主語のない言語 – 日本語は情報を通して把握していない

スーパーで、東京オリパラ2020、いよいよ1年前!というポスターを見つけた。このポスターを読んで違和感を持ったので「これおかしいですよね」と書いた。違和感があるとか、下手なコピーであるというようなコメントはあったが「文法的に間違っている」という人は、一人を除いていなかった。その一人は日本人だが英語が堪能で今はドイツに住んでいる人だった。




このポスターがおかしいと感じるのは、これを文章として捉えているからだろう。「東京オリパラは今から1年後です」が正しい文章だ。つまり文法的に間違っているのだ。

ではこれをおかしいと判断していない人は、なぜおかしいと感じないのか。それは東京オリパラ2020年。今はいよいよその一年前!と分けて読んでいるからなのだろう。つまり日本語には英語のような「センテンス」がそもそもなく、語句の集合体なのだ。文章はこの語句にジョイントをつけているだけなのである。

このポスターが通じるのは日本人なら誰でも東京オリパラが今から1年後にあると知っているからである。経験を同じくする人たちの間では「いよいよ一年前!」というと、隠れた主語が「今」であるとわかる。多分、経験を同じくする人たちの間で鹿話されてこなかった日本語には主語が要らないのはそのためだ。

この文章において東京2020オリパラは「主題」であって「いよいよ1年前!」というのは単体の語句だと考えればいい。そして文章としては「今はいよいよ1年前!」が正しい日本語の読み方なのである。だから「東京2020オリパラ」のフォントと色を変えればよかったのにというコメントがついた。別々の文章であると明示すれば矛盾はなくなる。また「前」は前向きだが「後」は後ろ向きというコメントもあった。正確さよりも感じの良さが優先されるというのは仮説としてはとても面白い。

英語やドイツ語といった印欧語には主語と述語があり位置関係で役割が決まる。当然東京2020が主語でいよいよ1年前が述部だということになる。するとこの文章は間違いということになる。つまり、英語話者は単語から文章を「作ってしまう」ことになる。

そもそもこの文章は英語に訳せない。英語にするには「今は東京オリパラまで一年」としなければならない。世紀の文法では形式主語を立ててnowを補足に使うことになるのだろう。関係でなく距離を使わないと文章にならない。関係で記述しようとすると、2020年と2019年という二つの軸ができてしまうので文章も二つになる。

だから日本語で発想する人の英語には限界が生じる。日本語はそれぞれバラバラの単語や単語の塊がありマーカーをつけて連想して記述できる。構造を意識しなくてもいいので、構造に落とせない文章が出てきてしまうのである。日本語の方が自由度は高いがその分正確さにかける文章も書けてしまうということになる。

よくQuoraで句点が多く読みにくい文章を見かける。高齢者が連想的に文章を作っているようだ。日本語ではこういう文章が書けてしまうのだなあと思う。連想的に作られる文章の主題は「いい悪い」という感情なのでそれがすなわち心象藪ということになるのかもしれない。

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なぜ障害者や韓国に冷たい人が増えたのか

最近、ものすごく疑問に思うことがある。れいわ新選組が障害者を2名国会に送り込んだことに腹を立てている人がとても多い。この理由がわからないのだ。




れいわ新選組は確信犯的に障害者を国会に送り出したのだろう。口ではバリアフリーなどと綺麗事を言ってはいるが、国会議員のような崇高な激務は重度障害者にはこなせないと誰もが考えている。山本らはそれを可視化しようとしたのではないだろうか。特定枠で「とても仕事ができそうにない人」を送り込んだらどうなるのかと考えた人がいたに違いない。ここで周囲が戸惑えば山本太郎の勝ちである。国の障害者対策(さらに弱者対策と称される様々な対策)の欺瞞が証明できる。ここまではとても合理的である。

維新の会がこれに反対するのもわかる。維新もポピュリスト政党なのでれいわ新選組とN国に絡んでいる。お客を奪われるのは面白くない。これも合理的な反応である。

ただ、障害者が国会に入って、周囲がサポートをすることに腹を立てている人がいるのが理解できなかった。対応は参議院の仕事だし、お金を出すのは参議院か厚生労働省である。別に怒っている人に直接的な迷惑がかかるわけではない。にもかかわらずこれに腹を立てている人は意外と多いのである。

