日本のマスコミってジャーナリズムの歴史とか教えないんだろうかという話

不思議なコラムを読んだ。長谷川幸洋さんという自称ジャーナリストさんが怒っている。どうも会社ともめているらしい。だがこれを読んでもさっぱり意味がわからない。いろいろ考えているうちに2つ不思議な点が浮かんだ。東京新聞ってジャーナリズムの基本的な歴史を社員に教えないんだなという感想を持ったという点と、日本の組織らしく職掌の文章化がされていないんだなという感想だ。

まず疑問に思ったのは東京新聞では一記者が会社を批判する記事を書いてそれが掲載されなかった時に「言論の自由」を盾にして掲載を迫る文化があるのかという点だ。もちろん内部での議論はするだろうが最終的には責任のある人が決めるのではないだろうか。そもそも紙面が限られているのですべての意見は載せられない。

もし記者がジャーナリストの良心として会社の方針に従いたくない場合には自分で発言の場を作るべきかもしれないし、そもそも新聞は記者の意見を発表する場所ですらない。新聞は経営的な判断から新聞の論調を決めなければならない。東京新聞のような後発は既存の新聞が持っていないニッチを探さざるをえないのでその傾向は強いだろう。

すると長谷川さんの特異性が浮かび上がってくる。論説委員という特殊な立場なので個人名で発言ができ、かつ新聞の論調を形作ることができる。さらに外部にも発言の場を持っており東京新聞の名前を使って個人的に収入が得られるはずだ。これらは特権的な地位と言える。そしてそれは個人の言論の自由の範囲を超えて東京新聞という組織を前提にしている。人々が長谷川さんの話に耳を傾けるのは「この人が東京新聞の論調を作っていて影響力がある人なのだな」と思うからだ。

もちろん社外でのプレゼンスを作ったのは長谷川さん個人の努力なのだろうから、それは最大限尊敬されるべきかもしれない。東京新聞が長谷川さんに社の名前を使うことを許しているのは東京新聞の宣伝になるからであろう。ゆえに長谷川さんが東京新聞の想定する読者が気に入らないことを言って東京新聞の商業的価値を毀損しようとした場合、新聞社はそれを差し止める権利は持っているはずである。

もちろん東京新聞が想定する読者を変えることもできるわけだが、それは内部で議論すればいい話であって、読者には関係がない。ここで「俺が正しい」とか「俺は正しくない」という価値判断が持ち込まれても外からは判断のしようがない。読者は「好きか嫌いか」しか言えないだろう。もちろんなんらかのイシューがあり、それが合理的かそうでないかということなら判断ができるわけだが、沖縄に基地を作るべきかなど言う問題は価値判断を含んでおり一概には決められない。

あるいは、東京新聞は末端の記者が黙々と記事を書き、偉くなった人たちがバラバラな意見を戦わせる言論プロレス的な見世物にするということはできるわけだが、それは言論の自由ではないし、読者も興味を持たないだろう。同じようなことを政党ベースでやっているのが民進党だが、有権者はもう民進党には興味を持たない。「決まってからお知らせしてね」と思うのみである。

ジャーナリズムはお金儲けなんかじゃないなどと思う人がいるかもしれないが、実は重要な要素だ。もともとは政党のビラのようだった新聞は、広告収入などを得ることで徐々に言論の自由を獲得してゆく。もし読者やスポンサーがジャーナリズムを支えるという文化がイギリスで発明されなければ、日本人は北朝鮮のように政府広報と自民党の機関紙だけを読まされていたかもしれない。

政党パンフレットが新聞になる過程ではできるだけ意見を偏らせないという方針が採られたようだが、それは貿易のために政治に影響されたくないという実利的な理由だったようである。

つまり「想定読者を決めて意見を整える」というのは言論の自由に大きく貢献しており、長谷川さんは知ってか知らずかそれを逸脱して騒いでいるように見える。自分の意見が同僚に否定されて頭に血が上っているのかもしれないし、体制に沿った意見のほうが儲かるのに、わざわざ儲からない反体制側にいる新聞社にいらいらしているのかもしれない。

もちろん、長谷川さんが外で意見を言うことに対して箝口令がひかれたりなんかすれば、それは言論の自由の侵害になるだろうが、東京新聞はそうは言っていない。もしそれに類することをすれば長谷川さんが大いに騒ぐことは明白だ。できるだけ刺激したくないのが本音なのではないか。

