礒崎先生の悪文を書き直してみる

礒崎陽輔先生がマイナンバーとマイナンバーカードの違いについて書いているのだが、壊滅的にわかりにくい。原文はここにあるが記事ごとのURLがないらしく引用もできない。こういうウェブサイトを運営している人に「安心だ」と言われても信頼できないというのが率直なところだ。

こうしたわかりにくさが生まれるのは、論理積が欠如しているからなのだが、能力の問題というよりは、意欲の問題ではないかと考えられる。

批判すらできないので以下要約してみた。

マイナンバーカードは積極的に利用してほしい。政府が番号を厳重に管理するように推奨したのでカードの携帯を控える人が多いが、マイナンバーカードはマイナンバーとは別物で積極的に持ち歩いても安心なように設計されている。

マイナンバーには何重ものセキュリティ対策がなされている。最悪マイナンバーが流出したとしても官庁から個人情報が漏れることはない。企業はマイナンバーを厳重に管理するように政府から要請されている。さらに、マイナンバーカードによって企業に伝わる情報は基本4情報(氏名、住所、性別及び生年月日)だけであり、マイナンバーそのものが伝わることはない。表面には基本4情報が書かれており、裏面にはマイナンバーが記載されている。身分証としてコピーされるのは表面にある基本4情報だけなのだ。

マイナンバーは年金事務や税務など官庁間の連携に使われるが、利用者がそれを意識することはない。官公庁でもやり取りされるのは基本4情報が中心になる。

マイナンバーカードは公的な身分証明証として使える他、将来は健康保険証としても利用可能になる。さらに、マイナンバーカードに会員証データを持たせることによって、企業に基本4情報を引き渡すのにも利用される予定である。繰り返しになるが、民間企業はマイナンバーをキーとした名簿の収集は禁止されているし、会員証にしたところで民間企業のコンピューターにマイナンバーが渡ることはないので安心してほしい。

マイナンバーは政府で利用するものであり厳重な管理が求められるが、マイナンバーカードは民間への幅広い利用が想定されている。便利な機能が増える楽しみなカードであり、交付手数料は不要なので、積極的に求めていただきたい。

さて、ここからは懸念事項を書いて行きたい。磯崎先生の文章が壊滅的にわかりにくいのは幾つかの理由があるからだ。疑念を3つ挙げたい。

懸念1 – 技術的にできることと禁止していることの境目が曖昧

第一の疑念は「技術的にできること」と「禁止されているからやってはいけないこと」がまぜこぜになっている点である。「禁止されている」ということは「できる」ということだからセキュリティホールだ。役所から漏れるのではないかという疑念は残るが、それを言い出すと先に進めないので役所は完璧に番号を管理するという前提で進めたい。

ICカードには番号が記録されているはずなのだから、基本情報だけしか抜き取れませんと言われても、それができないのかできるけどやってはいけないのかがわからない。もしコピーできないとすれば「暗号化」などの具体的な方策があるはずなのだが、その情報が公開されていないのでは批判のしようがない。情報の非公開は安心なように思えるのだが、ハッキングの危険性が第三者の検証なしに放置されているということを意味する。素人が考えても、目の前でコピーしてもらわない限り、裏面の番号を収集できてしまうということはなんとなくわかる。不安が解消できないばかりか、却って犯罪を誘発するかもしれない。

懸念2  – 今できることと将来やりたいことの境目が曖昧

次の問題点は、今できることの利便性と将来礒崎先生がやりたいことがまぜこぜに書かれているという点だ。いまできることはそれほど多くないが、金融機関からカードを求められることがある(マイナンバーには政府が国民の財産を把握するという目的があるので礒崎先生は書きたくなかったのかもしれないのだが)ようで、必要に迫られて作らざるをえない人がいるはずである。また、カードを持っていると住民票をコンビニで発行できるようになる。待ち時間が大幅に減るだろう。

一方、会員証や健康保険証は計画であり、反対も多いことからどうなるかはわからない。原文は「用途をどんどん拡大していく考え」と言っているのだが「決まってから言ってくれ」と思うわけだ。結局、いま何が便利なのかがよくわからない。

懸念3 – 個人情報の認識が壊滅的に甘い

磯崎先生は基本4情報を「大したことがない」情報だとみなしているようだが、これも立派な個人情報であり、漏洩するといろいろな問題を引き起こすだろう。電話番号やメールアドレスなどはSNSなどから持ってくることができるので基本情報とマッチングができてしまうのだ。

しかし、そもそもの問題は「何がプライバシーか」という点にはないようだ。どんな個人情報が漏れるとどういうリスクがあるのかということを国民も含めてあまり理解していないというのが問題なのだ。そこに漠然と「個人情報は保護しないと危ないらしい」という情報が加わることで不安が増してしまう。リスクを理解するということは、それをコントロールする術を考えるということと同じなのだ。これを棚上げしたのが「安全神話」である。マイナンバーカード安全神話になってしまっているが、どんなに厳しく設計してもリスクが0になるはずはないのである。

一方で、一般人が学べる点も多い。ぜひ気をつけたいと思った。

学び1 – メリットとデメリットを明確に

先に安全神話について考えた。マイナンバーまたはマイナンバーカードが流出するどういうリスクがあるのかということが全く書かれていないという問題だ。漏洩にはどんな危険性があり、漏れたときにはどのような回復策があるのかということが書いてあれば「リスク管理」ができる。これがなく「大丈夫だ」と言われてしまうと、それって「原発と同じ安全神話ですよね」と思ってしまうのである。実際に情報が漏れた時の救済策や自衛手段がわかれば、安心感は高まるだろう。悪い情報を出すことも誠意なのだということが最初の学びだ。