そこで最初に「自分は省みてもらえないのに誰か別の人が優遇されているように思えるのが不快なのでは?」と考えた。私は勝手にソーシャルアカウンティングと言っているのだが「人間関係の帳簿」を日本人は持っている。でもそれは、どこか回りくどい説明だなと思った。

それがいきなり「あ、わかった」と思えるようなことがあった。PCモニターが壊れたのだ。多分部屋が暑かったからだと思う。1年前にも同じような経験をしていて「ああまたか」と思ってしまった。そこで別のモニターを接続して……などと考え、この暑さで別のものも壊れてしまうかもしれないと不安になってしまった。

やりたい作業があるのでテレビモニターを外してきて応急的に環境を作った。そこでQuoraやTwitterを見ていると無性に腹が立ってきた。世の中には不平不満を言っている奴が多いと思ったのである。わがままな奴らはみんなそのまま黙って消えてしまえばいいのに!と沸点に達した瞬間に「あ、これだ」と思った。

モニターのバックアップを持っていることからもわかるように、常日頃からパソコンが壊れるかもしれないという不安がある。なぜ不安なのかというと調子が悪いものをだましだまし使っていた時期が長かったからである。結局は累積した不安がストレスになっていて、何かあるとそれが顔を出してしまうのである。

適切な範囲で問題が与えられると人間は快感を感じる。人には解決する喜びがあるのだろう。だが、許容範囲を越えると今度は逆にものすごく腹が立ってしまう。人間には心理的に受け入れられるキャパシティを超過すると「問題そのもの」をなくしてしまいたくなるのかもしれないと思った。

気がついたことがいくつかある。問題が溢れている時に長ったらしい文章(例えばこのブログのような)を読みたい人など誰もいない。つまり、長い文章は炎上する可能性は低いだろう。Twitterでしょっちゅう炎上が起きている理由がわかったような気がした。Twitterは腹をたてるのにちょうどいい長さなのである。

Twitterはいつからか政治ネタでの罵り合いの舞台になっている。閾値を超えた時点でこれを見ると「黙れ!」と言いたくなるだろうなと思った。多分、単に興奮状態で反応しているだけなのだろうなあと思った。

さらにテレビも消してしまった。なぜかテレビには解決しなければならない問題が溢れており、しかもどの問題も不思議と一切解決しない。ただ、そもそもなぜそんな番組をわざわざ好き好んで見ているのかがよくわからないなあと思った。だが、習慣とは恐ろしいもので昼に名倉潤さんの鬱騒動について見てしまった。考えた上の行動ではないんだなあと思った。

問題の解決は多分情報を遮断することとストレスを減らすことなのだろう。だが、それは意識的にやらないと難しそうだ。ストレスに溢れた情報には刺激もあり興奮状態だとまた刺激を求めそうになる。つまり情報刺激には禁煙のような治療が必要なのだ。

情報ストレスの解決には治療が必要なのだろうが、もう一つのストレスはお金で解決できる。ストレスを減らすためと称して中古ショップにゆきFull HDのモニターを買ってきた。今前の画面よりもずいぶん広くなったモニターでこの文章を書いている。テレビをPCモニター代わりにしてもいいやと思ったのだがここは贅沢をさせてもらった。その代金は1500円だ。壊れてもまた買ってくればいいくらいの金額である。

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議論できない日本人と大衆扇動者

Newsweekの記事を参考にQuoraでれいわ新選組を左派ポピュリズムと書いたところコメントをもらった。心象藪の典型だと思うのだが、さすがに引用してネタに使うのははばかられるので引用はしないことにする。ただ、心象藪について書いた後だったのでコメントの混乱ぶりがとても面白かった。




