すでに監視社会に住んでいる日本人

面白いつぶやきを見つけた。監視されていると感じることによって息苦しさを感じることを「パノプティコン」と呼ぶのだそうだ。

共謀罪の議論が明後日の方向に進みつつあるなと思った。この議論が難しいのは西洋のように個人が内心の自由を持っている国とそうでない日本に大きな違いがあるからだ。以降の議論は「そもそも日本人には内心の自由を持っていない」という前提で進める。

日本の会社に入ると大抵は飲み会に参加することになる。上司がいるわけではないが、居酒屋で愚痴をこぼし合う。しかしこれは懇親会ではなく、相互監視のための組織で「抜け駆け」しないようにお互いを監視しつつ、どの程度の行動なら許されるのかということを探り合っている。日本人にはこうした非公式のコミュニケーションパスがあり、例えば上司への稟議などもこうしたルートが使われるし、ここから排除されることで「根回しされていなかった」と騒ぎ出す。

Wikipediaを読む限りではベンサムの考えるパノプティコンの概念には、権威が貧乏でだらしない人たちを監視して、社会全体の幸福度を上げて行こうという考え方があるようだ。つまり、ベンサムは街でダラダラして貧困に落ち込んでいる人たちを「自己責任だ」と考えていて、監視しないと身なりを整えたり立派に働いたりしないダメな人たちだと考えていたことになる。つまり、内心にディシプリンがないから、彼らはダメなのだと考えていたようだ。しかし、日本人はディシプリンがないのに、社会的にはお行儀がよいことで知られている。それは、お互いを常に監視しあっているからなのであろう。

このディシプリンのなさとコンテクスト依存は時に大変な問題を起こす。二階派には有権者を大切にしようというディシプリンはなく、関心事は「誰がどれだけ偉くなれるか」ということだけだ。だから今村復興大臣が「東北でよかった」と発言しても誰も疑問に感じない。彼らにとって政治とは大臣の地位とそこで扱えるお金のことであって、東北の被災し者たちの相手ではないのでそれは当然だ。これが問題になったのは、記者という「コンテクストが異なる」人たちが失言を求めてたむろしていたからである。彼らの目的は政治家の失言を集めて視聴率を集めたり、名前を売ることなので、二回幹事長からすると「排除されなければならない」のだ。

このパノプティコンの考え方が否定されるのは、自分のことは自分自身が一番よく知っているので、他人からあれこれ指図されなくても、身を保ち得るし、社会全体としても高い功利が得られると考えるからである。実際には東ドイツはパノプティコン社会だったが、経済的には西ドイツとの競争に負けてしまった。

いずれにせよ、日本にこうした非公式な縛りあいの関係を見つけるのは難しくない。そもそも学校で友達同士の相互監視があり(先生は排除されるので告げ口すると嫌がられる)PTAでもお互いの目が光っており「私はこんなに苦労したのだから、次の役員も苦労すればいい」と考える。さらに引退すると自治会などの組織があり、お互いのライフスタイルについて干渉し合っている。

窮屈だという人もいる。例えば先生に縛られるのが嫌だという子供は先生に隠れてこそこそと自分たちだけの集団を作る。ではそこで自分たちの生き方を追求するかといえばそんなことはない。LINEで自発的な監視網を作り24時間監視し合うのだ。

ここまでで言えるのは「共謀罪」などなくても日本人はお互いに監視し合っていて、それに息苦しさを覚えているということだ。日本が監視社会なのは政府の陰謀ではないというのも重要だ。つまり日本人は「自発的にお互いを縛りあって」いるのだ。

では、共謀罪ができても社会は変わらないのかという疑問が出てくる。これに応えているコラムは多くないが、ニューズウィークに「共謀が罪なら、忖度も罪なのか?」というコラムを見つけた。つまりもともと相互監視的な性質があるので、ちょっとした変化があっても社会の雰囲気が一気に変わってしまう可能性があるのだ。つまり「単なる犯罪防止のために」とルールを変えてしまうと、非公式のコミュニケーションルートが過剰に反応するので、コントロールが不能になってしまう可能性が極めて高いのだ。冷泉はこれは「ハイコンテクスト」という概念で説明している。

この実例を見つけるのも簡単だ。内閣が人事を握るようになると、法令を破ってでも内閣の要望に応えなければならないという気持ちが生まれた。一方で、自分たちで「人道的に」就職先を作ろうという天下りスキームができた。これは内閣の指示が曖昧で成果が出しにくいにもかかわらず、数値目標で処遇が変わるようになってしまったからだと考えられる。今言われている「忖度」はハイコンテクストな組織の暴走なのだ。

