個人の自立心が日本を強くするか?

起業家を支援するグロービスの堀さんが個人の自立心が日本を強くすると言っている。これについて考えてみたい。
まず「個人の自立心が大切だ」というステートメントだが、これは正当化できるように思える。経済が流動化しつつあり、自分の核をもっていないと状況に流されてしまう。情報が氾濫しているのもその一つのあらわれだ。「私の問題意識」を核に持っていないと、情報に押し流されることになるだろう。問題はそれをどうやって実現してゆくかということだ。
先日チリで地震が起きた。地震そのものの被害よりも二次災害の方が悲惨だったようだ。一つは地震の後に起こった津波だった。警戒システムが網羅されていなかったことで情報が行き渡らなかったようだ。次の災害は暴動と略奪だ。略奪に参加したのは荒くれ者ばかりではない。普通の市民に見えるひとたちも参加している。支援食料が届かないのだ。略奪は犯罪だが、飢えるヒトが目の前の食料をあさるのを責める気持ちにはなれない。今朝のNHKのニュースでは、最近の急成長の影響で貧富の格差が増大しており、この不満が爆発したのかもしれないという観測を伝えている。
阪神淡路大震災の時、こうした略奪は行なわれなかったといわれている。コミュニティの力が大きかったようだ。国の援助システムもチリよりは格段に整備されていたからかもしれない。
ホフステードの指標で日本とチリを比てみる。チリはラテンアメリカ諸国に一般的な傾向を持っている。集団性とUAI(リスク回避傾向)が高い。集団性が高いのは「日本と同じではないか」と思われるかもしれないが、日本の集団性は東アジアの他の国やラテンアメリカ諸国よりは低い。こうした国から見ると日本は「まだ」個人主義の国ということになる。PDIが高いので「ボスのいうことはなにがなんでも聞かなければならない」という傾向があり、男性化傾向は低い。(多文化世界―違いを学び共存への道を探るを参照のこと)
日本人が個人主義傾向の低い国(例えば中国など)の人たちを見ると「わがままだ」と感じることがある。集団主義が家族を核としているためだ。だからいざというときには地域社会や国家といった共同体的なコミュニティではなく、家族や地域のようなコミュニティに助けを求めるし、家族を防衛するために動くわけだ。日本が疑似家族としての会社や国家に対して忠誠心を感じるのに比べて、こうした国では家族が生き残ることの方が優先順位が高いといえる。同じような集団主義でも日本の集団主義は抽象度が高い。血族は取り替えが利かないのだが、日本人の集団は個人が選択する余地がある。
この特質の違いが防衛システムにもあらわれている。日本人は地域社会が協力しあって安定化をはかることにより震災後の混乱を防衛した。一方、チリは家族のような小さな集団を守るために平常時は反社会的と言われる略奪を行なってでも自己防衛を図っているのである。
さて、堀さんの議論に戻ろう。この議論には2つの面白いミックスが見られる。一つは「個人が自立しなければならない」というステートメントなのだが、注意深く読んでみると「個人の活力が結果的に集団としての日本の強さを生み出す」という別のメッセージが隠れている。堀さんは西洋的なコンテクストで教育された方なのだろうから、個人の活動が結果的に集団の活力を生み出すという考えには違和感を持たないだろう。アダム・スミスも同じようなことを言っている。個人のばらばらの経済活動が国家を強くするみたいなことで、国家が丸抱えで競争する重商主義を捨てて自由主義経済が生まれたわけだ。
しかし、これが日本のコンテクストに取り入れられると、おかしなことが起こる。それは日本人がこのステートメントを「みんなで一緒に自立心を持ちましょう」というように受け取る可能性があるからだ。これは集団主義的な考え方だ。
今朝のNHKニュースで面白い特集をやっていた。私らしさを表現するために15秒のコマーシャルを作りましょうというのだ。広告代理店と大学が共同でカリキュラムを作ったらしい。まず「私のいいところ」を100以上みつけ、そこからメッセージを作り上げてゆく。最終的にこれを発表させていた。簡単に100個見つけられる子もいれば、まったく思いつかない子もいる。先生がやっとの思いで1つのよいところ「7か月目から水泳をやっている」を選んだ子どもを見て「水泳みんなやってるよ。もうちょっと考えてみようよ…」みたいなことを言っていた。
自尊心が生まれるのは、自分の特質について「心からよい」と思えるからだ。怒られながら無理矢理見つけるものではない。この先生にしても「それはすごいねえ、どうしてそんなに続けられるのか教えてよ」くらい言えばよさそうなものだ。そしてそれを機械的に15秒のコマーシャルに落としてゆく。メッセージは瞬間的なものだから「キャラ」が立っていているものがクラスで承認されて終わりになることになるだろう。
自尊心がこうした機械的な作業から生まれるものかね、とも思うが、これが工業主義的な国の自尊心の育て方なのかもしれない。もしかしたら他のヒトが「ガンコ」と思っている特質が、本当のそのひとらしさであり美点なのかもしれない。しかし、先生が「ガンコはいいことじゃないよ」と指導してしまえば、それがそのヒトに刷り込まれることもあるだろう。
ここで起こっているのは、大げさに言えば「個人主義」と「集団主義」の対立だ。自尊心が自立心につながるわけだから、ここで「先生に受けそうなキャラを出しておこう」と考えると、結局自立心が育たないということになってしまう。
さて、ここまで書いて来て、じゃあいったい何が処方箋になるのか?と思われる方もいるかもしれない。
まず第一に、西洋的な社会に触れて「個人主義」の洗礼をうけた人たちがいる。この人たちを邪魔しないようにしなければならない。現実的にはかなり難しい。たとえば、國母選手は早くからプロになり、スノーボードのコミュニティでの交流も活発なようだ。こういうヒトが個人主義の社会で当たり前のようにやっていることを集団主義の社会で行なうと、おおいに叩かれることになる。どうも匿名でならいくら叩いてもいいと思うのは若い人たちの特質ではないらしい。我々の社会がもとから持っている特質が引き継がれているだけのようだ。根強い集団主義的な表現の仕方だ。
次に重要なのは、集団主義的な特質を闇雲に否定しないことだろう。NHKのCMの授業で見たように、社会は見た事がないものを再生することはできないのだ。これは社会には再生産の機能があるからで、故に一度獲得した文化は長い間大きく変わることがない。そもそも「みんなで一緒に変わりましょう」というのは個人主義ではない。また、セルフプロモーションはキャラ作りではない。自分の特質や得意なことを使って世の中に貢献するための作業だ。結局個人主義といってもそれは社会との関わりの中で作られてゆくべきだ。
日本のネット環境は「匿名性が高い」と言われて来た。アメリカでは、まず個人の発言が立ち上がり、それが社会的な影響力を持つようになった歴史がある。しかし、日本では別の歴史をたどりそうだ。まず個人のつぶやきとして始まり、それが匿名化した勢力になる。今はある程度「世論」としてのプレゼンスを持ちつつあり、社会にプレッシャーを与えるところまで来ている。この後どうなるかはわからないのだが、ここから次第に自尊心が育てばよいのではないかと思える。
ただし、これは我々一人ひとりが変わらなくてもいいという主張ではない。経済的な変化が大きくなると、一つの集団がその人の一生の面倒を見ることはできなくなるだろうからだ。しかしそのためには、我々の社会がどんな性質を持っていて、それがどのような機能を果たして来たのかを改めて見つめ直してみる必要がある。それができてはじめて自尊心が生まれる。自分がよいと思っているサービスが世の中に広まれば結果的に多くのイノベーターや起業家を生み出し、日本を成長させる原動力として作用するだろう。

