部分最適的な議論とニート

これまで、日本では社会主義が混合した自由主義が様々な不具合を生じさせているという議論をしてきた。当初想定していた通り閲覧時間が減っている。この理由を考えた。結論からいうとつまらないからだろう。ではなぜつまらないのかを考えた。つまり、人々のニーズに合致していないからだ。時々誰かを叩いているように見えるものを書かないと、ページビューが落ちたり購読時間が減ったりする。

最近Quoraという質問サイトに投稿している。主に答えを書くことが多いのだが、Quoraではむしろ質問を募集しているようだ。質問を作るとページが生まれる。するとそこに人が集まる。するとページビューが増える。だからQuoraは質問を求めているということになる。

だが、そこに有効な答えがつくことはほとんどない。答えにはインセンティブがついていないからである。このようにQuoraはプレゼンスを求めて答えのない質問を生産するシステムを作っている。だが、Quoraはそれでも構わない。そういうシステムなのだ。

そもそも答えが集まらない上に日本人は答えを書きたがらない。試しにアパレルと美容で専門家に回答リクエストを出してみたのだが反応がない。日本のコンサルタントと呼ばれる人たちは知識を持っているが問題解決のための智恵はないのだろう。例えば「アパレルは売れないがどうすればいいか」という質問に答えはつかない。この問題を打開した人は日本にはいないからである。彼らは「誰にも知られていない秘密のレシピがある」といって情報を公開しないことで生き延びている。しかしそれは過去の成功の寄せ集めであり根本的な問題解決にはならない。彼らもそれがわかっているから答えが公開できないのであろう。

これとは別に時事問題でいくつか質問をしてみた。防弾少年団の問題と北方領土の問題について書いた。これについてはいくつか回答をもらったが、だいたい世の中にある論と同じである。ある種の正解ができあがるとそれを述べる人が多いということになる。ここから、人々は正解を述べたがるということがわかる。この「正解を述べたがる」ということを頭に入れておくとどのような答えが集まるかがなんとなく予想できるようになる。正解に合致するように書いてやればいいのだ。

ではなぜ正解を述べたがるのだろうか。一つ目の単純な答えは学校教育が悪いからというものである。テストで正解を覚えると褒めてもらえて最後には東大に行けるというシステムでは、どうしても正解を知っている人が偉いということになる。学校教育は過去の正解を集めると褒めてもらえるスタンプラリーなのだ。

だが、理由はそれだけでもなさそうである。

アパレルの専門家はたくさんの正解を知っていて雑誌に広告を出したりフェアを開催したりして毎月の売り上げを維持しなければならない。すると情報が溢れプロダクトラインは整理されないまま増えてゆく。だがこれを整理しても専門家の暮らしはよくならない。Quoraも答えのつかないシステムを量産しなければ売り上げにならない。さらに政治家もシステムを整理して物事を単純化しようとは言えない。なぜならば彼らも売り上げを立てる必要があるからだ。

政治家は自分たちで支持者を集めてこなければならなくなった。このため地元に利権を誘致し、支持者が喜ぶような乱暴な意見を述べる人が多くなった。その度にTwitterは荒れ、野党の反発から国会審議が止まる。だが、それを整理しようという人はいない。状況を整理しても票には結びつかないからである。彼らもまた暮らしを成り立たせるためには情報量を増やして状況を混乱させることに手を化している。前回、このブログで政治について説明したところ「国会議員は選挙のことを考えず全体について考えるべきだ」と言っている人が圧倒的に多かった。だが、全体のことを考えている人に投票しましたかと質問するとあるいは別の答えが返ってきていたはずだ。

いわば人々が限定的な自由主義のもとで働けば働くほど情報が増えシステムが混乱し、自己保身のために複雑な社会主義的システムが作られ、さらに状況が混乱してという無限のループが生まれることになる。重要なのはこれが日本で「働く」ということの意味なのであるということだ。かつて日本の製造業が空気を汚さないと生産ができなかったのと同じことである。

これを整理するためにはこの枠の外に出る必要があり、それは働かないということになってしまうということになる。

先日「ブッダ最後の言葉」の再放送を見た。花園大学の佐々木閑教授が大般涅槃経を解説するというものである。宗教色を取り除くために僧侶の組織論として捉え直して紹介していた。僧侶の集合体は「涅槃に入る」ための共同サークルだが、組織を維持するための戒と目的を達するための律があるそうである。しかしそれだけでは僧侶は食べて行けない。そこで経済を支えるシステムが必要だった。それが在家信者だ。

この番組で佐々木教授は、ニートは僧侶のようなものであるといっていた。生きているということは仏教では苦痛なのでそこから解脱を目指す人がいないと人々は救われない。だが生から解脱してゆくと食べて行けなくなる。それを在家信者が支えるというのが仏教の基本的な考え方のようだ。代わりに僧侶は自分たちのコミュニティにこもるのではなく在家信者に俗世的な生きる知恵を与えるという仕組みになっている。僧侶は働かないという意味ではニートであり、例えば生産性がないという意味では基礎研究の科学者のようだとも考えられる。

