新型コロナウイルスとデマ – 何がフェイクニュースかを見分けることはできるのか

武漢コロナウイルス騒動では様々な噂が出ている。最初に目にしたのは「武漢にはウイルス研究所がありそこからウイルスが漏れたのではないか」という噂だった。

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わからないという不安 – 日本人が集団で相手を非難するのはなぜなのか

ABCニュースのトップはボルトン氏の辞任の話だった。大統領は自分がクビにしたと言っているが本人は自分から辞めたと言っている。既定路線だったようで特に分析などは出ていないのだが、やはりニュースといえばニュースである。ところが日本のニュースはまだ内閣改造に搦めて日韓関係をやっている。「内閣改造は対韓強硬路線を示すために行う」というのである。日本のマスコミは安全毛布としての韓国にしがみついている。




Twitterをみると安倍内閣が千葉を忘れて内閣改造に没頭するのは何事だというつぶやきと復旧に奔走する野党議員を罵倒するつぶやきが見つかった。こちらも状況がわからない外野が騒いでいるようだ。

この様子を見るだけで日本人がどんな精神状態に置かれているのかがわかる。誰かを非難したくて仕方がないのだがそれが自分に跳ね返ってくるのが嫌なのだろう。そこで叩けるものを叩いて騒いでいる。誰かを叩くのは多分不安だからだろう。

日本人はアメリカには勝てないと理屈抜きで考えているのでアメリカがうまくいっていないというニュースは見たくない。一方韓国には勝てると考えていて、韓国関連のニュースを見たがる。旧秩序に基づいて現状を見ている。見えるはずのない歪んだメガネだがどういうわけかものの見方は変えられない。

電気については「面白いなあ」と思うことがある。電気が復旧しないのには必ず理由があるはずである。多分現場は何が起きているかを知っているだろう。だがテレビ局が見たがるのは「災害のすごい絵」と「責任者の処断」である。マスコミは常に部外者なので大きな絵を切り取りたがる。原因がわからないから次第に「誰を非難するか」に意識が向かう。こうして問題解決から意識が遠ざかって行く。

不思議だと思っていたのだがようやく理由がわかった。つまり「何がどうなっているのか」がわからないものを外から触っているからこういう絵しか流せないのだ。原因が分かればその原因について説明すればいいのだが、それができないのだろう。ニュースアンカーもレポーターの紹介係になっているだけで情報を統合しない。というよりそういう発想がないのだ。

初動の時期に東京電力に話を聞いてみて思ったのだが、各現場は情報を持っている。ただそれを他部署に伝えたりお互いで共有しようという発想は全くないようだ。聞かれるまで黙っている人と教えてもらうまで黙っている人がいる。そしてそれがマスコミによって無理やりにつなげられるとストーリーがでっち上げられ炎上する。SNSの発展によりショートする回路は格段に増えている。

電力会社に質問すれば答えは教えてくれる。東京電力の職員は千葉市役所の本庁舎にも常駐しているそうだ。つまり話を聞ける人もいる。すなわち「質問ができる人がいない」ということになる。

何を聞いていいのかがわからなければ何も伝えられない。日本の新聞記者は受け身の日本式教育を受けて記者クラブで与えられる情報を餌にして育つのでそうなるのだろう。問題意識を持って「これはこうなのじゃないか」という仮説が立てられない。仮説を立てて推論ができないと何が起きているのかがわからない。あとは騒ぎに乗るだけである。

同じことが多分日米関係にも言えるのだろう。日本人はアメリカで何かが起きていることはわかっている。だがそれが何なのかがわからない。誰も正解を教えてくれないからである。

アメリカはそれを仮説を作って説明しようとする。

イアン・ブレマーが面白いことを書いている。トランプ大統領は症状であり原因ではないというのだ。つまりトランプ大統領が問題を引き起こしているのではなく、問題の結果がトランプ大統領だということである。イアン・ブレマーは極のない世界という世界観を持っているので、その症状は無秩序だろう。今回はジオポリテックリセッション(地政学的不況)という言葉を使って説明しているようだ。