社会脳

よく、人間は社会的動物だと言われることがある。そして日本人は集団主義でアメリカ人は個人主義者だというような言い方もする。しかし、実際のところそれがどういうことなのかよく分からない。実際のところ、日本人もアメリカ人も集団から影響を受けている。そして脳にはこの「社会性」を処理する回路があるのだそうだ。これを社会脳というらしい。
別に小脳や前頭前野というような特定の器官が存在する訳ではない。群れを維持するのに必要な回路をありものの脳神経から改良してきたのだそうだ。大抵の脳の回路は自分自身の体から出るさまざまな変化をフィードバックしている。しかし、ミラーニューロンのような回路は相手の変化を受けて反応する。SQ生きかたの知能指数は、この社会脳にについて書かれている。
ソーシャル・ネットワークを研究する上で「ソーシャル」とは何なのかということを理解することは重要だと思う。それは意識的な活動というよりは、無意識の活動のようだ。なぜかこの人が好きだとか、なんとなく好きになれないと感じることがある。このように感じるのは社会性に関する認知の一部が、意識よりも早い速度で処理されてしまうかららしい。この本はこれを「表」と「裏」と呼んでいる。
信頼と不信の回路も異なったところにある。好きかどうかということを決めるのは表の通路のシゴトなのだが、嫌いかどうかを決めるのは扁桃体のシゴトだ。だから「なんだかわからないが、生理的にダメ」ということが起こりうる。この男性は「車を持っていて、日曜日に楽しいデートをさせてくれるから好き」と考えるのは、表の通路のシゴトだ。しかし、車の中のふとした仕草で「もうこの男性はありえない」と考えることもある。それは昔父親から受けた虐待を扁桃体が恐怖として覚えているからかもしれない。しかし車の中で突然パニックを起こして逃げ出さないのは、扁桃体の信号が前頭前野で抑制されているからである。
ミラーニューロンが作り出す働きを「共感」という。社会化の能力は2つの異なる能力からできている。一つは相手の表情を読み取る能力。もう一つはそれに対応して適切な行動をする力だ。アスペルガーの人たちは、相手の表情やちょっとした皮肉などを読み取る事が苦手だ。一方、昔サイコパスと呼ばれた反社会的行動を起こす人たちは、こんなことをしたら相手が傷つくだろうと想像したり、自分が嫌われてしまうのではないかということを理解したりすることができない。
スポーツ選手を見ると、自分まで活躍している気分になったりする。これは共感が働いているからだ。映画スターを見て、主人公と同じ気分になることもある。このように「正常」な状態では、自分の感情と相手の感情を区別することはできないし、映画スターが演じる人物のように「現実」と「仮想」の意識もできない。しかし、一方で自分はスポーツ選手ではないのだとか、これは映画であって現実の出来事ではないのだと理解することはできる。このように意識と無意識がアクセルとブレーキのような働きをしている。
ヒトから拒絶されるとたいへん傷つく。社会的な拒絶は肉体を傷づけられたのと同じ場所で処理されるのだそうだ。傷つけられるのは嫌なので、こうしたつながりを回避するようになる場合がある。「無視する」ことも「殴る」ことも同じようないじめになるということが分かるだろう。

オンラインメディアに関する捕捉

バーチャルな体験に関する記述にはいくつかのものがある。「現実」と「仮想」の区別ができないという点が一つ。そして、お互いに離れた場所にいる人たちの間では、どうしても「抑制」機能が働かなくなることがあるそうだ。メールのやり取りがエスカレートしたり、掲示板が炎上したりするのは、怒りに任せて書き込みをしても、読み手は書き手が怒っていることに気がつかないからだろう。一方書き手の側も怒ってキーボードを叩いているうちにどんどん怒りがこみ上げて来て(これは社会脳の働きではなく、自分の頭の中のフィードバックだ)さらに怒りのコメントを書き込むことになる。
文字だけでリアルタイムのコミュニケーションができるインターネットは人類にとっては新しい経験だ。手紙の場合にはやり取りに一定の時間がかかるので、その間に冷静になることができる。これで表と裏の時間差が調整できるわけだ。しかし、インターネット上のコミュニケーションではこの時間差を埋める前にやり取りが完了してしまう。ヒトがこのようなメディアにどう対応してゆくのかは分からないが、これに適応するような社会性が必要になるのではないかと思われる。もちろん、インターネットに接するのは、実生活の社会生活を経験した後になるはずなので、実生活での社会性の不安定さはそのままインターネットの世界にも持ち込まれるだろう。
何回か主張しているように、ネットによってコミュニケーション能力に不具合が生じるわけではない。しかし、社会やヒトが持っていた社会性の不安定な要素は、ネットにも持ち込まれて拡大することもあり得るのではないかと思われる。
例えば、対人関係に不安を抱えている子どもが携帯メールを手にする。即座に返事が来ないことを「拒絶」だと感じることはあり得るだろう。「相手が拒絶されている」ことを想像して、メールが来たらすぐに返事を出さないと不安になるということも十分に起こりえる。その子がやがてTwitterに手を出して、いつ自分に通信が入ってくるか分からないから、パソコンの前から離れられないとなると、これは問題だ。社会生活が健全に送ることができなくなってしまうからだ。しかしこの子からTwitterを取り上げることは根本的な対応策にならない。ここで必要なのは、相手から即座に返答がこなくても自分は受け入れらるだろうという自信や、相手になんらかの事情があってすぐには返事を返せないのだろうと理解できる想像力などが必要になる。
また、オンライン上では、全く関係のない他者とその場限りの関係を結ぶ場合が出てくる。お互いに「拒絶」を痛みとして怖れている人たちがここに入り込んで来てしまうと、ノーと言えないまま曖昧な関係が続いてしまうことがあるだろう。これが時として大変危険な状態を生み出す。これを回避するためには、それとなく拒絶する(拒絶しても、言葉を選びつつ円滑な人間関係を維持できるのは、社会脳の働きの一つだ)スキルを身につけることが大変重要だ。

mixi

光浦靖子さんは今東洋医学にはまっているそうだ。あまりにもはまり過ぎて、ついに学校に通っているのだという。大竹まことのゴールデンラジオで、そんな光浦さんがおもしろい話をしていた。学校で宿題が出されている。パソコンが苦手な光浦さんは課題を仕上げるのがむずかしそうだ。そんなとき、友達たちが手を差し伸べてくれた。宿題を一緒にやりましょうというのだ。なんて親切なのだろう、と光浦さんは思う。しかし、ふと気がつくと、光浦さんはある「危険」を冒していることに気がつく。クラスには2つの友達の集団がある。一つはすでに職業にしようとしていたり、関連したシゴトをしているプロの人たち。もう一つはそうでもないグループだ。一つのグループで「あっちのグループにも助けてもらっている」という話をしたところ、一瞬気まずい雰囲気が流れたのだそうだ。
これが本当にあったことなのかは分からない。ネタという可能性もある。しかしなんとなく「ありそうだなあ」と思わせる話だ。光浦さんはこのとき「そういえば学校でも似たようなことがあったなあ」と思ったそうだ。

