AIを使った表情の表示について

Twitterで「日本人という括りでなく主語を世界レベルに」というつぶやきを見た。ちょうど「内心がいきなり集団の正義に触れて暴走する」というネタを書いたあとだったので、主語が拡大するのはよくない傾向だなと思い「主語が私じゃダメなんだ」とRetweetしたら「批判は勝手にすればいい」というつぶやきが返ってきた。完全な攻撃モードだ。




その前に、スーパーの前でイライラした女の子が携帯電話で約束時間に来ない相手を責めているのを見たばかりだったので「この人もきっとそういうモードなんだろうな」と思った。人はストレスにさらされると認知が歪みすべてのインプットを攻撃と捉えるようになる。つまり、約束時間にこない相手のせいで世界が終わりを迎えたり、ちょっと触れられただけで「私は批判されている!」と爆発することになるのだろう。だが、本人はそれに気がつかないのだから、触れずに立ち去るのが一番である。

攻撃モードに入った人は「逃げるか攻撃するか」というモードに入っているはずだ。だが、今の日本ではいったん逃走してしまうと戻れる場所がないことが多い。ほぼすべての人たちが「ここにしがみついていなければ終わってしまう」という恐怖感を持っている。そこで他者攻撃が増えるのだろう。これは今まで密閉されていた内心が何の調教もないまま空気に触れてガソリンのように爆発するのに似ている。

ただ、触れるべきではないものに触れてしまったのだから「多分俺も気分が悪かったんだろうな」と思った。つまり、相手のことはなんとなくわかっても、自分が不機嫌であるということには気がつきにくいというのは「お互い様」なのである。そのあと、Quoraで思い込み自己陶酔型の結論を振りかざす質問を見たので「この前もとんちんかんな質問をしていたけど、最初から勉強し直したほうがいいのでは?」と(表現はもう少し抑えたが)書き込んでしまった。

これを書き込んでいよいよ「ああ機嫌が悪いらしい」と思った。こういう場合にできることはSNSを離れることだけである。スマホを持っていないので外に出ればSNSとか変わらずに済む。

そこで「今はSNSに書き込まない方がいいですよ」という表示が出ればいいのにと思った。つまり、メンタルヘルスバロメータが作れないかということである。

今はやりのAIを使えばこうしたことはわかるようになる。実験室に人を入れて表情を観察しつつその閲覧履歴などを大量に蓄積しそれを分析すればよさそうだ。例えばYouTubeで何を見ているとか、どんなニュース記事を見たとか、動物の画像を眺める時間がいつもよりどうだったとか、どんなつぶやきをしたかなどを集めれば「表情」が作れるようになるかもしれない。それをエモティコンとかムードメーターにすればネットはもっと精神衛生上好ましい場所になるだろう。

これは、感情を自己分析にも役立つのではないかと思った。機嫌の悪いときにはネガティブなニュースばかりを追いかけているはずだが、そのときには気がついていない可能性が強い。そこで「怒っている」表情が表示されれば認知が進み感情の整理ができるかもしれない。もっともさらに怒っていれば「ムードメーターに八つ当たり」することもなくはないのだが……

人間の感情を理解して表示してくれればそれを元にヒーリング音楽などを流すこともできるわけだし、リモートの職場でもよりスムーズなコミュニケーションができるようになるだろう。あるいは職場でもメールの内容から「しばらく休暇をとっていないですね」みたいなアドバイスができるようになるのかもしれない。誰か本当にこういうAIを作ってくれないだろうか。

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正解社会について考える – 「パワハラだと思われたらパワハラ」というのは間違い

最近よく、セクハラだと思われたらセクハラだしパワハラだと思われたらパワハラだということが言われる。これは間違いだと思う。今回はこれについて考える。




今回の問題を考える前に、まず正義と正解を分けておきたい。これはこの文章の中の変数のようなもので必ずしも「こうでなければならない」ではない。正義は自分の気持ちから出てきた気持ちだが正解は必ずしもそうではないというのが今回の定義である。何がどうできたかということはわからなくても「とりあえずそう言っておけば間違いがない」のが正解なのだ。日本人は正解の中に居ることに居心地の良さを感じ、人にもそれを伝えたがる。

しかし正解には難点がある。正解は社会の中にあるので自分で書き換えができないのだ。このため正解でない人(男女しか結婚ができない社会での同性愛者など)や正解から抜け出せない人(いつまでたってもお辞儀ハンコを好ましいと思う人)などが出てくる。正解はいつかは形骸化し堅苦しく不機嫌な社会を作る。

日本の正解文化は根強い。例えば、過去に「内心」という言葉を使ったときに、これを内的規範と指摘した人がいた。これは内心(自分のキモチ)に「規範」という正解と正解でないという概念がつけ加わったものだ。内心は必ずしも正解や規範である必要はない。自分が他の他人とどう違っているかということを理解するのは重要だが、それを他人に承認してもらう必要はないからだ。だが、日本人はやはり社会や規範からなかなか抜け出せない。日本人は個人が個人であるというだけでは不十分な社会のだろう。


職場のハラスメントはコミュニケーション不全だ。正常な状態であれば不愉快な思いをした人は「それは嫌だ」と言える。中には職場を変える人もいるだろう。最初から不愉快な状態を我慢しながら働いているか日頃のちょっとした不愉快を言い出せなくなっているというのがそもそも問題なのである。問題は関係性と環境にあるので、問題が起きた時に「何を言ったか言われたか」を考察してもそこに答えはない。

子供の発達期に「イヤイヤ期」というものがあるそうだ。この時に「お母さんなんか嫌いだ」と言われるとショックを受ける母親がいるという。実は「自分の気持ちが整理できず、それを一番信頼している母親にぶつけている」という説明があるのだという。つまり、子供の状態には「私」がないので「そのイライラの原因が」私から来ているのか母親からきているのかがわからない。その状態で母親に何かを言われると、イライラが母親に向いてしまうという説明である。

つまり、人間は原初の状態では「私とあなた」という区分けを持っておらずそれをいずれかの状態で学ぶ必要があるということになるだろう。だが、これを学べないことで、大人になっても自分の不調を他人にぶつける人がいる。ハラスメントには「逃げ出せない」という部下側の気持ちと、問題の根っこがどこから来ているのかわからないという上司のとまどいがある。

つまり、組織が何らかの問題を抱えていて中間管理職にストレスがかかると、それを部下にぶつけてしまうのだろう。つまり、考えるべきなのは中間管理職と組織の問題ということになるのだが、それが部下の管理の問題に矮小化されかねない現状がある。さらに部下の側が「逃げるか殺してしまうか」という心理状態になってしまうともう問題の収拾は不可能だ。

言いたいことが言えないというのはかなりのストレスだ。言ってしまうと左遷されてしまうのではないかとか、下手をしたらやめさせられるのではないかとなると、部下は思っていることが言えない。そこでICレコーダーを持って証拠を残そうというところまで思いつめられたとなると、もはやICレコーダーに録音されている言葉には大した意味はない。持ち出した時点で「奴がいなくなるか俺(私)が潰れるかだ」ということになっている。協力関係は崩壊し組織としては「積んでいる」のである。

成果を上げたと上司は正解を知っている人だ。だからその通りに振る舞うことで周りから褒めてもらえたのである。だが、人を使って仕事をするようになると誰かを説得したり協力してもらう必要が出てくる。これは別の教科の問題集を買ってきて解き始めるようなものである。ここで正解がわからないと、自分の中にあった弱い部分が出てきてしまい、それが実行できてしまう。仕事の成果は壊せないので「外面上は極めて優秀で人当たりのいい」人が部下を執拗にいじめることになる。こうしたいじめにも体裁さえあれば、それは不正解にならないのだ。

