聖書の中に遠くにいる信者にあてた手紙の一群がある。後世の創作が混じっているという意見もあるそうだが、主にパウロという人が書いたものとされ、今のトルコ、ギリシャ、イタリアなどに送られている。2018年5月22日は日本の社会に嘘が蔓延しているということについて深く考えさせられる日になったのだが、聖書を読みながら、社会に蔓延する嘘をどのように評価すべきなのかということを考えた。
日大の監督が選手に犯罪行為を命じたが直接は指令せずにコーチに伝えさせた。断りきれなくなった選手は実際に行為に及んでしまうわけだが、そのあとで深い反省の念にとらわれて顔を出して謝罪した。一方で監督とコーチは一切の説明を拒み社会から逃げてしまった。後から経緯をみると、監督は末端を切れるように準備していたのではないかと思える。まずは生徒が「行き過ぎた行為をした」と切り捨て、逃げきれなくなったら今度はコーチが勝手に指示したことだと言い逃れるつもりだったのではないかと思う。
さらに首相が加計学園の問題で嘘をついていることが明白になった。安倍首相は記録を確認したがなかったと口を滑らせたが、後になって慌てた官邸側は「記録はなかった」と軌道修正した。もう嘘はバレている。しかしながら支持者たちは「もっと証拠を出せ」と騒いでいる。これも、最初から悪いことをしているという認識があったのではないかと思える。だから記録に残らないように友達を官邸に招き入れたり、ある特定の日時までは何も知らなかったと主張しているのだろう。そして嘘が露見すると、周囲を切り捨てて行く。
日本社会はこの状況をどう理解して、彼らの嘘をどう裁くべきだろうか。
現在、Twitterで枝野幸男さんなどの野党の政治家が「裁判だったら」というような論調で話をしている。これがかなり恐ろしいことだなと思った。国会議員に不逮捕特権があることからわかるように、政治は司法からは切り離されている。対立に埋没してゆくうちに野党はこのことを忘れてしまっている。
信頼度の高い公文書ですが、反対尋問の機会が保障されることで、信頼度がチェックされるのです。反対尋問を求めるのは文書の記述を否定する側、本件では安倍総理側です。愛媛県や加計氏への尋問を求めるのは、本来、文書の中身を否定したい総理側なのです。
— 枝野幸男 (@edanoyukio0531) 2018年5月21日
蔓延する嘘は社会に様々な悪影響を及ぼしつつある。国会は他人を断罪する場になっている。このような場所で建設的な議論ができるわけはない。日本社会で建設的な提案がなされることはしばらくないだろうし、第三者的な野党によるチェックがなくなれば、与党は倫理的に問題がある法律を平気で通すようになるだろう。
すでに野党の死は確定的だ。建設的な議論をしたい人たちが野党に集まってくることはない。彼らの元に集まってくるのは何者かを破壊したい人たちだけである。そうなると野党側は安倍政権の矛盾を通じてしか自己像を構築できなくなる。彼らは細かな党派に分かれてお互いに牽制し合うようになった。
次の問題は社会に蔓延する嘘である。法律を定める国会議員が嘘をついてもいいのだから、その法律は誰かの胸先三寸でどうにでもなる程度のものに過ぎない。その目をかいくぐることさえできればそんな法律は破っても構わないと思うようになるだろう。罰則がない努力義務など忘れてしまった方が良いことにもなる。
一部の人たちは律儀に政府の矛盾点を指摘し、時々デモに出かけたり勉強会に参加したりする。しかし日本人は表向きの対立を嫌うのでわざわざこのように言い立てたりはしない。彼らは身内の間では不正を働き、他人は厳しく罰するようになるだろう。集団で顔が出ていないと考えるならば、大勢で一人を責め立てて社会的生命を奪うことすら厭わない社会はすでに実現している。一方で、難しい社会的な問題には関心を寄せない。一人ひとりが何かをしたところでどうにもならないと感じているからである。社会的な公正や正義という意味では日本社会はすでにある種の破綻状態にある。安倍政権は統治に失敗したと言えるが、失敗したところで社会がなくなることはない。
