Twitterからヘイトアカウントを駆逐するにはどうすべきか

Twitter社からアンケートの依頼が来た。ランダムにコミュニティの運営についてアンケートをとっているらしい。「攻撃を受けたことがあったか」というのが質問の内容だった。他の人たちがどうなのかはわからないのだが、政治的な課題を扱っている割にはあまり暴力的な攻撃を受けたことはない。かつて例外的に東浩紀という人から絡まれた記憶がある。ずいぶん前(つまりTwitterが荒れる前)なので炎上対策のセオリーに従って放置した。しばらくは彼の取り巻きのような人たちが閲覧していたようだが、やがて治った。ネットでは有名な人らしいのだがこの類の人たちの書いているものは信頼しないようにしている。炎上を起こして話題を作るというのが彼らのやり方なのだとは思うし、フリーランス的な傾向の強い人たちはそうしないと食べて行けないという事情も分かるが、信頼性は損なわれると思った方が良い。

さて、アンケートは面倒だなと思ったのだが、やってよかった。Twitter社が何を気にしているかということがおぼろげながらわかったからだ。

彼らが気にしている点は二つだった。第一に暴力的な個人攻撃が起こることを気にしているようだった。場が荒れると広告プラットフォームとしての魅力がなくなるからだろう。が、これはあくまでも個人と個人の話である。つまり、朝鮮系の当事者が「朝鮮人は黙っていろ」と言われたらこれは暴力なのだが、当事者ではない人がそこに参加することは想定されていない。例えば「日本は単一民族国家だからアイヌ人などいない」というのはヘイトスピーチなのだが、これに声をあげるべきなのは当事者である。

すでに書いたように、ネトウヨ攻撃に対して個人攻撃はやめるべきだと思う。カウンターのほうが暴力的だと取られてしまう可能性が高く、抑止に実効性がないからである。ヘイトスピーカーは個人の政治的態度を主張するという形で情報発信をするので、それにメンションをつけて「黙れ」と言ってしまうと逆に政治的意見の抑圧に取られてしまう可能性が高い。他者の人権を否定するのは表現の自由ではないが、あくまでも反論する権利があるのは当事者だけなのだ。仮に参加するとしたら、攻撃された方を応援するなどの支援に止めるべきだろう。

次にTwitter社が気にしているのはフェイクニュースの発信のようである。アメリカではFacebookがフェイクニュースの発信源になっており対応が遅れたことが社会問題化した。広告収入に影響があり株価にも影響したようだ。

アメリカ人は日本人が考えるほどには国際化されていない。関心事は国内のことだけで国際情勢には理解もなく無関心である。そして日本人ほど社会正義には実は関心がない。彼らの関心事はお金である。だから国内で安倍政権がどうであろうと彼らにとっては「知ったことではない」と考えて良い。日本で外資系企業に勤める人たちはこれを知っており、自分の与えられた職務は全うするが、決してこちらからそれ以上のことを働きかけたりはしない。Twitterではフェイクニュースのほうが頻繁に扱われるという統計も出ており対策は講じなければならないのだが、そこに日本人的な倫理観を持ち込んで、日本支社のトップをつついても意味はないのである。

もしヘイトアカウントを閉鎖したいなら、アメリカ人の意思決定者がどのようなことを気にしているかということを考えた上で権限のある人に伝えなければならない。このアンケートから見ると、当事者が人権侵害を受けたならそれは報告すべきだが、そうでない人は事実誤認の指摘に止めるべきであろう。

ヘイトアカウントを執拗に攻撃している人を見ると弁護士とか学者などが多い。どちらも社会問題を取り扱っている。彼らは常に他人の問題に介入しているので、つい「正義があれば自分の意見が通る」と感じてしまうのだろう。こうした人たちが第三者の支持を得られないことはすでに観察済みだが、マーケティング的な視点もなく自分たちの意見をピッチできない。その意味ではネトウヨの人たち同様に村落に住んでおり自分たちの事しか見えていないのだろう。

