コミュニティマネジメント実践編 – 「引用」を徹底して大混乱する

フェイクニュースが多い。特にネトウヨ系の人が自分の言いたいことだけをいう絶叫型の記事が多く困っていた。軽く「引用をしっかりさせれば収まるだろう」と思っていたのだが、これが大間違いだった。日本人には引用を理解できない人がいる。説明してもわかってはもらえないのである。日本人は「理由を気にしない」という性質があるので制御するのにかなり癖のあるやり方をとらなければならない。

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あいちトリエンナーレの表現の自由をめぐる議論はなぜ空転したのか

あいちトリエンナーレの「表現の自由問題」が話題になってからしばらくたった。Twitterでは未だにこの話が政治的対立としてくすぶっている。だが、今思い返してみるととても不思議な点が多い。これを考えて行くと「日本はもう芸術は扱えない国になったのだな」ということがわかる。芸術をやるなら海外に出るかYouTubeなど外資の入ったプラットフォームで展開するのが良い。




この話はもともと見向きもされてこなかった現代芸術の話だった。なぜこれに火がついたのかがそもそもわからない。

おそらく、韓国のテレビ局に「天皇が燃やされた」というビデオと慰安婦像が組み合わせて表現されたために文脈ができたのが問題視されたのだろう。だが、議論を追ってみてもそのことが語られることはなく、あくまでも作品と主催者の「政治性」に焦点が当たっているように見えてしまう。ところが、芸術監督の津田大介も愛知県大村県知事も特に反天皇的な政治スタンスを持っているわけではなさそうだ。すると「この問題は一体何を解決したいのか」が見えなくなる。だからいつまでも落としどころがなくくすぶり続ける。そもそもなぜ慰安婦像が問題なったかといえば、その前の徴用工裁判で韓国が日本企業を「挑発したから」という流れがある。つまり、冷静に考えてみるとこの問題には流れだけがあって核がない。

もともとは「天皇は自分の内面の一つである」というメッセージだったのだが、そのことは顧みられることはなく、ひたすら自分たちのアイデンティティをめぐる戦いになっている。ところがよく考えてみるとそのアイデンティティは自分のものではない。お互いに「日本」という大きな殻を被っているだけである。一方は「伝統と私」という肥大化した自己意識を持っていて、もう一方は民主的な私という肥大化した自己意識を持っている。保守の方がグロテスクさは際立って見えるが、国から補助金が出るビッグプロジェクトで遊んでやろうという「火遊び精神」を感じる。

さらに考えを進めて行くと、どちら側も「このアリーナであれば自分たちの自己実現ができる」と考えているということがわかってくる。観客がたくさんいるからそこで何か叫べば振り向いてもらえるのだ。その観客とは実は「保守と左翼」なので、つまり彼らは依存状態に陥っていることになる。お互いに罵倒し合っているように見えて慰めあっているのだ。

表面上は「何が表現の自由なのか」ということが話し合われているので念のために、何が表現の自由なのかを見て行く。例によってWikipediaから英文を拾った。

Freedom of assembly, speech and press and all other forms of expression are guaranteed. No censorship shall be maintained, nor shall the secrecy of any means of communication be violated.

難しいことは書かれていない。憲法に書かれているのは検閲がされないことと信書の自由が侵されないことで、隠れた主語は権力者である。つまり権力者に邪魔されずに協力ができる自由を保証しますよと言っている。つまり表現の自由の前提は協力なのである。協力による社会建設を政治だと定義すれば、政治のために表現の自由がある。ゆえに、協力する意図がない表現の自由には意味がない。

まずリベラルの方から批評してしまうと、手続きの問題があったにせよ補助金を出さないということを決めたからといって表現の自由が侵されたことにはならない。民間でやればいいからだ。民間でやろうとした時に会場を貸さないように圧力をかけたり禁止したりすればそれは検閲になるだろう。

さらにこれまで商業的に成功するための努力をしてこなかったという点も見逃されている。補助金付きの芸術展の機会があるために自助努力が阻害されたのだろう。社会に余裕がなくなり補助金打ち切りということになり芸術家が慌てだしたという側面がある。

さらに、主催者側に「自分たちの意図を理解してもらおう」という熱意はない。もし芸術監督以下のスタッフレベルに意欲があったとしたら津田大介さんを芸術監督に選んだのは失敗だった。東某という人と「燃えちゃうやつですねえ」などと言っておりとても真剣だったとは思えない。

