有名人がTwitterで絡まれるのはなぜか

Twitterで有名人が絡まれるのをよく見かける。そこで「絡まれるにはメカニズムがあり、そのメカニズムを解明すれば、絡まれることはなくなるだろう」と考えた。だが、いろいろ考えてみて「やはり有名な人が絡まれないようにするのは難しいんだろうなあ」と思った。今回は最終的に教育勅語の話に着地する。

有名人が絡まれる背景にはどうやら「単純化」と「情報の追加」があるらしい。140文字は少ないので言いたいことがすべて伝わらない。そこで、曖昧な部分を脳内で補強するらしい。すべてを網羅的に観察したわけではないので、単なる思い込みを含んでいるかもしれないが、党派性が起きているように思える。つまり、あらゆる人たちは白組と紅組に分かれており、ある意見を提示しただけで、受け手の脳内で「この人はどちらの味方か」という分類が行われるのではないかと考えられる。

例えばトランプ大統領のシリア攻撃を「適切な判断だった」というと、自動的にトランプ大統領の他の政策にも賛同しているように見えてしまうという例がある。その人が様々な情報を流して立体的な判断をしようとしていたとしても御構いなしだ。表現の自由のために戦っているように見えた筒井康隆がリベラルを侮辱する(あるいは体制側に賛同するように見える)メッセージを発信すると、それが今までの立場を「全否定」したように見えてしまうということもあるだろう。

いっけん、単純化されているように見えるのだが、よく考えてみるとすべての事象について「右か左か」というソーティングがされているのだから、かなりの情報量がないと成り立たないことがわかる。すべての事象を「右と左」に分けていて、それを常に確認し合っているからだ。つまり、単純化だけではなく情報の付加が起きているということになり、なおかつ頭の中には様々な人間関係が整理されていることがわかる。

日本人の「関係性」に対する執着の例を卑近なところで挙げたい。アメリカのドラマのウェブサイトには日本ではおなじみの相関図がない。彼らはドラマをプロットで説明する。しかし日本人はプロットにはそれほど興味がなく、誰と誰がどんな関係にあり、それがどう変化するかということに強い関心を持っている。そこでドラマのウェブサイトには欠かさず相関図が出てくるのだ。日本人は、誰がどの党派に属するかによって、その人の意見が読めると考えるのである。こうしたことは政治報道でも起きており、政策よりも派閥の動向により強い関心が向けられることになる。

つまり、日本人は、集団に属する人間には個人の考えというものはなく、どの党派に属するかということさえ分かればその集団の考えが自動的にその個人の考えになるとみなしていることがわかる。

以前に「交流分析」を見たときに、人間を、理性、感情、スーパーエゴに分けるという整理方法を学んだのだが、ここには「党派」という全く違ったパラメータがあるのではないかと仮説できる。まあ、思いつきレベルだがいちおう絵にしてみた。

党派性が強い人は、あるその党派を認めてしまうと、自動的にそこに従わなければならないという前提が生まれるという仮説ができる。だから、自分の中の何か(それが感情なのか、理性なのか、スーパーエゴなのかはわからないのだが)とコンフリクトを起こすので、それを認めるわけにはいかないということになる。

この疑問を考えたときに「なぜ僕は絡まれることが少ないのだろうか」と考えたのが、それは文章がうまいわけではなく、権威ではないので「否定しなくてもべつに構わない」からではないかと思った。つまり、どこにも属していない個人の考えというのは、ないのと同じなのだ。

が、商業雑誌で活字になったり(それが例えばWillやSPAであっても)権威となるので、それを認めるわけにはいかないということになるだろう。つまり、有名になることで権威性を帯びてしまうので、攻撃の対象になるということになる。これは防ぎようがないから「無視するのがよい」ということになる。

まあ、ここまでは他愛もない分析なのだが、いくつかの派生的な観察が出てくる。

第一に「安倍政権を倒せ」という党派性の高いメッセージは発信しないほうがよさそうだ。「この人は立場的にそう言っているのだな」と思われて、あとの客観的な事実はすべてスルーされてしまうだけだろう。客観的に事実を並べて、相手に投げたほうがよさそうだ。

逆に、安倍政権側も党派性の強い考え方を国民に押し付けようとしている。日本人はそもそも内的な規範ではなく村落的規範(ここでは党派と言っているが、他人様の目といってもよいだろう)によって制限されているので「共謀罪が成立したから言いたいことが言えなくなった」ということはありえない。そもそも最初から「個人が言いたいことなど言えない」社会なのだ。

だが、それは相互監視によって文章にならない規範によって支えられている。それを言葉にしようとするといくつかの問題が起こるのだろう。それは「個人のアイディアは聞いてもらえないので、誰からも文句が出ない権威」が言葉を発するべきだということと、実際に自分の中を掘ってみてもそれほどたいした規範意識は出てこないということである。

そこでできた貧相な規範体系が例えば教育勅語ということになる。西洋には立派な規範体系があり、そのカウンターとしてでてきたのが教育勅語だが、結局は「親を大切にしよう」とか「みんなで仲良くやろう」などといった、村のおじさんたちが酔っ払って子供に諭すようなことしか出てこなかった。しかし、権威づけは必要なので「いざとなったらお国のために命を捧げるんだぞ」という言葉をつけて終わっている。

本来は個人の意識(それは感情などの無意識を含んでいる)を抑える役割を持っていた規範意識を自分で操作できるぞと思ってしまったとたんに、歯止めが利かなくなる。つまり、人間で言うところのスーパーエゴの暴走が起きてしまうのだ。これが国家レベルで行われると、植民地の無制限の蹂躙ということだし、個人レベルでは「本当は理解していない保守主義」という党派規範を身にまとい、個人のエゴを暴走させて、他人を貶めたりする態度につながってゆくということになる。

「そんなことはない」という人もいるかもしれないが、教育勅語を信奉する人たちは内的な規範を持っていない。首相は平気で嘘をつくし、気に入らない子供は虐待される。さらに、危なくなったら「俺は知らなかった」といって仲間を裏切る。これらは内的に規範が作られていない(つまり親が弱い)ことを示している。だからこそ、集団の規範体系によって相手をコントロールしようとするのだろう。

つまりネトウヨというのは、戦前回帰ではなく、西洋流の規範意識を理解できないままでいた人たちが個人のエゴを暴走させている状態に過ぎないということが言える。その筆頭でエゴを暴走させているのが日本の首相なのだろう。

 

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