのは危険だ」と言い出す人が出てくるようである。

妥協点はない。白か黒かである。

決まり事を作りたい人たちはそれがよいことだと信じているので、しつこくその議題を出し続けて決して折れることはない。そこで定期的な近所のお話合いは決して問題解決ができないまま毎度紛糾するのだそうだ。

全体レベルで意見がまとまるわけはないので、やたらと私的な組織を作りたがるという。そして「自分たちは世の中の役に立っているのだから、補助金をよこせ」という主張も忘れない。直接聞いたことがあるのは「子供の福祉に役立つ場を作るから、市が空き家を提供して、補助金も出せ」という話だ。お決まりなのは「私が役員になる」ということである。結局「私らしく輝ける場所」を探しており、他人を巻き込みたいのだ。「子供」はそのための道具になっているのだが、言っている人は全く気がついていない。

こうした人たちに共通しているのは「自分の価値観はよい価値観なのだから、相手も従うべきだ」という強烈な思い込みである。若者は消費者としての自分に閉じこもるのだが、高齢者は自分の価値観を回りに押し付けようとする。ただ、その価値観がやたらと細かいのだ。例えば「自転車を塀の外に括り付けておくのは好ましくない」というようなたぐいの話である。

こうした視点から自民党の憲法案を見ると、やたらに細かな価値観の押しつけあいが多いことが分かる。これは高齢者の自己顕示なのだろうと考えられる。多分自民党の人たちにすれば憲法とは「みんなで守るべき村の決まり」程度の認識なのではないだろうか。「私たちの村がいかに特別で美しいか」で始まり「みんなで仲良く暮らすべきだ」という主張が入る。そしてその中心で輝いているのは「私たち自民党」なのだろう。悪気はないのかもしれないが、出来上がった主張はきわめて危険で、これが憲法と言えるかどうかさえ疑問だ。

文部科学省は学校の運営を手助けするために地域の力を活用したい意向だ。なんとなく良さそうなのだが、地域の人たちがただで手伝ってくれるとは思えない。学校運営に入り込んだ高齢者たちは「私らしさ」を発揮しはじめるだろう。自分たちの価値観で相手を染めようとするのである。多分、先生の気苦労は増えるだろう。

こうした住民自治組織はまだら模様になっている。一角に若い人たち向けの住宅があるが、新しくできたのでそこだけ組織には入っていない。高齢者たちは虎視眈々と「若い人にも入ってほしい」と狙っているのだが、決して新しい価値観を受け入れるというわけではなさそうだ。「私色に染上げてやろう」と考えているのではないかと思われる。

「若者は選挙に行かない」と考えている人も多いようだが、決して若い人たちの意見を聞いて政治に反映させようなどとは思っていないだろう。無垢なうちに自分の色に染上げて、熱心な観客にしてやろうと考えているのではないだろうか。

Why Japanese people don’t ask for apologize to President Obama.

When President Obama decided to visit Hiroshima for the first time, people of the US concerned if Japanese people would ask for apologize and make things clear. It happened because two cultures are very different.

People who suffered from two a-bombs want to be understood rather to be apologized. However understanding is a difficult concept. In Japanese language “wakaru” -understanding contains two perspectives – logic and emotion. If you don’t share feelings with others, they wouldn’t think they are understood. Japanese people is more group oriented and an emotional tie has more valued.

Apologizing requires two parties – “you” and “I”. On the other hands, emotional understand makes a emotionally tied group of “us”. In Japanese “wakari-au” – understanding each other or developing mutual undersign is an important step to become “us”. Oneness is a beauty of Japanese culture.

At the same time, in group oriented cultures, people feels uncomfortable when mutual understanding is not developed and people cross the line. 70 years ago, Japanese wanted to develop mutual understanding with Koreans but Korean felt they are just interfered their uniqueness. “Wakari-au” culture has no respect to individuals because it focus more on groups.

It is interesting enough that Korean students studying in Japan may feel they are rejected because Japanese culture is more independent than Korean culture. So Japanese has moderate group oriented culture. which is stronger than westerners but weaker than Korean and Chinese.

Japanese group oriented culture has been developed over years. Avoid to cross lines between you and I because there is no space to escape when people can’t get along with each other. Japanese learned that from a civil war which happened about 400 years ago. In stronger group oriented cultures you can’t change a group.

Of cause, President can use the opportunity to state his position and beliefs when clear statements appear in West world but he doesn’t need to state words to “wakaru” with HIroshima and Nagasaki survivors when emotional aspect is important.

If you want to remove wars and nuclear weapons, it would be a good idea to learn from “wakari-au” concept. The world got too small for fight to survive like Japan of 400 years ago and wiser to understand each others.