今回のBBCの番組Japan’s Secret ShameでもYouTubeに権利処理なしにアップロードされたものが削除されているのをみて「安倍政権が隠蔽を図っている」と叫んでいる人がいた。多分権利処理のような実務に疎いかなんでも安倍政権に結びつければよいと安易に考えているんだと思う。実際にはプレゼンテーションが多くの人に認知されるようにするためにはどうしたらいいかなどということには興味がないのだろう。プロフィールを見たら大学を退職した研究者だった。

結果的に日本の人権リベラルの人たちの意見は通りにくく、ヘイトスピーチやポピュリズムを野放しにすることにつながっている。

Twitterも他のプラットフォームと同様やがては荒れる運命にあるのかもしれない。mixiのように過疎化したままそれなりの平和を保っているプラットフォームもあるようだが、すでに2ちゃんねるやはてななどがそうなっている。

だが、それでも良識のある在野の人たちはこうした世間知らずの人たちに先導されないように気をつけるべきだろう。学者や弁護士は正義さえ主張していれば本や名前を売ることができるのかもしれないのだが、一般人の生活は息苦しくなるばかりだ。一方的な正義を叫んでいても安倍政権が全く影響を受けなかったこの5年間について我々は深刻に受け止めるべきなのではないだろうか。多分Twitterでヘイトアカウントを指摘した人たちが一時凍結されることと、アンチ安倍人たちがなかなか受け入れてもらえないことにはなんらかの共通点があると思う。

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そのツイートが次世代のテロリストを生み出す

先日来リベラルとポピュリズムについて見ている。民主主義に疲れた人が増えるとポピュリズムの危険性が上がる。いっけんすると保守的な人たちのほうがポピュリズムに近そうなのだが、実際にはそうとは限らない。社会主義を支持するあまり教育のない庶民層や社会正義を実現したいと願う人たちの方がポピュリズムに感化されやすいこともある。今回はこうしたアンチネトウヨムーブメントが全く予測もできない次世代のテロリストを生みかねない状況について考察する。

この現象について考える時、日本の状況だけを見ていると却って全体像が見えなくなる。Twitterで日本語と英語のアカウントをフォローするとほとんど相似形のような現象が見られることがある。お互いにシンクロしているのではとすら思えるほど似ているのだ。トランプ大統領は銃規制や不法移民政策で詭弁と嘘を繰り返しており、これについて感情的な憤りを発信する人たちがいる。同じように日本では女性の人権問題や労働法関係で詭弁が繰り返されており、同じように「多少手荒な手法と取ってでも」などと言い出す人が出てきた。ネトウヨを口汚く罵ってTwitterのアカウントを一時凍結される人も出ている。

日米はまだ「ましな」状態にある。実際に独裁制に移行しつつある国も出てきているからだ。ブラジルでは「民衆に近い」とされた人が汚職で軒並みいなくなると代わりに「ブラジルのトランプ」という人が出てきた。トルコではヨーロッパの一部になるという望みがなくなると反動的なイスラム回帰の動きがある。メキシコでも左派政権が登場し「公共事業を見直す」などと言っている。全体として民主主義疲れが出てきており、日本とアメリカもその延長線上で「民主主義が荒れている」のである。

日本が直ちに独裁に走るとは思えないのだが、最近気になる動きがある。実名質問サイトQuoraを見ていると「野党が生産的な質問をしないのはなぜか」とか「民族の誇りは何か」といったような質問が見られるようになった。これらは実名でどれも知的探求としては真摯だが、政治的常識の欠落を感じさせる。だがこれについて理路整然と民主主義の基本を語れるような人はそれほど多くない。試しになぜ天賦人権が大切なのかを自分を説得するつもりで書いてみると良いと思う。意外と他人に説明できない。

こうした人たちの代表がRAD WIMPSの野田洋次郎だろう。(RADWIMPSの愛国ソング 日本語論より動機考察を 中島岳志)日米の間で「どちらにも居場所がない」と感じた人が日本について考察してもモデルになるものがなく、ネトウヨ的言論に感化されて幻想の日本を作り出してしまう過程を論評している。

