日本のSNSが炎上を定期的に求める構造的理由とは何か?

最近ブログの閲覧者が減っている。理由はわかっている。誰かを指差して「あの人が悪い」と言わなくいと閲覧数が下がるのだ。たまにタイトルに人名を混ぜた記事を書くと閲覧数が二倍程度になる。

「どうしてこうなるのだろう?」ということを考えた。

考えても仕方ないかもしれない。日本ネット社会は常に炎上を求めているという現状が認識できればそれでいいのだ。




森喜朗元総理大臣が炎上した。女性の待遇に不満を持っている人が多いのだということはわかった。ところが実名制SNSであるQuoraで質問しても女性からの声はつかない。実名だと文句は言わないのである。いっても仕方がないと諦めているのだろう。BBCの大井真理子記者はどこかで「女性は慣れっこになっている」と書いていた。

個人の権利を大切にするアメリカではこんなことはない。おそらく森元総理の発言を避難し女性の権利拡大を訴える人が出てくるはずだ。アメリカは自分の権利は主張して勝ち取るという国である。権利を勝ち取るためには問題の言語化が求められる。問題を言語化するためには問題の構造分析をしなければならない。

さらに付け加えると「権利を主張する」ということは他人の権利を認め自身の責任を受け入れるということを意味する。つまり社会にコミットする必要が出てくる。

アメリカは世界中から集まってきた人たちが新しい社会を形成したため合意プロセスが重要視される。

おそらく日本人は分析をサボり社会へのコミットも恐れているのだろう。そのためには実名での非難を避けて匿名で騒げる時に騒ぐ。問題は解決しないが溜飲を下げることはできる。日本人は解決せずにやり過ごすのである。

今回の事例では15万人の署名が集まり「再発防止」を求めたそうだ。だがその再発防止策の中身はお粗末だ。研修をして「あれはいけないことだった」と自己反省しろと言っているだけである。この15万人が組織委員会の活動を注視することはないだろうしそもそもオリンピック・パラリンピックが終われば解散になるわけだから組織委員会の対応も形式的なもので終わるだろう。

これからも女性蔑視は続くであろう。単にわかりにくくなるだけだ。

「やり過ごす日本社会」ではこれで十分ということなのかもしれない。社会的制裁は「この種の発言をすると村にいられなくなりますよ」と集団で恫喝することである。依然として社会や女性の側が「社会について公平に責任を負担する」ということにはならないしそもそもそんなことは考えない。おそらくこの署名に参加した多くの人が自分の職場で女性の権利向上を求めるようなことはなく天から平等が降ってくるのをただ待つだけに終わることになる。

日本が再び敗戦しGHQが降りてくることでもなければ、天から権利が降ってくることはない。

橋本聖子新会長は「自民党に対して迷惑をかけた」と謝罪している。謝罪を受けた方もそれを伝える側も何が迷惑だったのかとかどうしたら再発防止ができるのかということは考えない。単に村の日常生活を乱したことが迷惑なのである。そして、当事者はよくわからなくても身分が低い方が謝罪するというのが日本式である。

こうしたことは日常でも行われている。日本人はとにかくよく謝罪するが「再発防止に何ができますか」と質問すると答えられない人が多い。中には状況を分析するように求めただけで宇宙人を見るような視線で凝視されたりする。日本人は再発防止など考えない。ただ日々をやり過ごすだけである。

誰も言語化しない状況では「とにかく誰か悪者を仕立ててその人を吊るし上げる」ということだけがソリューションになる。SNS時代になりさらにこの傾向は強まっている。

おそらく我々が考えるべきなのは、どうしたら自分が対象にならないのかということを考えることだけなのかもしれない。最近新たに竹下亘元総務会長が「スケート界では男みたいな性格でハグなんて当たり前の世界だ」と発言し一部で反発を呼んでいるようだ。森元総理と同じ構造だ。

どちらも「伝聞で聞いたこと」を「自分の感覚」で「自分の身内」に説明している。それがSNSや新聞で拡散されることで炎上するのである。おそらくこれまでの村では当たり前だったことが成り立たなくなっているのだろう。だが批判する側も所詮は自分の村の論理で話している。

この衝突を防ぐためにはいくつかの作戦が考えられる。

  • そもそも自分が知らないことは発言しない。
  • 根拠を示した上で何が言いたいのかを明確にする。
  • あくまでも自分の感想であるとしたうえで相手には同意を求めない。

お互いの村で何が起きているのかには干渉しない。そして厄介ごとがあったら引きこもって助けない。農村から都市に出てきた人たちが身につけた生活様式である。新しい都市生活者が都市の文化を体得することは決してなかったようにSNSがなかった時代の人たちがSNSの協力文化を体得することもないだろう。

ということで気に入らない意見があったら大勢で潰してしまう以外に対処のしようがないとうことになる。つまり、日本人はSNSを遮断するか起こっていることを無視する以外は常に炎上を必要とする社会になってしまったのである。

Google Recommendation Advertisement



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です