イアン・ブレマーはこれを地政学的不況というコンセプトで説明しようとしているものは、結局なんだかよくわからない。ただ、言葉を与えるだけでお互いに共有できるようになるという不思議な作用がある。とりあえず古い体制に戻ることはなく新しい状態に移るためのトランジショナルな状態にあるのだと考えることで、ようやく話し合いの糸口が掴める。日本人はこれをやらずに単に騒いでいる。騒げば誰かがなんとかしてくれると思うからなのかもしれない。しかし、騒いでも状況が元に戻ることはない。

イアン・ブレマーの仮説がどれくらい正しいのかはわからない。重要なのは「大きな仮説」を立てて包括的に物事を眺めることである。つまり、元には戻らないがかといって、この世の終わりでもないということなのだ。

日本人が仮説を立てて何を質問すべきなのかが考えられないのは多分学校教育のせいだろう。正解を学ぶことしかしないので自分で問題意識を持って調査しようという気持ちになれない。だから今のテレビを見ていても不安になるだけだ。だが、もうテレビを非難しても何も解決しないだろう。だから学校教育についてせめても何の役にも立たない。

我々にできることは多分自分で新しく情報を集め始めることだけなのだ。

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我々は無数のグレーをなくし全てを漂白しようとしているのではないか

先日は裏の世界だった芸能界が、実業の支援(スポンサーシップ)を受けることで「きれいに」ならざるをえなくなっていった様子を見た。社会の漂白化と言って良い。だがこれは、実業が縮小すると漂白剤が切れて本来の黒い部分が見えてしまった。




アメトーーク!のスポンサーが次々と降りたということだが、思い入れのある番組であればそんなことはなかったはずで「枠で買わせる」という電通方式が崩壊しかけていることを意味しているのかもしれない。枠が崩壊すればスポンサーに思い入れのない夜のバラエティ番組は作れなくなり放送休止になるか社会正義を振りかざす情報番組に切り替わってしまうだろう。だが、スポンサーに思い入れのある番組というと「何か教養的で押し付けがましいものが多い」。世界遺産を眺めたり各地の鉄道旅行を楽しむという番組があっても良いが、どこを切っても同じようでとてもつまらない。

背景には前近代的な「契約書のない」社会もあった。つまり、根幹の部分では裏社会とそれほど変わらない契約体系になっていたのだ。これは吉本興業の出自と関係がある。

今回は、この契約のない裏経済が必ずしも「いけないことなのか」ということについて考えたい。例えばおれおれ詐欺はいけないことである。麻薬の取引もやってはいけない。では、芸能に裏経済的な要素があるということは、芸能も同じようにいけない仕事だということなのだろうか。

芸能裏経済は、表の世界に出られないような人たちの生活の支えになっていた。芸能はセーフティネットがない社会では生活保護的な側面を持っていた。

落語の徒弟制度はその典型だ。立川志らくが弟子を降格させたことは「生活の糧を奪うひどい行為」なのだが、芸能界が表の世界ではない以上許容される隙間がある。立川志らくが伝統に基づいて好きに食わせているのだから「煮て食おうが焼いて食おうが」ということになる。どちらも契約とは無縁な世界だ。

それよりもちょっと新しいのが多分たけし軍団だろう。どうにもならないような人たちが集まるような場所になっていて、ビートたけしが稼いだ金で彼らを「食べさせていた」。これはビートたけしの「浅草」という出自に関係があるのだろう。浅草システムは終身雇用制や1940年体制が成立する前からあるのだから、ビートたけしはその最後の支え手だったことになる。ただ、たけし軍団はオフィス北野という会社組織を作ったことでその意味づけに変化が生じている。つまり中間形態と言って良い。

吉本興業の問題点は会社が国家権力と結びついたり芸人を「文化人枠」で売り出そうとしたことにあるのかもしれない。つまり表に近づきすぎてしまったのである。だが、その前兆は随分前からあったのではないか。会社形式にしスクールシステムという近代的な育成システムを一部取り入れた。近代的システムに拠っているのなら芸人にも請負契約や雇用契約などを結ぶべきだった。ところが実際には社員と芸人、つまり近代と前近代という二つのシステムがある。これが問題を起こしている。