さて、ここまで書いてもやっぱり東京新聞は長谷川さんの言論の自由を侵害しているという人がいるかもしれない。長谷川さんは東京新聞の人なのだとすれば、東京新聞が東京新聞の言論の自由を侵害しているということになる。実際には東京新聞の中の人(仮に鈴木さんとしようか)と長谷川さんが対立しているわけで、東京新聞が長谷川さんを侵害することはできない。ということで「東京新聞の長谷川さん」は主語を巧みに使い分けて、あたかも集団が個人の自由を侵害しているような印象を与えているが、実際には新聞社内部の権力闘争に過ぎないのではないだろうか。

この件は「誰が悪いんだろう」と考えたのだが、東京新聞が悪いとしかいいようがない。下記のようなことが取り決められていないことで問題が起きているからだ。

  • 社員にどのような範囲で社外活動を認めるか。
  • 論説はどの範囲で個人の意見を伝えるか。あるいは個人が意見を言うのか、集団で論調を決めてから個人が請け負う形にするのか。
  • 最終的な経営判断と新聞論調は誰がどのように決めて兼ね合いをとるのか。
  • 論説委員というステータスはどのよう(定年とか規約違反とか)に獲得され、どのようになくなるのか。

責任と権利が曖昧なのでこうした問題が起きている。社の内部に闊達な議論がないと言論が萎縮してしまうという気持ちがあり、あまり明文化したくなかったという理由があるのではないかと思うのだが、やはり経営が危うくなり社員を処遇できなくなると、名前をつかって稼ぎたいという人が出てくる。現在の言論空間にはプロレス化欲求(一暴れするとお客が集まる)があるのでそれに巻き込まれたのかもしれない。

そして東京新聞が悪いというときには当然「東京新聞の長谷川さん」もその中に含まれることになる。

新聞の軽減税率適用はジャーナリズムの死を意味する

軽減税率の問題でちょっとした騒ぎが起きている。そもそも8%の税金が10%に増えるのだが「軽減税率」と言う言葉が踊っているせいで、あたかも税金が減るような印象を与えている。加えて、これで税収が減るので社会保障費を削るか赤字国債を発行すべきだという話になりつつある。

食品の線引きをどこにするかというのが「議論」の中心なのだが、その影で新聞も軽減税率の対象にすることが決まったらしい。テレビでは「一部の新聞が」と言っている。宅配新聞だけが対象になるということのようだ。面白い事に新聞はほとんどこのことを伝えていない。一部のテレビ局だけが見出しに掲げる程度である。

新聞の軽減税率には政治的な意味合いが強そうだ。控除額はわずか2%なので消費者にはあまり影響がない。しかし、新聞社にとっては政治的なトロフィーという意味合いが強いのだろう。政党のメインターゲットである高齢者への影響力、公明党と聖教新聞との関係などが考慮された結果なのではないかと思われる。

新聞は、表面的には純粋な観察者を装っている。中立で公平だというのが価値の源になっているからだ。人々が新聞を信用するのは、それが「混じりけのない真実」を伝えてくれるだろうという期待があるからだろう。プレイヤーになってしまうと中立公平という神聖な地位から転がり落ちてしまう可能性がある。「私利私欲から事実を歪めている」というのは嫌われる。

ところが、誰が考えても軽減税率の対象に新聞を加えるという選択に公平性はない。新聞は知識の源泉になっていて、それが民主主義を支えているという理屈は成り立つだろうが、スマホやインターネット回線の消費税も軽減税率を適用すべきだ。若年層はスマホでニュースを読んでいるからだ。

また、ジャーナリズムには貴賎がある。駅売りの新聞は軽減税率の適用対象外のようだ。駅売りタブロイド紙は民主主義には貢献しないということなのだろう。週刊誌の権力批判もジャーナリズムとは言えないということになる。記者クラブを持っている新聞社だけが社会的に善とされているのだ。これは新聞はジャーナリズムという役割を手放しましたよという宣言に他ならならない。中国の人民日報や北朝鮮の労働新聞を笑えない。

今回の決定はジャーナリズムの死を意味している。新聞は政府に助けを求めており、伝えないことを通じて世論の印象を操作しようとしている。そのうえ、意見に線引きをして政府と取引をしうる立場にある人たちだけがわずか2%の恩恵を受けることにした。これは談合そのものだ。彼らはわずか2%の税金で魂を売ったのだ。そこに怒りは湧かない。むしろ哀れみのような感情さえ生まれる。かつてのような発行部数を誇っていれば保身に走る必要はなかったかもしれない。

