幻に終わりそうな東京オリンピックと高度経済成長幻想の終わり

ヨーロッパでは東京オリンピックの招致に不正が判明した場合の代替開催地についての議論が始まっているようだ。イスタンブールは間に合わないのでロンドンでやろうという話があるらしい。噂レベルで本当かどうかは分からないのだが、もし本当なら2020年は日本にとっては苦い年になるだろう。本来は自分たちの国で開催するはずだったオリンピックをテレビで見ることになるのだ。

だが、これで良かったんじゃないかと思う。もし仮にイスタンブールが開催都市に選ばれていたら、東京は再び招致活動をやっていただろう。招致活動には多額の資金が投入されるのだが、これは結局のところ広告費や税金で賄われている。いったん招致に成功したのだから、これで再び招致活動をやろうなんていう人は出てこないだろう。

そもそも東京でオリンピックを開くのは無理だった。最初は「コンパクトにやります」などと言っていた。能力的にコンパクトオリンピックを開催することはできるだろうが、その気持ちは最初からなかったようだ。理念を実行するプロデューサのような人はいないし、あとは「どれだけむしり取ろうか」という人たちばかりだ。実際のところスポーツ大会が成功するかなんていうことはどうでもよかったのだろう。

その結果「一度既成事実さえ作ってしまえばあとは借金してでもどうにかなる」と甘い気分でプロジェクト管理する政治家たちやそのおこぼれに群がろうとする人たちのおかげで予算は膨らみ続けている。森元首相は「もともとあんな予算では無理だった」と言い放ったそうだが、それは、悪徳リフォーム会社が年寄りを騙すときに使う手口で、いわば詐欺だ。

買収で開催を勝ち取って。リフォーム詐欺まがいの方法で国民を騙す。こんなオリンピックを誰が喜ぶのか、もう一度冷静になって考えた方がよい。

フランスの司法当局が贈収賄を認定すれば、電通は世界のスポーツイベントに関わりにくくなるのではないだろうか。しかし、一度不正にコミットしてしまえばずるずると不正に関与せざるをえなくなるわけだから、この程度ですんで良かったと思えるときがくるかもしれない。

それにしてもどうして招致委員会はこんなに危ない橋を渡ってしまったのだろう。日本は想像以上に困窮していたのではないだろうか。高度経済成長時代の夢をもう一度と焦るうちに倫理感覚が麻痺して買収行為を行ってしまったのだ。バブル終焉からずるずると続いていた「夢よもう一度」といううっすらとした希望がビッグプロジェクトとともに打ち砕かれるのだ。オリンピック招致の失敗には高度経済成長幻想の葬送という意味合いがあるのだろう。

この過ちを胸に刻むためには、壊してしまった国立競技場の跡地を更地のまま保存するのがよいのではないだろうか。何も開発しないで、数本のシンボルツリーを植えて芝生でも敷けば都民の憩いの場所になるだろう。そこで一日ぼんやりと何もしないで過ごすというのも贅沢の一つかもしれないし、「もう過ちは繰り返しませんから」という石碑があれば、公園もどことなく意義深いものになるだろう。

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