この文章は、右派左派という分け方が昭和的だという指摘で始まる。昭和的とは「時代にあっていない」という意味なのだろう。そして、右派の教祖として崇められていた小林よしのりが安倍首相かられいわ新選組の応援にシフトしようとしているのだかられいわ新選組は保守だと続く。時代は進歩しているのだといいつつも、左派というラベルに違和感を感じていることがわかると同時に、彼にとって政治的ラベルは単なる悪口なんだなということも読み取れる。

その違和感の正体は次にわかる。「変化に抗っていると1970年代のようなLove & Peaceのような状態になってしまうだろう」という記述があるからだ。つまり、左派運動に対して「社会の責任を取らない無責任な運動」という印象を持っていることになる。つまり、昭和的な左派像を引きずっているのである。

ところがここで突然話が大きくなる。政治課題というのは大きくて重いテーマであり、それを扱っている自分も大きくて重いということになるだろう。Foreign Affairでアメリカは衰退する同盟国であるイギリスや日本とどう付き合うかという論文が掲載されており、時代はアジアにシフトしている。アジアは日本をスキップしアジアで経済圏を作ろうとしているようだとまとめられている。

まず、この人の文章が経験から培った「良いもの・悪いもの」という心象に彩られて彼オリジナルの世界観を作っていることがわかる。日本人は俯瞰的な視点を一切持たないのでこの枠から出ることはない。ここで彼に言えるのは彼の心象を理解して「そういう理解をお持ちなのですね」と曖昧に微笑むことだけである。

この人はれいわ新選組には親和的だが左派は嫌いなようだ。なのでこの二つが重ねられるのが嫌なのだろう。ただそれを言えないので「時代遅れである」というラベリングで乗り切ろうとしている。

次にわかるのは、それぞれの論理が俳句のように構成されているという点だ。その中での理論構成はあるが次のフレーズに引き継がれていない。それどころか「話を大きく偉大にしなければ」という別のドライブが続き連想的に話題が移り変わってゆく。

れいわ新選組は左派であるということを否定するのに時代遅れだというフレーズを使っているが、左派は無責任だというのも昭和の印象である。ただ、これが「論理として破綻している」と思うのは、読み手である私がこの文章から一連のロジックを読み取ろうとしているからに過ぎない。

彼が言いたいのは「れいわ新選組は良い」ということである。彼にとっては「小林よしのりもいい」のだから彼の側から見れば一貫したロジックはある。彼は良いものという主題で文章を綴っていることになる。つまり、政治的議論ではなく政治を季語にした連作俳句なのだと思って鑑賞するのが良いのだ。逆に左派はLove & Peaceで悪いものなのだろうし、政治は大きくてえらいものなのだろう。心象の吐露だと考えれば他人を傷つけているわけではなく特に問題はない。

心象藪とは心の中にある「良いもの」と「悪いもの」の表のようなものかもしれない。なのでドメスティクな人と政治議論をしてはいけない。

ところが全く別のところで、別の心象藪を見た。Quoraで「とりあえずビール」について聞いた。すると「とりあえずビール」が成り立つためには誰にでも飽きられないビールの味の追求があるのだという指摘があった。そこで嫌われない味を作ったんですねと書いた。つまり、味からこだわりをなくせばどんな食事にも合うビールが作れるからである。それが気に入らなかったらしい。「日本人の食を研究した結果である」と返ってきた。つまり「日本のビールは無難」というのがこの人にとっては「悪い」ラベルだったのだろう。

ゆえにドメスティックな人と議論をすることはできない。日本人が求めるのは心象俳句に対する情緒的な同調だけである。「何が良くて何が悪いか」は外から見てもわからない。誰にも嫌われない=どんな食事にでも合うというのは両立する価値観である。

山本太郎の話に戻る。Newsweekの記事はヨーロッパの流れを踏まえて山本を左派ポピュリズムと呼んでいる。背景には格差の拡大や変化などの問題がある。つまり、パターンに当てはめることで分析ができるようになる。

れいわ新選組は社会からこぼれ落ちている人たちの不満をすくい取るために、左派的な運動体を利用した。だからTwitterでは「初めて涙がでた」と表現されたのである。つまり、あの文章で重要なのは実はれいわ新選組ではなく「日本にもこぼれ落ちた人々がいて政治的なプレゼンスを持ち始めたらしい」という点なのである。