ジャーナリズムとは日々の記録を取ることなのだと強弁するのであれば、またそれもよいかもしれないが、それは政府の広報係のようなものだから、税金で賄うべきだろう。

もっとも、こうした状況を作り出したのは新聞ではなく国民だともいえる。もともと、政党パンフレットが祖先の新聞は党派性が強いものだった。特定の団体の主張を述べたものだったからだ。時には新聞を発行した罪で殺される人もいた。その後、特定の党派に偏らない情報が知りたいというニーズが生まれ、党派のスポンサーシップに頼らない新聞が生まれた。購読料や広告収入が「中立公平」を支えたのである。

新聞が没落しつつあるということは、人々が中立公正な情報を望まなくなっているということを意味する。自分たちで情報が比較検討できるようになったからかもしれない。

また「ジャーナリズムとは権力批判だ」というのも単なる印象に過ぎないかもしれない。政府批判者という役割はかつてはインテリ層のものであり、商品価値があった。しかし、その役割はネットに移りつつあり、かつてより大衆化されてしまった。意外と公正中立性よりもルサンチマン解消の方が「ジャーナリズム」のメインの商品価値だったのかもしれないが、新聞はそうした役割の主役ではなくなりつつある。

ジャーナリズムの死を嘆いてみたかったのだが、そんなものは最初からなかったのかもしれない。

2015年にはどのくらいのテロ事件が起きていたのか

パリで連続爆破事件が起きた。たいへん痛ましい事件なので、インターネット上ではフランスに連帯を示す人たちがあふれた。Amazonはフランス国旗を掲げ、Facebookにはフランス国旗と自分の顔写真を重ね合わせるアイコンを表示する人たちがいた。

一方、なかなか事件を取り上げない日本のマスコミに対して「特別放送を流さないとは何事だ」というようないらだちを表明する人たちも多かった。中にはTwitter上でコメントを出した著名なジャーナリストに対して「事実誤認」を指摘する人まで表れた。普段から「これだから日本のマスコミは……」というような気持ちを持っている人たちが多いのかもしれない。

この騒ぎは普段私達が持っている小さな差別意識を表面化させたように思う。先進国の事件を自分たちの状況と重ね合わせて「平和な暮らしが脅かされるかもしれない」という恐怖心を感じることはよく分かる。一方、中進国で同じような事件が起きても「対岸の火事だ」という認識しか持たない。「ああ、貧しくてかわいそうに」くらいにしか思わないのだ。

同じような事実認識は難民騒ぎでも起きている。トルコ・レバノン・ヨルダンには350万人以上の難民がいるが特に大きく報道されることはなかったが、ヨーロッパに難民が流れてきたころから「国際問題」として認知されるようになった。

試しに今年起きたテロを並べようと思ったのだが、多すぎてすべてを列挙することはできなかった。興味のある人は公安調査庁のページを閲覧するとよいだろう。

もちろん知らなかったものもあるが、テレビで報道されたものもある。にも関わらずこうした一連のテロで「通常放送を止めろ」という指摘が出なかったのはなぜなのだろうか。今一度考えてみた方がよいと思う。本当に国際情勢に関心があるのであれば、CNNやBBCなどの導入を検討した方がよいだろう。テロのたびに放送を止めるより、ニュー寸専門チャンネルを見た方がいい。テロはそれほど頻繁に起きているのだ。