基礎研究はノーベル賞などの社会法相システムがある。一方、ニートはそれぞれが孤立しており、生産セクターにフィードバックするシステムがない。だからニートはだめだと言われてしまうのである。

俗世のシステムをありのままに観察してゆくと最終的に宗教に答えが見つかるというのはとても皮肉なのだが、「生活の苦労がない科学者や政治的指導者を持つこと」が豊さにつながるというのは頷けるところが多い。例えば総理大臣は権力闘争で生き残りを図る必要があるから尊敬されず、世の中を混乱させてばかりいる。一方で天皇が戦争や災害に心を配ることができるのは、この生活を国が支えており、地位を脅かす人がいないからである。かつて政治家が尊敬されていたのは彼らがお金を集めなくても周りで支えてくれる人たちがいたからだろう。今でもそのような家は幾つか残っており「選挙に強い政治家」と呼ばれる彼らは比較的未来のことを考えた発言ができる。

しかしながら、俗世の人たちはそうも言ってはいられない。すると答えつかない質問が溢れる。しかし世の中の人たちは質問をするという面倒なことはしない。オンラインコミュニティで成功するには二つの正解から選ぶことになる。

一つはこれまであった正解を過去の成果とともに誇大に宣伝するというものである。例えばバナナを食べたら痩せたとか、聞き流していたら英語が話せるようになったというものだ。こうした情報は巷に溢れている。歴史を単純化したうえで都合の良いwikipedia記事だけをコピペしたものが保守の界隈では「立派な歴史書」としてもてはやされているそうだ。

もう一つは正解からはみ出した人たちを「わがままだ」と言って叩くというものである。豊洲が正解になったのだから、そこでやって行けない伝統的な目利きはわがままだと言って潰してしまえばいい。すると、政治家も都の職員も過去の事業の失敗の責任を取らなくて済む。また保育園に預けて働きたいというお母さんはわがままなので無視すればいい。日本は日本民族から成り立っているという正解のためには、アイヌ民族や在日朝鮮人はいないほうがいい。さらに結婚はいいものであるべきだし社会保障の単位であるべきなのだから、同性愛は病気ということにしてしまえばよいのである。

それでも不満はたまるから、時々明らかに正解を外れた人(ちょっとした法律違反や不倫などの道徳違反)の人たちを見つけてきて叩くことになる。

こうしてコミュニティは荒れてゆく。だが、多くの人たちはそれでも構わないのだ。こうして誰かが状況を整理するまでは部分最適化が進み人々はかつての正解にしがみつくためにますます過激なコンテンツを求めることになる。

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保育園にわざと落ちる「わがままな」親たち

先日は憲法改正と外国人労働者受け入れの問題から「出し惜しみ論」について考えている。この一環として日本に蔓延する「わがままな親たち」について考える。片山さつきによると「私たち」自民党は国民は義務を果たさず権利ばかり追求すると考えている。このわがままさの正体がわかれば自民党の世界観が正しいかどうかがわかるはずである。

保育園わざと落ちる問題についておさらいしておく。この現象は不承諾通知狙いと呼ばれている。東洋経済から抜粋する。東洋経済によると不承知許諾通知狙いは慢性的な保育政策の不足から起きている。

ヨーロッパの先進国では、3歳もしくはそれ以上の育児休業をとれる国も少なくありません。しかし、日本の育休制度は、あくまでも1歳までが原則で、育休延長は保育園に入れなかった場合などの救済策として設けられているに過ぎません。

このことが、実はさまざまな歪みをもたらしています。

育休は1年間は取れるのだが、それ以降2年目までは救済策として整備されている。この救済策を受けるためには「保育を申し込んだが受け入れられなかった」という実績が必要である。一歳児はまだまだ手がかかる上に、職場に復帰してしまうと「男性並み」の働きが求められるため、子育てと職場の両立に不安を持つ親が多い。だから最初から保育園に落ちたことにして不承諾通知を狙う人がいるのである。わざと人気の場所を選ぶ人がおり、選ばれても通えないからと辞退する人に多いそうだ。彼らは職場とキャリアを失うのが怖いので「彼らができる範囲で」最適な行動を取ろうとする。これが制度を混乱させている。つまり、親のわがままとは部分最適化行動なのである。

不足のある政策は部分最適化行動を生み政策の不足を助長するということになる。

ポストセブンも同じような解説をしている。

制度を作るとその制度を「有効に活用しよう」とする人が出てくる。しかしその他に自由度がない(夫は育児を手伝ってくれずその余裕もないし、職場も人手が足りず育児中の女性を特別扱いできない)うえに制度そのものも十分ではないので、その制度の中で最適化を図ろうとしてますます制度が混乱するという悪循環が生まれる。

