久しぶりに昔の友人にあったような出来事があった。
豊洲移転反対派の識者がいつものように豊洲新市場移転について異議申し立てをしていた。今回は、小池さんがブロガーたちを雇って広報戦術を繰り広げようとしているというのだ。彼らはこれを「刺身ブロガー」と呼んでいる。お刺身を振舞われて提灯記事を書くのかというのだ。
しかし、実際に刺身ブロガーが書いたものは彼らには理解ができなかったようだ。それはまるで金星人と火星人の会話のようになっている。
このディスコミニケーションはなぜ起こるのかということを考えていて、かつてあった生産性の低い「ウェブのおしごと」を思い出した。あの生産性の低い「ウェブのおしごと」がインスタグラムの時代に入るとこういうことになるのかと思ったのだ。
そこにあるのは、女性たちが考える「私らしい素敵さ」のなかにぽっかりと浮かび上がった異質で無味乾燥なイベント告知である。「私らしさ」を追求してゆくと「私が消えてゆく」という、日本の村落特有の矛盾もある。この議論を進めてゆくと日本の生成が低くなり、モノが売れなくなったもう一つの理由がわかるように思えた。今回は国会で繰り広げられている労働時間の問題も絡めて考えてみたいと思っている。
アメリカでインターネット業界が立ち上がった時、建築のメタファーで広まった。一級建築士のような人が全体を設計し、インテリアデザイナーのような人たちと協力しながら作って行くのがウェブだという世界観がある。構造設計をやる人はいまでも「アーキテクト」と呼ばれているはずである。また、ウェブの情報のまとまりのことを「ウェブサイト」という。
だが、日本人はなぜかこれが理解できなかった。日本でウェブデザインに入った人たちはもともと広告業でチラシを作っていた人たちだった。そもそも日本の広告には全体のプロジェクト設計という概念はないようだ。広告はマスを使った広告かダイレクトマーケティングである。後者を代表するのがチラシである。
村落構造を考えるときに、日本人は環境の構造そのものに興味を抱かないと考察してきた。このため、マーケティングでもウェブでも全体構造に関心を持つ人はいない。今ある代わり映えのしない所与のものを小手先の目新しさで売るのが日本人にとってのマーケティングであり、そのためにチラシを作るのがウェブのおしごとなのである。
こうした環境で最終的に残るのは「インプレッション」という概念だ。チラシの要点はとにかく郵便物や電話を送りつけて反応を稼ぐことだ。古くから顧客接点(チラシ制作とコールセンター)は契約社員やフリーランスが支えている。炎上でもしない限り彼らの声が開発担当者にフィードバックされることはない。例えて言えば底引き網のようなもので、とにかく魚群を見つけてそこに網を入れるのがマーケターのおしごとである。
だが、ここで問題が起こる。マーケターは流行に敏感でセンスに定評のある人たちだ。だから「誰が作っても代わり映えのしない」ものでは満足ができなくなる。そこで彼女らは「私らしさ」を追求しようとし始める。しかし、全体設計には関われない(そもそもそんなものはないかもしれない)ので、それはどうしても細部へのこだわりになる。いわゆる「わたしらしいセンス」を実製作者に押し付けるのである。
要件定義がなく「発注者の私らしいこだわり」を満足させるために間際のないやり直しが繰り返される。欧米系はエージェンシーがクリエイティブブリーフを作りそれにサインをさせてから次に進むというやり方をとっているので欧米系のデザイン事務所はデザイナーも仕事の量をコントロールして休ませることができる。一方で、日本の代理店はこうしたブリーフを作らずに感覚的におしごとを始め、残業を強いて「私が納得行くまで」やり直しをさせる。だから日本の下請けデザイナーは休めない。
さらに「わたしらしい」こだわりは角があるので市場で受け入れられることはない。そこで私らしさは社会的に受けがよい無個性なものに変わってゆく。
すると代わり映えのしないどこかで見たようなものが量産されることになる。フックもないので効果も上がらない。効果測定しないから「どれくらいの時間をかけたらどれくらい価値があるものが生まれるか」というノウハウがたまらない。だから下請けの賃金は安く抑えられることになる。また、作らされる方もいつまでたってもノウハウはたまらない。意味がわからないまま「クリエーター」たちのわがままに付き合わされるからだ。ただし、締め切りがくるとリリースされるのでデザイナーはなんとかごまかしながら嵐が過ぎるのを待つしかない。実際に締め切りがくると次の嵐が車で風はおさまる。
