「バカ」について再検証してみた

前回「バカ」について書いた。ここでいう「バカ」とはコミュニケーションを阻害する要因のことであり、知能について言及しているわけではない。




前回はかなり決めつけて書いたところがあるのだが、本当にそうなのかなと思ったので後追いで検証してみた。今回はアンケートをつけたので参加型で楽しんでいただけた方も多かったのではないかと思う。参加者の皆さんには改めて感謝申し上げたい。

前回「バカ」と書いたので論理構成を読むのが正解だと思った方もいらっしゃるかもしれないのだが、アンケートの結果には実はあまり意味がない。実は論理構成こそ全てで心理行動特性について考えない人も「第三のバカ」である。前回「全員がバカ」とかいたのはそのためだ。

ここで重要なのはこの文章には二つのことが書かれているという点である。つまり党派性に着目する人は「結果としてアベノミクス」が失敗だったということに着目するだろうし、論理構成や問題解決に興味がある人は「その原因が何だったのか」ということを気にするはずなのである。

ここで重要なのは「一方に着目したから一方が見えなくなる」というわけではないというところである。つまり、色に着目したから形が見えなくなるというようなことにはならないのだ。だが、党派性はなんらかの形で論理理解に影響を与えるはずである。

いずれにせよやりたかったのは「ああこの文章にはいくつかの側面があるんだな」ということを知ってから文章を読んでいただくということだった。そもそも「日本人は正解にこだわりすぎる」などと書いているブログで「正解のあるアンケート」など出るはずはないのだから、二者択一はおかしいのでは?と思った人が多かったのではないだろうか。ちなみに文章にはアベノミクスは「失敗」とは書いておらず「ごまかし」と書かれている。

さて、これを踏まえてQuoraの質問の方をみると面白いことがわかる。読んでいる人はちゃんと両面を読んでいる。当たり前のことだが、みんなそれほど「バカ」ではないのだ。そして読んでいない人もいる。4人の回答があったののだが切り口は様々である。

一人目は論理構成に注目して「失敗したとは書いていないですね」と冷静に分析している。この人は福島第一原発の問題にも食いついてきていて「原発事故のあとに乳児の心臓奇形手術が増加したのは検診制度が上がったからだ」と回答していた。つまり反政権を冷ややかに見ていて「パヨクが騒いでいるだけ」と思っているのではないかと思う。別の要素があるからといって全てを棄却してしまうのは科学的とは言えないとは思うのだが、それはそれとして「個人の意見」としては尊重すべきだろう。

別の人はかなり長く書いている。この人は論理構成を見ているのだが、質問者が「党派性に着目した質問をしているのだろう」と決めて書いている。自らは政権擁護の立場なのだろう。この文章そのものが彼の党派の意見とは異なるので、論理構成を眺めた上で「こんなものは認められない」と言っている。これが党派性を意識した回答だ。前回「第一のバカ」を書いた時には論理構成が「見えない」としたのだが、この人は論理構成は見えている。ただ、いくら彼を説得しても無駄である。党派に合わない意見は全て棄却されてしまうからである。つまり党派性は情報の取捨選択に影響を与えているのだ。ただ、よく読むとこの人は実は消費税増税には反対なのである。このため彼の党派性は崩壊しかかっている。かろうじてこれを防いでいるのは「反対党派を否定したい」という気持ちなのかもしれない。

別の質問でも一貫してアベノミクスについて攻撃を続けている人が書いた回答は絶叫になっている。この人は多分文章を読んでいない。いつも同じような図表を取り出して同じようなことを書いているからだ。この人は「みんなこんなに正しいのに聞いてくれない」という気分になっているのだろう。情報の取捨選択以前に視野が狭まっている状態だと言える。

この二つを読むとなぜ野党が支持されないかがわかる。つまり、野党の支持者はアベノミクスが失敗でなければならないので「そもそも人の話を聞かない」のである。さらに、こうしたコメントは定型化されているので、反対側の信念を持っている人はこれを聞いておらず「ああまたか」といって自動化された(政権が準備してくれている)コメントで情報を遮断する。ただ、人は自分の話を受け入れてくれる人を好ましいと思うわけだから、アベノミクス反対を叫び続けている人に好感は持たない。「聞いてもらえていない」という態度がますます人を遠ざけるという悪循環がある。

重要なのは彼らのコメントにはそれぞれ受け入れるべき点があるだろうということだ。だが、ここまでくっきりと前提条件が異なる二つの「お話」になってしまうともはや統合は難しい。

我々は「最初のテキストが党派性と論理構成の二段構えになっている」ということを知っているので、これらのテキストをいくぶんかは冷静に読むことができる。そして、実質賃金そのものについて考える人は意外と少ないのだなということもわかる。経済政策なのだから当然「良かった点」「良くなかった点」「そもそも関係のなかった点」がありそれを冷静に分析しなければ問題は解決しないというのは、考えてみれば当然のことなのだが、休みなく<議論>していると意外と気がつかない。そして、冷静になって初めて残りの一人が「よくわからないけど、すすきのにはアベノミクスはこなかったようです」というつぶやきに近いコメントの意味を考えることになるのだろう。

最初の文章で「みんなバカだ」と書いたのだが、実は「みんな騙されてしまう危険性を孕んでいる」という意味であって「理解しようと思えば理解できるのだ」のである。だが、政治運動会はそんなことを全て忘れてしまうほど楽しくて麻薬的な魅力に溢れているのだ。

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人材に投資しなくなった日本は韓国に負けた

日本のエンターティンメントが韓国に負けているというエッセーを読んだ。人材に投資しなくなったことで負けてしまったのだ。日々嫌韓に勤しんでいる人には耳を塞ぎたくなるニュースかもしれないが、K-POPが日本で人気があるのは偶然ではない。日本のエンターティンメントが堕落してしまっているからである。以下、詳細を見て行こう。




AKB48の影響力が下火になっていて2019年は総選挙をやらないそうだ。きっかけになったのはAKB48グループからK-POPのオーディション番組であるプロデュース48に出場者を送り込んだことらしい。リアリティーショーでさらされることにより韓国と日本の育成システムの差がはっきりと現れてしまったのだ。国内リーグはメジャーに行けなかった人の溜まり場になってしまうのでコンテストをしても意味がないのである。面白いのはこのプロデュース48という番組が地上波ではやっていないという点である。にもかかわらずこのインパクトは相当なものだった。政治ニュースで「NHKが取り上げない」ことがよく問題になるが、実はこれは有権者が高齢化しているからなのだ。

記事によると、AKB凋落の直接の原因はビルボードチャートの導入だそうだ。筆者はビルボードチャートについて「CD販売数だけでなく、音源ダウンロードやストリーミングでの再生数、動画再生回数など7つの項目で楽曲をランキングしている」と書いている。このためCDの売り上げ=人気という偽装ができなくなってしまったのである。アベノミクスが既存統計をハックすることで好況を偽装してきたのと似ているが、こちらはもっと単純に「おまけをつけてCDを売ればいいのだ」というようなことをやっていた。このランキングを元にキャスティングが決まるのでテレビでの露出も増えるというようなからくりである。が、足元ではパッケージ離れとテレビ離れが起きていた。

ところが48グループの真の問題点はもっと深いところにあったことがプロデュース48で露呈してしまった。韓国では若い人たちに投資をして競争をさせる。だが、日本では「そこそこの人たち」を出してきてチャートに合わせて人気を演出しさっさと売り出してしまう。つまり、日本人は人材にお金を使わずシステムに依存してしまうのである。つまり日本人が劣っているわけではなく、日本社会がやる気のある人たちを生かしきれなかったことが今回の人材流出の背景にあるのだ。

