安倍政権はバカのバカによるバカな政治

ネトウヨと議論した。特に疲れるということはなかったのだが話をしても無駄だなと思った。最初は気がつかなかったが、どうやら彼らは「勝ちたい」と思っているだけのようなのだ。おそらく日本の教育に問題があるのだろうと思った。

最初の議論は韓国語についてである。




ネトウヨ議論界隈では「韓国人は漢字をなくしたから固有文化をなくしてしまったかわいそうな人たちである」と認識があるようだ。とにかく自分たちより劣っていると言いたいらしい。正解が最初にあってそれに合わせた事実だけを求めている点に特徴がある。彼らは自分たち専用の教科書を作って、それを友達にも読めと言っているのだ。ネトウヨの人たちが教科書づくりに熱心だった理由がよくわかるし、ついには検定不能になった理由もよくわかる。

実際に韓国語を勉強していると音韻体系が複雑なので意外と同音異義語は多くない。多かったとしても言い換えてしまうのでそれほど困らないのだろう。結果的に文脈から区別できない用語はあまりない。

さらに日本語も実は古典の暗唱ができなくなった時点でかなり過去からの遺産を切り捨ててしまっている。まず言文一致運動で文語が失われ戦後は古典暗唱もなくなってしまった。つまり韓国人が古典から切り離されることによって過去の文化遺産から切り離されているとしたら日本人にもそのような側面があることになる。

そのような筋の回答を書いたら「同音異義語が多くて混乱する説」を書いてきた。そこでこうした事情を説明した。韓国語の同音異義語の話をするためには韓国語の音韻体系の話をしなければならない。話についていけなくなったようだ。

すると「日本が古典から切り離されたなどと言ってもそんなことはないと思うがその点はスルーですか?」という返答が来た。韓国語の話をしても勝てないと思ったのだろう。古典の話に戻ってしまった。とはいえ「そんなことはないと思う」と言っているだけなので議論にも考察にもなっていない。「俺はそう思う」と言っているだけなので「ああ、そうなんですね」で終わりである。

そこでやっと「ああ、この人は勝ちたいだけなんだな」ということに気がついた。逆に言うとそれまで素直に「新しい知識が入ってきて考え方に変容があると面白いだろう」と信じてしまっていたことにも気がついた。一人であれこれ考察するのが好きなのはこうした変容が楽しいからである。だから「意外な知識はたくさんあった方がいい」と思ってしまうのである。

次に「うわーすごいですね」と言って価値を認めてやってはどうだろうか?と考えた。だが、それも無駄なのだ。

Twitterのネトウヨ的な文章をそのまままとめてくる人がいる。だが、とても読み難い。せめてリードをつけて結論をつければ文章としてまとまるのではないかと思った。せっかく何回も書いてくるんだから何か覚えて欲しいと思う。そこで褒めてみることにした。

しばらくやりとして「相手にされて嬉しい」という気持ちだけはあるように思えてきた。相手にされたのが嬉しくて色々と何か書いてくる。つまり何かを声高に主張することによって政治的に何かを語っている気持ちになってしまっているんだろうなあと思った。だが一向に変化しない。そればかりか「自分が認知されたらやることは相手に勝つことである」と信じている節がある。砂漠に水を撒いているような気分になりその底なしぶりになんとなく恐ろしくなった。

ただ「なるほど」と思ったことがいくつかある。

  • ネトウヨの議論は問題解決ではなく自己の存在の証明を目指している
  • 自己存在の証明とは相手に勝ち「自分らしさ」を維持することだ。だから態度変容はない。態度が変わったらそれは負けである。
  • 成果としての勝利が重要なので途中のプロセスには関心を持たない。

彼らには常に勝っているという認識が必要なわけだから次々といろいろな議論に首を突っ込み全く内容を理解しないままで勝ち続けようとするだろうなと思った。これは相手をうんざりさせるだろう。

これを見ていて「少年ジャンプ」に似ているなと思った。少年ジャンプでは主人公は外敵にぶつかり鍛錬を重ねて強くなり最終的に勝負に行き着く。人が少年ジャンプ的な世界に飽きるのは「これ以上強くなってどうするんだろう」ということに気がついたときである。それを人は成長と呼ぶ。いよいよ少年ジャンプを捨てて大人になる時が来たのだ。

昭和世代の仮面ライダーやウルトラマンは「なんのために戦うのだろう」というジレンマを抱えていた。おそらく現在の日本には少年ジャンプから卒業できない人がたくさんいるのだろう。最近は女子もプリキュアに夢中なようだ。これも勝ち続ける物語である。勝ち続けて維持されるのが「平和」である。そして平和とは「何も変わらない」ことだ。

どうしてこうなったんだろうかと思ったのだがやはり学校教育に行き着いた。日本の学校教育の本質は正解の暗記であってプロセスへの理解を深めるチームベースの議論をしない。だから個人ベースで単に正解を受け入れればよく内的な学びや変容をそれほど重要視しないのだろう。

ただ、こういう理解ができると安倍政権理解が進むなとは思った。

安倍政権がやっていることは問題の解決ではなく議論に勝ち続けることである。そのためにはロジックを曲げてもいいし記憶や歴史を改竄してもいい。おそらく安倍政権はマスクが配れなかったり、経済を好転させられなかったり、コンピュータシステムをうまく構築できなくてもそれほど気にならないのだろうなと思った。

おそらく今回の検察庁法の改正問題もその程度の認識で話が進んでいるような気がしてきた。黒川さんという人は検察の中枢部にいたわけではなく基礎不起訴には直接関われなかったようだ。そんな彼が自民党・民主党に重用されたのは人当たりが良かったからである。おそらく安倍政権は検察の理屈が理解できなかったに違いない。「バカな政権」にもわかるように情報を噛み砕いてくれる黒川さんにずっとこのまま検察を任せたいと思ったのではないだろうか。このため朝日新聞には当惑する検事たちのコメントが載っている。理由がさっぱりわからないというのだ。頭のいい検事たちにバカな政権の理屈は理解できないのかもしれない。OBたちはルイ十四世まで持ち出して怒っている。彼らも背景にある理屈というかバカの本質がよく理解できないのだろう。

その意味では安倍政権というのは独裁者による支配ではないのだろう。これはバカによるバカのための支配だ。日本はあまりにも外的変化に乏しく政治にバカだけしか残らなかったことになる。バカによるバカのためのバカな政治である。

ただ新型コロナ対策を見ていると「バカでも人を殺すことがあるんだな」と思う。バカが人を殺すわけではなく、先行きが見えない現状に絶望する人が出てくる。戦後型の暗記教育の行き着いた先が安倍政権だとするとそれはとても恐ろしいことだなと思った。バカの理屈は高度すぎて常人には理解できないからだ。

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