Twitterが140字制限をなくすというニュースが広がった。Twitter社は長い間赤字に苦しんでいる。株主の間からは文字数制限をなくすべきだという声が根強く、これに応えた形だ。しかし、この変化は日本人ユーザーを動揺させた。Twitterらしさがなくなってしまうというのだ。
Twitter社はなにも10,000字を使わなければならないと言っているわけではない。日本人ユーザーが今までのようにTwitterを使い続ければ、これからも日本のTwitter環境は変わらないだろう。それでも日本人は変化を好まない。取りあえず「変わる」というニュースを聞けば反対してみせるのが日本人なのだろう。
日本人はなぜ変化を嫌うのか。それは、変化がリスクだと感じられるからだろう。ではなぜ、変化はリスクなのだろうか。
本来ならば、個人が便利な方向に環境が変化してゆけば、それは他人にとっても便利である可能性が高い。つまり、利得の総和が増す。これを「成長」という。しかし、環境が変化すると今まで環境から利益を得ていた人が損をする可能性がある。そこで日本人は全体の利得ではなく、個人の損に目が向いてしまうのだ。
環境を変えようという動きは「あいつだけがトクをしようとしているのだ」と受け取られる。そこで「スタンドプレーは慎むように」という話になる。このような相互監視と上からの押さえつけはどれも「変化しない」方向に働く。
最近、育休を取りたいと言った国会議員が同僚から猛反発を食らった。男性が育休を取る事ができるようになれば「助かった」と感じる人は多いだろうが「有権者にこびて選挙を有利に運ぼうとしている」と感じる人が多いのだ。最終的に党の有力者から「スタンドプレーを控えるべきだ」とたしなめられたのだという。国会議員がその調子なのだから、個人が生きやすいように社会を変えておこうという動きが広がるはずはない。
こうした環境のことを「空気」と呼ぶ。人が空気を作り出しているはずなのだが、日本人は個人が空気を変えることができるとは考えない。
変化を怖れる人はたとえ便利なことが分かっても、新しいテクノロジーを採用したり、便利な制度を導入することができない。成長ができないのは絆が弱くなったせいではない。むしろお互いの結びつきが強すぎるのである。
このためテクノロジの変わり目は世代の変わり目である事が多い。例えばファックスを覚えた世代はその後もファックスを使い続ける。その後の世代はファックスには目もくれずスマホを使うのだ。
こうして不便な状態に置かれる事が多い日本人だが、こうした不便さに熟達することに不思議な喜びを感じている。これを「職人技」といい、一生道を追求するのがよいとされる。そして不便さに慣れた人たちは、後の世代にも不便を押しつける。便利さを追求するひとを「わがままだ」と決めつけることもある。
例えば「社会の支援なしで子育てをした姑世代」は嫁の世代にも同じような不便さを求める。そして社会の支援を求めることはわがままだとみなされるのだ。
変化を怖れる人に変化を受け入れさせるのはどうすればよいのだろうか。それは「何も変わらない」という説明をすることである。それでも変化を怖れる人はその話を持ち帰り、集団で検討する。そしてお互いの利得が変わらないことを確認して初めてその変化を恐る恐る受け入れるのである。こうしたやり取りを「根回し」と呼んでいる。
Twitter社の仕様の変更が日本のTwitter文化を変えるとは思えない。人々は今までのようにTwitterを使い続けるだろう。もともとこの短文文化は2チャンネルから来たものだ。2チャンネルには文字数の制限はなかったが、参加者は短文で投稿しており、今でも高齢化した参加者たちが同じように短文で投稿し続けている。使い続けているうちに仲間内での約束事が積み重なり新規の参加者を受け入れなくなる。そこで新しい参加者たちは全く別のプラットフォームを選ぶだろう。