これはMBAで海外の経営を学んできた人たちが日本でその知識を生かせなかったのに似ている。日本がまだ「Japan As Number1」とされていた時、企業はハーバード大学やウォートンビジネススクールなどに多くの人材を送り出した。彼らはMBAで多くのことを学んだがそれを生かすチャンスはなかった。派遣元の経営者たちが抜本的な改革を嫌がったからだ。結局MBAホルダーたちは日本で埋もれるかせっかくお金を出してくれた企業を「裏切って」外資系に転職するしかなかった。

同じようなことがこのエッセーには書かれている。高橋朱里という人のインタビューが引用されているのだが、これは多分高度経済成長期の終わりにMBAホルダーの人たちが持っていたのと同じ感覚なのではないかと思う。私は一生懸命やりたいがそれが認められる土壌がないから私は外国に行きますと言っている。そしてそこにはファンも含まれているのだ。ファンを見切ったというのは少し胸が痛くなる話だ。

そのつもりで私はやってます。だけど、全体のシステムを変えることは難しいと思うし、それを強要するのはファンのひとに対しても違うと思うんです。

松谷創一郎「高橋朱里が『PRODUCE 48』で痛感した『日本と韓国の違い』」 『現代ビジネス』2019年1月22日/講談社

これを読むと、日本はこの平成の30年の間「優秀で熱心な人たちを生かせず外に放出してしまう過疎の村」から脱却できなかったことがわかる。私たちは何も変えられなかったのかもしれない。

ここにきて48グループ商法は急速な劣化を見せている。一つはマネージメント能力の劣化である。秋元康に忖度して偉くなった人が多いのだろう。NGT48で山口真帆がファンから暴行を受けた問題では山口本人が釈明記者会見にリアルタイムで反論し会見は3時間に及んだそうである。(スポーツ報知

また、京都では外国人に向けて8,640円という値段をつけた公演がうまく行かず戦略の大幅な見直しを余儀なくされているそうだ。(京都新聞)こちらは秋元康が総合プロデュースをしているそうだが、日本では実力を偽装できても外国人には全く通じなかったことになる。週刊プレイボーイで中身が見られるが惨憺たる仕上がりだ。ただ日本のシステムに慣れきっていてインターネットを知らない秋元さんに総合プロデュースを任せるのは少し酷な話なのではないかと思う。

筆者が「48グループはランキングの仕組みをハックして自分たちの実力をより以上に見せていた」と書いていたのだが、同じことが政治の世界でも起こっている。現在の政権は統計をよく見せたり、株価を底上げすることで「経済はうまくいっているのだな」という印象操作に成功した。このことが「印象さえ操作できれば本質は変えなくてもいいのだ」という怠慢につながり、実際の経済が国際競争力を失うことにつながっているということに、もう多くの人が気がついている。そして優秀な官僚はその手腕を発揮することができなくなり日本のトップ人材を引きつけられなくなってゆくだろう。有権者に見切りをつけて優秀な人は海外を目指すのだ。

政治の世界が問題なのは、音楽のように「新しい要素を取り入れた統計を作ろう」という動きが全く出てこないところである。それができるのは、今政権の中にいない野党の人たちだけであろう。中には経済通の人やもともと日銀で働いていた人などがいる。つまり、やろうと思えばそれを作ることができる人たちがたくさんいるのである。にもかかわらずそういう人たちに光が当たっていないように思える。野党もまた人材を生かすトップリーダーがいないのだ。

日本のエンターティンメントはK-POPに負けつつあるが、ジャニーズのように現役出身の若手を起用してネット活用を模索し始めた会社もある。日本人はもともと優秀なのだからやり方さえ変えればきっと復活できるだろう。海外のアーティストにもアンテナを張っているファンがいるからこそ「これではまずい」という危機感を持つことができるのである。なので、政治や経済の分野でも同じことができないはずはないのだ。

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最低賃金が引き下げられて、都会では貧困層が生活できなくなる?

先日、厚生労働省の武田賃金課長が韓国で立ち回りを演じてニュースになった。マスコミはこの話題を「春先に変な人が出てきた」という論調で伝え、Twitterもそれに乗っかってしまっている。このTwitterのおかげで政府は本来の議論を隠すことに成功した。Twitterも使いようなのだ。




この文章を読んでいる人たちを含めた全員が「バカだから騙された」という前提で議論を展開する。読んでいる方は「この文章の書き手は自分をバカ呼ばわりしおり、失礼極まりない」という前提で以下を読み進めていただきたい。

現在の最低賃金は地域ごとに決められている。これを業種ごとに設定しようという動きがあったというのが「春先の変な人ニュース」の影で報道されなかった文脈である。これが話題になったのは3月7日のことだそうだ。伝えられているところによると、厚生労働省の「ある課長」が自民党議員連盟会合で提言したことになっている。発言の後にも「マスコミに向けて年内にまとめたい」と意欲を見せたので気の迷いではなかったということがわかり一部の界隈で評判になった。しかしこれは日本の賃金行政の大転換になってしまうので、菅官房長官が火消しに走った。すべてのニュースは一官僚の意見であってはならない。見え方としては「安倍首相の指導力の賜物」であるべきなのだ。

ダイヤモンドオンラインは「地方の最低賃金が上がる」という前提でこれを南欧に例えて分析している。これを書いた人は問題がわかっているので、今回の定義ではバカではない。ここに南欧が出てくるが「バカ」にはこれがわからないはずなのだ。南欧と聞くとギリシャ危機が想起され、別の人が日本はギリシャと違って外国から借金していないし独自通貨も持っているといって議論を収束させてしまう。

現在、アベノミクスの成果は結果的に大企業に偏っている。応分の負担を求めてこなかったからである。このため東京の景気だけがよくなり地方が取り残されるということが起きている。野口悠紀雄は零細企業から人が離れて大企業に移るときに、非正規転換が起こったのではないかと分析している。正規から非正規に移ることで大企業は安い賃金で多くの人が雇える。こうして落ち込んだ零細企業の中には小売りと飲食が多く含まれているそうだ。経済は再び成長を始めたのだが、それは大企業が地方と零細を切り離すことに成功したからなのである。

大企業は東京など一部の都市に集中しているので都市の経済は潤うだろう。するとますます地方が疲弊する。これが都市と地方の賃金格差を拡大させる。すると、地方で外国人を雇ってもいつの間にか消えてしまい都市に流れることになる。日本人はどこに流れても構わないのだが、海外からの労働力はそうは行かない。この問題を統一的に管理する部局がないのだ。厚生労働省は「不法労働者としての外国人」管理を迫られることになるだろう。だが、実は入国管理局は法務省の管轄であり、企業を管理するのは経済産業省である。複数象徴にまたがる複雑な状況が生まれるはずだが、官邸にその種の調整能力があるとはとても思えない。多分誰かが「なんとかしろ」と叫ぶだけだろう。

実はこれが別の種類のバカになっている。つまり、優秀な人がいても全体を統括することができない仕組みになっているのである。視野は限られできることも法律でがんじがらめになっているという世界だ。