だから、たいていのパワハラセクハラには「言い訳としての大義」が出てくる。曰く「指導であって愛のつもりだった」とか「女性にもその気があると思った」などというのである。内心に訴えれば正義は動かせるかもしれないが、正解は社会が持っている規範なので本人を説得してこれを変えることができない。だから、そもそもパワハラを行う人が自ら「これはパワハラである」という判断基準を持つことは、本質的にないしできないのである。彼らが内心や内的判断基準を持っていないのでもうそれは動かせないのだ。

もちろん解決策はある。例えば「硬直化した正解」でなく「様々なケースのソリューション」を教えることで、問題解決の手段を増やすことはできるだろう。だがその場合にも「自分がそうされたらどう思うか考えてみましょう」と説明する必要がある。がそもそも「自分がどう思うか」など考えたことがない人にはそれはわからない。これまで数十年も「正解」に従うことで成功してきた人にとってそれは世界の終わりでしかない。

これについて概念的に説明するのは難しい。そんな人などいるのかと思ってしまう。そこで、誰か具体的な例はないかなと考えたところぴったりな例が見つかった。それが安倍首相だ。

安倍首相は官僚や親から正解を教え込まれて政治家になった人である。単にその正解を暗記するか読むだけで良いのである。岸家の正解を母親に吹き込まれ、就職して一瞬内心を持ちかけるがこれは父親によって潰される。議員になったら上司に「北朝鮮問題に功績があった」として選挙の顔に利用される。一貫して「正解を生きてゆく」ことを余儀なくされてしまったというかわいそうな側面がある。今では部下である幹事長と政調会長に内政を握られているので、やれることは憲法改正と外交しかないのだが、どちらも失敗している。この人に自分の言葉で話しなさいと言ってももう手遅れだろう。

なので安倍首相は対話という「いきいきした活動」ができない。対話モードになると彼は不機嫌になり言葉が早くなる。どうしていいかわからないとき人はああなるのだ。その意味では現代日本の正解社会を象徴するような人なのである。人間の新しい未来を作れるのは人間だけであり、その芽はそれぞれの心の中にしかないのだから、安倍首相は本質的に国家の破壊はできても改革はできない。

ハラスメントにも同じことが言える。ハラスメントが発生したらもうそれは「家庭や組織の失敗」なので、当事者どちらかを取り除くしかないということになる。正解しかない社会は未来を作り出すことができないばかりか、目の前にある不満さえ取り除くことができないのである。

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首相のコラ画像が逮捕案件になるまで – 集団思考で独裁化が進む

著作権法が変わるそうだ。朝日新聞によると文化審議会で答申がでてこれから国会審議が始まる。これについて「そのうち首相のコラ画像を作ったら別件逮捕されてしまうかも」とつぶやいたら反応があったので、考えるところを書いてみたい。




まず、津田大介の一連のつぶやきからご紹介する。例外から始まって厳罰化が進む過程がよくまとまっている。

津田によると、もともとは音楽・映画の要請から始まったようである。実はこの業界は著作権の管理が一番進んでいる業界だ。特に音楽はJASRACが著作権をほぼ独占的に管理してきた。インターネットが出る前は、レコード会社にきっちりと報告をしてもらい、流しっぱなしの放送と一括契約を結び、あとはカラオケ店や結婚式場を見回って「著作権警察」をしていれば音楽の著作権料などが管理ができた。だから音楽業界はインターネットが出てきたときにはそれを否定し、自分たちが時代から取り残されているぞと気がついた時、それを規制したいと願ったのである。配信業者が規制できないということがわかったので、今度はユーザーを罰したいと言っている。

元々が自己否認から始まっているので実効性がなく、そのためにどんどん厳罰化だけが進んで行くのである。

AKB48ができたのが2005年だそうだ。CDが売れないという時代があり、音楽の楽しみ方が配信とイベントになってきていたという時代である。AKB48は投票権というイベント参加券がメインでCDがサブになったというエポックメイキングな出来事だった。パッケージからイベントへ、つまりモノからコトへという流れは今でも続いている。日本も確実にサービス産業が先導する経済に変わりつつあるのである。

CDが売れないなどと言われているが、音楽の楽しみ方は多様化している。日経スタイルによると実は東方神起は年間で128万人もの人たちを動員している。不況だと言われているのだが、実は2000万人以上がコンサートを楽しんでいるそうだ。モノからコトへの移行が進んでいることがわかる。

セールスとは対照的に成長を続けるコンサート市場。18年上半期の動員数は約2084万人と、前年同期と比べて約5%の伸びを見せている(コンサートプロモーターズ協会調べ)。日経エンタテインメント!では、既に18年に行われたコンサートと、年末までのスケジュールが発表済みのもの(10月上旬時点)の会場収容人数を合計し、各アーティストの「年間コンサート動員力」を算出、ランキングにした(詳しい調査基準は文末の囲みを参照)。

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO38332660Z21C18A1000000?channel=DF010320183446

インターネットの爆発的な普及によって、モノはコトへの導入としての役割を持つようになった。さらに、モノに依存しないで売り上げを伸ばすことも可能になりつつある。YouTubeで無料配信し知名度の普及を図ったK-POPは大成功し、日本のチャートにも韓国語の歌がそのまま流れるまでになっている。彼らは日本のみならず海外にでかけてゆき大規模なイベントを行う。そして、事務所単位で興行を行いイベントと物販で資金を回収するのである。

ネットで遅れていたジャニーズでさえも滝沢秀明を筆頭にネットとイベントを中心とした新しいビジネスを始めるようだ。新しい会社であるジャニーズアイランドは、ジャニーズがイベントを行う時のブランド名のようだ。ジュニア名義のYouTubeチャンネルも更新が盛んになっている。ジャニー喜多川は今までのビジネスを旧世代に任せ、新しい時代に適応できる若い後継者を選んで新規ビジネスに参入している。

日本人は「自分たちのものは自分たちで囲い込みたい」という意識がとても強いのだが、新しい世代に経営を任せれば十分に克服は可能だ。問題なのは古い世代の人たちがいつまでも昔のビジネス形態を懐かしんでいるという点である。彼らはネットを憎んでいる。テレビは買い占めらるが、ネットは買い占められないからである。そして、自分たちができないことをやろと政府に泣きつくのだ。

こうした違いを「オープン戦略」と「クローズ戦略」という。全てを囲い込むのがクローズ戦略だ。かつてはいかに囲い込むかが重要だ他のだが、最近の日本はこれで軒並み失敗している。一方でオープン化で成功しているのが中国や韓国だ。先日見たように中国家電はスマホと連携することで「コストの切り捨て」を図っているのだし、韓国は宣伝をインターネットのファンたちにアウトソースしていると言える。コントロールできないなら協力すればいいのだ。

本が売れない、音楽が売れないとなった時、「自分たちが時代についてこれていない」とか「高齢化している日本市場にだけ頼るのは限界があるのでは」と考えるのは難しい。それよりも「無断でスクリーンショットを撮影する人が悪い」と逆恨みしたほうがラクなのである。そして、時代について行けていない人ほど政府に頼って「国の力でなんとかしてほしい」などというものなのだ。書籍・出版・新聞・テレビ・レコード会社という旧体制の人たちが新しく飛躍しようとしている人たちの足を引っ張り「自分たちを置いて行くなら罰してやる」と言っているのが今の日本である。

多分、違法ダウンロードを禁止したりスクリーンショットを規制しても、本やパッケージソフトが売れるようにはならないだろうし、新聞の購読者も戻ってこないだろう。だが、彼らはそれを認めないし認めたくない。