「HINOMARU」には「ひと時とて忘れやしない 帰るべきあなたのことを」という歌詞がある。「あなた」は、いまここにはない「幻影の日本」だ。そして、繰り返し使われる「御霊」という言葉。彼は、スピリチュアルな次元で永遠の日本と繋(つな)がろうとする。

よく無敵の人(社会的なつながりがないので失うものがないひと)がテロリストの温床になるのではなどと指摘されるのだが、実際には仕事も名声もある人であってもかなり危険な状態に陥る可能性があることがわかる。

現代の日本保守には歴史的な裏づけがない。もともと日本しか誇るべきものが見つけられない人たちが様々な理論を寄せ集めているに過ぎないと言える。中には共産主義や反安保ムーブメントからの転向者なども含まれている。遡れるとしてもせいぜい小林よしのりさん程度ではないだろうか。だがこの保守の支持者たちは、社会生活への影響を恐れている。だから社会にはそれほど害悪がない。だが、この議論を見ている人たちは「統一的な保守の理論を知らないのは自分たちがまだ知らされていないからなのではないか」と感じているのかもしれないと思う。理論がない分だけ野田さんのように「本当は何かあるはずなのだ」と思うかもしれないのである。

前回はリベラルの人が臆病なネトウヨに対峙しているうちに闘争心をエスカレートしてゆく様子を見たのだが、まだ埋もれている人たちも潜在的な危険因子に成長してゆく可能性があると思う。むしろこちらの方が危険性は高いかもしれない。

これを防ぐためには私たちの社会は何をすべきなのだろうか。

同じようなことが1990年代にも起きた。それがオウム真理教などの新興宗教ブームである。当時の新興宗教ブームでは、全く根拠がなく伝統もなさそうなエセ宗教に十分に理知的な大学生が惹きつけられていった。宗教というのはある種はしかのようなものなので一度接触しておけば免疫ができる。信じたければ信じてもよいしなくても別に困らない。が、社会との接触を絶ってまで個人に傾倒するのはとても危険である。オウム真理教の場合は東大を出たような人たちが最終的には集団殺人にコミットするまでエスカレートし、テロリストと認定されて止まった。

彼らにちょっとした宗教体験があればここまで極端な道に走ることはなかっただろう。宗教体験と言っても神秘体験をする必要はなく例えば神社のお祭りでお神輿を担ぐなどで十分なのである。神社の運営にはそれなりの社会性があるので、個人への絶対的な帰依を求めるようなものが宗教ではなく詐欺の一種であるということは容易に理解できたはずである。

日本の場合、学級委員会の運営もやったことがないような人が、いきなり国家というとても大きな枠組みに魅せられてしまう。これは宗教体験がなかった人がいきなりカリスマ的な詐欺師に魅入られるのとほとんど違いはない。国家論について興味がある人に「地域の政治を見てみたら」などというとたいていつまらなさそうな顔をする。やはり学級の組織運営や地域政治が国政の延長になっているということを学校で教えた方が良いとは思うのだが、現状の教育制度ではなかなか難しいのかもしれない。

だが、現在の「ネトウヨ化」はこうした次世代の過激思想の元になっている。

このことから、アンチネトウヨ運動が社会的規範意識を持った上でことに当たらなければならないということがわかる。手荒なことをしてもよいなどと言ってみたり、口汚い言葉でネトウヨを嘲るような行為はそれ自体が次世代のテロリストを育てていると言って良いだろう。アンチネトウヨの運動はいろいろな人に見られている。そのツイートボタンを押す前に「自分が良い教師になっているか」をもう一度考えるべきだろう。

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ワールドカップロシア大会に見る日本人とルール

先日来、リベラルについて考えている。一環として日本人とルールについて考える。日本人はどのようにルールを理解しているのだろうか。

フットボールのロシアワールドカップで日本チームが「フェアでないプレイで16強に勝ち上がった」という悪評が立った。驚いた日本人も多かったようで戸惑いや正当化の議論が盛んに行われた。日本人は一生懸命に西洋社会から認められようとして頑張ってきたのに「本質を理解していない」と言われたことに戸惑いがあったのだろう。木村太郎は「これは人種差別だ」と言い切った。