学び2 – ポジションの確定と箇条書きの重要さ

礒崎先生はマイナンバーカードは怪しそうだという周囲の評判を気にしてか、カードを持つメリットを書いたり、予防線を張ったりと忙しく文章が移ろっている。これはあまり得策とは言えない。信じているならポジションを明確にした上で、メリットとリスクをわかりやすく箇条書きにすべきだ。リスク管理にも自信があるのだろうから、読み手の評判を過度に気にせず自信を持って書くべきだろう。

だが、いきなりパソコンに向かって文章を書く機会は意外と多い。散漫な考えをまとめるために文章を書くということもあり得るのだが、人にものを伝える場合には箇条書きにしたほうがよいのだなあと思った。

学び3 – 現場を取材しよう

さて、マイナンバーカードが普及しないのはなぜなのだろうか。実はマイナンバーカードにセキュリティ上の懸念があると考えている人はそれほど多くないのではないかと思う。それは実際に使っている人に聞いてみないとわからないことだ。

実際に市役所では、パスワードがわからなくなって役所でパーテーションのある一角に連れて行かれる人や、金融機関にマイナンバーカードをもとめられてはじめて「マイナンバーって何なのか」と問い合わせてくるケースなどを見かけた。

あれだけニュースになっているのだからみんな知っているだろうと思ってはいけないのだ。情報が溢れているので、広報しても伝わらない。これは多くのマーケターが苦労している点だろう。加えて「横着だから勉強しない」というわけでもなさそうだ。何がなんだかわからなくなっている可能性がある。

よくNHKが政府のプロパガンダだという批判を耳にする。しかし、現在のニュースは難しすぎる。情報の海に溺れている人たちに政府の情報を伝えるためには、池上彰さんを呼び戻すか、ストレートな広報番組を作るしかない。これを受信料で支えることは不可能なので、政府がスポンサーする番組を作るしかないのではないかと思う。現在は通常の情報番組に潜り込ませるようにして広報しているわけだが、これでは伝わらないのだ。

いずれにせよ、現場を取材していればこのような文章にはならなかったのではないかと考えられる。本当に普及させたいなら、リサーチをしたほうがよかったし、リサーチできなくても(視察ではなく)現場の窓口に半日立ってみて状況を把握するべきだろう。

 

小田原市は英語教育を徹底すべきなのではないか

小田原市で生活保護関連の仕事をしている人たちが不適切な英語の入ったジャンパーを着ていたというニュースが話題になった。これを見て斜め上から「小田原市は英語教育をやり直すべきだなあ」と思った。

さらに日本人が論理的な会話ができないのは、日本語脳そのものに問題があるのかもしれないと絶望的な気分になった。ジャンパーに書かれていた英文はこちら。

We are the justice and must be justice, so we have to work for odawara. Finding injustice of them, we chase them and Punish injustice to accomplish the proper execution. If they try to deceive us for gaining a profit by injustice. “WE DARE TO SAY, THEY ARE DREGS!”

この文章、何が言いたいのかがわからない。文法上は一応英文っぽいのだが、論理構成がめちゃくちゃだからだ。多分、日本語で原文を書いているはずで、ということは日本語は論理構成がめちゃくちゃでも文章が成立してしまう言語という結論になってしまう。

最初の文は「私たちは正義で正義でなければならない。だから小田原のために働かなくてはいけない」と読める。しかし、have to 義務であることを示しているので「小田原のために働かされている」というニュアンスがある。一方mustは正義であるべきなのだということになる。総合すると何がなんだかわからないのだが、仕事として義務的に(つまり嫌々)小田原市に勤務しているということだけはなんとなく分かる。でも、あんたたち(市職員)が嫌々働いていることと正義であるというこことの間には因果関係はないし、soでは結べない。

平易な文章で書くとBecause we have to work for Odawara, we are justice and we must be justiceということになるが、それでも意味不明だ。精一杯意味を汲み取ると「生活のために小田原市で働いているのだが、嫌々生活保護の係りに回されたので自分たちが正義だと思わないとやってられない」ということになろうか。

Findingの文法的な位置付けはよくわからないが、適正な執行(執行と聞くと「死刑」や「強制執行」という含みがあるのでかなり強烈な言葉だ)をするために罰するというように読める。しかし、正しく執行するのと罰することは同じことなので(まあ受けたいけどためらっている人にも光を当てて欲しいというのはナシにして……)、これは文章として成り立たちえない。

執行が自己目的化していることだけはなんとなくわかる。多分「騙す」という単語が出てこなかったんだろうなあと思うのだが、これは日本語が難しい言葉を中国語の名詞で表現している(動詞化するにしても名詞+すると表現する)からかもしれない。ただ、名詞を動詞化すると主語と目的語の問題が出てくるの「誰が誰に何をすると」いう構造を作る必要が出てくる。

日本語のモノリンガルの人たちと話していると、こうした自己目的化が珍しくないことに気がつく。あまり「〜だから〜」という構造を取らないのだ。また主語が不明確なことも多い。あまり論理構成に力を入れなくても成立するという事情があり、これが「非論理的である」という批判を生むのかもしれない。つまり日本語は論理構成とは別のものを記述している可能性があり、論理的でないからといって「遅れた未開な言語だ」とは言えない。

If we find injustice, we will punish itということになるだろう。これはproper executionの説明だ。

ここまで読むと、この人たちは「こう言いたかったのな」と思える。意外と短いセンテンスで片がつく。

If you dare to deceive us, we will punish you because we are justice.