もともと「劇場で表から切り離されていた」ところに演芸の楽しみがあったのだが、テレビはこれをお茶の間に乱暴に放り投げてしまった。そして皮肉なことに芸能番組の方がなくなりつつある。お茶の間は日常の延長なのだからそれは仕方がないことなのかもしれない。

その意味では報道・情報番組の芸人は非常に微妙な立ち位置にいる。日常の正義にどっぷり身を浸してしまうと「アナウンサー」になってしまい面白みに欠ける。かといってコメンテータのような専門性はない。どこか逸脱しつつ、かといって完全に踏み出さないという「綱渡り」を毎日しなければならない。あちらの世界に一歩足をかけつつこちらの社会にお邪魔するような感じだ。

だがそうしている間に「あちらの世界」が消えつつある。

もともと、映画や演劇の効用は「切り離された世界」そのものにあった。暗い世界に観客を誘い、その中で「現実にはありえない」ことを見せるというのが舞台芸術だった。我々はその中で現実ではできない体験をして現実世界に戻ってゆくのだが、何かを持ち帰る。その何かを「カタルシス(浄化)」と言ったりする。

カタルシスが成立するためにはある程度の時間と空間の区切りが必要である。私たちがスマホとSNSで失いつつあるのはそんなカタルシスが得られる区切りのある時間と空間である。非現実が「現実のきれい事」に侵食されてゆくという世界を我々は生きている。そしてあちら側の世界を「漂白しなければ」と思い込むようになった。

カタルシスが重要なのは、我々が心理的な抑圧を抱えているからである。こうした抑圧は罪悪感や社会通念によって何重にも蓋をされている。やがてそうした感情を認知することすら難しくなりやがて心理的不調や体調の不調を訴えることになる。つまり、我々は環境を漂白しても自分自身を漂白できないのだ。

我々は、白と黒の間の無数のグレーであり、この世の理屈が成り立つ空間とそうでない空間の間にも無数のシェーディングがあった。私たちが失いつつあるのはそういう自己認識だ。

犯罪的組織にもそれが言える。かつては極悪な真っ黒な人たちと正常な真っ白な人たちにの間には無数のグレーがあり、社会もそのことがわかっていた。だが、現代では普通に思えていた人たちがいきなり殺人事件を起こすと白が黒になったといっていちいち騒ぎになる。さらに、犯罪組織はどんどん暗い社会に追い詰められ凶悪さや狡猾さを増してゆく。我々は多様性を失って社会全体を漂白しようとしているのだが、果たして人間にそんなことができるのだろうかという疑問が残る。

いずれにせよ、我々は「厄介な部分を抱えた存在」ではあっても、それを晒すことを一切許されないという随分と難しい世界を自分たちで作っているのかもしれない。

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ついに情報汚染に手を染めたNHK

NHKがAIを使って凄まじい数の統計を処理して「これが日本の問題を解決する」とやった。さらに40歳代の一人暮らしを名指ししたために、多くの人の反発を買う事になった。前半だけ見て後半は見なかったのだが、少なくとも、因果関係を無視した番組構成になっていた。そして因果関係が無視されているという事は、多分参加者たちも築いているようだった。

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朝日新聞の考える戦争とは何か

「特定秘密保護法」の成立が現実味を帯びるに従って、朝日新聞がヒートアップしている。「今は、新しい戦前だ」という扇情的なフレーズも飛び出した。

民主主義への懐疑は至るところで表面化しつつある。今日現在も、タイとウクライナで「民主的に選ばれた政権」がデモで攻撃されている。国際情勢が流動化するに従って様々なリスクが表面化してきた。東アジアでは中国がアメリカ中心の均衡を打破しようと試みている。