さらに日本の著作権管理はかなりいい加減であり文書ではなく口頭で著作権のやりとりをしているケースが多くある。樹木希林さんはマネージャーがおらず、権利処理が面倒なので「二次使用もファンの撮影も好きにして」と留守電に吹き込んでいたというのは有名な話だ。こうした口約束の世界を非親告罪化してしまうと、そもそも権利処理が確認できないというケースが続発するはずである。音楽の世界の常識がテレビで通じないということがあり、さらにこれに漫画やフィギュアの二次創作(宣伝のために著作者が黙認したりしている)などの「さらにいい加減(あるいは柔軟)な」人たちが入ると、話はぐちゃぐちゃになってしまうだろう。

こうして国に厳罰化を頼む人が増えるほど、お互いを縛りあうようになり、さらに萎縮が進む。有料配信の新聞記事は読まれなくなり無料のものが引用されるだろう。テレビの歌番組がなくなりつつありYouTubeに音楽コンテンツが溢れる今となっては、日本の歌そのものが忘れられてしまうかもしれない。

もちろん厳罰化を要求された政府が初めから人々を支配したがっているとは思えない。だが、自分たちの失敗を隠蔽するために独裁傾向を強めることはありそうだ。

最近、菅官房長官が東京新聞の望月衣塑子記者を念頭に「あんな質問をさせるな」と記者クラブにねじ込んで問題になった。確かに望月さんにも問題はあるのだろうが、国会でこれを質されて半ばキレ気味に自分の主張を述べていたのをみて「こんな気の小さいおじさんが官房長官なんだ」と思った。調整できないから政府でなんとかしてほしいと言い続けて、政府に強すぎる権限を移譲しても、実際に対応するのは交渉もろくにできない首相と気の小さい官房長官である。日本人は全体的に調整ができなくなり国になんとかしてくれと求めるわけだが、国は国で現業が何をしているのかわからないのでこのようなことが起こるのだろう。

安倍首相は菅官房長官を弁護するつもりなのか「内閣の一員がわざわざマスコミ対応してやっている」と言っていたが、そもそも権力者が記者たちに「情報を教えてあげる」という意識そのものが危険なのであり、コミュニケーションのプロである広報官を立てる方が理にかなっている。だが、そんなことを安倍首相に言っても彼は全く理解できないだろう。

恒例の経営者たちが経済から取り残されてしまうとジリ貧になった人たちが権力になきつき、それが結果的に独裁を生んでしまうかもしれないというのはなんだか情けない図式である。が、リーダーが責任を取りたがらない日本ではこうした集団思考による情けない形で独裁が進行するのかもしれない。気がついたら何もものが言えなくなっていたという時代になっている可能性があるということになる。

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多様なものに囲まれると居心地の悪さを感じる「頭の悪い」人たち

最近、多様性について考えた。「社会は多様性を受け入れるべきである」というと賛成する人は多いと思うのだが、果たしてそれが実践できるのかという問題である。これについて考えていて「保守派の人は頭が悪い」という結論にたどり着いた。




だが、この保守は頭が悪いというフレーズをコピペしてRetweetする前に以下の文章を読んでいただきたい。もし、これがわからなければあなたも保守脳の持ち主である。

ここでは、多様性の受容とは「すなわち自分が理解できない他者をそのまま受け入れる」ということを意味するとする。ここに危機意識を感じる人がいるのではないかと思った。

例えば、全く理解できない外国語を話している人たちが大挙して隣の席に座った時「この人たちが襲ってくるのではないか」と考えることがある。外国語の中には和やかに聞こえないものもある上に、そもそも理解できない言葉には警戒心を持つのは当たり前のことだ。外国人が安全に思えるのは言葉の意味そのものが理解できないにせよ、ああこれは韓国語なのだとか、中国人が声をはりあげるのは普通のことなのだという予備知識があるからである。わかると警戒心は薄まる。わからないと心の中のアラームは鳴り続ける。

外国語は複雑さの例だが、実際にはいろいろな複雑さがある。例えば同性婚もそうだし、外資系企業の企業文化もそうかもしれない。複雑さが認知できないと、恐れが憎しみに変わるのではと考えたのである。

そこで調べてみたところ非常に短い文章が見つかった。多様性を許容するリベラルな人は他人への理解度が高く、保守の人ほど恐怖に関する領域が強く働いているという傾向が見られるというのだ。つまり、複雑さが理解できるというパラメータと恐怖心を持つというパラメータは別だということだ。ここでは保守とリベラルという二つの傾向を抽出しているのだが、実際には4つの異なる人たちがいる可能性があるということになるのかもしれない。

脳の特性で「決めつける」ような研究には一定の危険性があると思う。「これまで、一定の心理的特性でその人の政治的志向を予測できることは知られていた。政治的志向を脳活動と関連付けた研究はあったが、脳の構造と結びつけた研究は今回が初めて」とも書かれているので、心理性をそのまま脳の特性と決めつけるのはよくないが、今回はそうした傾向が見られたということになる。

これとは別に、リベラル脳は複雑性への対応能力が進化の結果であるという研究結果もある。こちらでははっきりと「あたまがいい」人が「複雑な状況に対応した結果」がリベラルさだと言っている。

つまり、保守的な人というのは「複雑さに対応できない頭が悪い人だ」ということになる。頭が悪いので複雑な状況の処理ができないというわけだ。そこで情報を刈り込んで陰謀論に近いようなストーリーを組み立てたり、物事を白黒で判断したがるのではないかと思いたくなる。

ただ政治的指向性と知能を関連づける研究には批判も多いようだ。このリンクではIQテストとカナザワ氏が考える「頭の良さ」は必ずしも相関性がないのではないかという批判が紹介されている。

この二つの論文の紹介からわかるのは、どうやら複雑さの理解ができないことが保守的な傾向に関係していることは確かなようだが、それがなにに由来するのかということはよくわかっていないということになる。そして「複雑さに対処できない」ことを「頭が悪い」と規定すれば、保守派は頭が悪いということになるのだが、必ずしも入試で良い点を取れないというような意味ではないということにもなる。

いずれにせよ、保守と呼ばれる人たちの単純な思考の組み立てを見ていると、複雑さの処理に困難を覚えている人や自分のもっている概念を更新することに著しい困難さを覚える人が多いということはよくわかる。安倍首相の政治概念への理解度の低さや対人能力の低さなどを見ると、彼が複雑さに対応できていないことは明白だ。彼は民主主義の仕組みについてもよくわかっていないし、米・中・露・韓・朝鮮の変化にもついて行けていない。

だが、彼は同時に複雑さが見えないので、物事を単純化する能力を持っているともいえる。複雑さに対応できる人は複雑さをそのまま扱うので情報を刈り込むことなく他者に伝える。いわゆるリベラル勢力の主張が広がって行かないのはこのためだろう。彼の言っていることの方がよくわかると感じる人が多いのだ。

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DV市長を社会的に擁護する人たち

泉房穂明石市長が辞職した。部下への暴言が原因だそうである。が、フジテレビが曲がりくねった市長擁護論を展開していた。これをみてDV夫などの「有能な人たち」が最終的にとんでもないことをしでかすまで捕まらない理由がわかった気がすると思った。フジテレビはこの種の擁護論を通じてDV被害者の蔓延を助長している。




フジテレビの朝の番組はこんな感じで市長を擁護していた。

  • 明石前市長は部下に暴言を吐いた。とんでもない。
  • でも、市職員も長い間仕事をしていなかったらしい。これはこれで悪いんじゃないか。どっちもどっち。
  • 切り取られた報道がなされた時市長へのバッシング電話が鳴り止まなかったが、市長が辞職を決断すると擁護論の電話が増えた。「暴言」の前後も発信されるようになってきたからだ。これがグラフだ。
  • 市長はいいことをたくさんやっていて、子育てしやすい街ができつつある。「みんな」喜んでいる。
  • でもやっていることはやっぱりパワハラである。
  • 今市長選挙をやっても統一地方選挙までに任期しかない。、今やる必要があったのか?お金の無駄ではないか?