さて、これだけの文章なのだが、実際には「生活保護受給者はカスで、俺たちは正義だ」ということが言いたかったのではないかと思う。つまり、文脈を問題にしていることになる。これを英語で表現すると。Listen, the dregs of the population!ということになるそうだ。

いずれにせよお役所が正義を振りかざすというのはかなりおぞましい光景で、これをexecuteという表現で恫喝している。これらがあまり騒ぎにならなかったのは英語がわかる人が多くなかったからかもしれない。

なお、蛇足ではあるが「the dregs of the population」とか「the scum of society」というように人をクズ呼ばわりするときには集合的な名詞であってもtheをつけるようだ。ただし人前でこれを使うと十中八九殴られると思うのでなるべく使わないほうがいいだろう。

「教育無償化」議論のために

橋下徹弁護士が「東京が高等教育を無償化するから、次は憲法改正で機運を盛り上げよう」と息巻いている。これになぜか同調しているのが兼ねてから教育無償化を訴えてきた社民党だ。埋没を恐れているのかもしれない。福島瑞穂参議院議員が大学まで無償化しても数兆円しかかからないとツイートした。こうした議論をポピュリズムという。つまり維新はポピュリズム政党ということになる。だが、ここは堪えて、本当に無償化を実現したい人向けに「教育無償化」について考えるためのヒントを列挙してみた。もちろん他にも論点はあるかもしれない。

名称

まず、名称問題から片付けたい。教育無償化を憲法で唄うというと、天から教育費が降ってくると思われがちだが、もちろん費用は国が負担するわけで、実際には納税者の教育費負担についての議論ということになる。納税者教育費負担とか教育の社会化という名称になるべきなのだ。

目的

なぜ名称が重要かというと「どうして親に代わって納税者が負担すべきなんだろうか」という議論が必要だからである。日本の高度経済成長期には多くの親が子供の教育費を負担できた。しかし、今では半数の子供が奨学金という名前の学生ローンを抱えている。これは教育資金を正当化できなくなっていることを意味する。この状態で教育費を国家負担にしても、家庭が国に変わるだけなのだから負債を抱える母体が大きくなるだけであることが予想される。

カリキュラムという難題

今の教育の目的は何だろうか。それはいい大学に入れる頭を持っていますよと証明することである。あの人は東大卒だということが重要であり、何を勉強したのかということは話題にならない。これが、大学が世間から取り残されているせいなのか、企業が大学教育をうまく取り入れられないかということはわからない。すると、地頭の証明をするために、社会が負担するのという議論になってしまう。

この議論を延長すると、職業教育って大学まででいいのかというような議論になる。実際には国が職業教育を行っているが、潰れそうな専門学校への助成のようになってしまっている。深刻な人手不足におちいっている、介護・保育分野などはさらに悲惨で、高いお金を払って職業教育を受けても家庭を維持できる給料は得られない。つまり、お嫁さんを要請するためだけの学校ということになり、人財を使い捨てている。

こうした議論を全て棚上げして「教育を社会が負担するのは、機械の公平を担保するためである」と仮定してみたい。貧しい家庭にも優秀な人はいるわけで、彼らが経済的な理由だけで教育から排除されるのは問題だという考え方である。実際には重要な議論は全て積み残しになっているのだが、もうこれ以上は気にしない。

ここで初めて次の議論ができる。

政治的公平

最初に重要なのは、政治からどの程度カリキュラムを独立させるかということである。社会に足りない人材(保育士)などは国が関与すべきかもしれないが、自由主義経済に携わる人材を国歌関与で育成するのはふさわしくないかもしれない。なぜならば市場原理が働かないと実際の企業のニーズに応えられないからである。たぶん、北朝鮮は国家が管理して人材育成を行っていると思うのだが(主体思想教育)、うまくいっているとは思えない。

だが、これはかなり絶望的だ。現在でも各種補助金をダシにした政治の介入が起こっている。日本ではこれに宗教が絡んでくる。神道系の団体が臣民型の教育を熱望しているからである。国家が「言われたことだけを従順にこなす」国民を量産したいという意識が強い。さらに高齢者には「奨学金をお国からもらうなら、社会に貢献せよ」などという人がいる。

例えば明治大学は「戦争につながるような研究はしません」と宣言したが、これは経済的な自由が前提になっている。国家が予算を握るとなればこうした自由はなくなってゆくだろう。議論になるのはこれが活力を削ぐか増すかという議論だが、前提にあるのは「なぜ社会が教育費を負担するか」という議論である。

面倒なことに日本の教育は政治思想と強く結びついてきた。高度経済成長期には学園闘争があり東京や埼玉では高校まで巻き込まれたそうだ。日教組が強かった時代には社会主義的な思想を生徒に押し付けようという先生も多かったし、今では逆に君が代を歌わない先生生徒に厳しい視線を向ける管理職もいる。日本人は議論ができないので「教育は政治に関わらない」とすることで政治教育そのものを排除してきた。スウェーデンでは逆に教育は政治的に中立にはなりえないと教えるそうである。日本とは公平性の方向が真逆である。

機会の公平性の確保

次の問題は機会の公平性の確保である。教育には選別という機能がある。フランスではすべての中等教育と一部の高等教育が無料なようだが、かなり厳しい選別が行われるらしい。これは予算枠が限られているからだろう。ここで「無料」としてしまうと、極論として「すべての人が東大に入れる」と誤認されてしまうが、実際には母親が家にいて勉強を教える子供のほうが有利に受験勉強ができるだろう。そういう家の子供は塾にも行かせてもらえるはずである。

ではアファーマティブを設けて貧困層を救済するのかという話になるだろうが、なぜそのようなことをしなければならないのかという議論が出てくる。当初の目的が曖昧だと細かな制度設計で必ず「不公平だ」という話が出るだろうし、実際には経済的な格差を埋めきることはできないだろう。

共有地化の問題

さて、ここまで来てやっと共有地化の問題が出てくる。一度制度ができてしまうと、制度に沿って受益しつつ、費用は払わないほうが得ということになる。これは「共有地の悲劇」として知られる。橋下徹弁護士はこれに関連して「高等教育の授業料が値上げになるからキャップしなければならない」と言っている。教育の社会主義化が今度は何をもたらすかがわかっているのだ。

