何もしたくないが話題には乗っかりたい都知事

目黒の五歳児の虐待問題について考えている。摘発があったのは3月であり、あの「かわいそうな」手紙が公開されるまでそれほど話題にならなかったのだから「社会が見殺しにする」などと声高に叫ぶつもりはない。しかし、それにしても今回の政治家の対応はひどいなと思った。浮き彫りになるのは、話題にはなりたいが何もしたくないという政治家の姿である。こういう外見の良い人たちに期待したことがあるので余計腹立たしさを感じる。リーダーシップのなさというより有権者はなめられているのかもしれない。

小池都知事は会見で記者たちに児童相談所の体制を24時間365日にすると表明したそうだ。区役所と児童相談所の連絡体制も密にするとのことである。「早速、動いてくれているのだな」という印象を持つ。

ところがこれとは全く違った情報も出ている。上田令子都議(「かがやけ東京」という音喜多都議との二人会派のようだ)が関係各所への連携について都議会に質問した所「現状維持」という回答が戻ってきたのだという。小池都知事も「現状維持」回答だったとのことである。文中に次のようにある。110番通報とあるところから関係各機関が警察を含んでいることがわかる。

先にあげた事例は、関係各機関が機動的に動いていれば防げた事案です。このような痛ましい虐待死事件が繰り返され手遅れになる理由として、虐待を把握していながら児相が家庭訪問をしなかった、不在だった、子の現認を怠ったケース、110番通報が入っても、児相との情報共有がないため見逃してしまうケースが散見され、児相、区市町村が関与しながら虐待死に至った子供は、過去10年で26名に上ります。

小池都知事が言っていた「連携」とは区役所と児童相談所という自分の縄張りの連携である。一方、上田さんが言っているのは「警察も含めた」連携である。つまり、東京都はなんらかの理由で他の役所が介入してくるのを嫌うのである。また、小池さんは予算については言及していない。同じ予算でカバーする領域はそのままでも「児童相談所に頑張ってもらう」ことで24時間体制は実現できる。つまり、ポーズのために職員を犠牲にしているということになるだろう。

もちろん、警察がやみくもに様々な役所と「連携」することは慎重に議論されるべきだろう。しかし、実際には予算が足りないなどとの制約が出ている。政治家は予算措置が講じられないなら進んで各所との連携を議会に諮るべきだろう。警察介入を嫌うはずの共産党が賛成に回ったことからもその緊急性が想像できる。

もちろん小池都知事が関係各機関との連携を拒否しているわけではないだろう。だが、少なくとも彼女はこの話題に「乗りたい」だけであって、関係各所に頭を下げてまでは子供の状況を変えたいとは思っていないということがよくわかる。豊洲や築地の話から見てわかるように、記者会見で格好の良いことは言いたいが何もしたくない人なのではないかと思う。

引用した上田さんの文章は政治家とは思えない下品な書き方がしてある。キャラを立たせたいために却って信頼性を損ねるように思える。言いたいことが真っ当なだけにもったいない印象を持つ。

世論はひどい親を叩きたい人たちだけかもしれない。だから、本格的な議論には繋がらないだろう。しかし事件に注目が集まったのだから政治家はそれを利用して状況の改善に努めるべきだし、また世の中をよくしたいと考える人が政治家であるべきだ。しかし、実際に政治家たちは単に世間の注目を集めたいだけで、その意欲がない。

同じような思惑で動いているように思えるのが東京選出であり過去都知事に近い動きを見せていた長島昭久衆議院議員である。希望の党を作って民進党を破壊した中核のいわゆる「保守」の人たちである。この人も、どうにかして「児童相談所」のやる気の問題にしたいようだ。援護射撃のつもりなのかもしれないが、あまりにもあからさまである。

彼らはネットは劣情の渦巻くところであり、誰かを指差せば勝手に炎上してくれると侮っているのではないだろうか。せめてもの救いはネットにはそれなりの判断機能があり、彼らの主張が全く顧みられておらず、全国的にも支持が広がっていないという点だろう。現在無所属を含めた旧民主党系右派に注目が集まらないのはいいことだ。保守を自認しながらこの程度の認識しかない。

