先日、和田秀樹という人が書いた小さなエッセイがTwitterで叩かれていた。50歳を過ぎたらSNSでカリスマ論客を目指すべきだという話だ。主に「バブル世代にこれ以上説教されるのはうざい」というような論調だった。
ある程度の年齢になったら社会にアウトプットしましょうという話はいいと思うのだが、それだけでは文章として完成しないと思ったのか「反論されるくらいの文章を書いてカリスマになろう」と過激目に結んでいた。これを読んで、和田さんのいる世界というのは病んだ世界なのだなあと思った。
50歳代といえばそれなりの経験を積んでいるのだから、それを社会に還元しようという意欲を持つのは悪いことではないだろう。だが、それをアウトプットしたところで、特に誰かの反論があるとも思えないのだ。自分の専門範囲のことなのである程度バランスが取れていて当たり前だからだ。
さらに、実際に書いてみるとわかることなのだが、人は意見には反応しない。何を言ったかということは意外なほど気にされない。人が過剰に反応するのは党派性である。その人が誰なのかというのを暴きたがるのはそのためである。
例えば、政治の場合「体制より」と「反体制」という枠組みがあり、多くの人がどちらかに帰属しているという意識があるらしい。だからプロフィールを見て自分と反対がわにいる人を罵倒するという仕組みになっている。反応があるのはせいぜいタイトルだけなので、中身などは読まれていない。だから、専門意見を書いたからといってそれが反論を受けるということはほとんどありえないだろう。
和田さんの意見の面白いところは、反論されることが情報発信の結果ではなく、目的と取られかねないところである。つまり、自分の意見を貫き通した結果反論されるのではなく反論されるような過激な意見を言うことが目的だと取られかねないわけである。
こうした倒錯が起こるのは日本人がそもそも分析を重んじないからだろう。このため専門知識が重んじられることはなかった。こうした人たちがかろうじて活躍できたのは「テレビのショー」のような世界だった。朝まで生テレビ!のような番組である。前進は本を売るために始まった文壇の内輪揉めではないかと考えられる。つまり、言論はプロレスなのである。
言論プロレスの世界に足を踏み入れると現実世界から排除されるという時代が長かった。普通の人は情報発信しないという世界だ。日本人は党派性を生きているので個人が意見を持ってはいけないのである。言論プロレス家はここから踏み出してしまった人なので、意見を表明することは刺青のようなスティグマになってしまう。例えば学者がテレビに出ると出世ができなくなるというような風潮も見られたようだ。
意見を発信することは「超人になる」ということであり、これは先日観察したテレビドラマの構造にもみられた。組織内での出世を捨て、人間としての感情を抑圧しなければならないという思い込みである。
この「超人論」の怖いところは、カタギでなくなるということがそのまま反社会性と結びつきがちなことである。YouTuberがなぜ「おでんを手で突いたり」「チェーンソーを持ってヤマト運輸を襲撃するのか」というのが疑問だったのだが、警察力を気にしない超人になろうとしているのだと考えると整合する。ネットで目立つというのは、テレビ討論会で目立つのと同じことであり、そのためには殴り合いに発展してもよいという理屈である。
和田さんの頭の中にある「反論されてこそ、その意見には意味がある」というのは、テレビで目立てなければ存在する意味がないというのと同義なのではないかと考えられる。これは社会を逸脱する覚悟があるのかと迫っていることになり、却ってシニア層の健全なフィードバックを妨げてしまうのである。日本にはそれくらいまともな言論というものがないのである。