朝の時間だらだらとテレビをつけている。森元組織委員会会長の議論がいつの間にか宣伝フェイズに変わったなと思った。ちょっとした危機感を持ってこの文章を書き始めたのだが、書きおわってかなり戦慄している。受け手側に対抗策がないからだ。
もともと組織委員会は、国・東京都・オリンピアン・パラリンピアン・経済界の代表が組織間調整をするために作られた。これにドーピング関係の人が入って副会長人事を構成している。つまりこれは利害調整組織なのだ。森会長はそのさらに上にあたり、つまり「お飾り」だった。いってみれば神輿の上に乗っているべき人が自らお祭りを仕切り出したことで話が複雑化したことになる。お飾りが祭りを台なしにしようとしたので引き摺り下ろされた。
フジテレビを見ていると、あたかも会長人事に意味があるかのような伝え方になっている。「有名で清廉潔白で国際感覚が豊富で組織マネージメントができて突破力もある」というのが条件のようだ。こんな人はおそらくいない。
のちにわかったのはこれは橋本聖子五輪担当大臣を念頭においた宣伝工作だったということだ。世論が盛り上がっているわけでもなく橋本さん当人も会長就任には消極的だと伝えられる。ただ密室の仲間たちが「辻褄を合わせるためには誰を祭り上げるのがいいのか」ということを話し合っていて、橋本さんを祭り上げることに決めたということである。フジテレビはそれに乗っているのだ。
いかにも乱暴な話だが、周囲の状況だけがどんどん変化してゆき「橋本さんが受諾する前提で」会議をセットしているようだと時事通信が伝える。
スキャンダルに端を発した騒ぎは「リスクマネジメント」の結果、ある時期から広報に切り替わった。「丸く収まるように」広告代理店電通が中に入り政府やテレビ局と調整したんだろうなあとさえ思える。
オリンピック・パラリンピックは我々の生活には関係がない。だから広告によって騙されたとしてもそれほど大変なことにはなりそうにない。そもそも重要なのは事務局以下の実務部隊なので会長はお飾りでもお神輿でも構わない。どうでもいい話である。
だが気になることもある。
同じテレビ局が新型コロナワクチンのことをやっている。オリンピックのあからさまな広報を見せられたあとで「副反応に関する懸念はあるが専門家が口を揃えて大丈夫だといっている」などと言われても違和感しか感じない。
フジテレビはまず公正中立という立場を表明したあとで、いくつかの批判や懸念を表明してみせる。その上で「ソリューション」とやらを提示し「ここまで考えているからとにかく大丈夫だ」という。我々の中にも政府を信じたいという気持ちがある。
ヒトラーやトランプに見られた手法は心理的に傷ついた集団が望むものを与えてゆき一体感を高めるというやり方だった。この際に情報は単純化され集団への没頭感が演出される。いわばカルト的な煽り方である。
ところが「しらけ基調」の現代日本の洗脳手法はこれとは違っているようだ。わざと情報過多の状態にして飽和させたあとで、解決を提示して「このやり方に従いさえすればもう考えなくてもいいんですよ」といってみせる。この際に科学や統計といった一見合理的な材料も提供しておくのがコツだ。
それが外れても誰も責任は取らない。マスコミは中立に言われたことを伝えただけであって、どう解釈したかは受け手の「自己責任」だからである。
この文章を書きながら「フジテレビを見ているからテレビが我々を騙そうとしている」という感想を持つのかなと思った。TBSにして見たのだがTBSは流石にアジェンダセッティングして視聴者を誘導するような広報にはなっていなかった。あるいは後発のマスメディアであるフジ・産経グループが基本的なメディアリテラシーを持たないままにジャーナリズムごっこをしていることが問題なのかもしれない。報道と広報の区別が付いていないのだ。
では我々は広報(プロパガンダ)から逃れるためにマスコミを遮断すればいいのだろうか?
TBSが伝えるところによるとイギリスではマイノリティが不信感からワクチン接種をためらっているという。これは長年「騙されてきた」と感じているマイノリティが政府への不信感を募らせているからだそうだ。マイノリティの間には自助的な情報ネットワークがあるがこれが却ってフェイクニュースの温床になっているそうだ。
専制独裁では民衆を上から押さえつけるのでどうしても管理コストがかさんでしまう。陶酔感を与えるやり方は外側にいる人たちからは異様に見える。だが、一見合理的な選択肢を与えて「選ばせる」やり方にはこうしたリスクはない。テレビは新しい洗脳手法を手に入れたのだろうと思った。だがそこから逃れようとして独自の情報ネットワークを作っても正しい情報は手に入らない。
こうなると「もうどうしていいのかわからないな」と思えてしまう。かなり厄介な時代になったんだなということだけがわかった。