安倍政権はトカゲの尻尾切りで政権の延命を図り、日大アメフト部の監督は選手が勝手に勘違いしたという言い訳をして逃げ切ろうとした。日本では声をあげられない人たちに責任を被せて逃げ切ろうとする自称リーダーが多すぎるように思える。さらにネットは劣情渦巻く空間であり何をしても構わないし、有権者はバカだから見栄だけ切っておけばあとはなんとかごまかせると考えているのだとしたら、それは考え直した方が良いと思う。

小池都知事は学歴を誇大に伝えたという疑惑があるそうだ。その件を聞いた時も「前から噂があったことだし、みんな知っていて黙殺していたのだから、それくらいで騒ぐのは如何なものか」などと思っていたのだが、もしかしたら本当に政治をやってはいけない人たちなのかもしれない。今後良識のある政治家が登場して状況が変わることを期待したい。

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母性という密室が子供を殺す

目黒の女の子の虐待死について考えている。外側からの規範意識を無自覚に受け入れた結果として子供を殺してしまう母親についてだった。エントリーでは母親が自分の理解した「母親像」を押し付けた結果子供が亡くなったというように分析したのだが、その後に読んだハフィントンポストの記事によると、父親が子供たちを支配しており、母親はそれを黙認していたというような図式になっている。いずれにせよ東京の子育て環境が密室化しており、両親の病んだ支配欲求を満たすのにおあつらえ向きの空間になっていたということがわかる。

この件に関する政治家の動きで一番腹が立ったのは小池百合子都知事の対応(日経新聞)だった。非難の矛先が自分に向くことを恐れたのか、早速政治的なポーズを見せた。なんの総括もせず具体的なことも部下に丸投げするのだろう。この人にリーダーシップを期待しても無駄なのだが、それにしてもひどすぎると思う。

ただ「支援がなかったのだろう」とか「この人は特殊なのだろう」と考えること、気持ちを収めたいという受け手側の事情もわかる。こう考えることで日本人が持っている母性信仰に逆らわずに済むからだ。だが、実は母性は適切な環境なしにはそれほど頼りにならない。病化すれば却って母性が子供を苦しめることになる。

この母親は生きてゆくために夫の規範を受け入れた。つまり生きてゆくにはそれが最適なのだと子供に教えたかったのだろう。それは子供が動けなくなるくらい衰弱しても「勉強のノルマを果たせなかった」という理由で折檻するというような病んだ規範意識である。確かに病んではいるが「無批判に大人のいうことを聞く」というのは典型的な良い子の姿である。先生のいうことを聞いていればそれでいいのだと教えられて、内的な批判精神を一切持たないまま育つ日本人はこの母親の姿勢を笑うことができないのではないかと思う。

これは、国や社会が「子供は国のために犠牲になって死ぬべきである」という規範を持った場合、母親が援助者として機能するということを意味する。つまり、国が戦争を求めた場合、母親は喜んで子供を戦場に送り出してしまうようになるだろう。それがその社会の「良い子」の姿だからである。

この無批判な精神は大人になるとさらに強い規範意識に縛られる。それが「女の人はうまれながら優しい母親である」という思い込みだ。こうした議論に加担する人は、優しい自分を見せたいだけであって、対象物にはそれほど興味がないのだろ。しかし、正解であるという思い込みが強ければ強いほど人気の題材になる。前回の聖書の例で見たように「これさえ掲げておけば安心」という正解だからである。

もし仮に「母性は病化する」などと主張してみても「お前の個人の意見など聞いていない」と黙殺され罵倒されるはずである。政治家の中にもこうした論調に乗ろうとする人がいる。冒頭に挙げた小池東京都知事もその例である。「わかりきっている」とされたことに乗って人気を取るという薄っぺらさが彼女の戦略だからだ。

