日本の原発議論は人類がいかに愚かかという見本市

最近、原発事故に絡んで、ある経済学者が「日本人はリスクを知らない」と主張している。「みんな馬鹿だからリスクが合理的に判断できないのだろう」というのだ。驚くべきことにこれに同調する輩までいる。「ドライに割り切る精神が大切」なのだという。勉強ばかりしているとアホになるらしい。では、何がアホなのか。

日本語の「危険・危機」にはいくつかの種類がある。それが「リスク」と「カタストロフ」だ。リスクは将来的に起こりうる危険のことだが、カタストロフは今起こっている危機である。どうやら、日本人はリスクは過大に評価するくせに、カタストロフは「あれは例外なのだ」といって過少に評価する悪い癖があるらしい。

福島の事故は住めなくなった地域の人たちにとっては、原発はリスクではなくカタストロフだ。実際には二号機のベントができずに放射性物質を関東地方を含む東日本一帯に撒き散らす恐れもあったのだという。幸い爆発が起きなかったのは格納容器の密閉度が今ひとつだったからだそうだ。つまりあの事故は関東地方の人間にとってもカタストロフになる可能性のある事故であり、そうならなかったのは「たまたま」である。さらに福島の廃炉も現在進行中のカタストロフだ。海域に放射性物質の混じった地下水を撒き散らす恐れは今も消えていないし、今後数十年も消えないのである。

ところが事故から5年経って、多くの日本人は(当事者も含め)「あの事故は例外だったのだ」と思い込もうとしている。福島はたまたま運が悪かったのだということだ。原発廃炉作業も日常となり、ある意味慣れてしまった。

もちろん日本全体の経済合理性だけを考えると「住めなくなった人たちにお金を払って納得してもらおう」と主張することも可能だ。だが、仮に東日本全体が居住困難になっていたら、同じことが言えただろうか。大阪に住んでいる人が東京から来た子供に「お前は汚染されているから、一緒に遊んじゃだめだって」というような世界である。

これは正義の問題に置き換えることができるだろう。つまり、誰かの幸福のために別の人の生活をめちゃくちゃにすることが経済合理性の名の下で許されるかということだ。科学ではなく倫理の領域だ。他人の人生を根本レベルで破壊することは、経済的自由に含まれるべきなのだろうか。

自分は科学的で合理的であるとうぬぼれる人は倫理的な問題を見逃しがちである。感覚が麻痺してしまうのだ。かつてアメリカでMBAが流行したときにも同じような「賢い」人間が増殖した。その行き着いた先がエンロンなどの経済事件だった。「cooking book」といって会計を操作することで、業績を過大に見せる手口が横行したのである。悪評が広がるのを恐れたMBA提供校は倫理教育をカリキュラムに組み込むことになった。つまり経済合理性は人々の心を暴走させかねないのだ。

「経済合理性があるから原発は優れている」と主張する人は「いざとなったら、お金を払ってめちゃくちゃになった人の人生を買い取ればいい」と言っている。挙句「福島の事故で死んだ奴はいない」とまで言い放つ。

この論理を許してしまうと、原発の提供会社は「過大な設備を作らなくても平気だ」と考えるようになるだろう。「事故を起こしてめちゃくちゃになった人の人生を買い取る」のは事業者ではなく国だからだ。つまり、利得は手に入れつつ損出は外部化してしまえるわけである。これは電力会社にとってみれば「経済的合理性」のある(つまり最善の)答えである。

「経済合理主義」を唄う「自称賢い人たち」はこれにどのように応えるのだろうか。

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