ここから言えるのは「お互いが抜け駆けしないように監視し合う」内なる相互監視をやめない限り、パノプティコンは無くならないということになる。何もかも政府のせいにしてはいけないのでである。と同時に日本人が極めてハイコンテクストな(日本語でいうと「阿吽の」)社会に住んでいるという理解なしに制度を変更したり批判してはいけないのである。

メールの盗聴システムを騒いでいる人たちに言いたいこと

アメリカが日本にメールの盗聴システムを提供したというのが話題になっているようだ。朝日新聞にも記事が出ている。

が、なぜ騒ぎになっているのかよくわからない。なぜならばメールは盗聴されるものだからである。だからメールは「誰かに盗み見られてもよい」ように書かなければならない。

これはメールの根本的な仕組みによる。例えば、あなたが共産党より左側にいる組織のメンバーで、自宅のパソコンから組織にメールを送るケースを考えてみよう。あなたのパソコンはプロバイダー経由でメールを発出するわけだが、それが直接極左組織に届くことはない。どうがんばってもどこかのサーバーを経由する。つまり経由地のサーバーが暗号化を施していなければ、途中経路のメールは盗み見られてしまう可能性があるのである。だから極左組織のメンバーであるあなたはメールを使ってはいけない。

これを防ぐための仕組みは提供されている。例えばG-mail(フリーメールだから安全じゃないと思っている人もいるだろうが、かなり安全なシステムだ)はメールの暗号化に対応しているそうだ。メールそのものが暗号化されれば、途中で盗み見られても中身がわからない。

だが、たまたま見かけた2016年の記事によると、暗号化に対応しているプロバイダーはほとんどないそうだ。また、暗号化は途中経路の暗号化のようで、メールそのものは暗号化されていないようだ。こうした暗号化されていないものを「平文」という。平文のメールは途中で開けられたらそこで中身が見られてしまう。かといってメールそのものを暗号化してしまうと、到達しなかったり、到達しても相手が読めなかったりということがある。いずれにせよ、暗号化の動きが広がっているのは、CNETによると政府がメールを盗み見ようとするためだという。

スノーデンの文書について本当に知りたいのは、こうした通信がSSL対応した通信網(SSLにもいろいろなバージョンがある)にどれくらい有効かということなのだが、かなり前の資料になるはずなので、現在の仕組みにどれくらい対応しているかはわからない。というわけで資料としてはあまり意味をなさないのではないかと思う。

クレジットカードの文章も当然盗み見られるのだから番号は知られていると考えたほうがよい。Amazonで買い物してもフルのクレジットカード番号を記載しているものはないはずである。いずれにせよ、明細をチェックして怪しい動きがないかはチェックしておいたほうがいいし、余計なカードは作らないほうがよいだろう。

だが、こうしたシステムがテロの防止にどれくらい影響力があるかはよくわからないところである。例えば国家転覆を狙うテロ組織は当然中国共産党から支援を受けているだろうが、中国といえばサイバー攻撃が盛んな国だ。彼らは当然暗号化された連絡手段を持っているだろう。一方、一般庶民のメールは盗み見放題ということになる。

ということで冗談で「〜さんをやっちまおうぜ」というようなメールを送るのはやめた方が良い。共謀罪が成立すればそれを受け取っただけで罪に問われる可能性が出てくるからだ。

なお、メールを使うよりは、SNSのメッセージアプリを使った方が安全性は高くなる。いろいろなサーバーをホップすることはないからだ。しかし、例えばLINEは捜査機関に情報を開示しており(開示した件数も公表している)絶対に公的機関にバレないということはない。リンク先は、令状に基づくものがほとんどだったと書いてある。つまり「令状に基づかない」ものがあるのだ。

多分、メールを盗み見るというのは、違法ないしは違憲なのだと思うが、戦争はいたしませんという憲法を持っていてもこの体たらくなのだから、憲法で信書の機密性が守られているなどと信じるのはあまり得策ではないのではないだろう。現在の法体系では少なくとも政府がメールを盗み見るなどということは表沙汰にはできないだろうが、既成事実を作って法律さえ変えてしまえばそれも可能になる。共謀罪の成立過程を見ていると、政府はもはや一般人も網にかけるつもりでいるらしく、それを隠そうともしないので、いわゆる「監視社会」が実現する日は遠くないのかもしれない。