国民は情報を集める事はできるが、それをうまく解釈することができるとは限らない。また、好きな情報だけを取ってくることができるようになると「お気に入り」の情報ソースを持つことになる。

現代はリスクにあふれている。具体的な問題と単なる可能性がごっちゃになった世界だ。

ジャーナリズムの責任は大きい。「漠然としたリスク」をより広い視野で、具体的な問題に落とし込んで行く責任があるだろう。

安倍政権は民主主義を重要視しておらず「支配者気取り」で政治権力を意のままにしたいと考えているようだ。その割には当事者能力が低く、いざとなったらアメリカの意向ばかりを気にする。各方面に様々な約束をしているため収拾がつかなくなっている。コメの問題ではアメリカとJAのどちらの肩を持つのだろう。また、第二次世界大戦当時に先祖たちが受けた扱いを不当だと感じていて、その名誉回復を模索しているだけかもしれない。つまり「世が世なら自分たちは支配者階級だったはずなのに」というわけだ。

戦前の「限定的な民主主義国家」に逆戻りしそうな雰囲気はある。しかし、いくらなんでもこれを「戦争」に結びつけるのは拙速だろう。

第二次世界大戦は政治家と軍人だけが成し遂げた戦争ではなかった。国の情報コントロールがあったことは確かだろうが、新聞社や国民も「成果」を挙げる軍人と戦争を支持した。また、当時の日本は緊密な国際通商の恩恵を受けておらず、世界的に孤立しても「失うもの」が少なかった。さらに、当時は帝国主義の時代であり、現在とは状況が違っている。

ところが、朝日新聞に出てくる識者たちは、懐古的な政治家たちの動きを心配しつつ、あたかも第二次世界大戦に再突入するかのような懸念を抱いているように感じられる。このような「正体が分からない」ものを怖がるのは幽霊を怖がるのに似ている。「だから根拠がない」というのではない。正体が分からないから不安が増幅する。こうした正体の分からない不安は、当座は人々の興味を引きつけるだろうが、やがては「見ないようにしよう」という感情を生む。つまり、疲れてしまうのだ。

朝日新聞は「明日にも戦争が起こる」と言っている人に対して「その戦争はどのようなものなのか」と具体的に説明するように求める必要がある。単に主張を繰り返して怒り出す人は相手にしなくてもよいと思うが、「左側の人たち」は真面目な人も多いので、彼らは考え始めるだろう。具体的なことが分かれば、検証ができるし、あるいは怖くなくなるかもしれない。

「リスク社会」というように、現在は様々な「可能性としての脅威」が情報として直接国民一人ひとりに飛び込んでくる。このため、心配ごとを抱え込もうと思えば、いくらでもネタを見つけることができる。その一方、リスクに怯えていると、実際に現実化しても疲れて対策が取れなくなってしまう。

「リスクに疲れた」国民は、次の選挙でより簡単な解決策にしがみついてしまうかもしれない。これこそが第一次世界大戦後にドイツ国民が犯した間違いだ。つまり漠然とした不安こそが「次の戦争のきっかけ」になる可能性があるのだ。

リスク社会とは皆様のNHKが正解を提示できなくなった社会のことだ

木曜日のあさイチは面白かった。室井佑月さんが政府の御用学者とみなされている中川恵一氏の見解にかみついたのだ。詳細はコチラから。そもそも20msvという値に対する学識者の対応がばらばらなのに加えて、食べ物から入る被爆量は考慮されていない。各官庁が縦割りで基準値を出しているからだ。だから室井さんは「福島県では郷土愛から子供たちに地元の農産品を食べさせているようだが、せめて食事だけは地域外のものを」と発言したのだろう。

ここでNHKはジレンマに悩まされる。「みなさまのNHK」としては、福島の野菜や魚の安全を疑問視されては困る。風評被害につながるからだ。

ここで色々な人の思いの思いが錯綜する。ここで飛び出したのが柳沢秀夫解説委員である。他の出演者の話を遮って話を進める。いっけん、中川さんを批判しているような調子で「火消し」に走った。これがどきどきした理由である。そして、テレビって面白いなあと思った。声の調子や表情からかなり明確に場の葛藤が伝わる。