実際に今回の最低賃金闘争では何が議論になったのかがよくわからない。実は議論そのものが行われていないのではないかと思う。つまり、それぞれがそれぞれの正解を抱えているがそれが話し合えない状況があるのではないかと思うのである。するとそれぞれの正解を抱えている人は自分の正解を証明するために「実力行使」をして一点突破を図る必要が出てくる。それが突然の「ご説明」であり韓国での騒ぎなのだ。

自民党の人たちはこれが何を意味するのかわからなかったのではないだろうか。それはこの政策転換が自分たちにどのように得になるかがわからないからである。これが今回最初から書いているバカの正体ではないかと思う。つまり、具体的な影響を聞いてその損得がわかって初めて「賛成反対を決める」のが今回の「バカ」の正体である。これまで安倍政権は官僚が書いてきた作文に「バカにでもわかる解説」を加えることで長期政権を保ってきたということになる。

まとめると次の三種類の人たちがいる。「バカ」と言っていたが実はバカではなく「論理に豊かな色彩がついて見える人たち」だったということになる。逆にいうとバカでない人は「色が見えない」か「あるいは色ではなく形を見るように訓練されている人」ということになるだろう。ではその色彩とは何なのか。

  • 論理的に全体像を構成するが「バカ」が何を気にしているかがわからない人たち
  • 具体的なことを聞いて損得を判断する人たち(第一のバカ)
  • 全体を見ることができないか許されておらず限られた視野の中で論理的判断を下す人たち(第二のバカ)

第二のバカである武田さんが考えたのは賃金政策である。彼の持ち場なのでこれは彼にとっては考えられた正解なのであろう。都市への流出を食い止めるためには最低賃金を一律にしてしまえばいい。都市の魅力はなくなり却って物価高が嫌われる。これは実は完璧な回答なのである。問題はそれを他部局とすり合わせていないという点だけなのだ。

賃金を一律にすると「都市で最低賃金で働く人たち」の給料が低くなるか「地方で最低賃金で働く人たちの」給料が高くなる。ダイヤモンドオンラインの最初の記事は「人件費が上がるから地方の経営が圧迫される」という前提で書かれていて「これを交付金でバランスするのではないか」と書いている。一方、前回の記事と今回のタイトルでこのブログが煽ったのは逆側である。つまり、東京が地方に合わせれば「東京で最低賃金で働く人」の生活が圧迫される。経済的な埋め合わせはできるのだが、これが選挙でどう響くのかというまた別の要素もある。

日本の政治議論というのは運動会になっており、与党か野党の政治家が主張して初めて「村の意見」になるという構造がある。これまで「バカ」と書いてきたのだが、実はTwitter論壇は「その意見が自分たちの陣営での勝利につながるか」ということをかなり敏感に感じ取っており、それ以外のものには反応しないようにできてるのである。つまり「バカ」ではなく鋭敏な感覚を持っている人たちなのである。逆に色がが付きすぎていて、論理好きの人が「本質」と考えることがわかりにくくなっているのとも言えるだろう。論理好きの人は「その論争に勝ってどうするのだろうか」と考えてしまう。

いずれにせよ、民主党系の野党がこの問題に気がついていないのは自民党にとっては幸いである。もしこれに気がついた人がうまく料理すればかなりの炎上材料になるだろう。野党が都市で勢力を握りたければ「東京に貧困層が増える」と煽ればいいし、地方で勢力を握りたければ「地方の経営が圧迫される」と言えばいい。

この「持分に集中して損得だけを考える」というやり方は高度経済成長期にはうまく機能してきた。つまりバカではなかった。だがその前提になっているのは、基本的な構造がうまくできており「どう利益を分配するか」ということだけを考えていれば良かったという世界である。しかし、現在の議論は「どうやって損を捨てるか」がベースなので、損得勘定だけを考えていると「誰かが損を被る」ことになり、その損はどんどん苛烈なものになる。大企業は中小企業と消費者に痛みを捨てて逃げた。今度はその痛みを都市の住民に被せるのかそれとも地方にばらまくのかという議論になってしまう。その過程で損が濃縮されるとう構造がある。

実際には「何がどうなっているのか」ということはもう誰にもわからない。野口悠紀雄は今あるデータから構造の一部を抜き出して見せたのだが、これを気にする人はほとんどいないだろう。自分にとって得なデータなのかがよくわからないからである。もし、彼が「消費者は傷んでいるから消費税は今すぐ廃止すべきだ」という文脈に乗ればあるいは聞いてくれる人もいるかもしれない。問題は解決しないが「運動会」に乗るからだ。

有権者も政治家も第一のバカなので、本来は問題意識を持った人たちが様々な統計情報を探してきて全体を検証する必要がある。つまり第一のバカのマインドセットは変えられないが、第二のバカの状況は変えられる。多分日本の官僚組織はこうした一部のエリートたちの集団作業でうまく回ってきたのだろう。

野口先生の統計分析を見る限り、消費税が日本の小売りに与えた影響は大きそうだし、地方と零細企業がこれにやられている可能性は高い。だが、日本の官僚は官邸に分断されてしまったので、もうこれもできない。あとは各々が檻の中で各々の正解を叫ぶという動物園さながらの光景が展開されるだけのはずである。その中心では安倍首相が「すべてはうまくいっている」と叫びながら檻の前をうろうろとさまよっている。

いつかは全体像を理解しなかったつけを支払うことになるだろうと書きたいのだが、どうもそうはならない気がする。あとはNHKが疲弊した地方と困窮する都市住民を「不幸で可哀想な人たちがいます。助け合いでなんとかしなければなりませんね」と取材して終わりになる可能性の方が高いのではないだろうか。これを見て視聴者は「ああ自分の問題でなくて良かった」と安心するわけだ。

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日本の先生はなぜダメになったのか

Quoraで面白い質問を見た。日本の先生はなぜ質が悪いのかというのだ。これに「質が悪い」という前提の回答を書いたところ先生から怒りのコメントが来た。「偏見」と決めつけて上から目線で批判されたのだが。腹は立たなかった。むしろ「あ、これは釣れるな」と思ってしまったのである。ネットで悪が生まれる瞬間を自分の中に目撃してとても面白かった。




前回NHK問題を見た。NHKという身分保障がある貴族階級の人たちには政治問題で翻弄される人たちが「雷に当たったかわいそうな人たち」に見える。取材対象としては利用したいが彼らに寄り添うことはない。そして見ている私たちも洪水報道を見るように「うちの地域じゃなくてよかった」という安心感を得られるようになっている。同じことが教育にも起こっているようだ。

このクレームを入れてきた先生は、高校の先生で東京大学教育学部を出ているらしい。まだQuoraでの活動は少ないのであまりネットには慣れていないのだと思う。学校という狭い世界の成功者でネットの常識がわからないという点では十分に釣れる条件が整っている。なので彼女は「先生の質が悪いというのはあなたの偏見であって」「Quoraでみなさんのコメントを読むよりは研究書を読んだ方がいい」と言っている。そして「一部不心得な先生はいるかもしれないがそんなものは例外に過ぎない」と続く。彼女は自分たちの評価に悪影響が及びかねないという点を気にしており、現在いじめに苦しんでいる生徒や学校の勉強に意味を見出せなかった大人には意識が及ばない。いわば「問題が起きたら地価が下がって困る」といって問題を認めない地域住民みたいなものである。

Twitterで政治議論や炎上の仕組みを散々見ている私たちはすぐさまこれが「炎上するやつだ」と気がつくはずだ。政治家にしろ相撲協会にしろ最初は「自分達の方が状況をよく知っており、知らない人たちが騒いでいるだけ」と考えて状況への対応が遅れる。彼らが気にしているのもまた「社会的評価の低下」であり問題そのものではない。このズレでソトの怒りが増幅し大抵は絶対的服従に追い込まれることになっている。