いっけんパワハラ市長を避難しているようだが、実は「巧妙な擁護論」になっている。パワハラはいけないと断罪して見せつつも「いいこともやっていましたよ」と伝える。そして、やることをやらなかったのに非難する職員にも落ち度はあったのではと言っている。高齢者にも子育て世代にもトクな政策が多いのだから、別にやることをやっていなかった市職員がパワハラに遭ってもいいんじゃないかと言っているわけだ。が、思って立ってはそうは言えないので「パワハラ批判」は練りこんでいる。だから、市民の判断で再選されたら「禊は済みましたね」と言えてしまうわけである。

これはよくある「どっちもどっち」論である。セクハラやレイプだと「女性にも落ち度はあったのでは?」という論になる。そしてこれはレイプやDV被害を助長する。告発した方にも落ち度はあったのでは?として告発者が非難され声があげられなくなるからだ。この弊害は前に分析した。どっちもどっち論は判断停止でしかない。社会が判断停止した結果「被害者」が泣き寝入りすることはない。もっと巧妙に「世論に訴えて相手の首を取る」人が増える。つまり、被害者が「弱者でいるくらいなら加害者になった方がマシ」と考えるのである。

で、これがいいことなのか悪いことなのかという話になるのだが、少なくとも泉さんは市長は失格だろう。組織を運営するためには適切に権限移譲して相手を説得したり納得させる技術が必要である。この人はそれができていないし、できていないことに気がついていない。純烈の友井さんと同じ傾向がある。DV加害者は基本的に反省ができないのだ。泉さんは能力のあるいい人だったのかもしれないが、自分一人でできる仕事をやるべきだ。

だが、泉さんが組織運営に向いていないからといって「絶対的な悪人だ」と主張したいわけではない。この明石市長は明らかに、止むに止まれぬ「他人の願いを叶えてやらなければならない」という外面の良さを持っている。自分の所有物である市職員というのはその意味では「自分の切実な欲求を叶えるための道具」なのである。

こうした行為が全てDVにつながるものではないのだろうが、番組の中ではゴミ箱を蹴ったりパーテーションを破壊することがあったと言っている。鬱屈を正しく言語化できず、モノを破壊することで解消していたのだろう。つまり彼の人気を裏付ける行動と破壊衝動はセットなのだ。だが、これは取り立てて珍しいことではない。

自分への不甲斐なさを「所有物」や「部下」や「家族」にぶつけるというのも人間の保護本能ではないだろうか。自分を蹴ったら痛い思いをするからそれはできないのだ。

前回、野田市の小学校4年生が父親に殺されたという事件を見た。FNNの報道によるとこのお父さん(栗原勇一郎)は外面がよくその反面妻や娘に暴力をふるっていたことがわかっている。イライラが解消できず自分の所有物である家族に破壊衝動を向けていたのだろう。しかも「自分がいじめているということがわかったら大変なことになる」と思い、異常な粘り強さを見せて市教育委員会から調査書のコピーをゲットしている。

栗原氏は多分社会では有能な人として通るはずだ。人当たりが良く信念もあり、行動力もあるからだ。だが、この議論は「火はいいものか悪いものか」というような話でしかない。適切に取り扱わなければ大変なことになるが生活には欠かせない。

もっとも、こうした乖離した欲求がいつも破壊衝動に結びつくというわけではない。

安倍晋三というのは評価が真っ二つに別れる首相である。一部の人たちからは熱烈に支持され、別の人たちからは蛇蝎のように嫌われている。だが、この乖離した評判は政権内部に取り返しのつかないダメージを与え続けているという意味ではとても有害である。

厚生労働省はすでにやる気を失っており、官邸が都合が良い情報を出せといえば統計を操作し、その結果統計の取り方が間違っていたということが指摘されると「ああ、そうですね」という。6年間の安倍統治で官僚組織の良心が破壊されたからなのだろうが、これが回復するにはおそらく長い時間がかかるはずだ。彼らは賢かったのでDV被害を受けつつ適応した。それが人格の離脱である。厚生労働省は魂を失ってしまったのである。ボールペンの調達すらままならなかったということで、一部には民主党が予算を絞ったせいもあるのではと言われている。彼らは長い間様々な人たちから叩かれていたことになる。やったことは悪いが、かわいそうとしか言いようがない。

もちろん、安倍首相が悪の政治家であり意図を持って国を破壊しようとしていると主張するつもりはない。むしろ、安倍首相は偉い人(トランプやプーチン)に気に入ってもらいたい、おじいさん(岸信介)に褒めてもらいたいという一心なのだろう。だが、そのためには何をやってもいい、なんでもやらなければならないという止むに止まれぬ気持ちがこの惨状をもたらしている。

安倍首相の影を伝えているもう一つの存在は「何をしてもよいし、何のお咎めも受けない」という身内の人たちである。県知事選を無茶苦茶にしている副首相、静岡県の選挙事情をぐちゃぐちゃにしつつある幹事長、問題のある人たちに接近しては国会運営まで混乱させた夫人などがいる。安倍首相が歩いた後には、DVに適応して何も感じなくなった人、何をやっても許されるのだとして我が物顔に振舞う人、この人は侮ってもいいとして取引を吹きかけてくる人、そして怒りを持った人を生み出す。家庭なら崩壊家庭だし、学校なら学級崩壊である。

問題は、精神的に不安定さを持っていた人たちが社会規範によって「望ましい」という方向に矯正される段階で心に二つの統合できない気持ちを解消する機会を失うという点にあるように思う。つまり弱さを見つめて対処するのではなく補強を測ってしまうのだ。それがどんどんエスカレートしてゆくうちに「身内」を巻き込んで悲劇的な方向に転がってゆくというストーリーである。

明石市長が良い人なのか悪い人なのかということは決められない。だが、明らかに言えるのはこれがお定まりのコースをたどっているということだ。破壊衝動が止められなくなれば誰かが犠牲になるだろうし、そうでなければ組織が次第に目に見えて無力化してしまうはずである。だが、内心がなく損得勘定でしか決められない人達はそれをやすやすと見逃し、被害を助長してしまうのである。

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内心を持たないので問題の共有も解決もできなくなった日本に外国人労働者が溢れる

ネットの政治議論について見ている。日本の政治議論には目的がなく自分を正当化することだけが目的なので議論がプロレス化しやすいのでは?と考えた。これを防ぐためには議論に目的を作ることが必要というのが仮説である。




しかし自分だけで考えていると見落としがありそうなのでQuoraで聞いてみた。ネトウヨとパヨクの議論には何が欠落しているのかという質問だ。

この質問のもともとのきっかけは中国の名前を持っている人と新疆ウィグル自治区について考えたことである。彼は都合の良い情報を持ってきて結論を組み立てているという意味ではネトウヨ的なのだが、そこに至るまでにきちんとした情報処理をしていた。議論そのものに納得したわけではなかったが、あらためてこれが議論だよなと思った。