れいわ新選組の候補者の中にもあの記事に噛み付いた人がいるようだ。面倒なので引用はしないが「れいわ新選組は左派ポピュリストではなく無縁者の集まりだ」と言っている。どういう自意識を持つのかはそれぞれの自由なのだが議論には役に立たない。問題は当事者の心象ではなくどういう社会状況かという点だからである。

ここまで日本人は心象藪から出られないという視点で問題を見てきたのだが、ここで気になることがある。心象藪の中にいる人は他人を動かせない。では山本太郎はどうして政治的ムーブメントを作れたのかという疑問が出てくる。すると、彼は藪の中から這い出てきたのではないかという仮説が生まれる。

ここで重要なのは山本太郎がどのような立ち位置で自分たちを見ているかである。同じ左派運動でも福島瑞穂などは自分の心象風景しか語らなかったので大衆から離反されてしまった。心象藪をでて鳥瞰的な視点を持った人はムーブメントが作れるのだが、同時に大衆から一歩距離をおいた扇動者になる可能性があるということでもある。これは今後の注目点かもしれない。

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日本のテレビは勝手に大本営発表を流すところまで追い詰められている

日本のテレビとアメリカのテレビ(正確にはストリーミングだが)を同時に見ていて不思議な気分になった。日本のテレビは延々と韓国についてやっていた。「日本は何も悪いことはしていない」のに韓国がWTOに提訴すると息巻いているという話である。細川昌彦さんという目だけが笑っていない元官僚が出てきて「今騒ぐと損ですよ」と触れて歩いている。この間世界で何が起こっているかという報道はおやすみである。




最近日本のテレビを見ていると「見たくないものから目をそらすために忙しいふりをしているんだな」と思えるものが多い。

参議院議員選挙で話し合わなければならない問題はたくさんあるのだが、誰もそのことには触れようとしない。

例えば年金が2000万円足りないという問題やかんぽ生命をめぐる一連の騒動は「高齢者が老後の資金を安定的に管理できずしたがって消費が停滞するであろう」という大問題である。だが、これを認めることは老後不安と対面すしなければならない。個人で直面するにはあまりにも大きな問題である。

金融庁には金融庁の危機感がある。彼らは彼らの植民地である地銀を守りたいという気持ちがあるのだろう。独自の正義感が暴走するという意味では「関東軍」に似ている。金融庁の焦りは「政治家はちっともわかっていないから自分たちがなんとかせねば」というものなのだろう。支援されないが有能でやる気がある集団の暴走はとても恐ろしい。やがて倫理観が麻痺してしまうからである。

マスコミはこの問題に対して「年金を守るためにはどうしたらいいのか」という自己防衛説話を流し始めた。公共や国家が信頼できない時できるのは自己防衛だけだ。マスコミには「国はあてにできないが表立っては抗議できない」という確信だけがあるのだろう。

こうした地殻変動は外からもやってくる。日米同盟がもう当分あてにできないだろうという情報がSNSでダイレクトに飛び込んでくるようになった。

アメリカの今の状況を見ていると、選挙キャンペーンのためにはなんでもありの状態になっている。ABCのニュースはアメリカもまた「閉鎖的な動物園の熱狂」にさらされていることを伝えている。アメリカは移民によって成り立っている国なので、人種や出身地についての屈辱的発言は最大の政治的タブーのはずだ。だが、トランプ大統領はそれを軽々と超えてくる。そしてそれに対して感情的に抗議する大勢の人がいる。

今後この件は日本の安全保障・エネルギー問題・憲法改正問題にリンクしてゆくだろう。多分、外交・防衛部局の人達はアメリカのニュースを見ながら大いに慌てているはずである。彼らが政治家に支援も理解もされていないと考えた時、どのような暴走をするのかと考えるとちょっと暗い気持ちになる。おそらくその暴走も我々を不安に陥れるだろうが、マスコミは見て見ぬ振りをして「自己防衛」を呼びかけるだろう。