以前の「Quoraスパゲッティ論争」でみたように、人々は正解のない状況に置かれると自分の眼の前にある真実を相手が受け入れないことに怒りを感じるようになる。つまり正解がない状態で話し合って社会を再構成することが日本人にはできない。実はこの時点で相転移が起きている。最初は問題そのもの(スパゲッティーとスプーン)について議論していたはずなのだが、そのうち「自分が知っている明確な事実」を頑なに認めない「上から目線」に腹が立ってくるのである。これが定着したのがTwitterの政治論議である。

いったんこの容赦ない炎上を経験した人たちは、ネットは恐ろしいところだと感じて身をすくめることになる。相手が何で怒っているのかはわからないが、あまりにも炎上が苛烈なので「とにかく謝っておこう」となるのだろう。この「とにかく謝っておけ」フェイズに移行したのがピエール瀧騒動である。同じようなことはアメリカでも起きるのかもしれないが、少なくとも日本の炎上では「村と外の温度差」が重要な役割を果たしていることがわかる。

我々はこうした「ムラ」と「外」の温度差によって起こる炎上の仕組みを繰り返し繰り返し見ているので「なぜ、みんな対応を間違えるのだろうか?」などと思うのだが、中にいるとそれに気がつかないのだろう。だが、実は気がつかない理由はそれだけでもなさそうだ。上から目線の成功者は実は村の内部で起きている問題にも気がついていないのだと思う。

これとは別に非正規雇用の先生が使い捨てられるという問題について聞いたのだが「先生が尊敬されなくなっている」という声を聞いた。都会では父兄の学歴が高くなっているのだという。学歴が高く実際の社会を生きている都会の親には先生の行っていることが「絵空事」に見えるという乖離が起こっているようだ。非正規で不安定な人ほど村には疑問を持っているはずなのでこうした問題に敏感になる。が、体制に守られていると思う上層部の人たちは問題を過小評価する傾向にある。企業でもよく見られる態度だ。現場の声を「あなたたち非正規の人たちは狭い視野でものを見ているから大騒ぎしているだけ」といって無視する正社員がいる会社はそれほど珍しくないのではないだろうか。

危機感を抱いている先生たちとそうでない人たちの間にはかなり絶望的な乖離があるのだろうが、立場が弱い人たちほどそれを社会には訴えられない。問題提起をすれば首を切られてしまうからだ。例えば、非正規で「前線に立っている」都会の先生と、地方で尊敬されながら一方的な教育観を現場に押し付けているような先生の間で認識を共有することはとても難しいだろう。そもそも社会が再構成できない上に、状況すら違って見えている。

教育界というムラは「教育とは聖域であって社会全体が予算を取って尊重すべきである」というきれいごとをいい続けていればいいし、身分保障のある人たちは面倒を避けてこの幻想にすがっていればいい。だが、実際に問題に直面するのは現場の教師であり、私学では36%が身分保障のない非正規先生になっている。そしてその外側には意見は言わないが「今の学校教育は現場のニーズにあってない」と考えて不信感を募らせる多くの人たちがいるのである。

日本人には公共がないという話を延々としてきているのだが、人件費削減から始まった村の分断は想像以上に社会に蔓延する病になっているのではないかと思う。つまり、もともと公共がなく社会を再構成することができない上に、村という日本独自の構造体も崩されようとしているのである。

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NHKの思考停止と考えないことを決めた私たち日本人

新潟のある地区から精神病院がなくなるという。国が精神疾患に関する保険の支払い方式を変えたからだそうだ。このため病院の経営が成り立たなくなり地域から撤退するのだそうだ。NHKのニュースでは統合失調症の患者を抱えた母親が途方に暮れていた。




ところがNHKはこのニュースをまともに扱えなかった。ネットへの権益拡大を狙うNHKは安倍政権に恩を売っておかなければならない。そこで忖度が働き「政権がこれを決めた」ことは伝えないのである。最近のNHKの困窮者のニュースは全てこのような調子である。忖度だ改竄だと言いたくなる。

だが、このニュースは奇妙なバランスで成り立っており破綻していない。NHKの職員はある意味優秀すぎるのだろう。

このニュースは「地震で家が倒壊した人」や「津波で家族を流された人」と同じような扱いになっていた。日本人はこうした天災系のニュースに慣れていて、これが成り立ってしまうのだ。考えてみると変な話なのだが、結果的に政権批判は避けられる。運が悪いかわいそうな人を哀れんで「ああ、うちじゃなくてよかった」という感覚を助長することになる。NHKは自分達の食扶持のためにこうした「運が悪かった人報道」を繰り返している。稲妻系と言ってもいい。雷に当たったのは運が悪かったが、雷はそうそう落ちてこない。

視聴者は何の行動も起こさないから、自分がこの「かわいそうな人」になった時には誰からも助けてもらえないことになるだろう。そしてそれを悟り静かに「迷惑にならないように」息を潜めて暮らすのだ。

数年前なら多分「安倍政権は長期政権だったのでその膿が出てきた」などと書いたのだと思うが、今はそうは思わない。その代わりにNHKは思考停止を決め込むことにしたんだなあという淡々とした諦めの気持ちがある。そしてその背後にあるのは「もう何も考えたくない我々」の諦めがあるのだろうなと思う。人生何が起こるかわからないからもうそんなことを考えても意味はない。だったら今を生きようと健気に決意してしまうのである。

NHKはもう議論の分かれるテーマは扱えないからジャーナリズムは成立しない。これは、センセーショナルなバラエティ情報番組でもない日本独特の何かである。が、NHKが扱えないのはニュースだけではない。

朝の連続テレビ小説「まんぷく」では、日本人がインスタントラーメンが作られるまでの話をしている。チキンラーメン開発が終わったので視聴率的には停滞しているようだが、このドラマには、みんなが知っているが誰も言わない「秘密」がある。萬平さんは実は台湾出身なのである。台湾出身なので憲兵に目をつけられたりGHQに目をつけられたりするというのが多分史実だったのだろうが、これを「差別に当たるかもしれない」といって避けたのだろう。

だが、戦前に台湾が日本領だったことは誰でも知っていることだし、安藤百福が台湾出身だったといっても別にそれはおかしいことでも恥ずかしいことでもない。見ている方が偏見をもっていて「自分は理解できるが、これを理解しない人もいるのでは?」と勝手にやっているだけだ。

大河ドラマ「いだてん」はもっとひどいことになっているようだ。NHKはオリンピックに向けた世論誘導に失敗した。視聴率は低迷傾向にある。加えてピエール瀧さんがコカイン吸引容疑で捕まり「過去から全てのシーンを撮り直す」そうである。ピエール瀧さんで放送した事実は消えないのである意味「歴史改竄ドラマ」になった。

だが、それでもみなさんのNHKは「全く問題がない無菌の日本社会」というありもしないリアルを追求せざるをえない。安倍政権には全く問題がなく、戦前の台湾統治の歴史もなく、出演者に私生活上の問題が全くなく、国民が一致団結して国家的プロジェクトを盛り上げるという幻想の「美しい日本」がNHKの中にだけは存在する。

