ネトウヨ対策はウイルス対策に似ている

先日来「議論を無効化するネトウヨ」と題してネトウヨ的言質について考えている。今回はネトウヨ対策について考える。ネトウヨは生産性を奪う病気なのだが根絶は難しいので免疫をつけて無効化するしかないという話である。




今回はネトウヨを「協力回避のための防衛的マインドだ」と考えた。この病気にかかると協力できなくなり生産性が奪われる。そしてまともにネトウヨ言論にぶつかった人の中には感染者がでてくる。安倍政権は政権を投げ出したときにネトウヨ雑誌と濃厚接触しこの病気にかかりそれを自民党に持ち込んだ。安倍政権が持ち込んだ病気は官僚組織にも伝染し「ご飯論法」や「恣意的健忘症」という症状が出た。議会は協力する姿勢を失い野党にも感染者が出ている。まさにネトウヨのアウトブレイクであり被害は甚大である。

ネトウヨ的言質には様々な作戦がある。こうした手法は炎上マーケティングやテレビの政治言論で精緻化されてから実際の政治にも持ち込まれてきたのだろうと考えている。ちょっとあげただけでも実に様々な攻撃手法がある。

  • FACT飽和攻撃:色々な検証が必要な事実を持ち出して相手の思考能力を奪う。
  • 挑発飽和:当事者に議論を吹きかけて相手を疲れさせる。
  • ご飯論法:話題をすり替えて議論を無効化する。
  • 表現の自由=暴れる自由も含まれるべきだという理論。
  • 気のせい攻撃による問題そのものの否認。

特に有効なのが「表現の自由攻撃」である。反ヘイト条例の批判で「反ヘイトというのは日本人に対しするヘイトだから自分たちにも異民族排除の表現の自由を認めろ」という人がいる。確かに政治的表現の多様性の中には異民族排除の自由も含まれるだろう。つまり「協力しない自由」や「議論を無茶苦茶にする自由」というのもあるはずである。

特にこれが民主的な言論空間の運営では問題になる。多様性のある言論空間を守るために特定の言論を封殺しなければならないというジレンマが生じるのだ。

つまり、政治的な言論空間の自由を保障すると原理的に議論空間破壊の言論を排除できないのである。実によくできている。

最近新型コロナウイルスの話ばかりが出ているので対策方法もウイルスで例えるとうまく説明できると思った。つまり、我々はウイルスのない世界を生きることはできない。できることは「免疫をつけること」だけだ。

ではネトウヨ言論に対する免疫とはどのようなものなのだろう。もともとネトウヨというのは協力しない病である。ゼロサム世界を前提にし自分のものは渡さないために協力しないというのがネトウヨ戦略だ。議論と対話というのは結局「社会協力のための道具」に過ぎない。つまり民主主義言論は単なる道具であってそれは目的ではない。考えるべきなのはどうやって民主主義ルールを維持するかではなく、「協力する社会をどうやって醸成するか」なのである。

ここまでわかると後は簡単である。やり方は二つある。

最初のやり方は「協力を前提にしたコミュニティである」ということを説明しある程度のモデレーション権限を委託してもらうというやり方だ。ある程度の独裁である。人々は言論空間に閉じ込められるわけではないので独裁が気に入らなければ自由に出て行くことができる。「社会が協力するためにはある程度超越したものが必要」という考え方は社会学の世界にもあるらしい。だが、やはりマスターに媚びようとする人も出てくる。

次のやり方は協力の大切さを訴えつつ人々に最終判断を任せるというものである。つまりモデレーションはせず参加者の良識に任せるというものである。こちらの方が民主化度合いが高く、モデレーションが権威性を帯びるのを防ぐことができる。

できれば民主的にやったほうがいいのだろう。アメリカにはそのような事例がある。「「白人に対する人種差別だ」黒人女性が経営する会社がネット上で荒らされるも売り上げは倍増」という記事である。黒人女性を応援したいという製品に「白人差別だ」という批評が起きたそうだ。ところがこの会社は植物ベースの生理用品やデリケートゾーン用の石鹸などを販売する会社であって黒人向けの製品を扱っているわけではない。お客さんは攻撃者たちにひるむことなく会社を支援した結果売り上げが伸びたそうである。

これは日常的に人種差別にさらされているアメリカでの出来事である。アメリカ人は生まれた時から潜在的な人種差別にさらされていてその中で生きてゆくしかない。つまり彼らは人種差別的な言論に免疫を持っている。

モデレーション強化方式は「ウイルスを寄せ付けない」対策であり、民主化方式は「免疫強化方式」である。アメリカ人はある程度免疫を持っているので「戦う民主主義」が実践できる。

ところが日本語版のQuoraの嫌韓騒ぎを見ていると日本人は「嫌韓ばかりでうんざりだ」とか「Quoraに疲れた」という人が多かった。つまり日本人はこうした政治的言論に免疫が低い。

さらに考え合わせてみると、日本人は実名で政治の話をすることはほとんどない。これはおそらく日本人がイデオロギーなどの問題を持ち出すと「取り返しがつかなくなる」ことを知っているからだろう。日本人は政治的言論に免疫がなく、だからそういう話はしない。だから日本人はいつまでたっても政治的言論に免疫を持たない。

この日本人の政治ぎらいを前提にすると、最初はある程度「非民主的な」封じ込め方式をとらなければならないことがわかる。

非民主的方式にはモデレーターの権威化・独裁化という危険がある。それを克服し間を埋める方法もある。それがボイステルバッハ合意だ。モデレータは政治的意見を持ってもいいがメンバーから超越してはいけないという前提である。Wikipediaはこうまとめている。

  1. 圧倒の禁止の原則。教員は、期待される見解をもって生徒を圧倒し、生徒自らの判断の獲得を妨げることがあってはならない。
  2. 論争性の原則。学問政治の世界において論争がある事柄は、授業においても議論があるものとして扱う。
  3. 生徒志向の原則。生徒は、自らの利害関心に基づいて政治的状況を分析し、政治参加の方法と手段を追求できるようにならなければならない。

つまり「協力」という規範意識は持ちつつも、その中で語られる政治的意見は抑制しないという折衷案だ。おそらく、こうした教師的役割を果たす人の育成が日本の言論には足りていないのだろう。

実務上の政治的モデレーションでは、これを他の原則と組み合わせることになるのだろう。

  • 個人攻撃はしない。
  • 挑発に乗らない。
  • 提示する事実は原典を表示しできれば反対側の事実にも目を通しておく。

ただし、実際にこれを全部実践してもらうとおそらくほとんどの投稿はボツになると思う。自分の意見だけを一方的に語る人がほどんどだからである。普段の生活で政治的意見が言えない分SNSだとどうしても自分の意見をまくしたてる人が多いのだ。

日本の政治言論は文壇バーの喧嘩とテレビ東京出身の過激な司会者によって育まれた「朝まで生テレビ」の言論プロレスから始まっている。これがTVタックルに持ち込まれ、民主党の舌鋒鋭い議員が生まれた。彼らが攻撃して潰したのが安倍・福田・麻生政権だ。安倍政権は一度挫折した後SPAなどに代表されるネトウヨ言論と出会い過激化してゆく。「悪夢の民主党政権」などというのは民主党の攻撃性が感染したものだろう。こうしてネトウヨ病に感染した安倍政権から生まれたのがさらに過激化したネトウヨ感染の野党議員である。

この病気から抜け出すのはかなりの覚悟が必要なのではないかと思う。

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