だがBBCの記事を読むとイギリス人の反発には理由があることがわかる。イギリス人はフットボールをフェアにやってもらいたいのである。このため、消化試合を避けるためにグループごとに試合が同時進行するように運用ルールが改正しており、イエローカードの枚数で優劣を決める今回の改正もその一環だった。日本はこれを通信機器で「ハック」することでルールの背景にある精神を踏みにじったと見なされた。ルールを変えるべきではという指摘すらなされたようだがFIFAはルールを変えるつもりはないと言っているそうだ。

背景には日本人とイギリス人のルールに対する考え方の違いがある。イギリス人やFIFAはフットボールを健全に保つためにルールを作っている。目的はフェアな試合だ。だが、日本人は本質ではなく「ルール」という外形を保つことによって良いコミュニティのメンバーであるということを見せたがる。だから、ルールで決まった範囲なら「何をしてもよい」と思ってしまうのである。

面白いことに日本のマスコミは海外で西野監督の決断が問題視されていることは伝えたが「ヒホンの屈辱」とその精神について取り上げたところはなかった。日本人は自分たちがどう見られているかは気にするが、どうやったらコミュニティを健全に保てるかということにはほとんど関心を示さない。見た目だけを気にしているのである。

西野監督の決断は、日本の政治で横行するルール破りについて考察するよい材料になる。安倍首相がやっていることと非常に似ているからだ。

日本人は決まったことを守ることがよいコミュニティメンバーの条件であると考える。だから、決まりにはチャレンジしない。決まりを変えることでコミュニティに対する異議申し立てをしていると見なされたくないからである。これは西洋のコミュニティがメンバーの合意で成り立ち恒常的な貢献で保たれるという考え方が日本にはないからだろう。村人を縛る村落をメンバーがあえて保つ必要はない。

例えば憲法第9条が変わらないのはこのためであろう。日本人は憲法はルールを守るという意識はあるが、その向こうにある「主権国家が協力して国際秩序を守って行くべきだ」という理念にはあまり関心を持たない。国際社会でいい子であればそれで満足なのだ。そして憲法第9条を「縛りである」と理解する。

このように窮屈な村落観を持つ日本人は「決まりは相手を牽制するためにも利用できる」と考える。体面のために決まりを守らなければならないし、それを押し付けることで相手を牽制できると考えるのである。ルールの範囲内で「ハッキング」する「ズルさ」はある意味大人の条件だ。だが西洋ではこれは単なるズルにしか見えない。こうした違いが文化摩擦を引き起こすことがあり、今回の西野采配もこれに当てはまる。

この「ちょっとずる賢く立ち回ったほうがいいのではないか」という考え方は、「大人な有権者」に広く受け入れられており、今回の自民党総裁選挙でも大きな影響を与えるかもしれない。

最近野田聖子さんや石破茂さんらが安倍首相を公然と批判し始めている。総裁選で「フェアな政治」を求めたほうが有利だと感じているからだろう。だが、これは野田さんや石破さんに不利に働くかもしれないと思う。なぜならばサイレントマジョリティである日本の男性は「日本が国際的に有利にやってゆくためにはまともにルールを守っていては損だ」と感じているかもしれないからである。こうした人たちは「ちょっとしたズルをする安倍首相」を大人だと感じるだろう。実際に石破茂さんには「あの人は真面目すぎて国会の筋論にこだわる」という評判があるそうだが、これは悪口である。女性も男性のように尊大に振る舞う事で「器が大きくなった」と見なされる事がある。その意味では野田さんは「女性的」すぎる。野田さんを支持しない人は「きれいな水に魚はすまないというではないか」と感じるかもしれない。

競争に勝つためには女性を低く使ったり外国人労働者を安く使ったほうが有利だと考えている人は意外と多そうだが、それが表立って語られることはない。安倍首相の嘘に一定の支持が集まるのはこの「ルール内でのずるさ」が支持されるからなのだろう。民主主義的なプロセスさえ踏めば嘘をついても良いと考えるのが日本人なのだ。

