道徳が教科になるということで教科書検定が厳しくなったようだ。パン屋が和菓子屋に改められたというのが反発を呼んでいる。そこでハフィントンポストの記事を読んでみたのだが、問題はそれだけではないようだ。ただ、いろいろ考えた結果、道徳って我々が思っているより暮らしに密着しているんじゃないかと思った。イデオロギー対立の道具に使って<議論>しちゃっていいのかというのが最終的に訴えたいことになってしまった。
ハフィントンポストによると「指導要領の内容を網羅するため」ということで、消防団に参加するパン屋のおじさんがおじいさんに改められたりしているという。国粋主義が強まっているという疑念はそれなりにあるのだが、それ以前に気になるのはフォーマリズムだ。
道徳の目的は、円滑な社会生活を送るために必要な姿勢を作り出すことだ。だから、子供の内部に社会や個人に対する肯定感を育てる必要がある。つまり、道徳教育でで語られることは「例示」にすぎず、多くの例示のなかから内部に「価値観」を作ってゆき、実践することが大切ということになる。
ところが、文部科学省の人たちは、内在的な規範の大切さがわからないようだ。外形的なことを暗記さえすればよいと考えるから「網羅」を目指すのだろう。記事によると教科書を作った人たちはこの点に大いに戸惑ったようだ。心でなく形ばかりが重要視されているというのだ。
同じような教科が英語だ。日本の英語教育は「教科書に書いてあることを覚えさえすればそれでよい」ということになっていて、それを英語が話せない先生が教える。だから英語が話したければ、学校教育をすべて忘れて英語を学び直すことになる。そうしないと実践的な英語が学べないからである。具体的にはアカデミックイングリッシュとかビジネスイングリッシュなどの語彙を覚えないと実践的な英語は話せない。そしてこれは受験英語とはかなり異なっている。
さて、ここまで書いてちょっと寝かせておいた。その間にバイト敬語を耳にする機会があり、道徳というのは思っているより言語性が強いのかもしれないと思い直した。
敬語は待遇表現なので、動詞とか形容詞の変格を勉強しただけでは身につかない。学校の敬語教育が型どおりのものでも構わないのは、我々が学校の外で待遇表現について学ぶからだ。主な通路は家庭と会社なのだが、家庭で基礎的な待遇に関する知識を学べないと敬語が身につかない。すると就職活動で不利になり最終的には経済格差につながる。
我々がそれに気がつかないのは実はかなり恵まれた家庭環境にいるからなのだが、バイト敬語の人たちは待遇表現の基礎を家庭で学ぶことができなかったはずだ。すなわち親も敬語が使えない可能性が高い。つまり社会格差は親から子に引き継がれてしまうということになる。社会的格差の誕生だ。
英語にも同じ側面がある。言葉が話せても裏にある個人主義文化が学べないと面接に対応できない。英語の面接では「御社のためになんでも頑張ります」などと言っても落とされてしまう。自分のスキルを例示して、だから御社に貢献できると言わなければならない。これはチームプレイに対する考え方が異なっているからなのである。つまり、言語には社会性があり、それによって選択肢が変わってきてしまうのである。
同じことがが倫理にも言える。文章を書いているような人間が「学校の道徳教育なんてくだらない」などと言えるのは、実は家庭で基礎的な道徳を学んでおり、その結果として就職活動にも困らなかったからだ。ところが中には親に倫理観念があまりなく、従って面接などでも「どう振舞っていいかわからない」子供もいるはずだ。敬語と同じでよい規範を持っている人は他人と信頼関係が結べるのでよく処遇される可能性が高い。すなわち、どのような倫理規範を内在的化したかというのは経済問題に直結してしまうのである。
学校で型どおりに道徳を学ぶということは、ほぼインスタントラーメンだけを食べさせられているというのに等しく栄養が得られない。普通の家庭に育った人はそれでも構わないわけだが、そうでない人は大きな影響を受ける。
例えば敬語が使えなかったり道徳的でない人が偉くなることがあるだろうという反論もありそうだが、どう振る舞えるかということが重要で、どう振舞っているかということはあまり関係がない。バイト敬語の人たちは使いたくても正しい敬語が使えない。マニュアル通りの対応はできるだろうが、それではマネージャークラスの面接には受からない。これを国際的に展開すると国粋主義的な道徳観を身につけた人は複雑さを扱う多国籍企業には採用してもらえないだろう。嘘だと思うなら、金日成絶対主義の教育を受けた人が北朝鮮の人が一人で東京で働くことを想像してみるとよいだろう。
つまり、道徳には極めて実務的で排他的な側面がある。だから、道徳の議論をするときにイデオロギー的な側面だけを考えるのは実は有害なのではないかと思う。