そこから思い返すと日本人の議論は少し変である。ネトウヨの議論には結論と情報はあるのだが、それをどう内部処理しているのかということが全く見えない。なので論拠の羅列になってしまうのである。Quoraにも韓国を見下すような論壇ができつつあるのだが、ここにある意見はたいてい論の羅列だけで「話に筋道」がない。

質問にはいくつか答えが返ってきたが思ったような答えは戻ってこなかった。もちろん、多くの人が「結論がすでに決まっておりその結論に都合がよい材料だけを集めてくるのがいけない」のだろうという点までは指摘している。ところがインプットとアウトプットの間にあるであろう内部過程について触れた人は一人もいなかった。どうやら「インプットとアウトプットの間に何があるのか」などということは考えないようである。

このプロセッシングが「内心」の全部ではないにしても一部なのかなと思っていたのだが、日本人がここまで「内心」を持たないとは思っていなかった。つまり一人ひとりで感じ方や考え方が違うのではないかという可能性を(提示されない限りは)そもそも考えないということになる。

これは大変恐ろしいことなのではないかと感じているのだが、そもそもそれが恐ろしいという感覚が何なのかも全く伝わらないかもしれない。

一つ目の恐ろしさは「真実は一つしかない」と思い込んでしまう点にあると思う。情報が内部処理なしで結論になるなら、誰が情報を処理しても同じ結果が得られる「はず」である。つまり、正解は一つしかないことになる。だが実際には偏見によって情報が加えられたり、理解できないものを取り除いたりという情報操作は行われている。そもそも物事の解釈は立場によって違うはずで、例えば同じ行為がいじめに見えたり教育に見えたりする。内心を意識しないということはこれが理解できないということになる。つまり自分自身を絶対化しているということになってしまうのだ。

その結果、南京大虐殺はあったとかなかったとかというように「歴史の事実は一つしかないはずだ」という議論が生まれる。確かな真実がここにあるのに相手が折れないとしていつまでも抵抗する人が後を絶たない。なぜ事実は一つしかないと思い込むのだろうと不思議に思っていたのだが、内心や内部処理のプロセスがないと考えるとその謎が解ける。

もう一つの問題点は相手の言っていることが理解できないという問題だ。例えば今国会では根本厚生労働大臣がなぜ国民が怒っているのかさっぱり理解できていないという問題があり、解決のめどが立っていない。これは根本大臣を替えても解決しないだろう。

根本厚生労働大臣は「厚生労働省がごまかしをした」というインプットがあり「でもそれは選挙には影響がない」というアウトプットにつなげようとしている。だが、ここに内心があれば「でも、それは国が誠実であるべきであるという価値体系とはぶつかるのでは?」と考えるはずで、それが罪悪感になるはずだ。だが、根本厚生労働大臣には「そんな内心はない」ので、あのようなすっとぼけた答弁になる。

かといって、根本さんがバカというわけではない。彼は選挙に不利な情報を出さないということだけを一貫して考えており、目の前にある問題を「選挙に有利か不利か」という観点から見ている。

これは厚生労働省も同じである。お手盛りで第三者委員会を作って調査しましたと言っていたのだが、野党が「いやこれでは納得できない」と言い出したので調査をやり直しているという。もし厚生労働省に「隠蔽は恥ずかしい」という内心があれば「内心忸怩たる思い」をするはずなのだが、そんなものはないのだろう。だから「納得しないんだったらやり直しましょう」といってまた嘘をつく。彼らもネット中継で見ると化け物かロボットに見える。

だが、これを展開してみると、野党も「まあ、どこでもごまかしはあるだろうが、これが露見したのが自分たちが政権を取った時でなくてよかった」くらいにしか思っていないかもしれないということになる。こちらは逆に厚生労働省や根本大臣が何を言っても納得しないだろう。彼らも選挙に勝ちたいだけだからである。つまり、国会では「選挙に勝つか負けるか」ということが優先されるあまり、国の統計はどうあるべきかということを誰も考えていないかもしれない。

だが、これを展開するともっと恐ろしいことになる。厚生労働省の不正に納得していますかと聞かれると多くの人が「いや納得できない」と答えるそうである。普通「政府は国民の信頼を裏切るべきではない」からそう答えているのだと思う。だが、それで内閣の支持率が変わることはない。つまり「嘘をついていいかと聞かれたからダメと答えただけ」なのかもしれない。つまり、内心や内部のプロセッシングは全くなく、単に「自動的に右から左」に回答しているだけということになる。

このように誰にも内心がなく単に右から左に情報がやり取りされているだけという図になる。こうした条件下では「消費税増税=下野」くらいの投票反応しか得られなくなる。これでは民主主義に必要な議論など起こりようがない。

一つひとつは大した問題ではないが、私たちはこうして身の回りの問題に対処できなくなりつつある。例えば、群馬県の鶴の尻尾だか頭だかに当たる地域は東京まで東武電車が通っている。そこで若者が東武電車に乗って東京に流れてしまう。地域の雇用を守るという約束で誘致したはずの工場はいつの間にか派遣労働者で溢れ、それでも人が集まらないとなると外国人ばかりになった。

こんな伊勢崎市で、「私たちの権利は誰にも奪われない」として「人権は相続権である」というめちゃくちゃな議論を続けることは可能である。結論は先に決まっているうえに、理解できないものは理解できるレベルに落としてしまい都合の悪い議論はすべてシャットダウンしてしまうから、彼らが議論に負けることはないからだ。

しかし、彼らが議論に勝っても外国人が街から消えることはない。外国人を呼び込んでいるのは彼らが心酔する安倍政権だ。そして、外国人を市民として受け入れない限りは伊勢崎市の不確実性は増してゆくだろう。地域にも溶け込めず意思決定にも参加できない人たちが増えてゆくが彼らの私生活を監視する人などいないからである。収容所に囲って不況になって用済みになれば返っていただくということをでもしない限り、不法滞在者も増えてゆくはずだ。工場は用済みになった外国人の首を切るだけで帰国までの面倒は見ない。堕落した日本の工場にとっては労働者もまた看板方式で管理できる部材なのである。

経験したことがない人はわからないかもしれない。工場地域のイートインスペースでは言葉がわからない外国人が昼ごはんを食べに集まってくる現場に遭遇したことがある。たまたま休日だったので日本人は休んでいたようである。たまたま派遣労働者の数よりも外国人が上回ったというニュースを読んだばかりなので「ああそうなんだな」と思った。彼らが日本滞在に満足してくれていれば我々も安心して食事ができるのだが、もし仮に「潜在的な不安を抱えていたら」と考えるとかなり恐ろしいことになるなと思った。何かの拍子にぶつかったとしても多分彼らは日本人が何を言っているのかわからないのだから、謝ったり説得したりということも、そもそも彼らが何に怒っているのかすらわからない。

問題は起きているが何が問題なのか共有できないという社会を既に我々は生きている。昭和から平成にかけて社会人になった人たちは正規雇用前提の職場が非正規雇用化して何が起こったのかを知っている。職場が分断され、様々な問題が「なんとかハラスメント」という形で表面化している。「なんとかハラスメント」はすべてマネジメントのイレギュラーケースなので、職場は問題解決能力を失っているということになる。

だが、我々はこれに対処できない。最近社会人になったくらいの人たちはそもそも終身雇用前提の時代を知らないので「なんとかハラスメント」が職場で解決されていた時代を知らない。だから、問題の発見も共有もできなくなった。したがって「なんとかハラスメント」が解決することはない。

我々はこうした社会の分断を今度は街中で目撃することになるだろう。多くの人たちが気分良く議論に勝っている間にもこれが進行する。表面上は戦争状態ではないが、敵が見えない分戦争よりもっと厄介かもしれない。これが内心を持たないことの恐ろしさの一つなのだろう。