そんな日本人でも民主主義にこだわる事がある。

1999年の小渕内閣で自民党は金権政治から脱却できていないという批判にさらされていた。田中角栄のロッキード事件の影響が払拭できず細川内閣で一度下野した。その後も単独で過半数が取れなくなり連立相手を変えながらなんとか生き残っていたという時代である。当時、より近代的でかっこいいスマートな民主党が台頭し始めており「このかっこよさを取り入れたい」という思いがあった。党首討論が導入されたのはそんな気分があったからなのだ。

党首討論はイギリスを真似てクエスチョンタイムと呼ばれた。「西洋流のかっこいい俺たち」を見せたかった民主党と俺たちも負けていないという自民党の利害が一致したのである。議事録を読むと議論は朝ごはんに何を食べたかという鳩山さんの問いかけで始まっている。当然鳩山さん流の洋食(とはいえピザなのだが)のほうがかっこいいわけで、小渕さんは少しためらいながら日本食だったと明かした。この後、鳩山さんはピザの話を政権批判につなげた。「具材が混ざってよく味がわからなくなった温め直したピザ」は連立相手を組み替えて政権にしがみついている自民党を揶揄している。この中に小渕さんが強がりから発したと思われる「冷たいピザも温め直せば美味しい」という発言が出てくるが、小渕さんはこの後「冷めたピザ」と揶揄されることになった。自民党は賞味期限が切れた政党と見なされてしまったのである。

安倍首相が様々なルールを破って党首討論をめちゃくちゃにした上で「党首討論の役割は終わった」と言い放った。それももっともな話だ。政権交代は失敗し民主党(主に鳩山さんだが)のかっこよさも見掛け倒しだということがわかった。民主党にはスマートな政治家が多かったがそれはたいていは意志薄弱さの裏返しだった。自民党はもはや強がってみせる必要がなくなってしまったのだから面倒な議論などしなくてもよいのだ。さらに「ちょっとルールを破ったほうが勝てる見込みが高まる」ということになると議論でもルール破りが横行することになる。

高度プロフェッショナル制度にそれほどの反発が起きなかったのは日本人の多くが「誰かが犠牲にならなければ今の豊かさは維持できない」という見込みを持っているからだろう。だが、自分だけはそこから逃げ出すことができるという楽観的な見込みも同時に併せ持っている。第二次世界大戦でも、日本人の多くが政府に取り入って儲けたいと考えた一方で、家族や財産を失うと想像できた人はそれほど多くなかったはずだ。ズルさを支持する裏にはこのような見込みの甘さもある。

西野監督や安倍首相を見ていると、日本人がルールを曲げようとしているのは負ける見込みがある時だということがわかる。だから、脱法的なルール運用が横行するようになったら日本人が逃げの姿勢をとっていると考えたほうがよさそうである。西野監督は自分のチームがポーランドに勝てると思えばあのような戦術は取らなかったであろう。また、試合を続行すれば選手が焦ってイエローカードをもらうという見込みもあったのかもしれない。西野監督は選手をうまく乗せて勢いづかせることができるという自信はあったのだろうが、選手をコントロールできているとは考えていなかったのであろう。

安倍政権を応援する日本人も「負けるかもしれない」という認識を持っているからこそ安倍首相を応援し続けるのだろう。もっとも安倍首相が西野監督のように客観的に状況を判断しているとは思えない。西野監督は試合後の会見で「本意ではなかった」と発言したのだが、安倍首相はルール無視をしている俺はかっこいいなどと主張してますます拒否反応を呼び起こしている。選手を西野ジャパンの試合後のインタビューを見るとかなりフットボールコミュニティを意識してい情報を集めていることがわかる。せっかく強いチームなのだからもっと好きにやればいいのにと思うくらいだ。これは国際的なプレイヤーが多くマイノリティとして自分の文化を客観視する姿勢が身についているからなのかもしれない。これが永田町と選挙区しか知らない政治家との決定的な違いだ。

今回の議論はリベラルとポピュリズムについて考えている。これをトピックに当てはめると、まず「まともにやっていても勝てる」という見込みがなければルール順守を訴えることは難しい。リベラルの人たちの人権と多様性を保護すればより豊かになれるという見込みは実は自信の表れであり、それを自信のない人たちに信じさせるのは難しい。もしかしたらリベラルを自認する人も自分に自信がないから騒いでいる可能性もある。ここを越えるのはとても難しい。