今回のケースの場合、母親は周囲に助けを求めることができたし、実際には救いの手が差し伸べられていた。それをやらなかったのは母親が「合理的な」選択をしたからである。彼女は二人の男性との間に子供がいた。一人は子育てをするつもりがなく、もう一人は子育てをするつもりがあった。「どちらかを選ばなければならない」となった場合、子育てをするつもりがない父親の子供ではない方を「取った」ということになる。先程は「母性は不健康な状態になる」と書いたのだが彼女にとっては「合理的」ですらあったかもしれないのだ。

目黒の事件は確かに極端なケースだ。しかし、あるべき母親像に苦しめられる人は多い。「母が重い」と感じる娘が話題になったのはもう数年前になる。この日経WOMANの記事は2014年に書かれている。主に問題なっているのは「女性は家のことを完璧に取り仕切るべきだ」という社会規範に囚われてしまった母親だ。子育てがその人の「中核的な事業」になってしまうと、子育てが終わっても子供に依存することになる。家庭に入ることで母親は全てを諦めなければならなくなり、同じ生き方を娘に押し付けたり、あるいはその反動として娘に違った生き方を強要するというケースがあるようだ。BuzzFeedは5冊の本を挙げて「毒親」について解説している。

密室になった親子関係が子供を精神的に殺してしまうというケースは日本では見逃されがちである。それは親密な親子関係が美談として語られるケースが多いからである。小池都知事の他にもこれを利用しようとする人がいる。男性はさらに無責任で、子育てを女性に丸投げしようとする。

適当なラベルがないので「保守」とするが、父親から見た理想の家庭を国民に押し付けたい人たちは、家の問題を母親に押し付けて「あとは自動的に健全な子育てが進む」と考えている。例えば萩生田光一は「子育てはママがいいに決まっている」と言っている。これは「子育てを母親に押し付けている」という反発を受けている。はっきりした統計はないがと開き直っているところから、この主張には何の根拠もない。

母親は毒になる。これを防ぐためには「どのような関わり方の育児がいいのだろう」と考えた。家族という密室を作らないためには、社会全体が子育てに携わる必要があるのだが、それは何も地域の人たちが保育施設を作って子供の面倒をみるというようなことではないのではないのではないか、と思った。むしろ、子育てに専念するような環境を作ってはいけないのだ。

もともと人間にはいろいろな役割がありその役割の中でいろいろな関係に囲まれている。例えばあるお父さんは会社では課長であり地域の野球クラブの一軍コーチであるという具合である。この中に子供が組み込まれれば良い。お母さんにも職場、地域のネットワーク、家庭があれば一つのところに閉じ込められて子供に依存する必要はなくなる。

実はこのようにして解決できる問題はいくつもある。学校が世界の全てだと思えばいじめから逃げるために自殺する人が出てくる。会社の評判が全てだと思い込むと過労死でなくなる。そしてアメフトが全てだと考えると違法タックルに追い込まれる。全て「社会の密室か」の問題が背景にあることがわかるだろう。

ただ、こうした複合的なネットワークを実現するためには、変えなければならないものがいくつもある。例えば職場に子供を連れて行って良いことにしなければならないし、お父さんもお母さんも自分の裁量で仕事が調節できるようにしなければならない。さらに、今学校に丸投げしている課外活動に両親や祖父母が参画することになる。そのためには、誰かがビジョンを作ってそれを実行することが求められる。これをリーダーシップと呼ぶ。

日本人はビジョンを作って協力し合うのがとても苦手だ。代わりに箱を作って全てをその中に密閉しようとする。小池都知事の方針について反発したのは彼女の方針が「密室作り」の延長でしかないからだ。リーダーシップのない政治家は適当に口当たりの良いことだけを言って箱を作りあとは何もしてくれない。児童相談所の人たちが他部門に協力を求めたとしてもその調整は彼らが独自にやらなければならない。実はこの「社会の密室化」は社会全体の問題であり、母性はその中でこれまでも静かに病変を育んできたのだろう。

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船戸結愛ちゃんの届かなかった叫び

目黒で5歳の女の子が殺された。警視庁が子供のメモを公開し「親が許せない」というトーンで報道されている。今回は「人が育つ・育てる」というのはどういうことなのかということについて考える。