この「オリムピックばなし」の失敗は、もはや日本人がみんなで喜べることがなくなってしまったことをかなり残酷に映し出していると思う。しかし、NHKはこの幻想を捨て去ることはできない。そうなると「ああ、あれも都合が悪い」「ああ、これも扱えない」となってしまう。結局もう自分たちでは何も考えられないだろう。何かを考えたらどこかで「地雷」を踏んでしまう。でもそれを地雷だと思っているのはNHKだけである。普通の人はそれを「現実」というのだ。

だが、これを見ていて日本人はNHKを笑えるのだろうかと思った。これは我々が望んでいる日本なのではないだろうか。何の社会問題もなく、政治家は嘘をつかず、みんなが健全な「丸い村」というのが私たちがNHKの中に見たい日本なのである。

そんなものはもうどこにもないのだがそれを見つめることすらできない。だからそれを他人と共有して話し合うことすら許されない。そう考えた時、私はとても惨めで傷つけられた気分になる。

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バーニングサンゲートに揺れる韓国芸能界

「バーニングサンゲート」という言葉がある。BIGBANGのV.Iが経営に携わっていたクラブ「バーニング・サン」で起きたスキャンダルを発端にした事件である。これが韓国では連日大きな騒ぎになっていて日本にも飛び火しそうである。詳細は朝鮮日報によくまとまっている。




この事件からわかることは二つある。1つ目は我々はかなり細分化された情報社会を生きているということである。この事件を知ったのはTwitterなので、知っている人はこの問題についてかなり詳しくなっているはずだ。だが、一方で安倍首相批判を繰り返しているだけの人もおり、人によって知っている情報がかなり違ってきていることがわかる。地上波だけを見て知りたい情報だけを捕捉している人と、アンテナを外に向けようとしている人の間にはかなりの格差が開くという社会になりつつある。自分の問題を伝えたいと考える人は「そもそも情報が細分化されている」ということを念頭に置いて話を始めたほうがいい。「NHKが取り上げてくれない」と騒いでいるだけでは事態は変わらないだろう。

もう1つわかるのは日本が経済成長しないことを前提にした定常化社会に入りつつあるということである。韓国は外国からの投資を呼び込んで経済上昇できる社会であり、バラエティー番組を見ていても「投資」の話がよく出てくる。生活を安定させるためにはとにかくお金を稼いで何かに投資することが重要なのだ。日本と生活習慣が似ている点もあるので、こうした違いが人々の生活やマインドセットにどのような影響を与えるのかということがよくわかる。そこから振り返ると私たちの「閉塞感に溢れる社会」のありようも見えてくる。日本の状態だけを見ていても日本の問題を解決する糸口は見えてこない。

BIGBANGは2006年にデビューした有名なアイドルグループだ。スンリ(日本ではV.Iという名前で活動している)はその末っ子(マンネ)であり、他のメンバーが現在徴兵されているなかで一人で芸能活動をしていた。日本語が堪能で日本のバラエティにも度々出ており、通訳なしの早口でダウンタウンとの会話が成り立つほどである。さらに起業家としても知られ、ラーメン屋やクラブなどを経営していた。この顔を利用したバラエティ番組も放送されている。貧しい家からのし上がった「成功者」としてスンリとギャツビーを合成したスンツビーという名前でも知られるという報道もあった。

ところが、2019年2月に経営していたクラブバーニングサンで違法薬物の取引が疑惑が報道され、クラブ代表に薬物の陽性反応が出た。スンリは当初これを「知らない」と否認しており、クラブの代表を降り、電撃入隊を発表する。

ところが程なくして捜査はスンリの性接待疑惑に飛び火した。違法な女性のやり取り(つまり売春斡旋である)が行われているという疑惑である。最初は否定していたスンリだが、非公開のSNS上のやり取りなどの証拠が次々と報道されて炎上状態になった。中央日報の伝えるところによるとかねてから海外での違法賭博容疑などもかけられていたそうだ。2019年3月には芸能界引退を発表したが騒ぎは収まらなかった。SNSのやり取りが公開されると芸能人が次々と巻き込まれていったからである。

スンリが芸能界を引退を発表するのと同時に、女性をやり取りしたり性行為の内容を盗撮してSNSに流した芸能人がいたことがわかってきた。アイドルのファンは女性なので、今度はファンが怒り出す。歌手のチョン・ジュンヨンが盗撮したものを流布したという容疑で警察の調査に応じ、引退を発表する。KBSの日曜日のバラエティーショー「一泊二日」がチョン・ジュンヨン(チョンジュニョンとも)の降板を発表したが騒ぎは収まらず、結局番組が「お蔵入り」になった。KBSは謝罪文を出したがmこれで問題は終わらなかった。一泊二日のプロデューサもグループチャットに参加していたのではという疑惑や出演者の賭けゴルフをほのめかす内容もあり出演者たちが芸能活動の自粛を決める事態に発展している。プロデューサが絡んでいれば番組の打ち切りも決まるかもしれない。

またこの種の動画をチョン・ジュンヨンと共有配布したとしてFTISLANDのチェ・ジョンフンも警察の捜査を受けており、芸能界の引退を表明した。今度はこれが警察に飛び火する。飲酒運転で免許停止処分を受けていたが公にしなかったという疑惑が持たれている。この隠蔽に警察が関わっていたのではというのでは?と囁かれ、騒ぎがさらに拡大した。この警察関係者はチャットの中では「警察総長」と呼ばれている。そのような役職はないのだが、A総警という名前までが出てきており、ついには具体的な名前(氏だけだが)も報道された。現在この人には待機命令が出ているそうだ。

CNBLUEのイ・ジョンヒョンにも関与の疑惑の目が向けられており「グループ脱退間近なのでは」などと言われている。こちらもチェ・ジョンフンとの間の通信記録がある。一連の事件に直接関与したという証拠は上がっていないのだが、やはり「女性をモノのようにやり取りした」ことが不適切だと考えられている。

この事件は日本とはあまり関係がないと思われていたのだが、日本の建設会社も性接待を受けていたという報道がある。まだ匿名扱いだが日本のネットでは名前が特定されている。日本のタレントを家族に持つ社長さんなのだそうだ。

この問題はもともと違法薬物の取引問題が発端になっているのだが、本筋とされているのはスンリさんが韓国の会社と組んで海外投資家からお金を得るために性接待をしていたのではという事件である。そして、その背後には警察の上層部も絡んでいたのではという「癒着」の疑いがかかっている。つまり、官民汚職事件の様相を呈しているのだ。関係者の対応が後手にまわり連日有名アイドルや名物番組の名前が取りざたされることで人々の興味を掻き立て続けている。

さらに国政にも関係するスキャンダルも取りざたされている。バーニングサンゲートは枝葉に過ぎないというのだ。だた、この記事を読むと「私が自殺することはないが」などというほのめかしが書かれており、こうなるともう韓流ドラマの世界である。ネタ元がスポーツ新聞なのでどこまでが本当なのかがわからなくなる。「清潔なイメージで売っていたアイドルが盗撮や女性のやり取りをしていた」という意外性があることからもう何が起きても不思議ではないと思われているのだろう。

ここまで加熱しているバーニングサンゲードだが日本では断片的にしか報道されていない。このためTwitterでこれを断片的に知った人のなかには「何を騒いでいるの?」と不思議がる人もいるようだ。

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全体主義教育・刑罰としての個人・泥状社会

全体主義教育についてのエントリーのページビューがよかった。Quoraの質問にも閲覧者がたくさん集まっているので、学校教育や社会のあり方について息苦しさを感じている日本人は意外と多いのかもしれないと思った。




