顕示的消費はヴェブレンが1890年代に出版した本で始めてコンセプトとして提示された。有閑階級(つまり働かなくても食べてゆける)人々が社会的な階級を誇示するために行う消費を顕示的消費と呼ぶ。社会階層意識がなくなるにつれて、顕示的消費は衰退するだろうというのが一般的な予想だ。
戦後の高度経済成長期の人々はこぞってよい車に乗りたがった。経済が豊かになるにつれ国民全体の社会的階層が上がってゆく実感があったからだだろう。最終的に、顕示的消費は一般の若者にも広がった。バブル時代の若者の間では、公園や劇場のようなまち渋谷を散策し、ブランドロゴが入った洋服を買うことが流行した。顕示的消費は「ブランド」と結びつくのが一般的だった。ところが低成長が続くとブランド品は売れなくなった。一般に余剰の所得が減少したからだと説明されている。こうして顕示的消費は消え、ユニクロだけが勝ち組になった。
ヴェブレンが観察したように、顕示的消費を支えていたのは社会階層だ。上流階級にあるファッションが流行る。それが映画などのメディアに乗って流され、デパートで展示される。庶民のうち比較的裕福な人が真似をし、広まる。するとファッションには顕示的効果がなくなるので、別の流行を探さざるを得なくなるというわけだ。だが、こうしたメカニズムは崩れつつある。誰が上流階級なのか、もはや判然としないからだ。
だが、顕示的な消費が消えたわけではなさそうだ。
例えば体面を保つための消費は残っている。友達の家を訪れる際に珍しいお菓子を持っていったり、玄関にフラワースタンドを飾るなどの消費は、社会的ステータスを保つために欠かせない。正月に手作りの(あるいは有名デパートの)お節を食べるというのも体面消費である。全体的に貧しくなったと言われていても、贈答品のお菓子の需要はそれほど減らないのだそうだ。顕示といってもクジャクのように見せびらかす物ではない。それは香水のようにほのめかすものなのである。
料理のように役割が移動するものもある。有閑階級は自分で料理などしなかった。料理は卑しいのだから顕示にはなり得ない。その後も料理は「主婦であればやって当たり前」のものであり顕示性はなかった。だが、現代では自分で作ったお弁当をインスタグラムにアップしたりすることがある。知識の量、手間、手先の器用さ、芸術的才能、流行を先取りするセンスといったものが必要だからだ。冷凍食品を買って済ますことができるからこそ、それが贅沢な物と見なされるのだ。
この料理をインスタグラムにアップするという形の顕示的消費にはいくつかの特徴がある。
弁当の作り手は消費者であり生産者でもある。トフラーが提唱し、もはや死語になった感すらある「プロシューマー」なのだ。プロシューマーという言葉は「商品開発に顧客の声を生かす」という形で企業に取り入れられたが、やがて衰退した。消費者が直接情報発信できるようになったからである。
次に顕示の内容が価格ではなくなりつつある。消費者は生産手段を持たなかったので価格しか顕示できなかった。しかし現代では顕示できる内容は多岐に渡り、複雑化している。現代の顕示的消費者が顕示しているものは「選択」である。
おたくは顕示的消費ではない。他者に向けて発信されるのが顕示的消費だからだ。相手に評価されなければ顕示的消費とは呼べない。一方でおたくは生産手段を持つことができ、情報そのものに価値があるのだから、顕示的消費ではないといっても、それが無意味で無価値ということではない。
つまり、情報が重要な役割を占めている。料理は単に食べるものではなく、情報として二次利用されてはじめて価値が生まれるのだ。
こうした情報を「生産」する人たちが現れた。それがユーチューバーだ。ユーチューバーが見せているのは、たいていの場合単なる消費に過ぎない。だが、その消費を紹介するだけで、月々の暮らしを成り立たせることができるのである。ユーチューバーは子供たちのあこがれの職業になりつつある。「面白おかしく毎日を消費して暮らしたい」と考える子供たちが増えているようだ。つまり、消費こそが生活なのだ。
マーケティングの世界では情報発信の主体は生産者から消費者に移りつつあるらしい。選択肢が複雑になるにつれて「キュレーター(集める人たち)」が重要だと言われ始めたが、玄人の集団であるキュレーターの時代は来なかった。代わりにバブルを迎えたのがインフルエンサーだ。影響力があり情報発信手段を持った消費者にこぞって高いマーケティングフィーを払う企業が増えており、バブルの様相を呈しているとのことである。
これにともなって「情報を統制する」ことが難しくなると同時に無意味になりつつある。物の価値はどう消費されるかによって決まるわけであり、その情報を生産者は持っていないのだ。いまや解禁日や製品コンセプトについてコントロールが完全に正当化されるのは、映画やテレビ番組の宣伝だけになった。これは情報を売っているのだから、当然と言えば当然の帰結だ。
とはいえ、ソーシャルネットワーキングだけに頼るわけにも行かない。ユーザーは紹介する素材を求めている。アーンドメディアだけでは成り立たず、それを補間する(あるいはネタを提供する)意味でもオウンドメディアが必要なのだ。
消費という経済活動はヴェブレンの時代から大きく様変わりしたように見えるのだが、基本的な構造は似ている。人々は誰かに影響を受けたがっている。ただし、社会的階層や裕福さはそのあこがれの対象にはならないようだ。何が憧れられるのかということはあまり解明が進んでいないのではないかと思われる。