さて、ここでコリント人への第一の手紙に戻りたい。もともとのキリスト教はユダヤ社会に現れたカルト宗教の一つである。キリスト教団はユダヤ社会の倫理観に挑戦したために教祖が殺された。それに納得できない弟子の3人が集まって「教祖は復活して俺たちはそれを目撃した」と主張して、周囲からはキチガイ扱いされてしまう。
初期のキリスト教はある意味でオウム真理教事件とあまり変わらないような経緯を辿るのだが、ここから先の展開が違っていた。弟子たちはラビたちに復讐することはなく、教えを周囲に広め始める。ユダヤの戒律は弱者への差別につながる。この時代の弱者も病気になった人や結婚システムに救済されない女性などであり、これは現在とそれほど違いはない。
周囲からキチガイ扱いされながらも、弟子たちは各地を周りユダヤ世界を飛び出してローマの支配地域に広がってゆく。ローマ領域には様々な宗教社会があり、それぞれに律法と差別があったのだろう。そこからあぶれた人たちが集まって原始的なコミュニティができた。
キリスト教からみると、世界は不誠実で道徳に反する行いが蔓延する汚れた場所である。コリントに集まった人たちは外の世界を糾弾し、また内部でも主導権争いを繰り返すことになったようだ。コリント人への第一の手紙はその様子を聞いたパウロが教団をたしなめた上で綱紀粛正をするために送った手紙なのである。
初期のキリスト教団は智恵をあまり信用しなかったようだ。ユダヤ社会が論理に支配され社会正義の実現をおろそかにしたからだろう。パウロは「外の人たちを裁くな」と主張した。代わりに「自分たちは道徳律を守り、キリストの教えを実践すべきである」と言っている。
もちろん、パウロの教えそのものが妥当だったかという点には疑問もあり、現在の教会がこれを守っているとも言えない。例えば、女性は男性の従属物だと書かれており、同性愛(男色)は明確に否定されている。このことが現在のキリスト教圏の同性愛者を苦しめている、教皇は「同性愛者はそのように作られた」として許容する姿勢を見せているが、内部には少年に対する性犯罪などの問題がある。
今回、日大の選手が顔出しで謝罪した上で釈明したのを見たとき「このように選手を追い詰める社会はまずいのではないか」と感じた人たちは多いのではないかと思われる。さらに関西学院大学の現在の2年生たちは高校生だった時にアメフト部の仲間の死を経験している。死因ははっきりしないようだが彼らは仲間の死を通じて「アメフトに対するあり方」を真剣に考えたのではないか。関西学院大学の生徒の名前は公表されていないのでこのことが表立って語られることはないだろうが、生徒たちは真剣にこの問題と向き合っている。
しかしながら、今でも日大は「生徒の勘違いだった」という姿勢を崩しておらず本質的に反省する様子は見受けられない。もともとブランド価値を維持するために経済的な理由から選手を追い詰めているようである。大人たちは自分たちがいい思いをするためにアメフトを利用していおりスポーツの倫理性を軽視しているのだが、生徒たちにとってはそれは命と人生がかかった真剣な実践の場なのである。
「嘘が蔓延する社会を放置してはいけないのではないか」と我々が考える時に頭の中では何が起きているのだろう。脳の働きだと理解することもできるし、私たちの頭の中には他の動物とは違う「霊的な何かがあるのだ」と考える人もいるかもしれない。
日本では宗教的な言論には拒絶反応があり、理性的な人たちの間で「霊的な言葉」という表現がそのまま受け入れられないことはよくわかっている。だからパウロのようには「私たちは霊的な言葉に従うべきだ」などとは主張しない。しかしながら、キリスト教がどのようにして社会的な公正をローマ社会に広げていったのか、なぜ多神教だったローマ社会がこうした社会的公正を受け入れざるをえなくなってしまったのかということを理解するのと同時に、私たちの頭の中に芽生えた「これはよくないのではないか」という気持ちが何に由来するものなのかをよく考えてみるべきではないかと思う。
いったん立ち止まってこのことを考えた上で、私たちはこのまま声高に他人を裁く道を選ぶのか、それとも別の選択肢を模索すべきなのかを考えるべきなのだと思う。