前回にも書いたように、実際に問題になっているのは全体主義ではなくそのバラバラさなのではないかと思うのでもう少し考えてみたい。これはちょっと癖がある独特のバラバラさである。バラバラなのだが「相手を縛りたい」という気持ちだけはみんなが持っているように思える。砂つぶなのだがベトベトとした砂と言って良いだろう。ベトベトとした砂といえばそれは泥である。日本は泥状社会なのかもしれない。では何がベトついているのだろうか。

考える材料はちょっと断片的である。まず、多くの人が学校に抑圧的なものを感じているというのを出発点にしたい。よくわからないルールとかとにかくお仕着せられている教育課程などというものだ。これが社会に出ても続くので、全体主義に感じられてしまう。会社には誰が決めたかよく分からない昔からのルールがあってみんなの上にべっとりとのしかかっている。だが、この<全体主義>には核がない。つまり、誰が声をあげて「私はおかしいと思う」と言っても絶対に賛同者が出てこない。みんなおかしいことはわかっているのだが、個人が声を上げたというだけでは無視されてしまうのである。

もう一つの断片はワイドショーだ。みんなが見たいものがなくなり、唯一残ったのが有名人のリンチという社会である。視聴率が取れるのは確かなようだが、見てみても何も残らない。正月のめでたい時期を除いて誰かが血祭りにあげられ次々に捨てられてゆくだけなのである。誰が叩いているのかと思っても首謀者は出てこない。司会者は世間が許さないといい、コメンテータに賛同を求める。だが、コメンテータも言われたことに応えているだけで、自分の意見というわけでもなさそうだ。

叩く側に顔がない一方で、叩かれる側には顔がある。芸能人として突出した人には公的人格という刺青が与えられる。このブランドを使ってビジネスもできるのだが、何か間違いを犯すと容赦なく叩かれて文句は言えない。みんながまとまって知りたいものがない社会ではこのリンチだけが唯一の娯楽とされている。ワイドショーは現在のコロッセオなのだ。

もう一つヒントになったものがある。それが「子供の顔を隠した写真を撮影する」という親である。こんなことをする人は見たことがないのだが、Quoraの質問からヒントをもらった。いろいろ考えたのだが、セレブの親を真似しているのだと思う。日本でのセレブは自分が顔を晒して「有名人という刺青」をつけることでビジネスをしている人のことを言う。ママタレともなると子供も商売の道具にしなければならない。が、子供の顔を晒してしまうと特定されていじめられる可能性があるので、子供の顔だけを隠すのだろう。この質問でわからないのは一般人の親は顔出しをしているのかという点だ。おそらく顔出しはしていないのではないだろうか。

実は同じようなことがWEARでも行われてる。WEARはファッションSNSなのだが、アプリで顔を隠すのが流行っている。シールで隠す人もいるのだが、顔をぐちゃぐちゃに潰す人がいる。中には子供を顔出しさせて自分は写らないという親もいるのだ。作品としてのファッションや子供は自慢したいのだが、特定されないために顔を潰しているのを見ると、どうしても個人の尊厳を否定しているように見える。つまり、個性を出したいのにそれを罰しているように見えてしまうのである。

多くの日本人が「個人としてStand outしたいのだが、それをリスクとも感じている」ということがわかる。確かに、ネットで個人情報が特定されると何が起こるかわからない危機管理意識はあるのだろうが、目立つと何をされるとわからないという漠然とした不安感もあるのではないかと思う。

こうした断片的な情報を集めると、どうやら「個人として存在する」ということは日本ではリスク要因なのだということがわかるのだが、どうしてそうなるのだろう。それは、自分もまた個人を攻撃することがあるからではないだろうか。

学校で、個人の名前を出すことがいじめになることがある。たいていの場合SNSなどで本人に知られないように噂話を言い合っているらしいのだが、そもそも名前が出た時点でそれは「刑罰」になる。学校は村なので、個人というのはすなわち「仲間はずれとして追放された」ことを意味するのだ。

最近のネットいじめは「24時間経つと消えてしまう」メッセージなどが利用されるらしい。つまりいじめられている本人は何が書かれてあるかわからないのに「対象とされている」だけでいじめられたと感じそのまま自殺してしまう人もいるのだ。リンクされた記事では「友達が教えてくれて気がついたという人が多い」と言っているが、この友達が本当に親切心で言っているのかは疑わしい。本人が村八分にあっているということがわからないとつまらないと感じている人がいるはずである。つまり刑罰を与えたらそれを知らしめたい。罰を与えられた子が苦しむのがその他大勢の人たちには報酬になるのである。

ここまで考えてくると日本人が考えている個人というのは村に属さない「村八分」の人だということになる。つまり、日本の個人というのはなんらかの目的があって村八分にされているか、特に優れが業績がある人かどちらかのだということになるのだが。それは村が持ち上げるか貶めるかのどちらかであり、本質的には同じことなのである。村にいる人には個人を叩く権利が付随しているということがいえる。そこにいるだけで満足できなくなった村では、村人であるだけではダメで、常に「村人である理由」が必要なのだ。「村を出たら叩かれる」から出て行かないのである。

日本には公共がないので人々は公共のニュースには興味がない。政治や公共は単に自分には関係がないことである。このため日本人の政治感には独特のものがある。質問サイトでいくつか質問してみると特によくわかるのだが、誰も自分に付帯する政治のことは語りたがらない。特に自分が弱者認定される可能性があったり、組織に問題があるというような話題は意識して避けるところがある。が、誰かを叩くための政治についてはみんなが統治者目線で語りたがる。

だが、同時にこれは村人を縛り付けている。つまり自分も個人として発言すれば叩かれる側に回るということである。公共に興味がないので、ルールが環境に合わなくても自分たちで変えることはできない。出たら叩かれると思い込むことで実は自分を村の中に縛り付けている。

こうして泥の中で窒息しそうになっている人たちが感じるのが「全体主義」という言葉の響きによって刺激されるのではないだろうか。だが、実は自分たちが自分たちを縛って溺れさせようとしているということには気がつかない。実は鎖などどこにもない。単にそういうものがあるとみんなが思い込んでいるのだ。

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ピエール瀧が出た映像作品はお蔵入りにするべきなのか?

ピエール瀧容疑者がコカインの吸引容疑で逮捕され、違約金が30億円になるのではという報道がある。あとから「作品を全てお蔵入りにすると言っているが、そんなことはしなくてもいいのでは」という議論が出てきた。坂本龍一も音楽に罪はないと言っているそうだ。




これを見ていて全く別のことを考えた。地上波ってもう無理なんじゃないかなと思ったのだ。

こうした自粛祭りが起こるのは「不特定多数の人達」を相手にしているからだろう。いつどこでどんな炎上騒ぎが起こるかわからないので、とにかく一度遮断して様子を見ているのである。つまり、不特定多数を相手にしてビジネスをする以上何が起こるかは予測できないから当座の処置としての自粛は避けられないということになる。

音楽にも特定の人たちに支持される「サブカル」とされる音楽と「メジャーな大衆音楽」の間にはなんとなく境目がある。「電気グルーブの音楽はどちらか」ということになるのだが、紅白歌合戦への出場が検討されていたということなので、ちょうど境目に来ていたのだろう。もし電気グルーブが本当のサブカルだったら自粛騒ぎにまでは発展しなかったかもしれない。