それに付け加えて「ルールはなぜできたのか」ということを考えるべきだ。日本の平和憲法はある理念の元に作られている。これを理解しないで単に平和憲法には指を触れるべきではないと考えていてはいつまでたっても平和国家を実現する事はできない。もし「平和国家日本」を守りたいならば、もっと外にでて多くの人と意見交換をすべきであろう。

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「リベラルさ」を保ち続けるのはなかなか難しい

少し罪悪感を感じている。久々に投げ銭をいただいたのだが、例によってメッセージ欄が途中で切れている。システム上の制約で100文字ちょっとで切れてしまうのである。「左派に属していると思うのだが途中で行き詰まる」というところまでは読めた。「この記事」がどの記事かはわからないが、多分前回の記事ではないかと思う。リベラルのほうがポピュリズムの温床になるのではないかというのが前回の主張だった。が「何が行き詰まる原因になっているのか」という点はわからない。

もしかしたら前回の主張が悩みを生んでしまったのかもしれないとも思った。あまり真剣にリベラルや保守を考えない人は気軽にポピュリズムに走ることができるが、真剣な人ほど悩んでしまうのかもしれない。

この断片的な状況から今回のお話を展開しようと思う。だが、断片から出発するので全く間違っているかもしれない。その点についてはあらかじめお詫びをしておきたい。

まず左派の定義からしなければならない。この文章では、左派の代わりにリベラルという言葉を濫用しようと思う。人間は理性によってお互いの多様性を許容できるという見込みをリベラルと定義する。つまり多様性の尊重と人権の尊重がこの場でのリベラルであり、言い換えれば「多様な価値観を前提にした協力の文化」である。経済的に私有財産を制限する左派とは違っているし、政府の制限なしに活動ができるという意味での(つまり新自由的な)リベラルでもない。また均一性を前提にした協力の文化でもない。

このカウンターにあるのは、防御的な保護システムである。「協力」は人間が種として遺伝子レベルでもっている種の特性だが、自己保存の本能もまた、人間が生物として持っている特性と言って良い。

協力を前提にしているリベラルな民主主義を考察する場合「経済的な豊かさ」と「経年」は有効な指標になる。経済的に豊かであれば分け与えることで発展が望めるし、共有のための社会資本が蓄積されていた方が共有の文化を実行しやすい。一方で貧しさを意識するようになると自己保存の本能が働き「できるだけ資産を独占して冬に備えなければ」という気分になる。日本はかつて教育に力を入れて発展した。これは世代間協力の成果だ。そして冬の時代を予感するようになると教育費が削減され実際に経済の成長も鈍化した。次の世代に投資するより目の前の生存を優先しているからだ。

自分自身がリベラルな社会を良いと考える理由は二つあると思う。まず「先進的なアメリカ西海岸」を見ているので、多様性が経済的な豊かさに結びつく社会を知っている。カリフォルニアには農業中心の内陸部と豊かな海岸部があり、多様性を保障した方が豊かになれるという実感が得やすい。だから都市がクリエイティブな人災を集めるとか、自由が経済を発展させると信じやすいのだ。また、民主化と高度経済成長が同時に実現していた時期も知っている。

ところが、現代ではこうしたリベラルさを信じるのが難しくなっている。日本の経営者はやがて冬の時代が来ると信じている。このため従業員に十分な賃金を支払うのを嫌がる。出したお金が戻ってくると信じられないからである。自分たちは協力を拒否してお金を内部に溜め込むのだから従業員や消費者もそうするだろうと見込むのだろう。

最近のアメリカでもリベラルが行き詰まっている。経済的に取り残された人たちが民主主義や移民社会のあり方そのものに疑問を持つようになった。すでに一体的な西海岸はなく、カリフォルニア州を3つに分割すべきだという議論すら出ているようだ。自分たちの社会も停滞している上にモデルにするものもないのだから、こうした中で「リベラル」という信仰を保つのはなかなか難しい。

