土人問題はなぜ批判されるべきなのか

沖縄に大阪から派遣されている警察官が反対運動を展開する人たちに「土人」と発言し訓戒処分を受けたそうだ。土人呼ばわりされた人が芥川賞作家だったので問題になったのだが、もし一般人が言われても問題にはならなかったかもしれない。

これについて「警察官は悪くない」という声がある。しかし、やはり大きな問題があると思う。いったい何が問題なのだろうか。

土人というのは現地の人を対象物化する言葉だ。外国人であっても同胞であっても人は特定の個人として扱われる。ところが特定の個人として扱われない人たちがいる。「そこの女」とか「障害者」などである。このように「一般名詞化」されることを、対象物化と呼びたい。

なぜ対象物化が起こるだろうか。普段のあなたは人を殴らない。人を殴ると罪悪感を覚えるだろう。ではそれが人ではなく何か一般名詞だったとしたらどうだろうか。それほど罪悪感を覚えないだろう。例えば「イヌ」を叩いても罪悪感は覚えないが、自分が買っているポチは叩きたくない。イヌは一般名詞だが、ポチは固有名詞だ。

あの人はチョーセンジンだからというのは差別なのだが、それはやられて見ないとわからないかもしれない。ある人は病気で「ショーガイシャ」になるかもしれないし、日本人も外国に出れば「ジャップ」と呼ばれることもある。中には自分を一般名詞化してしまう場合もある。人は他者を差別するだけではなく、自分の中にある差別にも苦しむのである。

だからこれは人権問題であり、鶴保大臣や松井知事は明確に間違っている。鶴保さんは沖縄の振興策を担っているのだからすぐさま辞任すべきだろう。多分鶴保さんは沖縄を対象物化しており、そのことに気が付いてすらいない。

この警官は「シナ」とか「土人」に屈辱の意味があるとは思わなかったと言っているのだが、本人の意識はあまり問題ではなさそうだ。

もともとシナとか土人という言葉は日本の植民地政策から出てきた言葉である。日本人は最初に白人に接触し劣等感を覚えた。その劣等感を裏返しにして「自分たちはあいつらよりマシなのだ」という意識を覚えるようになる。自分たちは白人にはなれないが、そのように振舞うことはできると思ったのである。

「上を見るな。下見て暮らせ。」という言葉がある。

この言葉が再び注目を浴びるようになったのはいつなのだろうか。それは民主党が政権をとったころからだ。そこで楽園を追われた自民党の人たちは右翼系雑誌で勇ましい発言を繰り返すようになった。そのころ作られたのが自民党の憲法草案だ。

自民党が政権から転落したのは統治の失敗によるものなのだが、それが認められなかったので「日本は中国から狙われており、民主党はその手先である」という物語に依存するようになった。一方で「間違った判断をした国民には人権など認めるべきではない」という意識も生まれた。今でも自民党の一部には国民の人権を認めず、党が憲法で国民を善導すべきだという歪んだ意識が残っている。

強烈な支配感情の裏にあるのは圧倒的な無力感だ。庶民感情は未来に発展のチャンスもないという状態には耐えられない。そこで「被支配者ではなく支配者なのだ」という幻想に頼ることになる。

これを積極的に利用しているのが現在の安部政権だ。安部政権は共産党勢力や民進党などを「被差別層の反乱」という幻想を植え付けることによって、人々の不満を逸らしている。閉鎖されて経済成長もなかった江戸幕府が被差別層を差別することで農民を支配していたのに似ている。だから鶴保大臣は土人発言を非難できなかったのである。

このように考えをめぐらせると「大阪の警官」が「土人」発言をしたことには意味がある。実は警官は支配者(例えば松井知事のような)からみると単なるコマに過ぎない。この人は大阪の地元では近所に尊敬される「おまわりさん」だったかもしれないし、もしかしたら「鈴木さん」や「田中さん」と認識されていたかもしれない。だが、沖縄では単なる対象物であり、権力の道具に過ぎない。

つまり、実は対象物化されているのは土人発言をした方なのである。何の意義も感じられず地元民を蹂躙する。そこで罪悪感が生まれるのでその人たちを対象物化して凌ぐわけである。

民族紛争は対象物化によっておきている。例えばユーゴスラビアのイスラム教徒とキリスト教徒は共存していた。しかし、いったん、一般名詞化するともはやお互いには一緒の場所に住めなくなった。ルワンダはさらに悲惨だ。もともとなかった民族がでっち上げられ、ラジオで扇動された人たちが100万人単位で殺し合いを行った。民族をでっち上げたのは支配層の白人である。

いったん沖縄が対象物化されると、日本は沖縄に基地をおく正当性を失う。植民地は現在の世界では許容されていないし、日本でない場所に基地をおいて日本の安全保障を担保するわけにはいかない。この意味で対立構造を作ることは「得策ではない」だろう。

警官を主語にすると、土人発言がいけないのは、警官自身が対象物化されているからだということになる。実際には多くの日本人が対象物化されてしまっている。だからこそネトウヨと呼ばれる意識の人たちが増えるわけである。自分たちが単なる一般名詞だとは思いたくないので、別の一般名詞を捏造するのだ。

しかし、これは問題のほんのいったんに過ぎない。実は放置している側の方に大きな問題がある。政治家は統治の道具として国民を対象物化している。積極的に利用していることを知っているからこそ「人権問題だ」といわないのだ。

しかし、もし彼らが統治者として国民を搾取しようという気概や覚悟があれば表向きはこのような発言を許さなかったはずである。差別は決してないことにしなければならない。つまり、鶴保大臣や松井知事に代表される統治者の人たちにはそこまでの覚悟も意識もないということになる。

そもそも人権問題であり、沖縄と日本を分断する発言であるということが問題なのだが、その裏には対象物化という問題がありそうだ。さらにその奥には統治の失敗がある。かといってそれをカバーして統治を磐石にしようという気概も覚悟もない。単に差別意識にフリーライドしているだけだ。

どのレベルでこの発言とその処理がいけないものだったのかという判断をするのかは読み手のみなさんにお任せしたい。

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