具体的な例としてあげられるのが薬価の問題である。医者がやたらに薬を飲ませたがるのは、それが健康な人の支払いだからである。死に至らない程度の病期の場合、薬は飲んだほうが得なのだ。全体的には薬代の高騰につながっている。長谷川豊氏が「透析患者は迷惑だから死ね」と言って問題になったのが記憶に新しい。もちろん暴論なのだが、モラルハザードはおこりえる。この投稿を見て「社会のお荷物になるくらいなら」と透析を拒否して亡くなった方もいるそうである。実際には親身になって話を聞いても、右から左に診察して薬だけ出しても医者の報酬は同じだ。

薬価は国がコントロールしているが、教育にかかるお金は自由に決められる。これを「高い方に合わせるのか」「低い方に合わせるのか」という議論が起こるだろう。

教育者は人格者だからこんなことは起こらないと思いたいが、高校の助成金目当てに学校に来ない学生の名前だけ借りて、補助金を騙し取るという事件もあった。常に国が監視していないとこうした詐欺行為が横行するだろう。

ポピュリズムは何か

全てを網羅したわけではないが、教育の無償化には少なくともこれくらいの問題がある。これを「橋下さんが言ったから賛成」とか「私たちが昔から主張していた」というのは不毛の極みだ。実際には「投資として的確か」という議論になるべきで、当然「どのように効果を計測するか」という議論になるはずなのである。

実際には「タダって言えば票を入れてくれるだろう」くらいの目論見で議論が進んでいる。こうした単純化した議論をポピュリズムという。ポピュリズム化した議論は細かい制度設計で破綻する。目的が明確でないからだ。

にもかかわらずこうした議論が横行するのは、いち早く白紙委任状が欲しいからなのだろう。

 

 

 

ファッション雑誌の解体・カテゴリ・タグなどに関する散漫とした考察

ファッション雑誌を解体している。実際にはスキャンしてコーディネートに分けた上でウェブにアップする。著作権上の問題があり本来は違法なのだと思うが、パスワードでプロテクションをかけて不特定多数の閲覧を防いでいる。データベースに問い合わせを行い、合致した人の端末だけにセッション情報を渡す仕組みである。

なぜファッション雑誌を解体したかったのか。それはファッション雑誌がランダムに並んでいて、ルールがわからないように見えたからである。ファッション雑誌を読んでおしゃれになる人もいるのだから、一種の学習障害と言えるかもしれない。

それでも繰り返し少ない写真を見ているとコーディネートを覚えることができる。つまり、再編集することで情報を捨てているのだ。

記憶の限界と暗黙知化

人が短期的に記憶できるのは7±2と言われている。これはワーキングメモリと呼ばれる。実際にはいくつかのルール群があり、それを重層的に駆使することで複雑なコーディネートを作っているものと思われる。その作り方は明示的ではなく暗黙知化しているのだろう。いわゆる「センス」と言われるものだ。暗黙知は他人に伝わりにくいという欠点がある。長い年月をかけてルールが複雑化すると、周辺にいる人たちは「わからないからいいや」ということになってしまう。端的にいうと「ユニクロでいいや」ということになる。専門家の中には東京のファッションコミュニティは浮世離れしているという人もいる。ルールができたらそれを操作してゆくのが仕事だからだ。

ただし、ルールの操作が悪いというわけではない。もしルールに飽きることがなければ、擦り切れるまで新しい服が売れないということになる。

メタデータの付加 – カテゴリーとタグ

解体した写真はそのままでは使えないので、なんらかの分類が必要になる。付加されたデータは「メタデータ」と呼ばれる。メタデータには二種類がある。

最初のデータは「ユニークキー」+「カテゴリ」データだ。写真ごとに1つのカテゴリーが割り当てられる。カテゴリー化は「抜けなく漏れなく(MECE)」が必要だ。ファッションの場合はシェイプでMECE分類が可能である。トップスとボトムの太さでシェイプが規定できる。このほかに縦のラインが作れるのでこれだけでMECEなカテゴリが完成する。

ファッションには出自があり、クラッシック、ストリート、ミリタリー、スポーツというような分類もできるのだが、これはカテゴリーにはならない。ミックスという分類があるからである。

しかし、実際にやってみると、別の分類もやりたくなる。例えば、新しくバルマンカーンコートを買うと参考になる写真が集めたくなるのだ。つまり、カテゴリー付けのルールは柔軟であったほうが、実運用上は扱いやすい。目的はカテゴリーを作ることではなく、一覧表を作成することだからだ。

さらにカテゴリー作りそのものがトレーニングになっていることがわかる。分類ができるということは通底するルールがわかっているということである。

次のやり方はタグ付けするという方法だ。タグは最初のメタデータとは別に準備できる。「キー」+「タグ」という方法になる。ミリタリーテイストのOシェイプでは二種類のタグが一つのキー(この場合はコーディネート写真のURL)に対してアサインできる。それとは別のアプローチも可能だ。着ている服に使ったアイテムを記録して、そのアイテムに「これはワイドパンツだ」とか「ミリタリーだ」というメタデータを付加してゆくのである。これはカテゴリーの重層化だが、カテゴリ同士の関係はない。「ユニークキー」+「カテゴリー1」+「カテゴリー2」である。

実運用上のカテゴリーの数と実装

実際にはいくつくらいのカテゴリーが制御可能なのだろうか。パソコン画面で試したところ20くらいは扱えそうである。写真の実装では24ある。カテゴリー+サブカテゴリーに分けるとやりやすいのだが、実装上では単階層にしたほうが簡単だった。