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日本人が「自分の頭で考える」とどうなるのか

時々同じTweetが別の人たちから流れてくる。伊勢崎市という田舎の市議会議員さんのこれである。




すでに、このブログを読んでいらっしゃる方ならわかると思うのだが、ここで言っている主権という考え方は、多分村落共同体の入会地の権利のことであろう。イメージしやすいのは水田に水を引く水源地である。それを相続権という言い方をしており、伝統的な考え方が日本人の公共のイメージをゼロサム世界で縛っていることがわかる。既得権という意味に置き換えて使う人も多いのだが、既得権も多くの人に分け与えようとすると減ってしまうという含みがある。

この市議会議員のバックグラウンドはよくわからないのだが主権という言葉の使い方が乱雑なところから見ると政治的な教養はないと思う。主権は国家主権であって、彼らが(多分一人の意見ではないのだろう)気にしているのは新規住民の天賦人権のことだろう。なぜこの二つがごっちゃになっているのかはわからないのだが、漢字の「権」がついているから同じようなものだろうと考えているのかもしれない。

さて、「人権」や「主権」がどのような由来で生まれた言葉かということは調べればわかるはずだ。つまり、彼女たちはこの言葉を調べないままで使っていることになる。最初は興味がないからなのではないかと思ったのだが、いろいろ調べてみてちょっと考えが変わった。パニックにおちっているのではないかと思う。

このTweetが問題にしているであろう外国人の天賦人権が認められるべき理由は、移民が持つ新しい知識がその社会を成長させるからである。そもそも「成長する社会」が前提になっていて、新しい知識をマネジメントする能力がその社会に備わっている必要がある。ところが、安倍政権がすでに起こしている地方の混乱はこれとは全く異なった多様性を生み出している。そしてこの多様性は「よくわからないままによくわからない人たちが入ってくる」という状態を生み出しており、これでアレルギー反応が生まれるわけである。

このTweetを問題にする人が多いのは、天賦人権という言葉をないがしろにする人が増えているからだろう。流れとしては片山さつき(現大臣)の人権無視の発言と憲法改正議論が念頭にあるのかもしれない。伊勢崎市のこの議員も片山さんの発言を念頭においている可能性がある。

社会が複雑になると人々の権利がぶつかることが増えるうえに、見たこともなければ聞いたこともない権利を主張する人が増える。それが理解できないとついつい「異議申し立てをしている人」の口を塞ぎ、上から布団をかけて絞め殺そうとする。だから保守の人たちは天賦人権を嫌う。理解できない上にマネジメントもできないからである。ここでいう保守というのはすなわち「知っていることしか許さないし扱えない」という考え方のことである。つまり保守は歴史ではなく「私の知っている世界」のことを意味しているに過ぎない。

保守は「私が知っているものしか認めない」という知的敗北のことなので、保守理論家が自分で新しい状況に対応しようとすると大変なことが起こることがある。例えば一神教を理解できなかった明治維新の人たちは、それでも「ドイツの皇帝のように天皇も理論化しなければ」と考えたのだろう。そこで知っている道具箱を探して生まれたのが「お父さんやお母さんを大切にしてみんなで仲良くしよう」と「長い間あるものはきっとありがたい」という価値観の組み合わせだ。これが教育勅語である。彼らの時代にも情報はあったはずだが、彼らはそれを扱おうとはしなかったし、扱えなかった。

ところがこの論理ではまず「言語体系が違うアイヌの人たち」を理解できず、中国との関係の深かった同系の言葉を話す沖縄や、歴史も言語も異なる朝鮮半島も統合できなかった。日本人を定義できなかったので「日本人以外」を定義できず、ゆえに彼らをどう扱っていいかがわからなかった。それでも戦争に勝ってしまう。するといよいよ日本の統合原理としての天皇の位置付けを理論化しなければならなくなる。しかし、政争に利用され議論そのものを萎縮させてしまった。戦前の日本もまた目の前の選挙に勝つことの方が重要な社会だった。そうこうしているうちに日本は戦争に負けてしまい、天皇は日本国民の象徴ということになった。そのため、今でもアイヌや朝鮮系の日本人を「なかったことにしたい」人が多い。日本国民を彼らの気に入るように定義しようとすると多民族性が扱えなくなってしまうからである。

例えば、Twitter上でアイヌの人たちに「アイヌ人はいなかった。いると思うなら定義してみろ」という人がいる。だが、よく考えてみると日本人は三、四代すると先祖が辿れなくなってしまう人が多い。何が日本人なのか私たちは定義できないのである。

冒頭で挙げた伊勢崎市議の妄言も、よく理解できない人権や主権という概念を村落の入会地の権利のような限定されたリソースの問題に置き換えて理解している。暗記中心の教育のために途中の議論がすっかり抜けている。だから自分で考えると「主権は田畑を潤す水源地の利用権のようなもの」ということになるのだろう。これを議論して導き出したというところに痛々しさがある。

だが、彼女たちの倒錯はこれだけでは理解できない。実は複雑な問題が絡んでいる。群馬県という衰退する県の鶴の尻尾にあたる地域は外国人が増えている。ブラジル人街ができている大泉町と伊勢崎市は太田市を挟んで東西に位置するが、実はこの3市町は外国人が多い上位3つ(群馬県庁)なのだ。気がつくと周りは言葉の通じない外国人だらけだが、彼らはこの状態をどうすることもできない。多分何が起こっているのかさえ理解できていないのだろう。実は外国人労働者の数は派遣労働者をしのいでおり工場労働では置き換えが始まっている(日経新聞)ようである。これを推進しているのが安倍政権だが、保守は安倍政権は批判できないので、攻撃対象を外国人や人権を主張する人たちに向けている。

だから、彼女たちに議論をして彼女たちが勝とうが負けようが、この現実は変わらない。日本の経済は衰退しており外国人の低賃金労働に依存しなければ成り立たなくなっている。外国人労働者も人間なので、仕事がなくなったら「はい帰ってくれ」とは言えない。200万人を越える外国人を数千人(産経新聞)の職員で取り締まることなどできない。不法滞在の外国人に頼れば最低賃金も払わなくて済むのだから、これに依存する地方の産業は増えてゆくはずである。

しかし、実際に自分がこうした「不毛な戦い」を経験してみると、それにも理由があることがわかる。人格を挑発され論の不備を指摘されるとそれを正当化したいという気持ちが生まれる。目的がないままでこうした論争に「首をつっこむ」とついつい、論争の無限ループに入ってしまう。が、勝手も負けてもステータスがはっきりしない外国人はいなくならないし、地域で日本人が彼らをどう扱っていいかという議論をやらなくてすむ理由にはならない。例えば参政権を与えないということは「ルール策定に責任がない」ということでもある。非正規職員が職場を分断したのと同じことが今度は「非正規住民」という形で社会に広がる。日本人は平成の30年間で経験してきた息苦しさの意味をさらに苦い形で味わうことになるだろう。

我々は伊勢崎市議会議員の妄言をみるとついそれをたしなめたくなる。しかし、その議論に勝つことには全く意味がない。目の前にある問題は何一つ片付かないからである。

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立憲民主党が支持を取り戻すにはどうしたらいいのかQuoraで聞いてみた

立憲民主党が支持を取り戻すのはどうしたらいいのかをQuoraで聞いてみた。安倍政権はひどいと思うのだが、それでも野党への支持は一向に集まらない。これは日本の危機だ!というわけである。ただし、立憲民主党としてしまうと限定されてしまうので「旧民主党系」とした。すると、意外な回答がいくつか戻ってきた。