送信者 Keynotes

昨日のソーシャル・リンクのピラミット上では、学校の知り合いは「標準のリンク」ということになりそうだ。一生をかけるほどのコミットメントとはいえなそうだし、お互いに助け合っているので相互性は確保されている。しかし、それでも「どっちと仲良くするか選んでよ」というような無言のプレッシャーがある。けっこう縛りがきついのだ。
ある職場で働いていたとき、同僚の一人からmixiのおさそいを受けた。ほのめかすようにやって来て「それとなくこのアカウントが私のものである」と気づかせる。名前はハンドルネームだし、顔写真も出ていない。それはまるで秘密結社の入会儀式のようだ。そこから友達関係をたぐってゆくと、どうやら「このハンドルネームがこのヒト」みたいな類推ができる。この同僚ラインマネージャークラスの人たちで40代だ。たぶん一人ミドルマネージャーが入っているのだが、シニアマネージャー(マーケティング事業部長といういかめしいタイトルだった)との間に溝がある。会社の外でこの人たちが楽しそうにやっていることは気づかれてはならない。誘ってくれたヒトはインナーサークルに加入してほしいという気持ちがあったわけではなく、どうやら仲良くしていることを見せつけたい気持ちがあったようだ。観客がいないショーもまたむなしい。別のラインマネージャーは「オンラインに強い」という自負心があり、mixiの中でマーケティング活動を行なっている。この人のリンクポリシーはすこしオープンだった。
よく、日本のインターネットコミュニティは「匿名だ」という話がある。確かにそうなのだが、mixiは厳密には匿名とは言えないように思える。実際に内輪に入ってみると、誰がどのハンドルネームを使っているのかというのはかなり自明だからだ。しかし、外からは分からないようになっている。匿名が障壁の役割を果たしているのだ。
光浦さんの例で見たように、日本社会の普通のつながりはかなり濃密だ。ある種の忠誠心さえ求められることがある。しかし、こうしたつながりなしには生活できないのも事実だ。地域や会社などのつながりが稀薄になったり、力を失ってくるとその影響力はより強くなる。例えば、どこの保育園に空きがある、どの医者が親切だというようなことが分からないと子育てすらできない地域では、お母さん同士の口コミはかなり重要だ。
強いコミュティに属していて、そこに満足している人たちは「実名」で交際ができる。それはある種、特権のようになってしまっている。特権を与えられているのは、会社の社長、重役クラス、起業家、作家などといった人たちだ。その他の人たちは符牒を使って話をするわけだ。ある種、普通のつながりが地下化してしまっているようだ。こうした人たちにとって「実名で友達同士のネットワーク」は「あり得ない」ということになる。
「マイミク」という言葉にはちょっと強迫的な響きがあって、実生活上の友達関係を反映しているようだ。
もちろんmixiでも弱いつながりは機能しているようだ。ここにも既存のチャネルを補完する役割がある。例えば人気のあるジーンズのコミュニティでは、輸入ものや通販が本物かどうか、今人気の形はどんなものか、カタログはもう発送されたか、バーゲン品はまだ残っているかといった情報が交わされている。店頭では聞けない情報ばかりだし、お店のない地方もある。中には「アルバイト店員」と思えるような人たちもいるようだ。しかし、Facebookが企業のオフィシャルサイトを積極的に誘導しているのに比べると、mixiのコミュニティは公認度が低い。どこの誰かだか分からない人たちの間で非公式の情報が飛び交っているといった状態だ。
mixiは楽しく、まったりと過ごす場所だ。日本人は実名でくつろぐことはできない。背景には人間関係が稀薄化したというよりは、人間関係が濃密すぎて気軽に名前が出せないという事情があるようだ。
そんなコミュニティに登録しているヒトは現在1700万人。稼働率は60%程度らしい。すると、使っているヒトの人口は1000万人程度ということになる。(ちなみに2009年5月のTwtter登録者数は50万人程度だったようだ。流行する前なので、もう少し増えているものと思われる)
このエントリー、昨日の続きなのだが、こうした環境で「自分の意見を他人に分かるように表明して、相手の言う事を理解しつつ、妥協して結論を導きだす」ことができるだろうか。まず、自分をコミュニティの中から浮き立たせることを忌避しているし、つながる相手はかなり慎重に選んでいる。これは裏返せば、一度コミュニティが確定してしまうと妥協の余地が少ないことを意味しているように思える。これが「議論」だ。ディベートは「競技」のように捉えられることが多いのだが、実は妥協点を探る擦り合わせの作業だ。
そしてさらに重要なのは、この特性を作ったのはmixiではないということだ。mixiは日本人のコミュティに対する感性によって作られ、多くの人に支持され(1700万人が多いかは議論の別れるところだが)た。実名が前提になっているFacebookが日本に入って来ることができないように、多分mixiもこのままでは外には出てゆけないだろう。