原子力発電所の問題は科学技術に属することなので正解がわかりそうだが、実際はそうではない。なぜならば、今後20年になにが起こるかは誰にも分からないからである。今、原子炉の中でなにが起こっているかすら分からない。セシウムの挙動についてもよく分かっていないようだ。

番組の途中から中川さんも、口に出しては言わないものの「俺もどうなるか分からないもんね」的な態度を見せ始める。そして、お得意の「野菜を食べない人」と「受動喫煙」を持ち出して、話をそらそうとした。しかし、2か月以上こういうお話に付き合わされて来たNHK側の人たちは、もはやこの手法には反応しない。

室井さんが主張するように厳しく基準を当てはめると、避難区域はさらに広がるだろう。もしかしたら福島県全域に人が住めなくなるかもしれない。そして福島県の農産物や水産物は深刻な風評被害に晒されるだろう。財界と株主は負担しないことを決めたようなので、そのコストを支払うのは国民と東京電力圏内の人たちだ。

誰も正解がわからないのだから、この問題に関してNHKは「みなさまの」(つまり万人が満足して、良かったよかったと喜び合える)ポジションを取りえない。「情報をお伝えする事によって視聴者に安心していただく」こともできない。もしNHKが「みなさまの」ポジションを取るならば、NHKは最初からこの問題を扱ってはいけなかったことになる。

新しいことに踏み込む前に、西洋文化では、確率を計算する。中央に「起こりそうなこと」の山ができ、左右両端に「起こりそうもないこと」が位置する。起こりそうもないことを過度に心配しても仕方がないので、リスクを考慮しつつ両端を排除する。これを信頼水準と呼ぶ。「過去の統計上95%の信頼水準で健康に被害は出ない」というような言い方をするけだ。これが「確率は0でない」の正体だ。

大竹まことのラジオで、ウルリヒ・ベックが朝日新聞に書いたというエッセー(インタビューかもしれない)が紹介されていた。どうやら起こる可能性は低いが、いったん起こるととんでもない事態を引き起こす事象にあたると言っているようだ。意思決定の際に捨てさるのが「テールリスク」だ。テールリスクとは数学的には正規分布に従うと仮定して、0.03%エラーが起きる可能性をさすのだそうだ

大竹さんは、テールリスクについて肌感覚では分からないようだった。日本人の「安全確実」は100%安心だからだ。が求められる。NHKが目指しているのは「正しい情報を伝えれば、確実に安心安全に行き着くだろう」という地点だったのだと思う。ところがこの件に関しては、正しい情報はなく、確実な安心安全も担保できない。日本人は貴重で豊かな国土を失うという経験をしてはじめてこの「リスクの世界」に踏み込んだといえる。

家庭によって受け入れられるリスクは違うので、一律に提供する給食システムは崩壊するだろう。

そのあとの雰囲気はさらに気まずかった。有働アナウンサーが「さらメシが何の意味か、レギュラーの室井さんだったら分かりますよね」と質問すると室井さんが「サランラップ」と叫んだのだ。NHKでは商標は使ってはいけないとされる。人ごとながら背筋が凍った。

社会の不確実性が増すと、誰でも不安になる。やがてこれは行動につながるだろう。

俳優の山本太郎さんがドラマのキャストを外されたということでTwitterが盛り上がっている。20msvを撤回させようという運動に発展するかも知れない。彼が政治家ではないところが求心力を生んでいるように思える。

日本はいきなりリスクのある世界に放り出されたのだが、日本人はリスクについて理解できない。したがって根本的な解決はできず、怒りは他のところに転移するだろう。

日本ではソーシャルメディアを通したジャスミン革命のようなことは起きないと思っていた。しかし政府や財界のあり方に疑問を持っている人は多い。自分の利害のためには声を上げない彼らが「大義」を見つけたとき、事態は思わぬ方向に向かうのではないか。

こうした運動体を甘く見ない方がいいだろう。