なぜ不安を他人と共有すべきなのか

昨日は安倍首相が社会との間で問題を共有できていないということを書いた。反安倍ネタというのは政治ブログの鉄板になっていて今でも多くのページビューを集める。新聞が反安倍と親安倍に別れる理由がよくわかる。多分、商業上の需要があるのだろう。

読んでもらえるためには有効な手段なのだが「これで良いのか」ということもよく考える。

最近、夜中に犬が鳴くことが増えた。昨年の1月に前庭障害という病気で倒れてしまっい、その後徐々に状況が悪くなっている。動けなくなってしまい、餌も満足に取れない。そこでどうして良いかわからずに鳴くのである。

犬は鳴くのだが人間ができることは少ない。何もしないと「苦しんでいるの煮詰めたすぎるのではないか」と思うのだが、かといって犬のそばにずっといればこちらが倒れてしまいかねない。正解は全くないのだが、なんとかして対処して行かなければならない。

もちろん獣医師に相談することはできるが、獣医師もできることは少ない上に、お金もかかる。どの飼い主さんも大いに悩まれるそうである。つまり、正解はないが、こういう問題で悩んでいる人はたくさんいる。犬の数だけ問題があるわけで、つまり正解がない上に実は割とありふれた問題であるということにも気がつく。

これは犬の話なので割と気軽に話をすることができる。もしこれが人間の話だったらと思ってしまう。例えば、一緒に住んでいる家族とそうでない家族の間に認識の差が出るだろう。一緒に住んでいない人は「もうちょっとちゃんとやれるのではないか」と同居している家族を非難するかもしれないし、逆に同居している方は「じゃあ、お前がやってみろよ」となる可能性もある。これもありふれた話なのだが、家族にとっては初めて直面する正解のない問題である。

最近はこうした問題にも社会が絡んでくる。医療費は税金で支えられているからである。医療がどの程度延命に関わるかという問題には正解がない。そして正解がなく誰でも悩むのだということは、多分その時にならないとわからないのだろう。

社会が大きな負担をする一方で、社会のあり方は変わってきている。かつては家庭や親戚に病気の高齢者がいたのではないかと思うのだが、核家族化が徐々に進行した。全くこうしたことを経験しないままで負担する側に回ることが増えてしまったのである。

だから、長谷川豊さんのように「透析患者は自己責任なのだから云々」という人も出てくる。長谷川さんの発言は暴論だと思う。かといって、管につないでいつまでも生かしておき、その間に医療費を支払い続けることが良いことなのかはわからない。社会の負担が増えるばかりでなく、支える人にも大きな負担になる。

犬の場合には「積極的な治療はしないで、衰弱させるのもあり得るのかな」などと言える。しかし、同じような問題であっても人間には同じことは言えない。いくつかの理由がある。

  • 人の命と人権という漠然とした意識があり問題が複雑になっている。単に費用対効果の問題として語ることが難しい。
  • 経験した人と経験していない人の間の認識に大きな違いがある。
  • 個人によって延命治療を受けたいか受けたくないかということに意見の相違がある上に、その場になってみないと本当のことはわからないという事情がある。
  • 自分の「不幸」を他人に話すべきではないという文化的な態度がある。弱みを見せたくないという気持ちがある人もいるだろうし、自分の問題で社会を煩わせるべきではないと考える人もいるのだろう。
  • 自分の優位性や存在感を示すためにわざと暴論を述べて社会を刺激する人がいる。
  • 個人の問題を語ると「それはお前の問題だから自分でなんとかしろ」と言われるおそれが強い。

そもそも、課題や悩みの共有が難しい上に政治家もシンパシーを持たないという意味では、我々はかなり難しい社会を生きている。その上別の技術的な問題もある。

実際にTwitterでフォローさせていただいている人の中には自分が病気を抱えていたり、病気の家族を抱えている人もいる。中にはベットから動けないがそれをあまり感じさせず趣味の話などをしている人もいるのだが、家族の問題をつぶやき続けている人もいるといった具合だ。家族の問題を共有することには社会的な価値があるのだが、技術的な問題から単なるエンドレスな愚痴にしか聞こえないということがあり得るのである。たいていの場合はそれを当人にとっては重大な問題だが実はありふれているという認識を持てていないことが理由になっているように思える。個人的な悲劇に浸っているように聞こえてしまうのである。

経験を共有する技術を磨くために最初からオリジナルのやり方でうまく情報発信ができるわけはない。だからなんらかのモデルを真似する必要があるだろう。

そこで、昔の人はどうやって共有していたのかなと思うのだが、よく考えてみるとモデルが思い浮かばない。学校がミッションスクールだったので割と日常的にこうした話は聞いていた。多分、キリスト教の教会などでは信者同士で経験と感情の共有しているのではないかと思う。

仏教の法事は家族単位なので他者と悩みを共有することはない。それでも、昔は親戚も多かったので遠い親戚とこうした悩みごとを相談することがあったのかもしれない。こうした行事に参加していれば、後継者問題や親子の不仲などの問題を全く抱えていない家族はいないということがわかる。だが、戦後すぐの世代は「子供達には迷惑をかけたくない」という気持ちが強いらしいく、却ってそれに続く世代が、悩みを共有する機会を奪っている。悩みを学習することを「負担」や「迷惑」と感じてしまうようだ。

このところ「政治の課題」についても考えている。その基礎にはすべての人は問題を抱えており、少なくともその経験を社会で共有すべきだという認識を持っておくべきだと思う。そうでなければ、硬直した物語で問題を糊塗することの問題点は見えてこない。物語は物語にしか過ぎないのだから、問題を解決することも課題を共有することもできないのだ。

いずれにせよ、自分の問題をできるだけ冷静に語るのは難しい。すぐにできるようにはならないと思うのだが、できるだけそうした技術も磨いてゆきたいと思う。

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