Twitterが顕在化させたもの

たとえば、みんながスクーターに乗るようになった。一方、車の売り上げが減って来ているようだ。だから、近い将来には誰も遠くに出かけなくなるに違いない。こういう推論があったらあなたはどう思うだろうか。僕は、この推論は少し乱暴なのではと感じる。この議論を正しく行なうためには、スクーターは主に町で使うものであって、車は近くからかなり遠い町をカバーするということを理解する必要がある。もっと遠くの町にでかけるためにはバスを選ぶだろうし、海外へ出かける場合には飛行機を使えばいい。このように乗り物は目的にあわせて選ぶべきだ。車が減ったとしてもバスに乗る人は増えているかもしれない。
グロービスの堀義人さんの心配はまさにこれにあたる。ご本人はつぶやきだと言っているが、ごちゃごちゃした議論ほど、考察の起点としては面白い。堀さんが問題にしているのは、議論の質とコミュニケーションツールだ。堀さんは議論の質が下がり、速報性が増すだろうと考えているようだ。その結果ロジックよりも別のもの(例えば情操的ななにか)が重要視されるようになるだろうが、Twitterは一時の熱狂に過ぎないので、やがてはTwitterそのものが別の流行に取って代わられるだろうと考えている。
乗り物の例で、議論の質に当たるものは「距離」だった。そして何をツールとしてつかうかにあたるものが「乗り物の種類」だ。しかし、ここで問題が出てくる。車はコンビニに行くのにも使えるし、日本一周にも使える。もっと極端な話をすると、自転車を使って日本一周をすることも可能だ。しかし、この場合は全国紙の社会面くらいを飾るかもしれない。ここから示唆されることは、ツールが使える範囲は、設計された意図を越えて拡張しうるという事実だ。
青木理音さんは堀さんに答える議論の中でTwitterの140字を使って議論をすることは不可能だろうといっている。これは「自転車を使って日本一周をすることはできないだろう。少なくとも俺にはムリだ」と言っているのだ。(詳細には議論しないが、自転車で日本一周が可能なように、Twitterを使った議論のプラットフォームを作る事は可能だろうと思われる。Twitterは部品だからだ)ここには堀さんの議論を越える種のようなものが見られる。
議論の質というのは難しい問題だ。堀さんの議論では「量」を増やせば「質」が低下するという前提があるが、青木さんは「量を増やす事によって上がる質もあるのではないか」ということを言っているわけだ。
さて、議論を進める前にSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)について考えてみる。ここで取り扱われるのは「議論の質」ではなく、「つながりの質」についてだ。Linkedinの日本語コミュニティである質問が出された。Linkedinでのリンクリクエストをどのように処理するかという問題だ。ほとんどのメンバーが「実際に会った事のあるヒトだけに限定しています」と答えていた。僕も実際に会ったことがあるヒトしかリンクしていない。しかし、LinkedinにはOpen Networkerと呼ばれる人たちがいる。LIONと称されていて、ほとんど手当たり次第にリンクを申請するわけだ。営業目的で使っているヒトと、表示される数を競う競技型のヒトがいる。LIONはLinkedinでは推奨されておらず、半ば黙認状態にある。そしてこうしたつながりから営業をしかけられるのをほとんどのヒトは嫌っている。
しかし、議論の中に変わった方がいた。このヒトはリンク申請を基本的に断らないのだという。話を聞いてみると「たくさんのつながりがあり、その中から1%か2%程度のモノになるつながりが生まれればよいのだ」と考えているようだ。
人間が把握できる関係性の量は限られている。群れが円滑に機能するのは150人くらいだそうだ。優秀な営業マンであれば5,000人くらいの名刺を管理できるかもしれない。このスレッドの中で教えて貰った話によると、大阪のホテルマンは地道な努力の結果4,000名のお客さんの顔と職場を把握したのだそうだ。
しかし、Linkedinはこうした不特定多数のつながりを維持するようには設計されていない。名刺にはいろいろな整理方法があるだろうが、コネクションを整理する機能は備わっていないのだ。
大抵のヒトたちはLinkedinをシゴト関係の普通のつながりを維持するのに使う。これを普通のリンクと呼ぶ事にする。普通のリンクには相互性が強い。シゴトの問い合わせをしたり、ヒトを紹介しあったりすることができるくらいの関係性だ。終身雇用で一生会社の外から出られない職場のつながりはこれよりも強い。こうした運命共同体(他の選択肢を諦めて、ある集団にコミットする)に関わるものを強いリンクと呼ぶ。一方、LIONが求めたのはそれよりも一段弱いつながりだ。相互性が消えて、頼み事をするにはちょっと弱いのだが、情報収集をしたり、今まで自分のつながりの中にはなかった新しい発見ができる可能性を持っている。たくさんのつながりを受け入れているヒトの実感では、1%か2%くらいが標準的なつながりに発展する。
こうした弱いつながりを持つ事の意味を発見したのが、マーク・グラノベッターだ。グラノベッターは、職探しにおいて、普段やり取りがある人たち(職場や家族)よりも接触頻度が低いつながりの方が有用だということを調査した。これが複雑系研究の中で再評価された。「スモールワールド仮説」では、こうした弱いつながりが、世界がばらばらになるのを防いでいるのだと考えている。
グラノベッターは、普段接触しない人たちとの関係性を、弱い靭帯の強み(The strength of weak ties)と呼んだ。強い靭帯のメンバーは同じような環境にいて、似たようなことを経験している。意思疎通は簡単だが、新しい発見はない。一方、弱い靭帯から入ってくる情報は新しいものが多い。シゴト探しで求めたいのは「新しい情報」なので弱い靭帯の方が有用なのだ。
これはアイディア開発にも当てはまる。強い靭帯よりも、弱い靭帯の方が多くの情報を集めることができる。発見の現場においてはアイディアの質はコントロールできないので、数を集めることが唯一質を担保することになる。やがて学習のフェイズに移る。すると意思疎通がしやすい組織で運営した方が効率性が増す。
最初の堀さんの議論に戻ろう。堀さんは量が増す事で議論はますます感情に左右されるようになるのではないかと考えた。取り扱う情動(一時的な感情)性に関する問題は別途議論する必要があるだろうが、量を増す事で得られるのは情報のバラエティーなのだ。これは新しい発見が重要な議論では非常に重要な要素だろう。つまりTwitterは時と場合によっては議論の質に貢献するわけである。
ここまで、強いつながり、標準のつながり、弱いつながりという3つの層を見て来た。強いつながりは運命共同体であり、弱いつながりは相互性が希薄化しているのだった。しかしTwitterの作るつながりはこれとは異なっている。いわゆるFollowというやつだ。単純な機能なのだが、予告も自己紹介もなくFollowして、いらないと思ったら勝手に切ることもできる。どうしてこのような使われ方がされるようになったのだろうか。

送信者 Keynotes

地方都市では、三軒先に住んでいる娘さんの情報はかなり詳細に知れ渡っている。地方の高校を卒業し、東京に行って、3年間OLをしていたのだが、2年結婚した後離婚した。そういえばあの人のおばさんも…、という具合だ。やや強いつながりに近い標準的なつながりとはそのようなものだろう。
地方都市と東京の違いはこのつながりの質にある。都市部ではアパートの隣人がどんなヒトなのかを気にする事はあまりない。また、知られたいとも思わない。しかしこれとは別の知り合いの形態が生まれる。「いつもコンビニのバイトにはいっている青年」とか「電車の中でとなりに座るおじさん」といった類いの人たちだ。また日曜日の新宿に行けば、歩行者天国でパフォーマンスをしている人たちがいる。観客は投げ銭をしたり、拍手をしたりするが、面と向かって「あんたのパフォーマンスは面白くない」というヒトはあまりいない。パフォーマンスの代わりに日曜演説会を開くヒトもいるかもしれない。多分反応は似たようなものだろう。ここで形成されるつながりは、弱いつながりよりもさらに弱い。これを弱い弱いつながりと呼ぶ事にする。弱いつながりと弱い弱いつながりを分けているものは、観客になる人たちの視認性だ。弱いつながりではお互いの顔は見えている。しかし弱い弱いつながりでは視認性がぼやけはじめる。社会学的に「群衆」という用語は別の意味を持っているので、「観衆」とでも呼べばいいだろうか。(ここに集る人たちは暗黙のルールに基づいて行動している。これが無目的化して制御できなくなったとき、その集団は群衆と呼ばれることになる。)
観衆がいるのが都市で、いないのが(きんじょの公園に紙芝居を見に来るコドモの素性はすべて知れ渡っているだろう)地方ということになる。
Twitterが出てくる事によってインターネット上のつながりは一気に都市化した。Twitterは弱い弱いつながりを表現する装置として機能しているのである。故にこの流れは不可逆的なものなのではないかと思われる。問題は、こうした都市的なつながりが、新宿でパフォーマンスを見るお客さん達のような統制を自発的に獲得できるかにかかっているように思われる。
今回のシリーズでは、ソーシャル・メディア、リンク、議論などについて、このつながりのモデルを使いながら考えてみたい。

二律背反的な考え方から抜け出す

前回の議論では、内部留保(戦後に貯め込んだ企業の儲け)を資本家に渡すべきか、従業員に戻すべきかという問題が一つの争点になっていた。資本家に渡っても、それが職場を作れば従業員に還元されるはずなのだが、現実にはそうなっていない。その上、従業員は正規から非正規へというのが一つの流れになっている。さらには経済状態が悪くなると、即リストラだ。
こうした動きが広がっているのは、株価を維持するためには、リストラをやった方がいいという「常識」が存在するからだ。この流れはまず雇用が流動的なアメリカで広がり、1990年代の半ばに日本に輸入された。しかし、もしもこの常識が本当でないとしたらどうだろうか。
どうやら今週の日本語版には載っていないのだが、国際版のニューズウィークの表紙は「レイオフをレイオフ」だった。英語の記事を読むのは気が重いが、なんとかやってみる。作者はJeffrey Pfefferという人。スタンフォードの教授で、ボブ・サットンとの共著があると書いてある。
Pfefferは、レイオフは株価を上げないし、生産性も下がるのだということをいろいろな統計を持ち出して説明する。その上、常識とは違って直接のコストカット効果もないそうだ。よく言われているように、リストラが行なわれると、辞めてほしくない人から辞めてゆくからで、その人を雇い直す場合も多いのだという。もちろん、残った人たちも「いつ辞めさせられるか」という事を悩むようになるから士気が下がるし、職場のモラルも低下する。この結果、コストが改善しないのだ。
日本はこのレイオフを「リストラ」として輸入したのだが、フランスはそうしなかった。その結果、日本はいつまでも不景気から抜けさせずフランスは回復した。フランス人は「自分たちは辞めさせられないだろう」という自信があるので、消費を手控えなかったそうだ。
このようにいくつもの「レイオフは株主にもよい影響を与えない」ということが分かっているのに、どうして経営幹部はリストラに走るのか。Pfefferは、企業が上場するときに、周りの人たちから「他の企業もやっていますよ」とアドバイスされるからではないかと考えているようだ。記事では上場の時のアンダーライターから、上場前にやっておく事の1つとして、会社をスリムにしろと言われた企業経営者の例を挙がっている。
さて、このことを日本に当てはめてゆくわけだが、記事の冒頭に気になる記述がある。縮小する業界(例として挙っているのはアメリカの新聞産業だ)ではリストラやむなしとされているところだ。これを考慮に入れて考えるといくつかの事が分かる。

  • アメリカの場合には、様々な企業がいろいろなアプローチで経営を行なっている。故に統計的に有為な差が付くのかもしれない。しかし、横並びの日本ではどうだろうか?
  • 国全体が沈み込んでいて、全てが「アメリカの新聞産業」のような状態に陥っているとすると、リストラが多い状態はやむを得ないのではないか?
  • そもそも、どちらの陣営にも属さずに「事実」を見つけてきて議論をしている人たちがどれくらいいるだろうか?