しかし、こうした仕事をする彼女たち(顧客に近い感性を持っているというのが前提なのでたいていは女性なのだ)が優秀でないというわけでもない。ある程度の品質でポイントを抑えた文章やイラストが量産できるようになる。だんだん個性が削られて行き「意味がないということに気がつくことができず」に「どこにでもあるようなひっかかりのない」ものが作れるようになるのがプロなのである。
この点は男性の方が実は厄介だ。仕事にこだわりと面子を持ち込みたがる上に、時間をかけて働く俺に陶酔したりする。こういう広告代理店のクリエイティブディレクターに絡まれると大変である。もしかしたら徹夜で修正を頼まれ、それをのらりくらりかわしていると事務所に現れて「意思疎通が足りないから一緒に徹夜しよう」などと言われる。
日本の広告のプロはどこにでもあるありふれた作者不詳のものを最低限の労力で量産できる能力が求められる。今回の豊洲市場移転のインスタグラムにある文章はまるでPRの人が書いたようなソツのない文章だったのはそういう流れがあるからだろう。外注するのもお金がかかるから「刺身でも食べさせて安くPRさせて10%の管理料だけ取ろう」ということになったのかもしれない。結婚してノウハウはあるが企業を離れた素敵女子がインスタ世界にはたくさん生息しているのではないだろうか。
しかし、この環境はますますものを売りにくくしている。第一の問題はすでに述べたように顧客接点から情報が入ってこないということである。しかし、それだけではなさそうだ。
そつのなくひっかかりのない文章を書くようになって「東京のすてきなおしごと」を引退した彼女たちは、やがて結婚して「誰もが羨むそつのない暮らし」を手に入れる。それをフォローする人は「いつかは私もこんな素敵な暮らしを手に入れたい」と考えるようになる。素敵暮らしはこうして日本中に広まる。それはイオンモールのような無個性な「素敵さ」かもしれないが、その中身は多分我々が想像しているよりもずっと複雑なディテールの細分化が起こっているに違いない。嘘だと思うなら流行のパンケーキについて官女たちと論争してみればよい。単なる小麦粉と卵の組み合わせのはずのパンケーキについての会話にすら、きっとついて行けないはずだ。
彼女たちの背景にあるのは、全体構造に対する徹底的な無関心と過剰な細部へのこだわりである。こうした人たちが政治や環境に関心を持つとも思えないので、豊洲がガス工場の跡地に作られようとそれほど気にしないはずである。彼女たちが気にするのはそれが「素敵」かどうかなのだが、ではいったい何が素敵なのかに答えられる人はいないだろう。それは「彼女たちが理解可能」でなおかつ「みんなが素敵だと言っていること」である。誰かが決めているようで誰も決められない。ある意味日本の村落の究極的な形である。にもかかわらず何が「素敵」なのかみんなが知っているというような世界である。
もはやこうなると、東京のおじさんたちには理解ができない。だから彼女たちが買うものは作れない。景気が悪くなり「正解以外のものを追いかける余裕」もなくなった彼女たちは「無個性な私らしさ」を追求できるものにはお金は使うだろうが、それ以外のものはいくら「品質が良い」とか「便利だ」などと訴えても買ってくれないだろう。
だから、そもそも彼女たたちが魚市場に関心をもつとも思えない。動いていて頭のある「おさかな」は気持ちが悪いと思うのではないだろうか。彼女たちが考える「おさかな」はお皿に盛られたお刺身か、パックに入ったサケ・マグロ・イカ・貝などだろう。イカなど日本人には関係ないと思うかもしれないが、冷凍シーフードの一部としてインスタ映えのする洋風料理に使われている。
そうなると築地市場は汚らしいだけで、立派な外観の清潔そうな豊洲市場が、たとえそれがガス工場の跡地に作られていようが素敵に見えるのかもしれないと思った。現にイオンモールが素敵なショッピングモールに見えているのだから、それに似た外観の豊洲が立派に見えてもそれほど不思議ではないのではないだろうか。だが、彼女たちはおさかなにはさほど興味を持たないだろう。それはインスタ画面のほんの一部分を構成しているだけの脇役にすぎないからである。