「糸井重里的なもの」と感動マーケティングの終焉について考えている。
いろいろ考えるうちに、左派リベラルと呼ばれている実際には社会主義とはなにの関係もない人たちが何に苛立っているのかということを考えるようになった。もともとは反原発・護憲の人たちなのだが、それにまつわるさまざまなものに反対しているようだ。その底流には「人間は平等であるべき」という社会主義的な思想や、これまでの既成概念に縛られてはいけないというリベラルな思想があるというわけでもなさそうだ。
彼らには「自分たちが希求する正義が全く実現していない」ということに対する苛立ちがあるのではないかと考えている。左派リベラルの意見は政治的には全て無視されている。これまで政治的意見を表明する場所がなかったので、自分の理想が実現しなくても「まあ、そんなものか」と諦められるのだが、いったん口に出した以上「無視されている」ということが明らかにわかってしまう。にもかかわらず、自民党政権は次から次へとカンにさわることを提案し続けているので、それにいちいち怒らなければならない。だから常に怒り続けているという気持ちはよくわかる。
しかしながら「糸井重里的なもの」の崩壊を考える上で、社会主義とは関係がないあの界隈である「左派リベラル層」の反発はあまり参考にならなかった。むしろ参考になったのは「あの人はなんとなく嫌いだ」という人たちの声だ。実は普段からなんにでも反対している人の動向はあまり当てにならない。むしろ、あまり関心がなく「説明もできない」人たちが「なんとなく」動いた時に、ああこれは風向きが変わったんだなと思うわけである。
「あの人たちは常に怒っているんだな」と見られてしまうことには弊害が多い。
第一に「対象は別に良いんだな」と見なされてしまい社会への影響力がなくなる。第二に雛形が明確なために「あの人たちを対象にして煽り立てるようなことを言えば一定時間は評価してもらえるんだな」という人たちを惹きつける。その意味では<商売左派リベラル>的な人も一定数いる。第三に左派リベラルを攻撃することで支持が得られる人というのが出てくる。最近では名前を聞いたこともない落語家の名前を覚えてしまったが、多分認知を得るために左派リベラル叩きをやっているのだろう。
確かに「自分と同じ考えを持っている人がいるのだな」という「つながっている感覚」は心地よいのだが、それなりのデメリットも覚悟しなければならない。さらに、もし本当に世の中を変えたいなら、いろいろなことに「とりあえず」怒り続けるのはあまり得策ではないと思う。
つまり、群衆であっても「常に怒り続ける人」と「たまに動く人」では「たまに怒る人」の方が社会的な影響力が強い。政治は常にこの「たまに動く人」の動向を気にしているので、もし社会的に影響力を行使したいなら「いつも怒る人」ではなく「たまに動く人」のように見えていた方が都合がよいということになる。
では「なんとなく動く人」に見えるためにはどうしたらいいのだろうか。
ネットには様々な声が溢れておりいろいろなことをしている人がいる。例えばTwitterで毎日のようにイラストを発表している人とか、煙突の写真をひたすらアップしている人とか、Facebookで何かのキャラクターの像を制作している人もいる。何気なくやっていることが集積することはないので、なんらかの意志を持って継続的に行っているのだろうと思われる。
ネットはこういう人たちをとがめ立てしない。世の中にはいろいろなことをいう人がいるんだなあで終わってしまうからだ。彼らがたまに政治課題に反応してそれが複数のルートから来たとき「ああ、なんとなく動くのかな」というような印象が得られる。
ソーシャルメディアが台頭すると「誰にも気にされないで何かやっている人」風な人が増えてくる。すると「この人は自分の意見を押し付けているわけではなさそう」と考え、「本当に好きなことをやっている純粋な人なのだろうな」と考えてついついその人そのものが気になってしまう。一貫性がある人をみると自動的に好ましい印象を持つという効果もある。インプレッションの回数と長さである程度の評価が自動的に決まってしまうからだ。さらにその人たちが空気を作り出しており、実際に大きな影響力を持っていると言える。実は「何気ない(風の)自己発信」にはメリットがたくさんあるのだ。
ネトウヨの人が日本国旗をTwitterのプロフィール画像に使うのをとがめ立てするつもりはない。彼らは特に自分の言動で何かを変えたいなどとは思っておらず、さらに「日本人である」という帰属意識の他に依存できるものはないから、あのような自己表現をしているだけだからである。
ネットのプロフィールに「立憲主義を守る」とか「原発のない綺麗な世の中を作る」とか「戦争反対」と書くとつながりを得ることができるので、それはそれで悪いことではない。ただし、本当に世の中を変えたいなら、それはあまりよい作戦ではないかもしれない。