ところが保守側にも当然問題はあり、実は捕手側の方が問題が大きい。保守といっても日本の保守は公共には興味がない。ところが今回彼らは韓国から屈辱されたということに怒っている。しかし、今になっても何に怒っているのかが自己分析できないので「天皇の写真を燃やすとは親の写真を燃やすことだ」などとキレてしまう。彼らはケシカランサヨクを叩くことが社会的正義だと信じているようだが、そう信じている間は何が問題なのかを考えずに済む。

保守にとっては、自分たちのおそらく肥大した高すぎる自己評価が毀損していることが問題なのだろう。つまり自分たちでもうすうす衰退に気がついていてそれを指摘されるたびにキレて見せることになるのだ。自己評価が高まらない限り今後も同じ問題は起こり続けることだろう。彼らにとって一連の運動は防御的反応に過ぎない。彼らは鏡をみれば全部壊して回る必要がある。愛知トリエンナーレの件はたまたま韓国のテレビ局から扱われなければ問題にならなかっただろう。その証拠にいろいろな現代美術展ではもっと過激で不快な表現も出てきているようだが、それがTwitterで問題になったりすることはない。彼らの鏡には映っていないのである。

事前に基準を示さず後付けで補助金を削減したことが問題視されているが、原理的に事前に基準を示すことはできない。何かが映り込むまで鏡そのものを叩くことはできないのである。だから、鏡にお気に入りのものだけを写し込むことはできるだろう。

だから、政府を礼賛する表現だけを集めた芸術祭を開くことはできるだろう。だが、それは例えて言えば朝鮮民主主義人民共和国のマスゲームやナチスの芸術展みたいなものだ。あれは見世物としては面白くても芸術とは認められないはずである。逆に「芸術による自由な自己発展を扱えなくなりましたよ」という自白行為に過ぎない。だが、肥大化した自我を持ってしまったがゆえに攻撃に耐えられない人たちはそのことを自ら自覚することはできない。そして周りを巻き込んで何も映すなと叫び続けることになるのだ。

今回、ここまで声が大きくなってしまったということは、日本では傷ついた自己像を持ってしまった人がそれほど多かったということである。ゆえに日本では今後大掛かりな公共芸術展はできなくなるだろう。

このように考えてみると、保守の側はそもそも公共に関心がなく、リベラルと言われている人たちも人々が協力し合って何かの理解が得られるとは思っていないようだ。協力という文化がない日本では表現の自由という表現は成り立たない。ゆえにあいちトリエンナーレの「表現の自由論」は空回りし続けたのである。

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津田大介に見る表現の不自由と議論の不在問題

あいちトリエンナーレの表現の「表現の不自由展・その後」が炎上した。最初は変な問題でモメるなあと思っていたのだが瞬く間に延焼し1日で大問題になった。Twitterでは現代芸術に興味がなさそうな人たちが吹き上がっていたのが印象的だったのだが最終的に日本人はこのレベルのcontroversyを扱えないのかと思った。表現の自由ではなく、議論が不在なのである。日本人はとにかく議論ができない。




この問題は、表現の自由・テロへの脅威・検閲(政治家の表現への関与)・SNSの侵食というような問題がヘドロのように塊を作っている。これを一挙に白黒つけるのは誰にも無理だろう。だが不思議なことにこの議論に参加する人は勝手に心象を作り出してそれを他人にぶつけるか当惑している。情報が飛び交っており正確でないものもあるかもしれないが、一つひとつ見て行こう。

テロに屈した・あるいはテロを言い訳にして表現への介入を避けようとした

最初に考えたのは、慰安婦像を持ち出したくらいで「ガソリンを撒くぞ」というのはいかにも不自由な世の中だなあというものだった。大村知事は慰安婦像の評価を避けつつ「安全確保」を理由に逃げたのかなあとも思ったが、結果的に「テロを許容するのか」ということになってしまった。津田によると「電話で文化を潰す」行為だ。

実際に脅迫に屈したならそれはそれで大問題だ。だが、政治家(名古屋市長)が彼の価値判断で中止を要請し、菅官房長官が補助金について仄めかしている。この線で中止したとなると憲法が禁止する検閲になってしまう。そこで京アニを引き合いに出したのだが、今度は電話をかけた人に屈して展示を中止したことになってしまった。これは威力業務妨害だと言っているのに等しい。ということで、これが一つの議論の塊を形成している。