保育園の数が十分あればこんな問題は起こらないはずである。ではなぜできないのか。これについて、以前地元の市役所に取材したことがある。予算制約があり駅前の便利な土地にたくさん保育園が作れない。統計上の数合わせのために空いた土地に作ったりするのだがそこには需要がない。無理して便利な土地に作ってしまうと今度は別の問題が起こる。今まで保育園がないからといって子育てを諦めたていた人たちが子供を作ったり、キャリアを諦めなくなったりする。すると保育園の需要が増えてしまうのである。

複雑に思えるかもしれないのだが、起こっていることは単純だ。既存の変数から計算して保育園の需給予測を立てる。しかし、保育園の数が変数になり需要を増やしてしまうという「フィードバック効果」が生まれる。だから、いつまでたっても数字が確定しない。市役所の人たちは薄々これに気がついているが理論化まではできない(そもそもそんなことを考えていても仕方がない)ので、「国が決めること」だとしてコントロールを諦めてしまっているようだ。

ここでもう一つ重要なのは「保育園の数がいつまでも足りない」ということである。計画的社会主義の供給が不足に陥ることは経験的には知られている。ソ連ではすべての生活必需品を計画生産していたが、1960年代ごろまでに破綻し「いつもモノが足りない」という状態になっていた。いくつか要因は挙げられているが、何がキードライバーなのかは確定していないのだという。個人的には社会主義にはインセンティブを与える仕組みがないからだと思っていたのだが、これが主犯だという証拠もないそうである。

日本は資本主義社会なので日用品の生産は充足している。足りないのは介護や子育てなどの福祉分野と労働賃金である。この二つの分野で社会主義化が起こっていると仮説すると状況がうまく説明できる。

政府がどのくらい市場に介入すべきかというイデオロギー的な問題は横に置いておいたとしても、政府が介入するとところでは部分最適化が起きなおかつ供給はいつまでも過小なものだろうという予測はかなり確度が高い。保育所がいつまでも足りないように海外労働者も充足しないだろうし、それは賃金の慢性的な不足という意味で日本の消費市場をじわじわと衰退させるだろう。

前回蓮舫議員のツイートを批判したのはこのためだ。つまり、蓮舫議員が「不足人員の需要を出せ」といったことが、彼らが意図した華道家は別にして計画経済的な視点になってしまっているのだ。

実は政府が計画を作ってしまうと、その枠までは低賃金労働者が供給できる可能性があるという宣言になってしまう。すると、その低賃金労働に人が張り付くことになる。実際に各産業ではこの数字を巡り「自分たちの産業にも多くの人を割り当てるべきだ」という声が出始めている。(毎日新聞)こうすると賃金を上げずに企業活動が維持できるのである。そしてそれはアパレルのゾンビ企業を温存する。これも社会主義では「ソフトな予算制約」と呼ばれる問題に似ている。

一方、対象から外れたコンビニやスーパーは、将来受け入れ対象になることをめざし、経済産業省などと協議を続ける。縫製業務などで外国人技能実習生を多く抱える繊維アパレル業界も「認定されれば工場の安定的な操業につながる。ぜひ対象に加えてほしい」(ワコール)と求めた。

安倍首相はアベノミクスで経済が成長すればその果実は地方と労働者に滴り落ちると説明してきた。しかし実際にはその果実が滴り落ちることはなく、安い賃金労働者がもっと必要だから海外から調達してこようという話になっている。野党はこのことを追求することなく「確実な需給予測を」と言っている点から、安倍政権だけでなく野党も資本主義経済についてよく理解していないことがわかる。狭い村を基本に行動する日本人はもともと計画経済志向が強いのかもしれない。だが実際の経済は一部の人が完全にすべての情報を把握できるような大きさではない。

政府が市場に関与すればするほどソ連型社会主義の「不足」の問題が出てきてしまう。だが、自民党は構造的な問題を解決することはなく「国民がわがままだから自分たちの素晴らしい計画がいつまでたっても成就しない」と考えて「天賦人権を取り上げて政府が指導すれば問題は解決するのではないか」と推論するようになってしまったのである。

数年前に「天賦人権はふさわしくない」と言い放った片山さつきは今や大臣になっている。そこでわかったのは公職選挙法を都合よく解釈して各地に大きな看板を作ったり、カレンダーを会議の資料だといってプレゼントしたり、さらには自分の名前を使って勝手にいろいろな商売をするであろう人を無償で秘書として雇ったりということをしていた。一生懸命自分のキャリアを守ろうと試行錯誤する親がわがままと言われる一方で、政治家の私物化はわがままと呼ばれることはない。

これが自民党政権を放置し続けたツケなのかもしれない。

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