なおこの文章は「孤立した母親が自分が理解した規範を娘に規範を押し付けている」という見方で書いているがハフィントンポストの分析だと父親が規範を押し付けていたというように読み取れる。女はモデル体型ではないといけないと言っていたのは父親だというのである。

確かにこの訴えを聞いていると両親が許せないというような感情が湧き上がる。毎日新聞に子供のメモの全体が掲載されており、ワイドショーの中にはタレントに涙まで流させて扇情的に扱ったところもあった。

ママとパパにいわれなくってもしっかりとじぶんからもっともっときょうよりかあしたはできるようにするから もうおねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします

ほんとうにおなじことはしません ゆるして きのうぜんぜんできてなかったこと これまでまいにちやってきたことをなおす これまでどんだけあほみたいにあそんだか あそぶってあほみたいだから やめるから もうぜったいぜったいやらないからね ぜったいやくそくします

だが、本当にこの話は単に扇情的に扱われて良いのかという疑問がある。結愛ちゃんの叫びは我々には届かなかった。親が子育てに失敗したという見方もできるだが、社会が母親を育てるのに失敗したとも言える。社会が人を育てるというのはどういうことなのだろうか。リベラルの識者がいうように単に児童相談所の予算を増やせば良いのだろうか。

最初、報道を見ないで考察したのだが結果的にはかなり外れてしまった。この後フジテレビの情報番組で情報を補足した。その中で見えてきたのは二つの行動原理である。夫の方は動物の基本通りに行動している。自分の遺伝子を確実に残すために邪魔な子供を消そうとしたのだ。報道によるとリーダーシップもあり仕事もできる普通の社会人だったというだけに恐ろしさが際立つ。一方で母親の方がもっと屈折しているのだが、報道では「夫の暴力を黙認した半ば被害者」のような扱われ方になっていた。

夫の方は比較的単純に分析ができる。父親と結愛ちゃんの間には血のつながりがない。このことからこれが一部の猿などで見られる典型的な子殺し案件だったということがわかる。普通の男性は何らかの理由でこれを抑え、代わりに共感と愛情を育んでゆくがこの人にはそれができなかった。「経済的に余裕がないから虐待したのではないか」と思ったのだが、年齢も離れており仕事も持っていたということで、経済的に余裕がなかったということは言えないようだ。

猿の中で子殺しをするので有名なのは、ハーレムを作るハヌマンラングールという猿だ。強いオスがハーレムを乗っ取ることがあり、前のオスの子供をすべて殺してしまうそうだ。サルの場合は子育てをしている間は発情が抑えられるので子供を「取り除いて」発情を促すという側面もあるという。遺伝子を残すという意味では合理的な行動である。だが、これは人間の世界ではやってはいけないことである。

痛ましいのは、児童相談所の摘発が転居のきっかけになっている可能性である。東京新聞によると食品会社を退職して東京に移っているのだが勤めていた会社は摘発(書類送検されたが不起訴)について全く知らず「子供のことを考えているよい父親だ」と感じてたという。しかし、結局この転居は「逃げるため」のものになった。東京ではさらに念入りに隠蔽工作が施される。結愛ちゃんについて知っている人がほとんどいなかったうえ、事情を知っていた児童相談所も結愛ちゃんに会えなかったようだ。目黒には児童相談所はなく品川などの広い区域を少ない人数でカバーしていたそうである。

問題は母親である。子供を安全保障に使っているということと夫の行動を黙認しているという点では動物的な側面を持っていると言える。だが、本当にこの人は、新しいオスに子供を殺されるだけの被害者だったのかという問題がある。

まずフジテレビのワイドショーは「支配」というキーワードを用いていた。児童相談所勤務経験のある人の証言では、虐待する母親ほど子供に執着することがあるのだそうだ。この手紙も自発的に書いたものではない可能性があるという。つまり、結愛ちゃんはこれを忖度して書かされていたことになる。忖度と言っても支配するためには直接的な暴力や言葉による罵りが行われることがある。つまりこれは結愛ちゃんの考えではなく母親の規範である。政治の忖度と同じように児童相談所にこれを見せて「子供が言っている」として正当化の道具に使う親もいるそうである。