映画はピエール瀧容疑者が入ったままで公開に踏み切るところが出てきているようである。マージャン放浪記2020という大人向けの名前がついているので「話題を呼んだ方がトク」という判断が働いたのだろう。大衆映画だがサブカル風味で売っているものは「少々傷があったほうがハクがつく」というそろばん勘定が働く。ピエール瀧容疑者は北野武監督作品にも出ているそうだが「その手の物」は地上波は無理でも配信などでは許容される可能性が高いと思う。

しかし、これだけでは地上波全般が無理とまでは言えない。地上波が無理と考えた背景は別のところにある。こうした炎上騒ぎが起こる環境で「みんなが満足するもの」はもう作れないのではないかと思ったのだ。地上波は、みんながないところでみんなが楽しめるものを提供し続けようとするとどうなるのかという惨めな実験になっている気がする。

どうやら、政治にしろ文化にしろ公共は「ある種のエンターティンメントになっている」のではないかと思う。つまり、他人があれこれ詮索して非難をしても良いジャンルなのである。よく「公人」という言い方がされる。政治家が公人なのはわかるが、芸能人が公人であると言われると違和感がある。だが、個人の名前でビジネスをしている突出した人には無条件で「公人格」が付与される。権利でもあるが「いざという時はみんなで叩きますからね」という刺青になっているのである。

日本では「みんなで支えて維持する」という公共は作れなかったが処罰の対象としての公共はできつつあるのだろう。日本人の考える公共とはテレビの中にある別の世界なのである。視聴者はつながっていないので、公のコンセンサスというものが消えつつある。例えばみんなが楽しめる音楽番組はもうない。紅白歌合戦では誰かが必ず退屈な時間が出てくる。

報道情報番組にもそんな傾向がある。最近、SNSでテレビについての議論を見る。NHKが政権を忖度しているとか、民放のバラエティーショーが同じような芸能人の不倫ばかりを追いかけるというような不満だ。なんとなく、今のテレビに不満を持っているようだ。「みんなの共通認識」がなくなったのにみんなを満足させようとするから誰も満足させられなくなってしまった。唯一残ったのがワイドショーの「突出した個人を叩く」という娯楽なのだ。つまり、大衆の個人に対するリンチだけが残ってしまったのである。

このため、本当にニュースが知りたい時にはネットに頼る必要がある。今ではCS放送に代わってネット配信が盛んになりつつあるようだ。Huluを使えば月額1,000円でBBCとCNNが見られるそうである。原語でよければ直接配信されたものを見ることもできる。試しに見てみたが、アメリカではトランプ大統領と共和党上院議員のバトルが起きており、イギリスではEU離脱交渉でメイ首相が声を枯らしながら議会を説得していた。また韓国ではバーニングサンゲート事件が起こり芸能人が次々と引退に追い込まれている。日本の地上波を見ているだけでは現地の興奮は伝わってこないし、いったんこれらを見てからツイッターの炎上議員の様子を見ると「大阪のチンピラがまったりと騒いでいるな」くらいにしか思えないほど、世界は動いている。

このように選択肢が豊富にある状態で地上波だけを見続ける理由を探すのはとても難しい。テレビは番組の合間の自局CMを見て次に見たいものが決まるシステムなので、いったん離れてしまうとテレビを見る習慣そのものがなくなってしまう。こうして地上波のニーズはどんどんなくなってしまうのである。

よくNHKしか見ない高齢者が騙されるというような話を聞くが、高齢者というのはかなり上から目線なので「自分の価値観に合わないものがあればこちらから叱り飛ばしてやる」くらいに思っているはずだ。高齢者の万能感をなめてはいけないと思う。これからのテレビは高齢者の思い込みに合わせて番組をつくることはあっても「扇動してやろう」などとは思っていないと思うし、実際にはそんなことは不可能である。だからNHKのニュースは政権ではなく高齢者に忖度したものになるだろう。彼らが理解できないものは流せない。

ピエール瀧容疑者の問題は芸能コンテンツの問題として捉えるよりも「皆様が安心して楽しめてご満足いただけるコンテンツはもう作れない」という観点から見たほうが有効な議論になると思う。多様化した世界で「皆様のNHK」という「皆様」はもうどこにもいないのだ。

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何もしない人たちとCOBOLの村

これまで「日本人の政治姿勢」を見てきた。今の所「採集できた」のは次のような類型である。




  • 何もできないことがわかっていて受動攻撃性に走る人
  • 正義が実行されないとして怒るが、受動攻撃者の餌になってしまう人
  • 受動攻撃はしないが怒っている人を見て楽しんでいる観衆

なかなか荒んだ光景ばかりが集まったが、これは問題ばかりを見ているからである。問題だけを見ていると、状況がまずくなる前になんとか手が打てなかったのかとも思うし、日本人が全て愚かなバカに見えてしまう。しかし、その前段階には「問題の芽」があるはずだ。そこで、今問題になりつつある現象を眺めてみたいと思った。それがCOBOLである。

厚生労働省の統計偽装問題で「COBOLプログラム性悪論」が出てきた。COBOLは一般的には古びたコンピュータ言語と見なされており、日本のITが世界にキャッチアップしていない象徴とされることも多い。国会で統計偽装の問題が取り上げられた時「RではなくCOBOLが使われている」と非難していた国会議員もいた。汎用機でバッチ処理を行う話をしているのに、なぜRなのだろう?とは思ったのだが、多分質問者はよくわからないまま又聞きしたことをあたかも自分が発見したかのように話しているのだろうと思った。これを立憲民主党なども問題視しておりコンピュタの仕組みを知らないフリージャーナリストが面白おかしく拡散する。週刊ダイヤモンドIWJなどで中途半端に取り上げられているのが見つかった。

そこで現場はどう思っているのだろうと思って聞いてみた。先日思い立って官公庁ではなぜCOBOLが使い続けられているのかを聞いてみたのである。これだけ世間に叩かれているのだから現場もさぞかし吹き上がっているのだろうと思ったのだが、それはとんでもない間違いだった。現場はいたって平和なのである。

Quoraには大勢のCOBOL関係者がおり彼らに質問を送った。だから、当然COBOL擁護の声ばかりが書き込まれることになった。面白かったのでぜひリンク先を読んでいただきたいのだが「十分に使えるものをなぜ入れ替えるんだ」という声が多いらしい。経営者はなぜちゃんと動いているのに新しいものにするのだと入れ替えに渋い顔をし、担当者も何かあったら責任は誰が取るんだと言われると下を向いてしまうということのようである。そもそも現在の設計思想ではうまく動いており、機能的にも十分に支えているという。平和な村の声を聞くと「あれ、世間はなぜCOBOLを悪者にするのだろう」と思えてくる。ただ、問題が出てくると今度は逆に「なぜ今まで放置していたのだ」と言われてしまい「俺はコンピュータに詳しいぞ」という人たちがいきり立つのだ。

ただ、この村の意見に一人だけ違ったことを言っている人がいた。当然バッチ処理の世界にも「新しい要件」はあり、これを現場の工夫で乗り切ってきていたという。しかしそれが局所依存になっており「新しい仕組みに乗り換えるのにどれだけお金がかかるかわからない」ことになっているらしい。つまり、経営者の無関心の他に、現場が良かれと思って工夫をしてきたことが足かせになっているのである。