さらに日本のリベラルはもう少し厄介な問題を抱えている。無自覚の差別意識である。

先日テレビで「著しく差別的な」光景を見た。フジテレビのアナウンサーがディズニーのプリンセスが大勢出てくるアニメをみている。彼女は時間がない中で画面の中にいるプリンセスの名前を当てなければならない。そこで女性アナウンサーは有色人種を全てスルーしていた。ポカホンタス(ネイティブアメリカン)、モアナ(ハワイアン)、ティアナ(アフリカンアメリカン)である。これは偶然としては出来すぎている。

第一に画面をランダムに切り取っているのに有色人種が必ず一人含まれているという問題がある。これはディズニーが意図的に有色人種を混ぜているからである。つまりお姫様は白人であるという前提があり、そこから脱却しようとしているのであろう。第二にフジテレビのアナウンサーがこれらの名前を呼ばなかったのはなぜかという問題がある。それは彼女がプリンセスは白人であるべきだと思い込んでいるからだ。

無意識の差別は根深い。例えば二階さんが「子供を作らないのはわがままだ」という時、支持者の中にそういう気持ちを持っている人がいるということを意識しており、さらに蛮勇をふるって何かをいえば「男らしい」として賞賛されるであろうという見込みがある。彼はこれを意識的に扱っているので、外から攻撃しやすい。だがその向こうにはそもそもそれを不思議に思わない大勢の有権者がいる。リベラルが問題にしなければならないのはこの無意識の差別であるが、意識がないので攻撃が難しい。

ここでフジテレビのアナウンサーを指差して「お前は差別主義者だ」と名指ししたら何が起こるだろうか。多分彼女は泣き出してしまうか色をなして怒るだろう。つまり他人の「反リベラル的意識」を指摘しても問題は解決しないのだ。二階さんのような人はわかってやっているのだから「不快に思ったなら謝ります」といって涼しい顔をするだろうし、そうでない人は「リベラル」を嫌うようになるに違いない。

加えて、リベラルを自認する人でもこうした無自覚な差別意識を持っているはずである。それに気がつくことができるのは他の文化に触れた時だけだ。つまり文化が均質的な日本人はそもそも差別に気がつきにくいという特性を持っているのだ。

最近、フットボールでこの文化差の問題が起きた。日本対ポーランドの試合で日本が後半のゲームで何もしなかったことに対する批判が起きた。これについては様々な議論がでた。そのほとんどは日本の態度を正当化するものだった。中にはこれに「もやもやしたもの」を感じているサポーターもいたようだが、その気持ちをかき消して正当化議論に同化していた。

ここで問題にしなければならないのは行動の良し悪しではないように思う。イギリス人はフェアプレイという理念がありそれを実現するためにルールを作っている。できるだけフェアプレイが保たれるようにイエローカードを基準に加えたのだろう。だが、日本人は集団の中でルールを守ることそのものに価値を見出すので、ルールがどのような行動原理に裏打ちされているかということを考えない。だから、結果的に「ルールを守って理念を守らない」ということが起きるのだ。日本人は頑張ってイギリス流のフットボールを学習して心からフットボーラーになろうとしたのにそれでも反発されるということに驚いたはずである。

つまり、問題を解決したければ理性的な対応が求められるということになる。つまり「人種差別はいけないことだ」とか「フェアプレイでなければならない」という規範を一旦捨ててみることが必要だということになる。相手に対してもそうだし自分に対してもそうだ。

これまでの議論を整理すると、経済的な不調や格差の拡大で「協力する文化」を信じるのが難しくなってきているのに加えて、そもそも外側から自分たちの文化や規範意識を客観的に判断するのが難しいという事情がある。ポピュリズムは不安や不確実性に対する本能的で自然な反応なのでこちらに乗ったほうが簡単なのである。

こうした状態から完全に抜け出すのは難しい。あえてやれることがあるとしたら状況をできるだけ客観的に判断するためにいろいろな情報を集めてくることなのではないかと思う。これができるようになれば「どこかで行き詰まる」のがそれほど不自然ではないことがわかるはずだし、それが最終的な行き詰まりではないということがわかるのではないかと思う。

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