これがファッション雑誌の特集の1ページということになる。それぞれ7つ程度(実際に自分で試したものと参考資料)が並べられる。

カテゴリーは単純な数字にして名前を後から変更できるほうが、簡単に実装できた。しかし、このやり方だと後で新しい分類を思いついた時に並べ替えられないということが起こる。これはカテゴリーが単基準で並んでいない(つまりMECEでない)ことから起こる弊害だ。それを解決するためにはソートキーをつければ良いわけだが、キーが2つになるというのはデータベース設計上はあまり美しくない上に予期しないバグの原因になるようだ。

構造化されていないタグの弊害

例えば、ある写真に対して、ミリタリーでYシェイプのものを集めたいとする。しかしタグはこうした構造を持っていない。SQLでデータを構造化するためにはビューでは対応できないようで、Group Contactという仕組みで情報を集めてくる必要がある。これをクライアント上で再編成するか、新しいテーブル(キー+カテゴリーA+カテゴリーB)を再編成する必要がある。例えば二次元の表を作りたい場合タグよりカテゴリーのほうが実装はしやすいが、カテゴリー設計している時には表のことまでは考えていられない。

左の例は毎日のコーディネートにアイテムを付加したもの。だがアイテムがパンツなのかジャケットなのかは記述されていないので、テーブルを再編成する必要があった。

著作権だけ守っていては解体が先行する

ファッション雑誌を切り抜いて再構築するという動きには「著作権条の懸念がある」ということは先に述べた。しかし、Pinterestのような「まとめサイト」が先行しており、キュレータによる情報の再編が行われている。Pinterestでは任意に選ばれたもう何年も昔のファッション写真が出回っているのだが、いくつかはネットワークの中心になっており、情報発信者の意図とは全く異なるデザインが「良いデザイン」としてフィーチャーされてしまう危険性が高い。どの写真が宇宙の中心になるかはランダムに決まるのだが、いったん中心になったデータは中心であり続けるという性質がある。すると、時間をかけて撮影されたプロによる仕事がうもれてしまうことになる。

ファッション雑誌では今でも「グリッドデザインが」などと言っている人たちがデジタルの専門家として君臨していると思うのだが、実際にはすでに解体が進んでいるということは知っておいたほうがよいのではないだろうか。

 

目標は設定しないほうがいいかもしれないという話

よく、新年には目標を作ったほうがいいという話がある。期限を決めて達成すべきだというのである。最近、むしろ目標は決めないほうがいいかもしれないぞと思うような体験をした。

体重が4kg減った。とはいえ数値上はまだ「軽度の肥満」という分類に当たる。ということで、どれくらい減らせば「標準」になるのかなあと計算したところ、あと数キロはやせる必要があるらしい。脂肪を1キロ減らすためには7200キロカロリーを消費すべきなのだが、一回の散歩で消費できるカロリーは400キロカロリー程度しかない。そもそも一回散歩したからといって体重がみるみる減るということはない。

たかが4キロ減ったからといって大したことはなさそうだが、1キログラムの脂肪は1リットル以上の体積があるらしい。つまり4キロ減ったということはお腹から牛乳パック4本が消えたことになる。2016年10月末に撮影した写真があるのだが、お腹がかなり出ている。二ヶ月ちょっとでこれが消えたのだ。

つまり、1日ごとの減少量は大したことはなくても、蓄積はかなりのものだということになる。ベルトの穴は2と1/2分減っているのだが(1つは5cmくらいある)急激にやせたわけではないために、日々の変化はわからない。

数値上でみるみる結果がでれば気合も入るわけだが、数値はほとんど動かないし、他人と比べて自慢できるようなものでもない。しということで目標を設定してしまうと却ってやる気が削がれそうだ。しかし、方針としては間違っていないようだし、前よりはかなり状況が改善している。ちょっと歩いて、酢とお茶を飲み、寝る前に軽い運動をするというものだ。これを習慣にしていれば少なくとも急激に状況が悪化するということはないわけで、停滞期があったとしてもやがては少しずつ状況が改善するということになる。

もちろん、目標を決めて頑張ろうというアプローチが上手くいく人もいるのだろうが、努力ではなく習慣を作って、ときどき蓄積を確認するというゆるいアプローチのほうが上手くいく人もいるのではないかと思う。

意外だなと思うのが「ひどかった時」の記憶の大切さである。太っている写真を撮影した時は心底がっかりしたのだが、その記憶がなければ「達成感」も得られないわけである。

犯罪すら生みかねない超人思考という洗脳

先日、和田秀樹という人が書いた小さなエッセイがTwitterで叩かれていた。50歳を過ぎたらSNSでカリスマ論客を目指すべきだという話だ。主に「バブル世代にこれ以上説教されるのはうざい」というような論調だった。

ある程度の年齢になったら社会にアウトプットしましょうという話はいいと思うのだが、それだけでは文章として完成しないと思ったのか「反論されるくらいの文章を書いてカリスマになろう」と過激目に結んでいた。これを読んで、和田さんのいる世界というのは病んだ世界なのだなあと思った。

50歳代といえばそれなりの経験を積んでいるのだから、それを社会に還元しようという意欲を持つのは悪いことではないだろう。だが、それをアウトプットしたところで、特に誰かの反論があるとも思えないのだ。自分の専門範囲のことなのである程度バランスが取れていて当たり前だからだ。

さらに、実際に書いてみるとわかることなのだが、人は意見には反応しない。何を言ったかということは意外なほど気にされない。人が過剰に反応するのは党派性である。その人が誰なのかというのを暴きたがるのはそのためである。

例えば、政治の場合「体制より」と「反体制」という枠組みがあり、多くの人がどちらかに帰属しているという意識があるらしい。だからプロフィールを見て自分と反対がわにいる人を罵倒するという仕組みになっている。反応があるのはせいぜいタイトルだけなので、中身などは読まれていない。だから、専門意見を書いたからといってそれが反論を受けるということはほとんどありえないだろう。

