論破は簡単で「だったらそんな契約は願い下げだ!」と一括してやればいい。今回はなぜこの論破が成り立つのかを言葉の元々の意味から掘り下げてゆく。
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元々社会契約説の言葉だったが日本では誤認されている
Twitterを見ていたら面白い議論があった。権利には義務が伴うというのは嘘っぱちなのでそんな人のいうことは聞かなくても良いというのである。
結論だけを知りたい人に短く答えると次のようになる。
- 社会や国家が契約に依って成り立っている場合にのみ「権利には義務が伴う」という言い方はできる。
これはもともと契約による国家という新しい概念を説明するための言葉だったが最近では他人の権利を侵害して義務だけを背負わせることができるという謎理論が生まれた。これは間違っているのでスルーしても構わない。それでもしつこく食い下がってくる人には「だったら革命を肯定するんですね?」と聞き返せばいい。それが歴史的な経緯だからである。
社会契約説は契約解除(革命)の権利を含む
さらにそれも面倒で覚えられないという人は、権利には義務が伴うが、気に入らなければ政府は打倒してもいいという前提があるといえば良い。つまり「お前、覚悟はあるの?」ということになる。
過激な考えだと思われるかもしれないが、訪問販売詐欺にあったらクーリングオフ制度を使ってキャンセルするのが常識なのだから、選挙も売買契約が成立したら「あとは何をしてもよい」ということにならないのは当たり前である。
厳密に言えば、もともと万人闘争状態を逃れるため国家という権力を絶対視する流れがあり(ホッブスのリバイアサン)これに抵抗する形で社会契約説が登場したと整理することができるだろう。
日本にこの概念を持ち込んだのは中江兆民
この概念を日本に持ち込んだのが中江兆民だ。中江兆民にはいくつかの狙いがあったものと考えられる。
- 天皇主権が強化されてゆく中で自由民権運動を盛り上げる必要があったが、単なる暴動とは距離を置く必要があった
- 日本の政治風土に折り合わせようとした
- 同時にルソーやフランスの民主主義の概念をできるだけ正確に日本に伝えたかった。
中江兆民の民約論について研究したPDFには次のようなが説明がある。少し長いが引用する。
ルソーの社会契約説は、人間社会の構成原理を解き明かしたものだから、きわめて複雑 な構成と豊富な内容をもっている。しかし本稿との関連においてその骨幹を提示するなら、 それは以下の三点であると思う。
①人類の歴史は、共同の力を発揮できる新しい結合形式(社会契約)をみつけだすことによって自然状態から社会状態へと移行したこと。 ②社会の平等な構成員はみずからの自由を確保したままで市民として「一般意志」 (volonté générale)を策定し(主権者として「法」を制定し)、かつそれに服従せね ばならないこと。 ③社会の平等な構成員として政治的(市民的)自由を保障された人間は、真に自らを 主人たらしめる「道徳的自由」(liberté morale)を体現せねばならないこと。
①は人間社会の形成史にたいする重要な新視角であり、人民主権論の論理的前提である。 全能の神による天地創造説が常識だったのだから、これは冒頭で述べられ、随所でくりか えし説かれる。②は本書の根幹をなす社会の成員相互の契約関係であって、全構成員が主 権者として法を制定するとともに個人としてそれにしたがう義務をもつという「二重の関 係」がいろいろな角度から丁寧に説明されている。③は実際には考察の対象としないこと を第一編第八章末でことわっているのだが、社会契約に対応的な市民精神をあえて提示し ているのである。
中江兆民は社会という概念がなかった一般的でなかった時代に「民」という概念を使って社会と法治主義国家の理念を説明しようとした人である。天皇が臣民に国家を与えるという従来の考え方を否定して、国家というものは国と国民の間の契約であるという概念を広めようとしたことになる。
同じことはフランス革命期のフランスでも起きている。
フランスの運動は明治大学や法政大学の法学部の基礎を作った
日本では、フランスから輸入されたこの考えが自由民権運動や一部の大学の基礎になっている。法政大学と明治大学はフランス法を学んだ人たちによって作られた。一方で国家神道的な系統から出てきたのが今問題を起こしている日本大学だ。
フランス式の法概念では、主権者は主体的な契約に基づいて国家の運営に参加することになっている。主体的な契約があるということは、政治家も有権者も契約について熟知しておりまたそのプロセスも透明化されているということになる。だから民主主義には説明責任がある。
国家と国民の間には契約があるのだから、社会の害悪になる不当な権力には従わなくても構わないし、それを打倒する権利もあると議論が発展させられる。ヨーロッパでは抵抗権として知られる考え方である。
義務論(Deontological ethics)というアプローチ
ただしこれとは違う考え方もある
それがカントが主張する「義務論(Deontological ethics)」というジャンルである。単に権利を主張するだけでなく、義務を負うことが善行(人としての善いあり方)であるとする。
さてどちらが「正しい哲学なのだろうか」などと思えてくる。そこでBBCのページをよく見ると「義務論の良い点と悪い点」が書いてある。内心に着目すると結果についての責任は追わなくて済むので、悪い結果が出ても気にしなくなる。また絶対的なルールを設定するので硬直的になりがちだという記述もあった。どちらが「正解」ということはなく、目的に応じて使い分けるべきだという理解があるようだ。
義務論には大陸型とアングロサクソン・アメリカ型がある
ここまで見てきて「この議論は前にも見たことがあるぞ」と思った。一昔前にNHKきっかけで流行したマイケル・サンデルの白熱教室だ。改めて、サンデルのWikipediaの項目を読むと「共通善を強調する」と書いてある。つまり、サンデルは功利主義者ではなく義務論の人なのだが、授業ではどちらも教えている。
なおカントは義務を純粋に理念的なものと捉える(無負荷)がサンデルは人間は生まれながらに共同体に対する義務を負っている(負荷)と考えるそうだ。フランスの共同体は自然なものだがアメリカは伝統的な共同体から一度切り離された移民の国である。それだけに共同体の対する感度はアメリカ人のほうが強いのかもしれない。
ここまで見てみると、哲学の「義務」の意味が見えてくる。義務は誰かから背負わされるものではなく自ら進んで選び取り遂行するものを指すのだ。このような装置を置いたほうが社会が円滑に運営できる(結果に着目)し、より多くの人が善を追求できる(内心に着目)からである。
では日本はどうなのか?
