最近、様々な新興宗教にはまる人を見る機会が増えた。特に多いのが「国体教徒」たちだ。いわゆるネトウヨと呼ばれる人たちである。成年になってはまると「ああ、生きる意味が見つかった。この国に生まれて良かった」などと思ってしまうのだ。だがその根幹にあるのは「国の為に人が存在する」という倒錯した教義だ。よく聞いてみるとそれは「権力者のための尽くせ」という以上の意味はない。権力者の人たちは国よりも自分の幸福の追求に熱心なのだが、熱に浮かされているうちはその事に気がつかないのである。
他方で「原発を止めるべきだ」とか「基地をなくすべきだ」という信条が宗教化することもある。もちろんそれは悪い主張ではないかもしれないが、それがなくなれば世の中の全ての災厄がなくなってしまうわけではない。中にはそれだけが人生の目的になっている人もいるのではないか。
宗教教育にはいくつかの利点がある。
第一に、宗教は明らかに学校で教える科学とは違っている。だから経典を文字通りに信じる事はなくなる。つまり、子供のうちに宗教に触れると宗教に対する免疫がつくのだ。かといって、宗教すべてがデタラメというわけではない。よく誤解されるところだが、さまざまな矛盾を受けとめる事で、その裏側にある「真実」を考える機会が得られるだろう。
第二に、宗教に頼ることがなくなる。意外に思えるかもしれないが、古典的な宗教は生きる意味を教えてくれない。まともな宗教は「神様について行けば万事OKだ」とは言わないものなのだ。世の中には、子供を失った人や不本意ながら病気になった人がいる。宗教はそうした人たちの逃避先になっている。だから、宗教を学ぶ人は誰でも人生の不条理に触れることになる。もし神様がいるのなら不条理は世の中からなくなっているはずである。だが、そうはならない。
第三に宗教は人を操作しないということが学べる。日本の新興宗教は個人崇拝につながるものが多い。結局、ある個人の為に財産を寄付することで「救いを買う」という制度になっている。すると階層の上にいる人ほど「他人を利用してやろう」と思うことになる。なかにはポイント制度を導入している宗教すらある。強化月間のようなものもある。ほとんどマーケティングだが、中にいると気がつかないのだろう。だが、古典的な宗教にはゲーミフィケーション的な要素はない。人を操作しても救いが得られないことを知っているからだ。
何も考えていなかった人がある日突然人知を越える偉大なものに出会い「くらくらする」体験は誰にでもある。人生にはうまく行かないこともあるのだから誰かに頼りたくなることもある。正解のない人生に迷ったとき正解を教えてもらえたらと思うこともあるだろう。人は決して万能ではないということを知る意味でそれは悪い事ではないだろう。
私達は、人生のどこかで「私達の人生は一人ひとりのものである」という大切な事を学ばなければならない。かといって一人ひとりは孤立しているわけではなく誰がとつながっている。宗教はその大事なことを教えてくれ機会になるのではないかと思う。