和田さんの意見の面白いところは、反論されることが情報発信の結果ではなく、目的と取られかねないところである。つまり、自分の意見を貫き通した結果反論されるのではなく反論されるような過激な意見を言うことが目的だと取られかねないわけである。

こうした倒錯が起こるのは日本人がそもそも分析を重んじないからだろう。このため専門知識が重んじられることはなかった。こうした人たちがかろうじて活躍できたのは「テレビのショー」のような世界だった。朝まで生テレビ!のような番組である。前進は本を売るために始まった文壇の内輪揉めではないかと考えられる。つまり、言論はプロレスなのである。

言論プロレスの世界に足を踏み入れると現実世界から排除されるという時代が長かった。普通の人は情報発信しないという世界だ。日本人は党派性を生きているので個人が意見を持ってはいけないのである。言論プロレス家はここから踏み出してしまった人なので、意見を表明することは刺青のようなスティグマになってしまう。例えば学者がテレビに出ると出世ができなくなるというような風潮も見られたようだ。

意見を発信することは「超人になる」ということであり、これは先日観察したテレビドラマの構造にもみられた。組織内での出世を捨て、人間としての感情を抑圧しなければならないという思い込みである。

この「超人論」の怖いところは、カタギでなくなるということがそのまま反社会性と結びつきがちなことである。YouTuberがなぜ「おでんを手で突いたり」「チェーンソーを持ってヤマト運輸を襲撃するのか」というのが疑問だったのだが、警察力を気にしない超人になろうとしているのだと考えると整合する。ネットで目立つというのは、テレビ討論会で目立つのと同じことであり、そのためには殴り合いに発展してもよいという理屈である。

和田さんの頭の中にある「反論されてこそ、その意見には意味がある」というのは、テレビで目立てなければ存在する意味がないというのと同義なのではないかと考えられる。これは社会を逸脱する覚悟があるのかと迫っていることになり、却ってシニア層の健全なフィードバックを妨げてしまうのである。日本にはそれくらいまともな言論というものがないのである。

 

超人になるべきというテレビドラマの洗脳

アドラー心理学がちょっとしたブームになったせいで、フジテレビが「嫌われる勇気」を下敷きにした刑事ドラマをはじめたようだ。番宣だけを見たがドラマはみる気にはならなかった。つくづく不思議な捉え方だなあと思ったからだ。そもそも、なぜアドラー心理学を実践すると他人に嫌われるのかがよくわからない。

アドラー心理学は課題と心情を分離する点に特徴があると思う。ただそれだけである。人々は他人に期待を持っており、それが裏切られると腹が立つ。だから、それを切り離してしまえば、余計な葛藤はなくなる。

ところが、ドラマの主人公は「感情がない」人ということになっている。代わりに与えられるのが「感情を度外視して問題解決に邁進する」というキャラクターだ。テレビにはこうしたステレオタイピングが多い。杉下右京は並外れた知能を持っており、代わりに組織内での出世が見込めないことになっている。大門未知子は天才的な外科医だが、フリーランスであり組織で出世できない。二人とも組織から「嫌われている」。

確かに課題を切り離すことで問題解決がしやすくなる。しかし、日本場合はそれだけではダメで、代わりに何かを差し出さなければならないことになっている。つまり社会的な制裁を受けるのである。これはスティグマのようなもので、例えて言えば「刺青」をして二度とカタギの世界には戻れませんよという宣言になってしまう。それでも生きてゆくためには並外れた技術が必要だということになる。

組織というのは社会的に容認された自発的な奴隷制度のようなものだ。問題解決をしない代わりに庇い合いをすることになっているが、主に庇われるのは上の方にいる人たちである。底辺の人たちは搾取されるだけということになる。底辺にいる人たちは、そもそも組織に参加しないかあまり組織に貢献しないのが合理的な選択肢ということになる。すると組織は持たなくなるので「感情から解放されて自由になってもいいですよ」と宣言した上で、2つの条件をつきつける。豊かな才能があり、なおかつ組織内での出世を諦めるべきだというわけだ。すると「さして才能もない」と感じている人たちは組織に貢献することを選ぶわけである。つまり、意図しているかどうかは別にして、テレビドラマのプロパガンダは悪質な洗脳なのだ。

この弊害は大きい。テレビでは「やらさせていただいている」という言葉が横行している。これは他人のおかげで仕事が与えられているという謙譲表現であっても、結果には責任を負わないということだ。それは「させられているだけ」であり本人の意思ではないからである。誰も責任を持たないので結果失敗すると「仕方がなかった」ということになる。第二次世界大戦は「天皇のために戦わさせていただいている」戦争だったのだが、結果誰も責任を取らなかった。もとともは内向きな政治家の無力と軍部のマネジメントの失敗を隠蔽するために、なし崩し的に戦線が拡大して行っただけなので、出口戦略がなかった。結局、誰かを犠牲にしないと成り立たなくなってしまったのである。犠牲になったのは飢えて死んだ兵士、捨て石にされた沖縄、空襲された都市の住民、最後に広島と長崎だった。

この洗脳から抜け出すためにはどうすればいいのだろうか。それに気がつくためには、組織がそれほどあなたに関心がないということを知ることが重要である。だが、所詮他人のことはわからない。そこで、あなたが他人にどれほど関心を持っているかを考えてみると良いと思う。

さして他人に興味を持っていないだろうし、他の人のために何かしたいなどとは考えていないはずだ。次に考えるべきことは、あなたに並々ならなぬ関心を持っている人を探すことだ。騙そうとして狙っている、自分の善意をデモンストレートする対象として利用しようとしている、凭れかかるためにあなたのことを知りたがるかのどれかではないだろうか。