こんなことになってしまう理由もわかる。COBOLは「中央集権的」に全てのデータを一つの所に集めてくる仕組みになっている。大量の単純なデータを一括処理するにはとても優れている。しかし、仕組みが大きすぎるので「ちょっとずつ入れ替え」ができない。一方今のコンピューティングは分散型といい「いろいろなことをいろいろなところで行う」ことになっているので、パーツごとの入れ替えが(容易とは言わないまでも)可能なのである。つまり、設計思想が全く違うのだ。

こうした中央集権的な仕組みのため「担当者がいなくなったら中で何が行われているのかが全くわからなくなった」ということになる。だが改めてこの中央集権から分散処理という流れを踏まえて回答を読み直すと、中にいる人は「マイグレーションができればCOBOL自体は問題がない」と言っており、この時代転換(よくパラダイムシフトなどという)に全くついてこれていないことがわかる。だから問題が捉えられない。

一方外から見ており問題点を指摘した人は「ハードの供給がなくなりつつありこれからどうなるのか見もの」と言っている。部外者だから問題が見えるが、この人にも対処はできない。インサイダーではないからだ。

このように「村」ができると中からは村の問題が見えず、外からは手が出しようがないという問題が生まれる。今実際に問題が起こっている。最近、新幹線の予約システムが止まった。日経系の伝えるところによるとMARSで時刻表を組み替えた際に不具合が起き、鉄道情報システムが不具合を起こしたらしい。どのようなプログラミング言語が使われてるかはわからないが、中央集権的なシステムなので、中央が不具合を起こすとJRが全てが止まってしまうのである。

日本人は基本的に「村を作り昔と同じことを繰り返す」のが好きだ。現場の声を聞くとわかるように「新しい仕組み」に乗り換えようというと様々なやらない理由が考案され改革は潰され、それを一人ひとりの善意と職人技で乗り切るということになっている。COBOLは長い間(1959年に作られたので今年で60周年だったそうだ)安定的に動いており地味な裏方として使われていたために更新が遅れたのだろう。そして、いよいよ持ちこたえられなくなると「村がなくなるか」というような騒ぎが起きてしまう。しかしそれをまた村人の職人技で乗り切ろうとするので「結局何も変わらなかった」となり、最後は座礁してしまうのである。受動攻撃性の原因はこの「諦め」だが、実はその前段階には「村の平和」があるということになる。

さて、今回はかなり絶望的な前駆状況をみたのだが、興味深い発見もあった。かつてと違い、現場の生の声がマスコミの情報なしでも手に入るようになったということである。今回の話は加工もしていないし知見はすべてたった4人から集めてきたものだが、問題の輪郭がかなりよくわかる。よくインターネットの情報はゴミばかりだという人がいるが、実はそれは全くの誤りなのだと思う。必要なものは全て手に入るのである。ただそれをまとめて解釈して社会改善に生かせる人がいないのである。

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ネットの巨大な嫌韓いじめ需要

Quoraで韓国や北朝鮮を見下す質問が次から次へと出てくる。こうした質問に答え続けていたのだが「ああ、これは合理的に説得しても無理だな」と思った。いじめの対処に似ているところがあるのだ。




一つ目の「こりゃダメだ」ポイントは「どっちもどっち」という書き方をすると否定的なところだけをつまみ食いして高評価をつけてきたり「仲間だ」というコメントをしてくるという人が多いというところだ。彼らはもう「嫌韓を正解だ」と思い込んでいる。「バカの壁」現象が起きているので公平な論評を書いてもあまり意味がないのである。

書き込んで来る人はある程度能動的な人たちなのでまだ説得ができるかもしれない。しかし実はこの裏に何倍もの受動的な人たちがいる。嫌韓的な回答に多くの「高評価」がつくという現象がある。回答者はそれほど多くないのに閲覧がたくさんいるということになる。彼らは「観客」として「見ましたよ」という印を残して行く。一つだけならまだ偶然だと片付けられるのだが、こうした回答を飽きずに眺めている人がいるということになり事態の深刻さがうかがえる。

彼らにとって問題の対処方法は実に簡単だ。「韓国と断交しろ」という意見が時折見られるし、憲法改正をして自衛隊を軍隊にしたら竹島を奪還できますか?という人もいる。国連憲章の話をするとスルーされてしまうので、あまり深いことは考えていないし、実際にはそんなことをするつもりはないのだろう。単に「一泡吹かせてやりたいなあ」と思っているだけなのだ。

もちろん、こうした嫌韓回答に嫌悪感を持つ人もいるのだがそれは無視される。観客はPCな人たちを無視したり嘲笑したりすることで「シャーデンフロイデ(メシウマ感覚)」を得ている。これは人権擁護論にも言えることだが、感情的になった時点で彼らの餌食なのである。

これを合理的に否定するのは難しい。声高に否定すると笑い者になり、それがまた攻撃者の餌になるという悪循環がある。これがいじめの対処に似ているのである。

観客たちは普段自分の意見を求められていないかあるいは意見が組み立てられないのだろう。現代社会は「コミュ力」がもてはやされる時代であり、口が上手いやつのおかげで自分たちは割を食っていると考えている人が多いのではないだろうか。だから「正解」に加担することで自らも正解が持つ権威を帯びようとする。ただ、こうした沈黙する多数派の静かな怒りは日本特有のものでもない気がする。トランプ大統領を支える「失われたという怒りを持っている人たち」も同じようなものではないかと思う。正解に加担する人たちは容易に扇動に乗ってしまう。多くの人がファシズムやポピュリズムを恐れているが、日本にもすでに素地が整いつつあるのだろう。複雑な状況や不確定な状態を人々は嫌悪し単純な正解にすがりたがる。

この複雑さへの熾火のような怒りは百田尚樹の日本国記でも見られた現象である。日本国記はテキストそのものが面白かったわけではないのではないだろう。だが、その本を読んで「討論」に参加し、リベラルと呼ばれる人たちが抵抗する様子を眺めるのは楽しかったはずだ。最近では副読本まで出ておりそれなりに盛り上がっているようだ。これは慢性的な病のようなものだが、彼らは気にしない。産経新聞はこうした熾火のような怒りに頼ってまともなジャーナリズムを放棄したので経済的にはますます苦しくなってきているようだ。落ち目だった新潮45は過激さに走りついに事実上の廃刊に追い込まれた。でも、また別の落ち目のメディアが見つかればお祭りはずっと続く。

先日来、野党から「このような安倍政権が続くのはありえない」という声が聞かれるのだが、実は安倍政権は二つの無関心層に支持されているのかもしれない。一つは「政治などに関与しても無駄」というポリティカルアパシーな人々だが、もう一つは「特にいろいろな勉強をしたいわけではないが帰属感を得たい」という「仮想万能感」を持った人たちである。無関心層はそもそも政治に関与しないのだろうが、仮想万能層は自民党に票を入れる(つまり高評価する)ことでお祭りに継続的に参加できてしまう。そしてこの無力感が官僚の受動攻撃性を加速させるという悪循環が生まれる。つまりジャーナリズムだけではなく政治もこうした慢性的な病に罹患していることになる。

この病の解決策は騒ぎからは一定の距離をとりつつ「できるだけ穏健な意見を広げてゆく」ことなのだろう。だが、これはかなり絶望的である。いわゆるリベラルと呼ばれる人たちは「このようなことは感覚的におかしい」とは思えても、それを組み立てることができない。感情的になったところでネトウヨに捕まり、彼らの餌にされてしまうのである。

だが、この状況を一歩引いてみてみると、やはり「感情的に疲弊すること」を控えることだけが、状況の悪化を食い止める唯一の道なのではないかと思う。

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