どちらかの陣営に属している人たちは、対立をあおっている間は彼らのシゴトが成り立つような構造に置かれているので、本質的に問題解決には寄与できない。そもそも自分の主張と違っている事実が見つかった場合にはそれを解釈するか隠してしまうことになる。多分、大学教授という立場が貴重なのは「中立」だからなのだろう。
山から小川が流れている。川のそばには村がある。まず上流の人たちが水を汚さないようにして水を使う。それから下流に流れてゆく。時々水利権の問題でいざこざが起きるがなんとなく解決しながらやってきた。しかし、下流に水が流れてこなくなった。下流の村の人たちは上流に文句を言う。上流には水があるようだ。しかし彼らに聞くと「時々水が流れてこなくなるからイザという時の為に取ってある」と言われた。この場合解決策は水の分配ではない。不安定化している水源をなんとかしなければならないだろう。もう水がないのだったら、水の豊富な場所に移住しなければならないかもしれない。水を使わない生活にシフトする人たちも出てくるだろう。
もし下流のコミュニティが上流とは全く関係がないのだったら、下流の人たちを閉め出してしまえばいい。しかし、上流の人々が下流の人々の労働力に支えられた生活をしている場合にはどうだろうか。上流の人たちは下流のやつらは文句ばかりいうから、よそから人を連れて来て何年か働かせればいいよと言い出すかもしれない。でも、その人たちもこの地域に馴染めば同じような権利を主張するに違いない。本質的な解決策にはならない。そのときには、水源の水はもっと細っているかもしれないのに、だ。
また、自由競争にもいろいろな質があることが分かる。下流の村に住んでいる人達が、上流に自由に移り住むことができれば、それは「自由競争」がうまく機能していることになる。しかし、実際には下流の人たちは上流に移り住む事はできない。また、上流の人たちが水をたくさん使えるのは、たまたま標高が高いところに住んでいるから、かもしれない。
水がないところでは水を巡る争いが起こる。同様に、チャンスがないところにはチャンスを巡る争いが起こる。でも、本当の問題は「誰が最初に持ってゆくか」ではなく、何が枯渇してきているかを探るところだと思うのである。二律背反的な議論からは解決策は生まれないのだ。

トヨタとソーシャルメディア

1996年、勤めていた会社の人がうれしそうにやってきて、新しいホンダの車を見せてやると言った。もちろん僕が日本人だからだ。会社の周りを一回りして「どうだ、静かだろう」という。僕は正直当惑した。日本人の僕にとって、車が静かなのは当たりまえだったからだ。アメリカ人にとって、日本車を持つというのは自慢のタネだった。という事で、トヨタがこの何ヶ月で吹き飛ばしたものの重みは大きいようだ。
Newsweek ( ニューズウィーク日本版 ) 2010年 2/17号 [雑誌]の今週号にトヨタの一連の対応についての記事が載っている。ことの発端はアクセルを踏み込んだ状態になり、車が止まらなくなってしまったことだった。ディラーに持って行ったところ「問題が見つからなかった」ということになってしまう。こうした事態が全米で起こり、今では19名が亡くなったという数字が一人歩きするまでになってしまう。この後日本で今問題になっている、ソフトウェアの「問題」が起こった。プリウスのブレーキの設定によりちょっとした誤差が発生する。
ずれは1秒にも満たない。ソフトウェアは修正すればいいようだし、深刻な問題ではない。トヨタによって不運だったのは、このソフトウェアの問題とアクセルの件が結びつけられてしまったことだった。例によってこの件についてLinkedinで聞いたのだが「最初はアメリカ人(と、その部品)のせいにしようとしたのだが、ソフトウェアの問題だということが分かった」と指摘する人がいた。雨だれ式にいろいろな情報が出てくることによって、事態が混乱してしまったようだ。この人は、アメリカ人の現地社長が引っ込んでしまって、日本人が出て来た事も気に入らないようだ。
トヨタがこういう事態に陥ったのは、皮肉にもこれまでこうした問題が起こらなかったからのようだ。トヨタの安全神話は完璧だった。神話が裏切られると怒りに変わるというのは、何も日本人に限ったことではない。「あのトヨタが」というのが今回の事態をややこしくしている。また、こうした問題が起きなかったことで、社内には連絡体制や対応マニュアルがなかったのかもしれない。するとちょっとした情報が経営陣に伝わりにくくなる。
問題の根本にあるのは2つのコミュニケーション上の問題だ。一つは「外国人とのコミュニケーション」であり、もう一方は「ソフトウェアエンジニアとの擦り合わせ」の問題だ。Harvard Business Review (ハーバード・ビジネス・レビュー) 2010年 01月号 [雑誌]は最近大野耐一論をやっている。大野さんはトヨタの品質第一主義を語る上でグルとも言える人物だ。記事の中で、大野さんは問題が見つかってもそれを現場のマネージャに指摘しなかったという逸話が出てくる。大野さんはチョークで線を引く。そして、現場のマネージャに一日ここで現場を見ているようにと指導したのだそうだ。現場のマネージャは自分で考えることによって問題を発見し「成長」する。こうした地道な努力によって、社内に自分たちでカイゼン運動を推進してゆく文化が作られた。
こうした「言わなくても分かる」文化はモノ作りの現場で同じ文化を共有するマネージャには有効だったことだろう。これは言い換えると暗黙知を暗黙知のまま伝えてゆくやり方だ。このコミュニケーションのスムーズさが、日本の産業界の強みになっている。これを裏返すと日本が何に乗り遅れてしまったのかが分かる。
日本の自動車エンジニアは半ば自嘲気味に「内燃機関を使った車より電気自動車の方が仕組みが簡単なのだ」ということがある。「だから誰でも作れるだろう」というわけだ。確かに駆動系はそうなのかもしれないが、トヨタの件で分かったことは、車が走るコンピュータになりつつあるということだ。バグのないプログラムは考えられない。ブラウザーやワープロならクラッシュしてデータがなくなるだけですむが、車の場合にはそうは行かない。
コンピュータプログラムを作っている現場で大野さんのやり方を採用することはできない。一日見ていてもキーボードを叩く音が聞こえてくるだけだ。確認するためにはテストが必要だ。テストは順を追って行なう必要がある。ちいさな部品で問題が起きないことを確認したら、それを組み合わせてテストを行なう。最初の段階を「完璧」にしておかないと、どこに問題があるのかが分からなくなってしまう。分からなくなったら、最初からやり直しだ。ひどいときには改行コードや空白といった「見えない文字」が問題を起こしている場合すらある。つまり見ても分からないわけだ。プログラミングの現場では一人ひとりが自己管理できるかどうかが重要だ。逆に天才プログラマが作ったプログラムも問題を引き起こす。後で開いてみても分からなかったりする。
同じことが外国人とのコミュニケーション上にも問題を引き起こす。ある文化圏では「暗黙知」を使った指導が「日本人以外にチャンスを与えない」という印象を与えることがある。日本人はこれを見て「いちいち口に出さないと何も分かってくれない。怠けているに違いない」と考える場合がある。トヨタはアメリカでの生産に熟達しており、この問題は克服しているものと思われていた。しかし、実際に問題は起きた。そして、問題が起きると「アメリカ人のプライド」にまでエスカレートする場合がある。これは東洋と西洋の間に起こる問題とは言い切れないようだ。ダイムラー・クライスラーの場合はドイツとアメリカの経営陣・従業員の間にコンフリクトがあったのだとも言われている。お互いに学ばないことで溝が埋まらないというわけだ。ニューズウィークにはGMを抜いてアメリカ1の自動車メーカーになってしまったことと結びつける分析があった。
さて、トヨタにとって今状況は「燃えている」と言ってよい。こうした中で、積極的に識者のブログに投稿したりソーシャルメディアのコミュニティに投稿すべきだという記事もニューズウィークに掲載されている。火事の最中に燃えている家に突っ込むようにも思えるだが、本当にこれは得策なのだろうか。ここにも「透明性」と「開放性」(英語ではオープンネス)を重んじるアメリカの文化的な背景があるようだ。Linedinは「トヨタは正直でなかったし、死者まで出ているのに、もうソーシャルメディアなんてどうでもいい」という人もいるのだが、やはり正直に「できる事をやるのだ」という宣言をこうしたメディアでも行なった方がいいという人もいる。
ソーシャルメディアというとTwitterを思い出す人が多いと思うが、ここでソーシャル・メディアを使えというのは、「Twitterを使って、安全性をささやけ」ということではない。心配や疑心暗鬼でいっぱいになっているブログライターやコミュニティに参加して「トヨタは安全だし、顧客に聞く姿勢を持っている」ということを直接表現しろということのようだ。とはいえ、普段からこうしたメディアの動向に詳しくないと、いざというときにどういうメッセージをどういうトーンで伝えればいいかということは分からないかもしれない。例えばメディアに「コピペ文」でメッセージを送りつけると状況は悪化してしまうだろう。
ソーシャルメディアの誕生とともに、ウェブを使ったマーケティングは「広告」から「PR」へと広がりつつある。ソーシャルメディアを使ったコミュニケーションは文字情報が中心だ。暗黙的なメッセージは伝わりにくい。「言わなくても分かる」文化からの脱却は日本人が得意とするところではない。また、伝統的には、出入りの業者(新聞記者とか雑誌記者を業者と呼ぶのは恐縮なのだが)に情報を流し、あとは「よしなに」とお願いするのが日本流だった。これは記者クラブ制度を見てもよく分かる。ウェブを業者に任せている企業は、こうしたメッセージを代理店を通さずに伝えるチャネルを持っていないかもしれない。PRが広告と違う点は、普段からのプレゼンス(日本語でいうところの「おつきあい」)の重要性だ。
トヨタに限らず日本企業は言わずもがなですませてきたコミュニケーションを言語化する必要があるだろう。