次のキーワードは「理想の(あるいは普通の)家族」である。結愛ちゃんは近所からも隠されて「あんな子供がいたことを知らなかった」という証言があった。つまり近所には「完全な(つまり血のつながりだけで形成された)家族」を演じていたということになる。

母親は子供に「社会的規範」を移していることがわかる。手紙から伝わっているキーワードは「こつこつ努力すること」「遊びのような無駄なことをしないこと」であり、供述からわかるのは「モデルのように美しくなること」である。が、このキーワードは一体どこから出てきたのかはわからないが、コツコツ努力できなければ叩かれても良いとか、モデルのように美しくなるためには成長に必要な栄養を与えなくても良いというのは明らかに暴走だろう。

例えばこれを自分に向ける女性もいる。モデルの女性を見て羨ましく思った女性が自分に価値がないのは美しくないからだと考えて拒食症に陥ってしまうというのがその例だ。彼女はそれぞ自分には向けずに娘に押し付けていた。つまり、社会が彼女を「育て」て、彼女は娘を「育てて」いたことになる。この規範の移転も実は母親の「機能」なのである。

だが、この機能には修正装置もついている。それが社会である。この社会がなかったのなら「社会が悪い」で済むのだが、実はそうでもなかった。

人間は猿よりも寿命が長いので祖父祖母という存在がある。つまり、祖父母が間に入って介入できれば「惨劇」が防げていたのではないかと思った。だが、これ想像とは異なっていた。母親は親と同じアパートに住んでおり、新しく結婚するまでは交流もあったようだ。最後に食事にも出かけていたことから放置されていたわけでもなかった。

国も制度を持っていた。児童相談所は虐待について知っていたわけだし、それなりに心配もしていたようだ。香川では二回の虐待騒ぎが起きているから「移動させると大変なことになる」と指摘した人たちもいたという。だが、目黒ではそれがうまく行かなかった。

今でも不十分なセーフティネットだが、それが取り除かれあるべき規範意識を社会が押し付けるだけになるとどのような問題が起こるのかが予想できる。そしてその時に最大の「加害者」になるのは無批判に外的な規範を受け入れてしまう母親である。

ここに出てくる人たちは核家族という集団で規範を作ろうとしていた。ただし、核家族は拡大家族や地域社会から閉じこもる道を選び、さらにその中では家族から母娘が閉じこもる道を選んだ。この小さな集団は短い間に暴走し、最悪の結果がもたらされた。結愛ちゃんの叫びは何重にも密閉され警察に発表するまで誰にも聞こえなかったということになるだろう。

自民党の憲法草案は「あるべき家族像」を政治家が国民に押し付けても良いという考えのもとに作られている。と同時に社会はこれ以上のお金は出せないからそれは家族がお互いに助け合って何とかすべきだとも主張する。

よく「子供を戦場に送らせない」というリベラルの主張がある。この母親が特殊な人であったとしたら暴力的な社会から子供を守る母親たちが子供を守ることになる。しかし、もしこの母親が特殊でないとしたら、夫や社会の暴力にさらされた時、母親はそれを黙認するばかりか、子供を進んで危険な場所に送り出すようになるはずである。どちらが多いのかはそうなってみなければわからないが、もし悪い方の予想が当たればそれは取り返しのつかない社会の失敗になるだろう。

自民党は社会を作ることに関心がない政党である。働き方改革でも、彼らなりのビジョンを押し付けた上で「柔軟な働き方ができるように規制を取り除く」と言っているが、その労働市場がどうやったら作られるかということについては一切興味を持っていないようである。

もちろん、自民党が今回の事件を引き起こしたなどと主張するつもりはないのだが、今でも母性というのはかなり危険な状態に置かれており、家族も密室化している。社会がどう形成されるべきかという視点を持たない政治はこの状況をさらに悪いものにするだろう。

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