座間の連続殺人事件について考える

座間の小さなアパートでクーラーボックスに9人分の遺体があるのが発見された。どうやら8月からの短い間に殺されたようだ。連続殺人事件としては日本で一番の犠牲者の数なのだそうである。当然のことながら殺人事件として扱われ、容疑者の人格などが問題になっている。

このニュースが一筋縄ではいかないのは「世の中には死にたがっている人がたくさんいる」ということだ。しかしながらこの人たちが本当に死にたかったのか、それとも別の何かを求めていたのかはよくわからない。こうした自殺願望を持った人たちはTwitterなどの可視性の高いソーシャルメディアを使っており、拾いあげようとすれば拾い上げることができた人たちである。しかしながら、日本の社会は生きている意味がないと考える人たちを大量生産しており、なおかつ可視化できるにもかかわらず放置している。もちろんそれだけではなく、生きていたいが貧困に苦しむ多くの人たちをも放置している。

そこで「1933年の死なう団」という昔書いた記事を思い出した。日本が第二次世界大戦という集団自殺行為を始める前に自発的に死のうとした人たちがいたという話である。つまり、死にたがる人たちが大勢出てくるという社会はなんらかの破滅的な行為に突っ込もうとしている可能性があるということである。

死なう団と今回の事件には共通点と違いがある。死なう団も今回の事件も死にたいという人たちが集団になっていたという共通点がある。人生に目的が見出せず、死だけが集団を結びつけていたのである。死なう団は集団で行動したが今回の事件は一対一だった。さらに死なう団は運命をともにしようとして活動したのだが、今回の事件には搾取の構造がある。

ここまで生きていたくないという人が多いということは、そうした主張にもなんらかの妥当性があるのだと考えざるをえない。こういう願望を持つ理由はよくわからないが生きていたくないと考えたときに、その願望を肯定してくれる人は多くない。

例えば「美味しいご飯が食べられるかもしれない」とか「楽しいイベントが待っているかもしれない」とは言ってくれるだろうが、だからといって一生美味しいご飯が食べられるように所得の保証をしてくれる人はいないだろう。さらに、このさきもっと苦しいことが待っている可能性も否定できない。ということは「生きているといいことがある」というのはとても無責任な主張であると言える。

よく考えてみると、公立の学校のカリキュラムでは答えのないことは教えてもらえない。宗教教育の代わりに道徳があるようだが、これは社会的常識にちょっと色付けした程度のもので、哲学というような領域にまでは踏み込んでいないはずである。生きてゆくことの意味を教えられることがないわけだから「もう終わりにしたい」と考えても、それが正しいのか間違っているのかを考えることができない。このジャンルに「リテラシー」があるとしたら、多くの人は文字が読めない程度の状態にあるものと考えられる。

しかも、道徳以外の授業では、すべてのことには意味があり正解があるということを教えられる。それを勝ち抜くのが人生の目的だということになる。従って人生に「意味」を失った人は生きていても仕方がないと結論付けざるをえなくなる。勝つことが人生の意味だから負けてしまっては続ける理由がない。

人生はゲームだというような認識がある。すべてのことには意味があり勝つことが目的になるからである。多くの人はこれを「成長」と呼ぶ。つまりステージをクリアしてゆくことが人生の目的になっている。では、もし目の前のゲームが「クソゲー」や「無理ゲー」だったらどうしたらいいだろう。そもままプレイし続けるべきだろうか。このままゲームを続けていてもいいことはあるだろうかと考えてもなんら不思議はない。だからリセットが一つの選択肢になるのだろう。

ここで興味深いのは、容疑者の言っていた「転生」理論だ。天国や地獄に行くのではなく、新しい人生が始まるというのだが、これはゲームでいうこところのリセットである。

ワイドショーにせよ新聞にせよこれは「自殺」や「殺人」だという思いこみで書かれている。しかし、実際にはこれは「ゲーム」なのかもしれない。唯一の誤算は、ゲームと違っているのは人生をリセットしたところで体が消えてなくなるわけではないということである。このことに気がついた容疑者は「処理に困って2ちゃんねるで処理の仕方を相談した」という話がある。

さらに、死ぬ側は一緒にゲームをリセットしてくれる人を求めていたが、死なせる側はそこになんらかのゲーム性を見出したようだ。中には「性的興奮を得ていたのでは」と変態性を持たせようとする人もいるのだが、感情的な盛り上がりをすべて性的と捉えてしまう点に性急さを感じる。いずれにせよ、効率的に犠牲者を狩ることが彼のゲームになってしまったのだ。

ここにある倒錯は「生きている意味がわからない」という人が「生きることをやめる」というイベントを生きる目的にしてしまうということである。つまり人生をともに終わらせることだけでしか他人と共感を結べないということなる。この考え方は狂っているように思える。

しかし、実際には人生には必ず意味がありそれに勝つ必要があるという考え方も狂っているし、人生はゲームであるという思い込みも狂っている。

容疑者の狂気はわかりやすいので話題になりやすいのだが、実際には我々の社会も同じ程度には狂っているのである。

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