私を含めた多くの日本人は義務と権利を、なにか「税金と公共サービス」という概念で捉えているのではないかと思う。税金はなんだかよくわからないが取られるものであり、水、空気、安全は「本来で気に無料であるべき」という考え方。なんらかの義務を支払うことで公益サービスを受ける権利を買っているとは考えるがその背後のメカニズムにはあまり関心がない。
ただし、我々が暮らす集団は抜け出すこともできなければ選ぶこともできない。その重苦しさが言語化されたのが「同調圧力」だ。
日本の社会では伝統的共同体の中で義務が所与のものとして個人のアイデンティティに溶け込んでいるため、「権利には義務が伴う」という哲学的な原則が、権利を要求する個人を集団の規範に引き戻し、要求を抑制するための「集団的な圧力」として機能しやすかった。
日本型「権利と義務」の特性
日本の社会構造における「権利には義務を伴う」という表現は、西洋の社会契約説や義務論とは異なる機能を持っている。これはアメリカよりもフランス型の「所与の集団」に近いのだが、そもそも文書化・契約化する文化もなかった。
暗黙の規範と義務の所与性
日本の伝統的な共同体文化は、明示的な契約の代わりに、「和」を最上の価値とする暗黙の規範によって維持されてきた。このため、義務は個人が理性で選び取る対価ではなく、共同体に属する者が既に負っている「漠然とした所与の前提」と見なされる。
権利要求の「わがまま」化
個人が憲法上の権利を主張することは、暗黙の秩序(義務)を破り、集団内に軋轢(対立)を生み出す行為として受け取られがち。権利の主張は「利己的なわがまま」として否定的に評価される。
集団的圧力としての機能
その結果、「権利には義務を伴う」という言葉は、「まず共同体への貢献という所与の義務を果たせ」「集団の調和を乱すな」という、権利要求者を黙らせるための集団的な同調圧力として機能している。
働いていない人(杉田水脈流にいうと「生産性の低い人」)は対価を支払っていないのだから、公共サービスを受ける権利がないのだという理解が成り立ちうることがわかる。
今から考えると「焦り」だった稲田朋美発言
しかしこの考え方は現代特有の事情で機能しなくなりつつある。そもそも所与だった共同体が溶けつつある「少子高齢社会」に入っているからだ。
これを稲田朋美を例にあげて説明してみよう。稲田朋美氏は「女性自身」のインタビューの中で「18歳になった男女は自民党に体験入学すべき」と主張し「ゆくゆくは徴兵制を狙っているのではないか」などと疑われた。
- そもそも当たり前だった共同体が溶け始めた
- それに代わる調整機能が作られなかった
- 結果的に調整コストが指数関数的にかさみ、それを抑制するために「権利を主張するな」ということになり「権利には義務が伴う」という民権運動の主張が誤用された
- 結果的に権利が得られないのだから義務を負ってもいいと考える人が減った
結果的に誰もコストを支払わない「縮小均衡社会」が作られた
「権利には義務が伴う」として権利抑制している時代はまだ良かった。しかしその後日本社会は誰も権利が主張できないから義務やコストを負いたくないという社会になった。だれも「持ち出し」をしないのだから当然どんどん共同体は削られてゆく。
結果的にこの議論から7年経ち自民党・公明党は衆議院と参議院でそれぞれ過半数を割り込んでいる。稲田朋美氏ら自民党の議員たちは「どれくらいの対価を支払えば政権を買えるのだろうか?」と国民に取引を求めているのだが、そもそもその取引が成り立たない。我々はあまりにも長い時間お互いの「権利」を論破によりつぶしてきたのだった。
このメカニズムをいつまでも隠し通すことはできない
自民党の主張は、かつてカトリック教会が「神の意志はラテン語で書かれており庶民には理解できない」といったのと似ている。カトリック教会はこのロジックを使い「免罪符を買えば罪は洗い清められる」と主張し神の意志を私物化した。しかし、ヨーロッパの人たちは「神の意志は個人の中にも存在し、従って「私たち」の言葉でも理解し得る」と考え方を改めるまではカトリックの権威に対抗できなかった。その意味では日本の政治状況は中世と同じなのかもしれない。
ただしこの議論を「嘆き」で終わらせる必要もない
しかしながらよく考えてみるとこの議論を嘆きで終わらせる必要はない。起点は所与の共同体の崩壊とそれに伴う権利調整システムの崩壊だった。社会が利害調整できなくなると調整コストは指数関数的に上がってゆくため「権利を主張する前に義務を果たせ」と論破して抑え込むしかなかった。
つまり「なんらかの形」で利害調整メカニズムを再構築できさえすれば私たちはこの迷宮から逃れることができるのである。我々に必要なのはちょっとした勇気と知恵なのだ。