ある「フリーランスの作家だか他称自称ジャーナリスト」氏が民進党が参考に呼んだ人が筋悪だったと書いていた。「嫌な予感しかしない」と書いたのだが「どうして俺のあのツイートを読んで、民進党の議員が何かをしでかすと思い込むのかわからん」というような内容でキレ気味に返ってきた。
面白いなと思ったのは、その返事が全く的外れだったことだ。僕は前回民進党の掲載しているPDFに改ざんの後があるのではないかと書いた。どうも筋の悪い情報や人が民進党に集まってきているなあという疑念を持っているのである。つまり、民進党の議員が何かするに違いないというのは、作家さんの脳内補正の結果であって、コミュニケーションの結果ではないということになる。
日本人は党派性に反応しているだけで、事実は特に重要視しないことはわかっているので「民進党には頑張って欲しいから心配しているんですよね」というようなことを書いた。返事はこなかったので納得したか、その他の炎上しそうな何かに突入していったのだろう。
普段から喧嘩腰のひとなので特に驚きはしないのだが、面白いのはこの人に「情報が役に立たないと思うんだったら自分で調査しろや」というような喧嘩を売っている人がたくさんいるということだ。つまり、わざわざ喧嘩をふっかける人がいて、自分が言っていることが100%理解されないと怒り出すという人がいることになる。結果<議論>が荒れるわけだが、どうしてこういうことが起こるのだろうか。
一つにはこの作家氏がどうも「自分が考えている通りにことが進まない」ことに大変イライラしているという点だ。自分の判断基準がありそれに沿わない人がいることが許せないのではないかと思う。こういう人はよく見かけるが、議論には向いていない。議論とは誤解や知識のなさを埋めて、相手を説得するための技術だからである。そもそも成功するかがわからない上に、人と自分は意見が異なるということが前提なっている。村落的な状態で育った人たちはそもそも議論に向いていない。
ということは裏を返せば「知らない」ことが前提になっているソーシャルネットワーキングサイトは荒れないということである。
さて、最近新しいSNSを二つ始めた。一つは外国人の疑問に答えるQUORAというものだ。何回か答えを書いたが、普段当たり前と思っていることを改めて調べるといろいろな発見ができて面白い。例えば「日本のレストランに箸を持ち込んでも怒られないか」という疑問について調べていて、割り箸をやめてマイ箸を持ち込もうという運動があるのを知った。さらには割り箸は間伐材だから特に環境を破壊していないという意見もある。
次にWEARの投稿もやっている。こちらはみんな自分の服を褒めて欲しいわけだから、あえて他人の服を悪し様にいうことはないし、そのような仕組みもない。興味がなければそのままスルーすれば良いという仕組みになっている。実践が中心のSNSは荒れることが少ないわけだが、知らない人が知っている人を参考にするという仕組みがあり、うまく機能していると言えるだろう。
Twitterが荒れがちなのは、参加している人が答えを知っていると思っているからだろう。例えば、反安倍の人にとっては、日本の政治がよくなるためには安倍首相が今すぐ退陣しなければならない。これがなかなか起こらないからみんなイライラしているわけである。
これを打破する方法はいろいろあるのだろうが、SNSの例からみちびきだせる答えは2つあるように思える。一つは新しい視点を取り入れてゆくことで、もう一つは実践を伴うということである。新鮮な視点を得ることには喜びがあり、その分イライラが軽減される。
そう考えると、日本語のTwitterで議論が成り立たないのは、日本人のメンタリティや言語の構造などとは全く関係がなく、単に新しい情報や視点が入ってこないことの裏返しなのかもしれない。いつも同じような人たちが同じようなことを言っている環境というのは、改めて考えてみるとかなりフラストレーションが溜まる状態なのではないかと考えられる。つまり、新しい視点や知識は酸素のようなものなのだ。
だが、それを打開するのは極めて簡単だ。最近では様々なSNSがあり、特に海外旅行したり、繁華街に出かけて行かなくても様々な体験をすることができる。例えばかつて流行を知ろうと思ったら街に出て写真を撮影するしかなかったわけだが、これは一歩間違えると「俺を撮るな」と通報されかねない行為だった。だが、今では自分から進んでコーディネートを紹介して、アイテムを買う場所まで教えてくれるのだから、つづづく便利な時代になったものだと思う。
やはりネットというのはうまくつかえばとてつもなく便利な場所なのである。