  • イエメンでは恒常的にテロや軍への攻撃があり、多くの人が殺されている。内戦化しているため、個別の事件が取り上げられることはない。アフガニスタンでもタリバンの事件が多発しているが、こちらも混乱状態が定着しているため特に報道されることはなくなった。
  • アフリカ(サブサハラ)では恒常的に自爆テロが起きている。ナイジェリアではイスラム過激派ボコハラムが数十名単位の殺戮を複数回行っているが、特にニュースになることはない。子供に爆弾を括り付けて自爆テロ犯に仕立てることもある。人道的に見るとパリの事件より何倍ももむごたらしい。カメルーン、チャドでも自爆テロが起きているが特に報道されることはない。マリではホテルが襲撃され外国人が殺された。
  • アメリカでは銃乱射事件が多発している。あまりにも頻繁に起こるので「大事件だ」という報道は見られなくなっている。こうした虐殺は「通常の」殺人事件だと見なされていて、特にテロだという人はいない。
  • インド・パキスタン・バングラディシュでも事件が起きている。安保関連法案の審議途中には「法人保護」が題目になっていたのだが、バングラディシュで邦人が殺された時、政府は無反応だった。マスコミも特に大きく報じることはなかった。
  • 3月18日に、チュニジアのバルド国立博物館で銃乱射事件が起きた。22名が亡くなった。政府の重要な収入源である観光業へのダメージを狙ったものと考えられている。6月にはプライベートビーチが襲撃され38名が亡くなった。8月にも警官1名が死亡する事件が起きている。
  • 4月5日にカイロで爆弾テロがあった。警察関係者1名が亡くなった。2月にも連続爆破騒ぎがあり、1名が死亡していた。6月にもテロがあり検事総長が亡くなった。
  • 7月にはソマリアで中国大使館関係者1名を含む13名以上が殺された。イスラム過激派組織アル・シャバブが犯行声明を出した。アル・シャバブはケニアでも14名を殺害した。
  • 8月17日にバンコクでテロがあった。20名が亡くなった。ウィグル独立派の犯行が疑われたが、真偽はよく分からなかった。9月にも爆弾テロがあり2名が亡くなったが、こちらは報道されなかった。
  • 8月7日、アフガニスタンの首都カブールで爆弾テロがあり、警察学校の政党など50人以上が亡くなった。米軍兵士1名が含まれていた。アフガニスタンでは不安定な状況が続いており、タリバンの関与が疑われている。
  • 10月10日にアンカラでテロが起きた。20人以上が亡くなった。背景にはクルド人とトルコ人との間にある民族的な軋轢があると考えられている。
  • 8月6日にサウジアラビアで治安部隊員15人が死亡する自爆テロが起きた。10月16日にはモスクで銃撃事件が起き5人が亡くなった。こちらはISILの支部が犯行声明を出した。
  • 11月13日、パリとその郊外で同時多発的に爆弾テロがあり、129人が亡くなった。イスラム国(IS)の関与が疑われている。1月7日にもシャルリー・エブドが襲われる事件が起きていた。シャルリー・エブド事件では12人が殺された。

ジャーナリズムと場

ジャーナリズムの衰退が語られている。もう新聞の需要がなくなったという人もいれば、ジャーナリズムは民主主義の要であり新聞は重要だという人もいる。そもそも、新聞はどのように始まり、どういった読者に受け入れられたのだろうか。

ヨーロッパにおける新聞の祖先には二つの説がある。政治パンフレットと商業出版物だ。政治パンフレットの歴史は国民の知る権利を巡る闘争の歴史だ。ヨーロッパでは国が出版を管理する時代が長く続き、政治パンフレットの発行を理由に死刑になる人もいた。一方、商業出版の歴史では広告宣伝とニュースの間の線引きが問題になる。

イギリスのアン女王時代に出版された最初の日刊新聞デイリー・クーラント(リンクはwikipedia)の出版部数は1,000部以下だった。特定の政治信条を主張するパンフレットと違い「ニュース編集者の主観を入れない」という方針で知られていた。

この時代1712年に新聞税が課税されたのだが、人々はそれでも新聞を読みたがった。その読者はどのような人たちだったのだろうか。

イギリスではトルコから入ってきた流行の飲み物であるコーヒーを楽しみながら新聞や雑誌を読むコーヒーハウスが人気だった。ここで議論が交わされ、世論が形成された。商人たちは情報を交換し合い、ビジネスも生まれた。新聞はコーヒー・ハウスで読まれていたから、1,000部以下の部数でも世論に対する影響を持つ事ができたのだ。

仲間と一緒に新しいビジネスに取り組むとき、海外から入ってきた新しい事物に関する情報には需要があった。デイリー・クーラントが「ニュースに編集者の主観を入れない」と宣言したのは、読者ができるだけ中立な情報を望んでいたからだろう。

残念なことに、現在の新聞が特定の場にいる読者を想定して記事を記事を書くのは不可能だ。だから、現実や読者はこうあるはずだという像を作り上げるしかない。しかし、新聞が態度を変えない一方で、読者を取り巻く環境は大きく変化し続けている。ネットが台頭し広告収入が減った影響で、大規模なリストラを行う新聞やネット版への完全移行を決めた雑誌もある。

ジャーナリストの多くは、ジャーナリズムの伝統を所与のものとして捉えており「ジャーナリズムがどうやって成立したのか」という歴史に思いを馳せる人は少ない。日本ではジャーナリズムの崩壊は民主主義の危機だというような本が出版されているのだが、そもそも伝統がどう作られたのかを研究している人もほとんどいないようだ。

場の成り立ちがそれに相応しいメディアを生むのであって、メディアが場を作るわけではない。基本的なところだが、ジャーナリズムの危機を考える上では重要な視点ではないかと思う。