そもそも誰も他人の話など聞いておらず自分の主張を叫んでいるだけなのに(つまり社会はTwitter状態なのだ)その集積である組織があなたに何をしてくれるというのだろう。そこから抜け出すのに何も感情を抑圧する必要などないということが簡単にわかるのではないだろうか。

 

ジャーナリズムの役割を放棄しつつある日本の新聞社

安倍首相がフィリピンのドゥテルテ大統領と会談し1兆円の「資金援助」を決めたそうだ。このニュースを見ていて、日本の新聞社はもうジャーナリズムの役割を放棄しつつあるのだなあと思った。

このニュースでは以下のようなことが伝えられている。例として日経新聞を読んだ。

  • 安倍首相がドゥテルテ大統領と会談。
  • 政府開発援助(ODA)や民間投資をあわせて今後5年間で1兆円規模を支援することを約束。
  • インフラ投資を効率よく進めるため、両国の関係省庁幹部からなる会議体も新設する。
  • この動きはフィリピンに接近しつつある中国を牽制するためのものだ。

さて、この記事に欠けている情報は何だろうか。産経新聞を読むとちょっとわかってくる。産経新聞はこれを「投資」と言っている。「投資を通じて支援する」ということで、政府援助が無償供与ではなく「借款(国と国の間の貸し借りを特別にこう呼ぶそうだ)」らしいことがわかる。一方、何かにつけ政府にたてついているように見える朝日新聞の記事はどうかと思って見てみると、こちらも書いてあることは大同小異だった。人道支援にあたる麻薬対策に触れている。

このことから「大人たち」は支援と称してひも付のお金を渡して、日本のインフラを輸出しようとしているということがわかる。それを期待しているからこそ「支援・投資」がごっちゃになっていてもさほど気にならないのだろう。一方、サヨクの人たちはこれがわからないので「一兆円あるなら国内の貧困家庭を支援しろ」などというわけである。

実際にはODAは無償援助と優勝支援を含むそうだ。この割合がどのようなものになるのかはよくわからない。各社の報道には何も書いていないからである。

だが、ODAには問題が多いと指摘する人は多い。大きなお金が動く割には監視がほとんどないからである。第一に現地の国民の監視だ。有償援助は自動的に援助国への負債になる。これを返すのは国民なのだが、税による支出ではないために現地政府が利権を独占してしまうことがある。つまり、多くの国民は「利益が得られないのに借金だけ負わされる」場合があるのだそうだ。

安倍首相が勝手に「お金をばら撒ける」のはこれが国会の監視を受けないからである。ODAは特別会計からの支出も多く国会の承認が必要ない場合が多いのだそうだ。商売がわからない役人が現地政府の言うがままに投資を決めるために、現地に必要のないインフラができたり、そのまま焦げ付いてしまうこともあるということになる。これを批判するためには常にODAの動きを観察しておかなければならない。それは面倒なので新聞社はその役割を放棄しているのだろう。

新聞社は野党が何か攻撃すればそれをニュースとして伝えはするのだが、自らの問題意識で検証することはない。それは日本人が納税者意識をあまり持っていないからだろう。政府の金は「他人の金」という意識が強いのだ。

援助してくれる国に最大のヨイショをするのは当たり前のことだ。だが、その約束を後生大事に守らなければならないということにはならない。日本政府は「慰安婦像を撤去するように努力する」という甘い約束を反故にされたばかりだ。一方で「北方領土交渉をして欲しかったら誠意を見せろや」というプーチン大統領に妥協してしまった。これくらい外交が下手な国を手玉に取ることなど簡単だろう。相手先が日本の国益に沿う動きをとっているかも監視する必要があるのだが、日本の新聞社がそんな面倒なことをするとは思えない。

一方で「官民合わせて」という点も曲者である。おそらく内訳が決まっていないのではないかとお思えるのだが、よくわからない。最近はオリンピックの予算で揉めている。都が負担できないものは国が出すと言っていたのだが、実際には他の県に請求書を回そうとした。口約束が横行する世界であり、民間企業が約束を履行するとは思えない。そもそも国は企業に投資を「命令」することはできない。

ODAは官邸が勝手に決めることができる予算なので利権の源泉になりやすい。かつてはアメリカが共産化を防ぐために日本に援助をしてきたという歴史がある。冷戦構造がなくなっても中国の脅威を煽る必要があるのは、企業と政党のお金儲けのためにそれが便利だからなのだろう。新聞社はわかっていてそれを追認しているのだ。

 

小川氏対西日本新聞の不毛な議論

先日、小川和久氏がツイッターで「西日本新聞は俺が言ってもいないことを書いている」という趣旨の発言をしたのを見つけた。西日本新聞社の記事はこちら。不毛な議論だなと思った。その不毛さの裏にあるのは「〜べき」という思い込みから脱却できない老人たちの悲哀だ。

小川氏は壊れたテープレコーダーのように「日米同盟は役に立っていて、日本は他の同盟国よりも格上である」という主張を繰り返している。これは朝鮮が自分たちは「小中華である」と考えていたのに似ている。実際には単なる属国なのだが、そう思いたくないので、自尊心を満たすために自らについた嘘である。嘘の裏には大きな国の一部にもなれないし、かといって独立もできないという中途半端な状況がある。

西日本新聞が小川氏と支持者の自尊心を満たすためには、小川氏の主張をそのまま載せるしかない。しかしそれは嘘であり、実際には米軍は日本政府や国民の心情を忖度するはずはないから、嘘という以上の情報価値を持たない。その上西日本新聞は明らかにオスプレイの事故には批判的である。

日本政府は米軍からは間接統治者としての役割しか期待されていない。米軍はローカルな人たちの心情がよくわからないので「なだめ役」として日本政府を使っているのである。それを踏まえて小川氏が言ったとされる主張を見てみよう。