日本の議会政治はあまりあてにならなかったが、官僚システムと日米同盟という二つの地殻は割と盤石だった。ここにきてそのどちらもが揺れているように思える。だが、その振動があまりにも大きすぎて「もう笑うしかない」という状態になっている。

日本のテレビ局は、国からの恫喝やそれを支援する人たちの抗議に怯えて参議院議員選挙がまともに報道できない。それは仲間のテレビ局が政府からの干渉に一緒に抗議してくれるであろうという確信が持てないからだろう。そうなると何かもっと重要な問題で時間を埋めなければならなくなる。韓国の話題はそんなテレビ局が取り上げられる唯一の「政治のお話」まmpだ。

誰もが韓国は日本より序列が下だと感じているので視聴者からの抗議はない。だが、テレビ局は「今が安心」というメッセージ以外は流せない。だから、テレビ局は細川昌彦さんを呼んで「日本は悪くない」「この戦争は絶対に日本が負けない」というようなことを説明させている。元インサイダーに語らせておけば取材もいらない。いわば大本営発表を垂れ流しているのだが官邸が関与しているとは思えない。テレビ局が元官僚と組んで自発的に大本営発表を流さなければならないほど日本のジャーナリズムは弱体化し追い詰められ価値をなくしている。

ジャーナリズムはもう何を知るべきかという指針を示してくれないし、本当に知りたいことは何一つ取材できない。さらに官邸も暴走気味にこの問題を煽ってきたのでマスコミは官邸の指示も仰げない。

ここから想像する未来は単純だ。日本は地滑り的な変動が起きているという認識を持てないまま状況の変化に流されてゆくということになるだろう。

例えば、バブルが崩壊した時も我々は構造的な変化が起きているということを認められず、したがって構造的な変化を作れなかった。社会的な取り組みができないのだから、我々に残された道は自己防衛だけだ。

日本の企業は終身雇用のなし崩し的な破壊と金融機関からの依存脱却という「自己防衛」に走り、「いわゆるデフレマインド」という長期的な沈滞に陥った。背景にあるのは徹底した公共や社会に対する不信だろう。そして不信感を持てば持つほどそれは自己強化されてしまういまいましい予言なのだ。

実は日本のマスコミは社会や公共というものを全く信じていない。それは単に彼らの思い込みだと思うのだが、多分既存のメディアがその殻を破ることはできないだろう。なぜならば彼らの思い込みは彼ら自身を縛り、なおかつ視聴者も縛るからだ。

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ニューヨークタイムス紙によると日本は独裁体制を彷彿とさせる国らしい

The NewYorkTimes(ニューヨーク・タイムズ)が面白い記事を書いている。望月衣塑子記者を官邸と戦う記者としてフィーチャーしているのだ。「記者が日本でたくさん質問をする。それは日本では普通ではない」というようなタイトルである。




朝日新聞は好意的に書いており記者クラブ制度については触れている。ただタイトルだけ読むとThe NewYorkTimesが政権批判したと読み取れるのだが実際に批判されているのは新聞そのものである。また、朝日には削った箇所がある。それが「男性中心の秩序に挑戦している」という部分だ。彼らは日本人は英語が読めないであろうと考え印象操作してしまっているのだが、あるいは自分たちの認知不協和を癒そうとしているのかもしれない。

サンケイスポーツはずいぶん煽った書き方をしている。望月記者は国民的英雄であり独裁政権のように振る舞う政権に挑戦していると言っている。逆に反発心を煽ろうとしている感じがする。

だが記事が「独裁体制を彷彿と(reminiscent of authoritarian regimes)」と言っているのは確かである。

記事は東京新聞の望月記者の攻めた報道姿勢は市民の間に支持者が多いと言っている。国連報告者のデビッド・ケイもその姿勢を「意味のあることだ」と積極的に評価する。この辺りは、反政権的な姿勢の人たちにも好意的に受け止められそうである。だが記事はそこでは終わらない。

東京大学の林香里さんは「望月記者は男性中心社会を攻撃している」と言っている。つまり望月記者は「報道の自由」だけでなく「男性社会に挑戦する」ヒロインと捉えられているわけである。これはアメリカ人が持っている典型的な日本人像である。つまり日本は女性が男性に従うだけの封建国家であると考えられている。