投瓶通信

中央公論をぱらぱらとめくっていたところ、蓮實重彦さんと浅田彰さんの対談が載っていた。20年前にも対談をやったそうだ。いろいろ世相を斬った後で、最後に発信する事について論じている。蓮實さんが主張するのは、基本的に評論は「投瓶通信」であるべきだということだ。これは、多くの物書きにとって、励ましと言ってよいかもしれない。

昨日のマーク・ロスコの例で見たように、自分の主張が完全に理解されることはないかもしれない。むしろ、自分の内面を表現ししたいというやむにやまれる気持ちを持っているだけの人もいるだろう。蓮實さんは自分の発信したものに対して評価を貰えるのは10年後でもかまわないという。海に瓶を投じるように自分の思いを発信し、誰かがそっと受け取るのを待つ。まるで祈るような作業だ。

さて、ここまで書くと、なんだか蓮實重彦さんを礼賛しているように聞こえるかもしれない。そうではない。むしろこの表現に違和感を感じた。本当に投瓶でよいのだろうか。

ものを考える作業には2つの種類がある。ある問題を解決するためにものを考えることとそうでないものだ。例えば、中小企業診断士が顧客のために考える場合に「僕の主張は10年経ったら理解されればいいのだ」ということはできない。この人の仕事は今ある経営課題を見つけ出して、なんとか収益をあげることだろう。こうした課題は考えているだけではだめで、いろいろとやってみなければならない。故に、効果が上がらなければ理論的にどんなに優れていてもあまり意味がない。

別の人がもっと優れた解決策を持っているかもしれないが、クライアントにとって受け入れが難しければあまり意味がない。つまり、解決を目指す場合には、必ず意見の交換、現実とのすりあわせが必要になってくる。だからこういうコミュニケーションは投瓶ではいけない。

蓮實さんは評論は投瓶でいいという。評論は課題のない「考える」作業なのだろうか。どうもそうとは思えない。評論家も前段でいろいろな社会事象や政治について考察しているだろうからだ。

この対談は、インターネットの登場で短くなった発信とそのレスポンスを問題視している。

Twitterを考えてみよう。140字程度の短いメッセージが発信されるとそこに短いレスポンスがつく。やりとりが生きているのは、いいところ1時間くらいだろう。こうして多くの考察が発信され、消費されてゆく。考える時間はないからだんだんと脊髄反射に近づく。「いい」「わるい」「すき」「きらい」で仕分けされて終わりである。Twitterが導入されることによって人々はより政治について考えるようになったと言われる。しかし、多分それは間違いだろう。人々は以前にも増して考えなくなった。あまりにも考えることが多すぎて一つひとつのメッセージを吟味しているヒマはないからだ。

政治は世論を聞いて政策を変える。新聞はそれにリアクションする。以前は「マニフェストには必ずしも従う必要はない」といっていたのに、予算がマニフェスト通りに作られないとなると「マニフェスト違反ではないか」という。これはもう脊髄反射だ。そして、居酒屋では政治談義に花が咲き、それが世論となって政治を動かす。この回路の悪いところは、誰も新しいアイディアを投入しないところだ。いっけん大きく反響するように見えて回路の中を同じような情報がぐるぐると流れているだけなのである。

こうした状況を見ていると「いやあ、これは間違っているんじゃないの?」と思ってしまう。みんなちょっとは何か考えろよということだ。しかし、そうしたループから抜けて「俺は、歴史に評価してもらえばいいから、現実なんか知らんもんね」ということになっても良いものなのだろうか。
蓮實重彦さんは、(多分、勝ち組の一人として)東浩紀さんを挙げている。東さんは、多くのヒトにレスポンスを貰うことを指向し、いろいろな仕組み作りを試みているのだそうだ。そして「そんなことは貧乏臭い」と切って捨てるのである。レスポンスを貰うことは下らないことで、メディア戦略ばかりを考えた勝ち組は、むなしい勝利に過ぎないという。

イノベーションの記事で見たように、アイディア・ジェネレーションのプロセスには3つの段階があるだろう。一つは沈思黙考して一人で考え抜く作業だ。これが終わったら、その考えを持ち寄って実行可能な何かを作る必要がある。最後に実行して、それを反省して最初に戻る。つまり考察作業というのは「投瓶だけ」でもだめだし、「レスポンスを待っている」だけでもいけないわけだ。
中央公論がどれくらいの部数を出版しているのかは分からないが、もうあまりメインストリームの人たちからはレスポンスが得られないポジションに落ち着いているのかもしれない。老後暮らしてゆくお金は心配しなくてもいいから、今の経済不況もあまり関係ない。みんなからそこそこ尊敬されていて、あとは歴史に評価してもらうのを待つだけということなのではないか。この記事を読んで考え込んでしまった。