そもそも、立憲民主党に何とかして欲しいのは「安倍政権が暴走してもらっては困るから」である。だから「当然政権をとって欲しい」と思っているわけだ。だが、Quoraの回答者たちは「抵抗勢力」を欲しているようなのである。つまり、政権が取れなくても構わないと思っているようなのだ。

日本人は議論による問題解決を望んでいないというのが、これまで政治について扱ってきた中での結論である。もともと二大政党制は表面的には「日本を良くする複数のアイディアをコンペしよう」というような考えで始まっていると思う。が、実際にはそんなことは起こっていないのだし、誰もそんなことは期待していないようである。日本人が暗黙の前提にしているのは、限界があり成長できないゼロサムな村落なので、自民党政権がいい思いをすると他の人が損をする。だから村人を好き勝手にさせない「邪魔をする」野党が求められているのである。

ところが、これだけだと議論は行き詰まる。今、野党は与党の邪魔をしているだけだが支持は集まっていないからである。政治に求めるものが他にあるのではないかと思った。いろいろ探してみてたどり着いた答えがある。

沖縄の問題でハンストをしている人に「なんだラマダン方式かよ」と揶揄する人がおり、それに「ラマダンの本質を知らない」とカウンターを返している人たちを見つけた。とても不毛な議論だが、考えてみればこの「突出している人を許せない」という気持ちや、それについて反発を覚えた人たちが表面的な知識で応戦するというのは実はよく見られる光景である。保守が僻んで言っているのはまあ仕方がないとして、カウンター側が「自分たちの意見も聞いてもらって当然」と言えないところにある種の屈折を感じる。日本人は社会承認を受けることを自らに禁止しているのではないかと思う。

たまたまPinterestで「夫が風邪を引いて寝込んだのを見るとイライラする」という記事を見つけた。画像は途中までしかなく、なぜそんなことでイライラするのかがわからなかったのでリンク先を読んでみた。

妻が腹をたてる理由は実にくだらない。夫が寝込んだら私に面倒をみてもらえるのに私は少々風邪を引いても我慢しなければならないということに腹を立てているようなのだ。ただ、その怒りは彼女の人間関係の本質になっている。くだらないからといって放置していいというわけではない怒りなのである。夫婦の解決策は「本当に思っていなくてもいいから思っていなくてもいいから大丈夫と言い合う」という対処療法的なものだった。

日本社会は「経済的に勝てなく」なっているので、無駄な労働がなくならない。そして無駄な労働は決して褒めてもらえない。結果主義の日本人は成果を伴わない労働を自らにも他人にも認めようとしないのである。だから、勝てなくなり成果を伴わない結果的に無駄な働きが増えて行くと「世間から放置されている」という気分になるのだろう。

群れで生きてゆく動物としてのヒトは無視を痛みとして感じる。科学的な研究も出ている。(無視は本当に痛い?)だが、人々はもう根本的な解決を諦めてしまっているのだろうと思う。もう家族であっても他の人のことを気にする余裕はなく、その状態も薄々わかっている。だから「思っていなくてもいいから」という言葉につながるのだろう。つまり、とりあえずお互いを叩くのをやめましょうということである。

誰もが報われないという痛みを抱える社会では、ハンストをする人たちが注目を集めてしまえば「彼らだけが世間的に評価されている」ということになってしまう。それは「本来は自分が注目されるべきだったのに」という痛みになるのだ。まるで芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のような話である。

同じようなことがNGT48の山口真帆さんの時にも起きた。「売名だろう」と簡単に切ってしまっている人がいた。これも自分だけ名前が売れるのは許せないという気持ちの表れになっているのではないかと思う。つまり「誰かが成功するのは許せない」という気持ちが国中に蔓延しており、誰かが注目されると彼らの痛みではなく「自分が注目されなかったこと」が思い出されてしまうのである。

そもそも野党支持者になっている人は「自民党政治で豊かになる人が増えるのは困る」と感じている人たちだ。実際に安倍晋三という嘘の政治家は人々の異議申し立てを無視し「あんな人呼ばわり」して日々人々の痛みを刺激し続けている。あれは痛みを感じている人をさらに叩いているのと同じなのである。だが、痛みに敏感な人は野党が政権与党に返り咲くことも好まないはずだ。多分野党は政権党になれば彼らのことは忘れてしまうだろう。自分が勝てないなら誰も勝たせてはならないという縮み思考があるわけである。

このブログではついつい話し合って問題解決をすべきだという西洋的な理屈で議論をしてしまう。だが、日本人はそのようなことは期待しておらず、俺だけが我慢させられるのは許せないから周りも同じように苦しめばいいと思っているのかもしれない。

これを防ぐ方法も実は簡単だ。つまり、誰かを貶すのではなく支持者たちを褒めて褒めて褒めまくればいいのである。下手したらポピュリズムに陥ってしまう手法なのだが、多分勝てなくなった日本に今一番足りないのは「社会的承認」なのだろう。

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コミュニティの開発にはお金がかかるのかも

いまQuoraが面白い。Twitterと違って実名(ただし明らかに偽名の人も多いのだが)なのでコミュニティの質が保たれている。よく日本人は議論ができないなどと言われるのだが、それが本当ならQuoraにいる人たちは日本人ではないことになってしまう。




Quoraが面白いのには理由がある。モデレーションがしっかりしているのである。英語版はそこそこ歴史があり、YahooのQ&A(日本では知恵袋)の失敗を参考にしているようだ。多分、炎上を呼ぶような書き込みはできないし、質問に答えていないとか短すぎるものも折りたたみの対象になってしまう。このためにTwitterのような感情的な議論の応酬にならない。割れ窓理論ではないが「見られている」となるとみんな自制的に対応するようになる。するとある程度の議論の質が保たれるというわけである。

試しに、英語版で捕鯨の質問をしてみた。環境問題は感情的になりがちなテーマである。船を沈めろという回答があったが、そのあとにノルウェーが捕鯨をしても誰も何も言わないのだからこれは人種差別なのだという書き込みがあった。つまり、感情的な対応は抑えられ、抑制的なフォローアップがつくのである。捕鯨で日本だけがターゲットになるのは人種差別なのではないかという議論があるそうだ。

もちろん問題が全くないわけではない。すでに中国や韓国に対してあまり根拠のない書き込みが始まっており「その手の人たち」が集まっている。ただ、こういう人たちに対して攻撃的なコメントはない。彼らは放置されており自分たちだけの村を作っている。「K-POPのようにくだらない音楽が人気なのはなぜか」という質問には多くのK-POP寄りの分析が寄せられ、期せずしてK-POP擁護論になってしまった。

ではTwitterにいる人たちが劣っていてQuoraが優れているのかということになるのだがもちろんそんなことはない。Twitterにも有用なコメントをする人はいるし災害時には有用なメディアになるだろう。ただ、普段はみんなが自分たちの言いたいことを叫ぶだけのメディアになっている。これはTwitterのモデレーションが自動化されている上に、運用基準が透明化されていないからだろう。つまりコミュニティの管理にお金をかけないで多くの人を集めてしまうと場が荒れる可能性が高まってしまうのだ。

場が荒れる理由は一つではない。もちろん、あからさまなヘイト発言や政権擁護の発言が場を荒らしているのは確実だ。女性がレイプ被害にあるのは女性にも隙があったからだろうとか、日本人に人権はふさわしくないというようなものである。ただ、これに対応する人たちにも学術的(あるいは常識的に)に反論するスキルがないので、次第に議論が泥沼化する。野党がだらしないために国会の論戦が泥沼化するのにも似ている。どっちもどっちなのだ。

