人は縛られているうちに、自らを縛るようになる。

他人とのコミュニケーションはたまに面白いことがある。今回は人が「法」というものがどのように捉えられているかを発見した。法律は人が作ったものだ。だから人が変えられるはずである。だが、どうやら「法理論」を物理法則のように捉えている人がいるらしい。

長島昭久議員がこのところ、去年の安保法制について呟いている。そのレスポンスの一つに「政府はこれまでも憲法につじつまを合わせるように苦心惨憺してきたのに、その苦労を無視するのか」というようなことをいう人がいた。言いがかりだ。

そもそも「つじつまを合わせなきゃ行けない時点で間違ってんじゃないのか」などと思う訳だが、こういう感覚を持っている人は意外と多いのかもしれない。多くの人は法律を守る側にいるわけで「赤信号で止まりましょう」と言われたら、ずべこべ言わずにそれに従う必要がある。「なぜそういう理屈なのか」などと言い出したら、社会生活は破綻するだろう。

ここでは「黄色で止まれ」と言われていたのにある日突然「黄色はゆっくり左右を見たら進んでもいい」となった。人は喜ぶだろうか。じゃあ、今まで「黄色で止まってきた俺はなんだったんだ」と立腹する人も出てくる。では、その人は何に起っているのか。

これを考えると「なぜ、過去に作った決まりは変えられないのか」という問いに行き着く。そして、そこから「それは、強制されてきたからだ」という答えが得られる。

憲法第九条は敗戦の結果作られ、自衛隊もアメリカのリクエストである。さらに一般国民は国会議員になることはほとんど不可能(理論上は可能だが、供託金が高く実質的にはお金持ちか組織のある人しかなれない)だ。そこでそれをもろもろ受け入れて「太陽が東から昇るように状況を受け入れる」ことになるのだろう。実はそれが変えられるものだったということが分かっても、態度を変容することは難しい。

たとえは悪いのだが、これは奴隷として生きていた人が「実は自由になってもよかった」と言われたときの感情と似ているかもしれない。きっと彼は解放してくれた主人を恨むだろう。これまでの忍従の苦労が全て徒労だったことが分かってしまうのだから。憲法学者は神官のようなものだ。実は無力なのだが「これは神の試練だ」などと騙っているわけだから。試練を受忍することがその人の人生の目的になってしまう。

加えて、今回の解釈変更も実質「アメリカに強制されている」わけで、何重にも自由意志が蹂躙されていることになる。他者から縛られているうちに、自分を縛ることになってしまったということになる。

自らを呪縛から解放しない限り、この不毛な議論は続くのではないだろうか。

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