2012年1月10日追記:依然この文章は「投瓶通信」で検索トップにある。この文章を読み返して、さらに投瓶について調べてみた。もともとは政治的に孤立させられた人が、それでも自分の理想に意味があることを信じて文章を発信しつづけることなのだそうだ。少なくとも日本にはこうした孤立は存在しない。むしろ誰でも好きな文章を発信することができる。にも関わらず多くの人が「自分の意見は誰にも到達しない」とか「もはや到達しなくなった」と考えている。何が間違っているのか、どうあるべきなのか、もうちょっと考えて見なればならないのだろうと思う。

最後に蓮實重彦さんと浅田彰さんは、こう結論づける。「結局20年経って思うのは、何も驚くべき事はないということで、これが一つの驚きだった」と。日本の最先端の思想家や評論家が、もう驚く事は何もないのだと結論づけるほどこの国は枯れているのだろうか。それくらい、彼らの考察に対して、下らないレスポンスしか返ってこなかったのだろうか。

マーク・ロスコ

日曜美術館の再放送でマーク・ロスコの回をみた。高村薫がロスコについて語っている。高村さんは「普通に見えているものを、どうしてわざわざこういう風に描く必要があるのか」というようなところから、抽象画への興味を持ったそうだ。いわゆる一般人は「抽象画は評価されているから芸術作品なのだ」と思うわけだから、さすが芸術家の感想だといえる。高村さんはこの疑問を小説にしたそうだ。

マーク・ロスコの作品には説明がない、質感で塗り込められた色にしか過ぎない。絵画というよりは「環境」だ。河村美術館にロスコ・ルームと呼ばれる部屋がある。河村美術館は、絵画というより壁画であり、この部屋にいると何か赤に包み込まれるようだと解説している。環境は特定の精神状態を作りだす。

環境が感情を作るのと同時に、見る人の精神状態も重要な役割を果たしている。実際にこのロスコ・ルームを見に行ったことがあるのだが、その時にはあまり何も感じなかった。美術館は順路ごとに出口を目指す構造になっている。ゴールを目指すことばかりに夢中になると、一つひとつの絵に集中できなくなる。逆に、ちょっと疲れていたり、感情的な揺れがあったりする方がこういった絵に引きつけられるのかもしれない。

ロスコの絵は、もともとシーグラムビルの中にあるフォーシーズンズというセレブなレストランに飾られることになっていたのだが、ロスコはそれを拒否した。もしロスコが「建築家」的な要素を持った人であれば、その場の採光や環境などを考慮した上で絵画を制作しただろう。光が刻々と変われば、絵の表情も変わるはずだ。また、見る人によっては全く違った印象を持つかもしれない。

動的な環境の中で絵はさまざまな表情を見せただろう。しかし、ロスコはそう考えなかったようだ。限られた空間の中で自分の絵だけを置いてほしいと願ったのである。つまり、絵の動きは限られたものになるだろう。飛んでいる虫をピンでとめて、標本として飾るようなものだ。

結局、アメリカの絵画のトレンドは移り変わってゆき、ロスコの絵は時代遅れだと見なされる。しかし、彼は作風を変えなかった。その後、体調を崩し大きな絵画が描けなくなり、結局最後には自殺してしまう。抗鬱剤をたくさん飲んだ上で手の血管を切ったのだそうだ。そして死後に、財産分与を巡り、家族と財団の間で裁判が起こった。(以上、wikipedia英語版のロスコ・ロスコ事件の項による)

この一連のドラマティックな出来事がロスコの絵に「意味」をつけることになり、彼の絵は2007年に7280万ドルで落札された。表面的にある意味よりも遠くにある何かを捉えようとしていた絵が、通貨的価値と伝説を付加され、消費されてゆくといった構図がある。そのあたりから出発し、高村さんと姜尚中さんは「意味のある世界を解体して…」というような議論をしていたように思われる。

姜さんはこの絵を実際に見て「癒されるし、我がなくなるように思えるからウチに一枚欲しいなあ」とのんきなことを言っている。しかし、実際のロスコを調べてみると、セレブな空間に飾られることを拒否し、自分のスタイルを曲げることを拒否し、ほかの人たちと作品を並べられることを拒否している。強烈な自我を持っているようだ。

作品がある境地に達すると、周囲にあるものを巻き込む。作者の意思を越えていろいろな感覚をひきおこすのだ。いったん動き出すと、絵から引き出されたものなのか、絵にまつわる意味から引き出されたものなのかは区別できない。これがコミュニケーションといえるのか、それとも内側から来る対話(つまり独り言)なのかは分からない。多くの人が何らかの感情を引き出されるわけだから、人の間に共有する何かがあるのかもしれないし、そんなものはなくて、一人ひとり孤立しているのかもしれない。

高村さんの一言には引っかかりを感じた。高村さんは「本当は現実世界はこうは見えないのに」というところから論をスタートされていた。しかし、もしかしたら本当に世界がああいった抽象画のように見えている人もいるかもしれない。

例えば、ある日突然普通の時間の流れから飛び出してしまったように感じることがある。人によってはパニックを起こしてしまいかねない感覚だ。昔の人たちはこれを神秘体験としていたが、現代人は例えば通勤電車の中で神秘体験を起こすと会社に遅刻してしまうので、精神科で薬を処方してもらうようになった。ロスコの絵のような世界を体験するために、わざわざ違法な薬物を使ったりする人もいる。実際に、「ロスコの世界」を体験している人はかなりいるのではないかと思う。
普通、そうした世界を見た人は、見た事がない人に説明ができない。伝える技術がある人だけが、それを表現できる。とすると、こうした絵は描かれた時点でその役割を終えていたことになるのかもしれない。あるいは「私だけがこんな世界を見たのではないか」と考え、それを瓶に入れた手紙を海に流すようにしてそっと放流する。それを拾った人が「ああ、私の他にもこういう人がいた」と考えるのであれば、それは独り言のように見えてもコミュニケーションの一形態なのだろう。

(2012年9月1日改稿)