言論の質を保とうとすればお金がかかる。だから、例えば出版が荒れているのは出版が斜陽産業だからなのだと結論付けても構わないのだと思う。最近百田尚樹の本が話題になったが、あれもWikipediaをコピペしたような文章を校閲なしで出したことがわかっている。校閲のコストをTwitterに押し付けているからあの程度の本が出せてしまうわけだが、他の出版社もそんな感じなのかもしれないし、本屋に行くような人たちもあの程度の本しか理解できない。つまり、出版界は確実に砂漠化が進んでいるから百田尚樹が歴史本を出せるのだと言える。

ただ、この「コミュニティにお金がかかる」というのは結果的には日本をリベラルにするが、リベラルには都合がよくないように思える。リベラルという政治的ポジションに立つ人たちは政府ではなく草の根の活動によってコミュニティを盛り上げたいと考えている。市民が集いさえすれば政治はもっとよくなるだろうと考えるのが一般的である。ただ、経済活動そのものにも懐疑的な人が多いので、つい「ボランティアによる自発的な」コミュニティ維持を目指しがちなのではないかと思う。戦争より経済にお金を回せといいつつも、金儲けは嫌だなどと言ってしまう。

加えて、リベラルの人たちは勉強しない。それは人権についての不毛な議論を見ているとよくわかる。Twitterだけを見ていたとき「日本人は議論ができないからこうなるのだ」と思っていたのだが、実際には単なる勉強不足だろう。だから感情的に反対したり誰かのTweetをリツイートすることしかできない。実は議論ができない人たちが議論をしているだけなのである。議論が進めば日本はもっとリベラルな政治価値を許容することができるようになるかもしれないのだが、それなりの話し合いのある空間にはリベラルは入ってこれない。

「誰もが入ってこれるコミュニティ」は誰もが民主的に発言できるがゆえに「荒れる理由・荒らされる可能性」が増えてしまう。専門知識を元に発言をするにはスキルが必要だが「それはくだらない」とか「私は絶対に認めない」というのは無料だからである。

民主的なコミュニティを作るにはお金もかかるし誰もが平等に参入できるわけではないというのは意外と受け入れるのが難しいことなのかもしれないと思う。つまり、民主的なコミュニティは民主的には作れないということになってしまうからである。

ここまで一生懸命に書いてきたが、多分リベラルを自認する人は「今日は用事があるから」明日から勉強しようと言い訳をして決して自分から質問したり回答したりするコミュニティには寄り付かないかもしれないなあと思う。

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山口真帆さんの問題に戸惑う日本人男性のなんと多いことか

NGT48のメンバーである山口真帆さんの問題で松本人志さんが炎上しそうになっている。指原莉乃さんが怒りを抑えている表情が印象的でしばらくぶりにワイドナショーを見ていたのだが、松本さんが例の問題発言をしたときに「ああこれは大変なことになるな」と思った。




女性が性的被害を受けた時社会が適切に対処できないという問題はかなり前から積み重なっている。伊藤詩織事件も未解決のままであり、今回の問題も不起訴処分になったことからうやむやに終わりそうだ。女性がリスクを抱える一方で、問題の根幹には男性の当事者意識の薄さがあるように思える。試しにQuoraで山口さんが謝ることの是非を聞いてみたのだが「世間に対して謝るのは馬鹿馬鹿しいとは思うが仕方がない」という意見が寄せられたのみだった。ここでリクエストに応じて答えてくれた人たちは普段から実名でコメントしており特に社会的な常識から外れた人たちというわけでもない。にもかかわらずやはりこのくらいの認識でしかないわけである。松本さんはある意味この意識の延長でしかこの問題が考えられていないのだということになる。

ただ、この意識のなさと無防備さは問題になりかねないなと思った。一人は「経済的にトクをするのではないか」と指摘していた。確かに仮説としては成り立つが、すでに伊藤詩織事件の時にも問題になった考え方なので、公共にこの意見を無防備に晒すのは社会にとって有害であり個人にとっても危険である。

また、「世間学」という学問を持ち出して、世間を騒がせたことは穢れになるというような言い方をしている人がいた。この議論を展開して行くと、性被害者は世間に異議申し立てをした時点で穢れたことになってしまうので黙っていろということになるので、コメントでそれを確認した。すると高評価が戻ってきた。つまり「それを是認した」ということである。ただ、実名でこうした意見を言っているところから悪気は全くないはずだ。

世間学の人は「僕自身はそうは思わない」としているので、個人としてはリスクヘッジをしているつもりなのだと思う。ワイドナショーが「芸能人が意見をいい合う」としてリスクヘッジしたつもりになっているのに似ている。

日本人は公共を理解しないので社会と個人を分離することがある。だから「私はそう思わないが」というのがリスクヘッジになるのだろう。Quoraは一見会員制のサービスに見えてしまうので(実際には公開されているわけだが)村の中にいるような安心感も得られる。

松本さんの発言にも同じような傾向が見られる。「娘がいる自分は」というようなことをおっしゃっていたと思うのだが、実際には指原さんを「いじろうとして」お得意の体を使った……などと言ってしまった。番組の性質上笑いに落とさなければならないという本能が働いたものと思われるが、明らかに処理できなくなっていることがわかるのと同時に「指原さんは同じ芸能人だから、これが笑いという約束ごとなのだと理解してくれるだろう」と甘えているのだろう。

ところが指原さんは当事者の一人であり、なおかつ女性の代表として公的に振る舞わなければならないということが理解できている。一方で松本さんが芸人として甘えてきているということも理解している。そのためにこの発言をどう処理していいかわからなくなり「この人やばい」と言っていた。ここでは明らかに指原さんのほうが賢かった。松本さんはワイドナショーがムラと公共の間にあるということが理解できていないが、指原さんはわかっているのだ。

ここに見られるムラビト意識は公共と自分たちの生活圏を意識的に分割する思考様式だ。日本人は対話を通じて親密なかばい合いの共同体を作る。問題があっても誰かがかばってくれるだろうという「あの日本人ならば誰もが感じたことがある」安心感である。

だが、燃え残りの問題が山積している地雷原のような話題の場合、これはとても危険な態度である。彼の発言は実際にはテレビを通じて「お笑いの大家であり誰もが気を使って当然」という松本さんの事情に忖度しない消費者の半分を占める女性を怒らせかねない。そしてその怒りはスポンサーへの不買運動につながりかねない。

フジテレビが今回のビデオを流してしまったのは、山口さんの問題を「芸人がいじっても良い程度の軽い問題」と考えているか、芸人が扱うのだから世間が大目に見てくれるだろうと思っているからだろう。そもそも甘えを前提にしている。一方で、企業としての社会責任は放棄している。個人の意見が蓄積して社会の意見になるとは考えていないし、視聴者が連帯して不買運動を起こしてスポンサーに害を与えかねないとも思っていない。

この手の問題を語るときによく集団としての日本人について語られる。すると「か弱い女性に対して世間は冷たい」というようなことになってしまう。だが、一人ひとりの日本人男性について見てみると必ずしも悪気があって言っているというわけではないということはわかる。問題はむしろ公共と個人の関係の希薄さである。日本人は一人ひとりの何気ない意見が世論を形成するとは思っていないのである。

日本人は今の所、自分たちの発言が集積して社会になるという意識は持てていない。それは、普通の人たちだけでなく、タレントやテレビ局まで共通しているマインドセットなのだろう。だが、テレビにしろSNSにしろこういうマインドセットでは乗り切れなくなっている。実は私たち一人ひとりの何気ない意見が社会の空気を作っており、それが思っているより多くの人に注目されてしまっているからだ。

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