津田さんは反響の大きさに驚いたと言っているが、Twitterでは遊びですんでいることも現実世界では大変なことになる。トリエンナーレという場所で表現の自由ごっこをして炎上したから強くなって逃げたのだと言われても仕方ないだろうと思う。河村名古屋市長も「朝生」のつもりで発言したのかもしれない。

政治家が簡単に表現を恫喝するが誰も反応しない

菅官房長官は補助金について仄めかした。この人はこれが政治家の恫喝になることにまだ気がついていないようだ。韓国との間でもこれで失敗している。自民党の内部で横行する仄めかしによる恫喝は自民党の外では通用しない。つまり自民党の反社会性の現れになっている。

ホワイト国と徴用工の問題を仄めかしたことは韓国の反発を呼び国際社会を呆れさせた。官邸は相手が吹き上がってから「いやそんなつもりではなかった」などと言い繕っているのだが、もう手遅れだろう。今回の件も芸術に政治が関与したと批判されることになるかもしれない。

国内問題で済めばいいが追い詰められた側が話をエスカレートさせれば「日本は言論統制国家だ」ということになりかねない。自分たちの心象に固執し、外からの眼差しが全く欠けているのである。

140文字で簡単に炎上する国

次の問題は芸術と文脈である。日本は右翼左翼という枠組みで簡単に炎上してしまう世の中になっておりTwitterが大きな役割を果たしている。前回「Twitterがなぜ炎上しやすいか」について観察したのだが、問題に対して耐性がなくなっているところに刺激ばかりが増えて中毒を起こしているのだろう。慰安婦はその記号になっている。140文字で語れるのは記号の良し悪しだけだ。

140文字で「政治や表現について語れた」と勘違いする人も大勢いるんだろうなあと思った。撤退に追い込んだことで満足感を得た人もいると思うのだが、慰安婦像を否定したのではなくガソリンを撒くぞという暴力を肯定しているに過ぎないのだが、それでも「実質的に慰安婦が否定された!」と意気込んでいる人を見かけた。

今後、日本では「芸術展」という限られた場所でじっくり考えるということがこの先できなくなるのかもしれない。SNSが芸術展を侵食しているというのは、例えていえば映画館に右翼の街宣車が乗り込んでくるようなものである。つまり我々はTwitterレベル以上のことを社会で考えられなくなるということである。

この乱暴さを示すエピソードがこの騒ぎには内蔵されている。それがご尊影を焼いたという話である。実際には文脈があるので、それを説明した上で展示すべきだ。多分、美術展の中ではそういう工夫がされていたのではないかと思う。

ところがこれが韓国KBSで抜かれたようである。問題はそれをさらにTwitterが抜いてSNSで背景なしで拡散されてしまったという点である。一般参加者には映像をとるなと言っていたようなのだが、マスコミにも絵を抜かせてはいけなかった。津田は安易に逃げたことで、結果的に文化行為そのものを破壊しようとしている。

「お芸術」から抜けられなかった日本の表現と言論プロレスから抜けられなかた論壇という痛々しい光景

高度経済成長時代の中流家庭には百科事典や美術全集が置かれていた。こういうものをおくのが「ゆとりのある文化的な生活だ」と考えられたからである。日本人は憧れとして美術を捉えているのではないかと思う。「愛知にも先進的な文化生活を」というわけである。こういう「オシャレな文化事業」でコントロバーシャル(議論が分かれるような)な問題を取り扱うことはできないということはわかった。

保守は国費で不適切な表現を扱うのかとまるで国家権力が完全に自分たちの自由になると勘違いしているようだし、津田の側は税金さえ入らなければ何を言っても自分たちの自由ですよねと言わんばかりである。

そもそも自動化された慰安婦像を持ち出して手軽なコントロバーシャルを作ろうとしたところに「手軽に炎上させて注目を集めよう」という軽さが見られるし、検閲に当たるという自覚もなくそれに介入した政治家というのも痛々しい。ここまではテレビ論壇の言論プロレスだ。自分たちが現実世界でどのような影響力を持っているかということに気がつけなかったことになる。いずれにせよ、江川紹子さんが指摘しているようにジャーナリズムのテンションとTwitter言論プロレスでは緊張感が全く異なる。

この一連の出来事がパフォーマンスアートだったのだと考えれば、それは言論の不自由さを証明したわけではないと思う。単に議論の不在が浮き彫りになっただけである。我々は居間に飾ってある印象派の画集から抜けられず、テレビ的な言論プロレスからも抜けられず、さらにはTwitterの140文字の枠を超えて思考することを自ら禁じようとしているのだ。

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