インド料理と文化受容のステップ

まだインド料理店が数える程しかなかったころ、六本木のインド料理店でよく見られる光景があった。インド人の店員に向かって「インド料理はそれほど辛くなかった、もっと辛くても大丈夫なはずである」と日本人(まあ、たいてい男性なのだが)が自慢するのである。この人たちにとって、インド料理=カレー=辛いということなのだろう。そして辛い料理が食べられる=エライという図式が成立するのだ。多分。
ここで「インド料理」とか「カレー」と呼ぶのは、主に北インドで食べられているあの料理のことである。その他、チベット文化圏にはモモや焼きそば(なぜか、唐辛子が使われていてとても辛い)と、汁気が多く、魚もよく使われる南インドの料理、そしてペルシャ圏から入って来たシシカバブや焼き飯などの文化がある。
実際にこういうことはよくある。わからないものや異質なものに遭遇した場合、人は差異に注目しがちだ。そしてその差異の程度の大きさによって序列が決まるわけだ。数値で表現できる程度の違いは序列を決めるには都合がいい。例えば「メタボ検診」で注目された腹囲85cmもそんな数字の一つだろう。他に2つの基準があるのだが、それは忘れ去れ数値だけが一人歩きした。身長や胸囲が違えば基準となる腹囲も違うはずである。
しかしこの「六本木カレー野郎」が特別変わった人だということでもない。例えば、カレーハウスCoCo壱番屋には、甘口、普通の他に、1辛〜10辛までのメニューがあり、「とび辛表」という名前がついている。お客のニーズがあるということだろう。
さて、カレーのおいしさの一つに「一晩寝かせたカレーはうまい」というものがある。カレーチェーンの中にはカレーを一晩寝かせてレトルトパックにつめて出荷するところがあるのだそうだ。どうして一晩寝かせたカレーはおいしいのかという決定的な説明はないそうだが、それぞれの具材の味が混じり合い一体となるからおいしいのだろう。日本人や欧米人が煮込んだカレーをおいしいと思うのは、多分シチューや鍋料理などの煮込み料理からの印象があるからだ。しかし、実際にはスパイスの味は一晩寝かせると飛んでしまう。つまり、日本人がおいしいというカレーは本来の味わいをわざわざ飛ばした料理だということになる。
デリーにあるスパイスとお茶の店ミッタル・ティー・ハウスがカレースパイスと一緒に配布するレシピ集によると、カレーは煮込み料理ではないようだ。所要時間は1時間以内で、香りを楽しむために使うスパイス類は最後に入れなければならない。最初に炒めたタマネギの甘み、油、それぞれのスパイスで味と香りを付けたのがカレーのおいしさだ。
「カレーは手で食べるべきだ」というのがある。これも六本木のカレー屋で人が講釈しているのを聞いた話だが、ナンをカレーにつけてはいけないそうである。これ、本当なのだろうか。カレーをナンにたらすのだそうだ。外人が間違ったハシの使い方をしていると、やはり正したいと思ってしまう。同じようにインド人も、日本人の間違ったマナー(つまり、スプーンでカレーを食べる)を苦々しく思っているのではないだろうか。しかし、汁気の多いカレーを手で食べるのはとても勇気がいる。
そう思ってインドまでカレーを食べに出かけたところ、実際には食卓にスプーンがおいてあることが多かった。隣にいたサラリーマンらしい2人づれを観察したところによると、一人は手で食べ、一人はスプーンを使っていた。路上で安いカレー(汁だけで具がない)を食べさせる屋台にはスプーンがなかった。ここはチャパティでカレーを拭うようにして食べるしか手がなさそうだ。列車のお弁当に出てくる料理にはあまり汁気がなく、これは手軽に手で食べることができる。(インド人のエンジニアたちも自分たちで弁当を作って持ってくるが、あまり汁気はなさそうに見えた)そして、インド人はあまり他人がどういう食べ方をしているのかということには興味がなさそうだ。
一応、手で食べる場合には、簡単なルールがある。必ず右手を使い、カレーとご飯を指先で混ぜる。指先にカレーを入れ、親指で押し出すようにして食べるのである。ナンで食べると「辛い」ということしかわからない。しかしご飯とカレーを混ぜると、カレーのスパイスが空気に触れる。するとスパイスの香りが立って別のおいしさが味わえる。別にこれができなければダメということはないが、こういう食べ方に挑戦すると新しい経験ができる。
新しい文化を受容するとき、人はまず自分の持っている経験を使って解釈しようとする。その次に数値のような「客観的」な指標を使っての解釈を試みる。さらに形を模倣しようとする。しかし実際には、いちからその文化に触れてみると、形の裏にある理由が見えて来たりするものである。

ブレヒトと異化効果

NHKの対談番組でミヒャエル・エンデがブレヒトについて語っているのを見て肝っ玉おっ母とその子どもたち (岩波文庫)を読み返したくなった。エンデは役者としてブレヒトの演出を受けたことがあるのだそうだ。ブレヒト=異化効果と習い、無名塾の芝居まで見に行ったのに筋の方はすっかり忘れてしまっていた。当時はあまり興味がなかったのだろう。

あらすじ

舞台は新教と旧教が戦うヨーロッパ。商人「肝っ玉おっ母」は戦場を30年間さまよい続けている。肝っ玉おっ母は子どもを育てるために戦争を生活の糧にしているのだが、子ども達は全て戦争の犠牲になって死んでしまう。彼女は途中で戦争の惨めさに気がつきそうになるのだが、結局覚醒することはない。

観客は、自分の置かれている状態がわからないままさまよい続けるおっ母を客観的に見ることが「要求」される。これがブレヒトの異化効果である。

途中で唖の娘が太鼓を叩いて叫ぶ場面が出てくる。ここが一つの山場になっているのだが、彼女は唖者なのでメッセージを叫べない。これは、劇作として失敗しているのではない。わざとそういう風に作られている。ブレヒトには、観客に感情移入させないことで、批判的に状況を観て欲しいと考えている。これも異化効果だ。

演劇の魔力

肝っ玉おっ母のものすごい所は、ブレヒトの企みにもかかわらず観た人を共感させてしまうところだ。「大竹しのぶの演技に感動した」とか「世界観に引き込まれた」とかいう観劇評を見つけた。(※たまたま見つけたのがこれ。淡々としたト書き(ネタバレになっている)について書いてあるので、演出家は異化効果を意識していたようだ)

観客たちは作者の意図に反して勝手に感動してしまう。演劇は生きているのだ。「感情を揺さぶられることで癒されたい」という観客の抜き差しならない欲求が浮かび上がる。共感を拒絶する演劇を見ても人は共感して癒されてしまうのだ。

ブレヒト劇は、ドイツ共産党入党歴のある千田是也によって日本に紹介された。異化効果の背景には当時劇場化しつつあったドイツの状況がある。偉大な俳優だったヒトラーはドイツ国民を熱狂させた。こうした演劇的空間に批判的になるためには、一歩引いた姿勢が必要になるはずだ。だが知識人の抵抗は市民には受け入れられなかった。ドイツ国民はヒトラーの演劇空間に引き込まれてしまったのだ。

「肝っ玉おっ母」はかなり特殊な状況で書かれた作品だ。これが輸入され、戦後も上演され続けた。日本の演劇にはかつてこのような左派的な伝統と意図があったのだ。

思考の荒野

この戯曲を読んで考えたのは、戦争によって翻弄される人の愚かさ、戦争の惨めさといったものではなかった。独りで考える人がたどるであろう、堂々巡りの荒れ地についてだ。途中に「気付きの種」があったとしても、人は自分が置かれている世界からは容易に抜け出すことはできないのではないかと思うのだ。

「肝っ玉おっ母とその子どもたち」では、娘の太鼓が気づきにあたる。魂の叫びのようなものはあるが、明確には言語化されない。そして、それでもまだ歩き続けるべきなのか、立ち止まって言葉を発するべきなのかという問いに簡単に答えはない。

いろいろな状況にあてはまる何かがあることが、優れた物語の一つの条件なのだろう。共産党、反ナチといった政治的な意図で作られた芝居が、今でも上演されるのはこういう理由もあるように思える。

ブレヒト=異化効果ではないようだ

ブレヒト=異化効果だと習ったのだが、この「異化効果」をWikipediaでひくと日本語にしか項目がない。英語版のWikipediaには、Non-Aristotelian Drama(非アリストテレス劇)だと書いてある。文学作品が持っているカタルシス効果を否定した演劇を非アリストテレス劇というのだそうだ。

ブレヒトが当時の左翼思想によって日本に導入された時点の解釈が、今でも受け継がれているのだろう。

ただ、ブレヒトの芝居が単なる社会批判だったのなら、ここまでの人気を集めることはなかっただろう。「感動」や「共感」を与える素地があったからこそ、現代でも上演され続けているわけだ。

感情に飲み込まれることに抵抗を示すために作られた芝居が、皮肉なことに感情や共感の根深さを浮き彫りにしている。人はそれほど共感しやすい生き物なのだということになる。