Twitterでバカとの接触を避けるには

最近、Twitterを見ると人の悪口を書き連ねている人たちがいる。名前の売れているジャーナリストや作家さんだ。困ったことだなあと思う。

有名になると一般人が絡んでくるらしい。政治家などにコメントをすると訳の分からないことを言ってくる人がいる。「構ってほしいのだろうなあ」と思う。言いがかりには2つのパターンがある。1つは文脈が破綻しているケース。多分、机の前で思い込みが形成されてしまっているのだろう。もう1つは有名な思い込み(例えば、アベは戦争をやりたがっているとか民主党は韓国人に占領されているというようなもの)に侵されている場合だ。

いずれの場合も、まず「ご指摘ありがとう」と言うと良い。相手は対立を求めているのだからそれを火消しするとよいわけだ。物事には両面があるので「そう思う根拠はなにか」と尋ねてみるのもよいだろう。根拠がなければ黙ってしまうし、根拠があればURLかなんかが貼られてくる。これをほめるとたいていの場合は泣き止む。情報は意外と新しい情報ソースだったりするし、最悪の場合でも新しい思い込みが分かったりする。

重要な概念は「コントリビューション」だ。日本語では「貢献」と訳される。つまり、議論の場合、新しい視野の形成や意見交換が目的なわけだから、参加者は誰であろう貢献が求められるのだ。よく英語では「You need to contribute」と言われるわけだが、日本人にはない感覚かもしれない。議論は公共圏であり、参加者が積極的に意義深いものにしなければならないのである。

ただ、反発心から対抗してくる人はまだマシかもしれない。コメント欄に熱心にコメントを寄せる人がいるのだが、何がいいたいのかさっぱり分からないことがほとんどだ。どうやら「承認を求めている」ようである。こちらが何かを主張すればそれに賛同しようと待ち構えているのだろう。だが、こちらも特定の主張を持っているわけではないので(詳しく言うと個人的には主張はあるが、課題とは別である)こういうのが一番困るわけだ。

ただし、こういう人たちを見ていると、日本人は課題と人格が不可分だということは分かる。主張があると「こういう人格の人だ」と見なしてしまうのだろう。傍証としては、主張のある呟きをするとTwitterのプロフィール欄の閲覧が増えるというものがある。同意していて仲間を求めているか、反対に人格攻撃の機会を探している物と思われる。

逆に「課題と人格を分離してしまえば、否定されても腹が立たない」ことになる。英語では「Don’t personalize」というのだが、Personalizeには適当な訳語がない。辞書的には「議論や批評を特定の個人向けのことと考える」と訳すのだそうだ。

実際には批評はPersonalなものと捉えられがちである。昔、投瓶通信という記事を書いたのだが東浩紀という有名な評論家(著作は読んだことがないが、その界隈では大家なのだろう)が「こんなことをいう奴がいるから困る」というツイートを投げてきたことがある。すると、多くの閲覧者が集まった。ずいぶん前の話だ。道を歩いていたら絡まれて殴られた。さあけんかが始まるぞということで見物人が集まったわけだ。

そこで思ったのは次の2点だ。第一に「人格攻撃は(すくなくとも欧米のコンテクストでは)学問のない人がやることである」ということ。日本では賢くて有名な人でもこういうことをやってしまうほど言論空間が未成熟なのかという驚きである。次に文脈がなく(つまり、なんで怒っているのかがさっぱり分からない)単に反発的な言動を期待しているということである。

多分、日本の言論空間というものは昔からこのような殴り合いを人前で見せる、いわばプロレスのような側面があったのだろう。

例えばこんなこともしてはいけない。池田信夫という人が(この人もその界隈では影響力があるのだろう)神道は宗教ではないと言っている。これも宗教とはキリスト教などの<立派な>宗教であるべきという思い込みに侵された主張だ。現代ではシャーマニズムのようなものも宗教に分類されている。キリスト教至上主義を反省した結果である。池田さんは常々社外学は科学ではないし、大学に人文学系の学科は要らないと主張しているので、知識が思い込みレベルで止まってしまっているのだろう。だが、こういう主張に「それは違いますよ」などという引用ツイートをしてはいけない。すぐさまブロックされてしまうからだ。つまりそれは「池田さんという大家の賢さに挑戦した」ということになってしまうのだ。

なぜ、このような事態が蔓延するのだろうか。それは日本の言論界が社会の意思決定にアクセスできなかったからだろう。議論が問題解決の手段にはならず、単なる娯楽として生き残るしかなかったのだ。この顕著な例が「朝まで生テレビ」である。延々と熱い議論が繰り広げられるが、それが政策の意思決定に反映されることはない。となると、その主眼は討論者同士の殴り合いになってしまう。それを見て育った人は「議論とはその程度のものであろう」という認識が再生産される。この殴り合いをTVタックルなどでうまくやったのが民主党だったが、後にそこから逃れることができなくなり、逆に叩いてよい存在に没落した。

Twitterも単なるエンターティンメント(つまり分かっていて殴り合いのふりをする)であるうちは良かったのだが、現在では訴訟合戦に発展しているようだ。主張に対して人格攻撃することが当たり前になっており、それが名誉毀損だということになってしまうのである。

一般人が真似をするから、こういう不毛な議論は今すぐやめた方が良い。とはいえ他人はコントロールできないわけだから、課題と人格を分離してみる訓練を積んだ方がよいだろう。ついでにあなたが話をする相手は文脈を共有していない可能性があることを考慮に入れるとよいかもしれない。ルールはこの二つしかないわけで、意外と簡単に実行できるのではないだろうか。

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