軍事アナリストの小川和久静岡県立大特任教授は、国民から反発の声が上がっても「それは日本政府の声ではない。米軍は作戦行動に関して、そもそも日本の政治家や官僚の言葉は聞かない」と言い切る。

西日本新聞の記者は明らかに三流だったようだ。現実に即したとすればそもそも日本政府は米軍に声を上げることなど期待されていない。日本人の税金を米軍に吸い上げて上納し、それについて反発が起こらないように「なんとかする」ために雇われているだけだからだ。だから、小川氏がこんなことを言うはずはないのである。これは記者の思い込みだろう。記者が「日本政府は国民のエージェントとして米国に対峙すべきだ」と思い込んでいるのである。

詳しく記事を見て行くと短い記事の中に「〜か」という疑問形が二回見える。つまりこれが情報(ニュース)なのか、論評なのかということがよくわからない。もし意見ならそもそも敵対する識者の意見など聞く必要はなく、聞かなければ自分の意見に合わせて識者の発言を歪曲する必要はない。

日本人が意見を嫌うのは、世論というものを信じているからだろう。自分たちは公平で正しく、相手は偏っていて間違っていると考えたがるのだ。そこで意見記事でも「公平さ」を偽装して、双方の意見を聞いてしまうのだろう。

しかし、西日本新聞はそもそも「新聞」としての役割は期待されていないのではないだろうか。地域情報の伝え手としては信頼されているはずだが、全国ニュースは通信社に頼るのが一般的だ。しかし、地域で「ジャーナリストごっこ」をしているうちに、それでは満足できなくなってしまったのかもしれない。いずれにせよ「西日本新聞はジャーナリズムであるべきだ」という思い込みから脱却できないのだろう。かといって世論に影響を与えるという怖い体験をしてこなかったので、ジャーナリストとしての教育も受けられなかったのかもしれない。

議論自体は極めて不毛で、このことからわかることは1つしかない。日米同盟を巡る意見は抜き差しならないほどに二分されていてもはや話し合いができるほどには統合できないということである。それを推進したのは安倍政権だが、トランプ政権がどこまで状態を悪化させるのかということはまだわからない。

そもそも「日本国が軍事的に独立していて米軍の意思決定に影響を与えうる」というのは嘘なので、何かいえばいうほど亀裂は深まってゆく。本当にジャーナリストという人がいるなら、この亀裂をありのままに見つめるところから始めなければならないのではないだろうか。

成長の限界を唄う朝日新聞の限界

Twitterで、朝日新聞の「成長の限界」がひどいという話を聞いたので読んでみた。ちょっと驚いたのは朝日新聞の読者は金を払ってあんなブログ並みのエッセイを読まされるのかという驚きだった。思索がまとまらない様はこのブログに似ていて親近感を覚えたほどだ。

あのエッセイにはどんな問題があるだろうか。

第一に、原真人さんが成長に限界を感じるのは無理からぬことである。成長の反対は安定だ。経済的には生産構造が安定していることを意味する。職人は一度覚えた技能に一生依存することができ、地域の米の収量は決まっているので税収も安定しているという世界だ。つまり、それは封建制だということになる。

朝日新聞社は既得権がある。政府からの情報を一番に取ることができる地位を有しており、編集委員の原さんはその頂点に立っている。情弱な読者を相手にするために政府に反対するようなことを言っているが、それは単なるポーズだということを知っている人も多くいる。政府が「けしからんこと」をやってくれるおかげで朝日新聞は毎月庶民からお金をむしり取ることができる。そして、それを届けるのは多分一生結婚できないくらいの低賃金で働く人たちだ。

そもそも、そんな原さんが成長を志向する理由はない。

成長を志向するのは既得権からは利益を得られない人たちである。成長は破壊を伴うので既得権を持っていない人にもチャンスがある。こうした破壊行為は「創造的破壊」と呼ばれている。今持っていない人たちが頑張ることで、より効率的な製品やサービスが作られるのが「成長」である。

これは朝日新聞にとって良いことではない。無料で情報が取れてそれをユーザーが並べ替えたりできる時代に、新聞配達員の低賃金に依存する情報伝達方式は、手紙があるのに狼煙で情報を伝えるようなものである。つまり新聞はネットニュースにさっさと取って代わられるべきなのだ。それが起こらないのは、国民が政府発信の情報を信用しているからだ。

ここまで考えてくるとあの出来の悪いエッセイのもう一つの問題が見えてくる。ちょっと読むと、成長を「GDPが膨らむこと」だとしている。そこからGDPの歴史に話が及んでおり、中央銀行がどうしたとか戦費調達がどうとかいう話に結びつき迷走する。

既得権がある人が考えると「俺がいい思いをしているのに破壊してまで成長しなければならないのはなぜなのだろうか」ということになりがちだ。さらに政府は「成長ってGDPをあげることなんでしょ?え、違うの」というような脆弱な経済感を持っており、それを聞きかじって右から左に流す新聞社もそれを間に受けている。

現在の経済の問題は、成長=お金の流通量が増えることという認識の元に実際のモノやサービスの交換を伴わない金融ばかりが膨らんでゆくという点にある。費用の調達にはコストがあるはずなのだが、それが無効化したために、実体経済の成長なしに金融世界だけが膨らんでゆくのだ。GDPは金融によって生み出される価値を含んでいるので、そもそも「豊かさ」を図る指標ではなくなりつつある。

しかし、それは割と明確なことであり、今さらドヤ顔で語るような筋の話ではない。本来のクオリティペーパーは、明確ではあるが仮説に過ぎない仮説を問題意識を持ちつつ粘り強く検証するべきなのだが、政府から情報を調達してきて情弱な読者を騙すことで日銭が稼げてしまうと、そういう意欲もなくなってしまうのだろう。