記事を読むと「日本はアメリカ占領時代に作られた憲法があり報道の自由が守られた民主主義国」のはずだが、男性中心の古臭い人たちがそれを拒もうとしていて、女性差別もその一環であるというような印象で書かれているように思える。

記事をだけを読むと、日本の報道は男性の絆で維持されたジャーナリズムは封建的な(これは記事には出てこない言葉なのだが)体制の維持に協力してきた協力者であるという印象を持つだろう。記者クラブは地方の警察署のような小さな組織から首相官邸まで記者クラブがあり会員以外を排除しようとしているというのはアメリカ人から見れば言論統制だからだ。

外国人記者は記者クラブ制度に入れてもらえない。そのため外国人特派員協会を作ったり記者クラブ制度の廃止を訴えている。ジャーナリストといえどもやはり「中立」にはなりえないということがよくわかる。ただ、これだけでは不十分なので「抑圧された女性」という別の視点を入れて記事を補強しているのだ。伊藤詩織さんの時もそうだったが「旧弊な体制に立ち向かう勇敢な女性」というのは心情的にわかりやすい。だからこそ記事になるのだが、それだけ危険でもある。

これは日本人が中国や香港の民主化運動を極端に持ち上げるのに似た姿勢だ。日本も自分たちは中国よりマシな民主主義国だと思っている。そこで「中国の人民は無知ゆえに騙されているのだろう」と考えると同時に、体制に反抗する人たちを過度に持ち上げてしまうことがある。アメリカ人は民主主義や民衆の知る権利を至上のものと考えており、そうでない社会が崩れて変わってゆくことを求めている。ある種のスーパーマン願望を持っているのだ。

多分、この記事を日本語で読むと日本人の中には嫌な気分になる人が多いに違いない。例えば政府に対して疑問があっても「日本は男性社会であり」という部分に抵抗感を持つ人もいるだろうし、アメリカ占領時代に民主主義を与えてやったのに権威主義的な体制を維持しているという上から目線の論調に辟易する人もいるだろう。

実はアメリカでもこうした「上から目線」にうんざりした人たちが増えているのではないかと思う。The NewYorkTimesはアメリカでは有名なクオリティペーパーだが、同時に「エスタブリッシュメントの代表」だと思われている。オバマ大統領は立派なことを言っていたが結局何もしてくれなかったと考える人が、わかりやすいトランプ大統領になびき、バーニーサンダーズ大統領候補のわかりやすい言葉に親しみを感じている。

つまり彼らが高邁な理想主義を掲げれば掲げるほどそれに反発する人が出てくる。スーパーマンはもうヒーローではいられなくなってしまい今度は批判の対象になるのである。

朝日新聞もある程度まではこの記事や望月記者にシンパシーを持つだろう。記者クラブは政府の広報機関になっており自分たちの正しいはずの理想主義が共有されないという苛立ちはありそうだ。しかし、それでも彼らは男性中心の編集姿勢に踏み込まれれば反発するだろう。みんなに感謝されるスーパーマンが家では抑圧的な男尊女卑主義者だったというのは彼らには受け入れられないだろう。だから朝日新聞は記事のその部分を紹介しなかったのかもしれない。

ということでこの記事は全文読んだ上で分析するとなかなか面白い仕上がりになっている。The NewYorkTimesは登録すると毎月何本かの無料記事が読める。

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香港のデモに自分の思いを重ねる人たち

香港でデモを最初に知ったのはTwitterだった。多分反中国派の人たちだと思う。そのうちABCニュースが取り上げ始めた。やはり「中国が香港の民主化を阻害している」というようなニュアンスに聞こえた。日本のテレビはそこから遅れて独自取材が始まった。催涙弾を投げ込まれた記者の姿が印象的だった。抑圧に立ち向かう人々によりそうというジャーナリスト像を自己演出している。




今回の香港の100万人デモは「なぜ起きたのか」という点も注目ポイントなのだが、それはいろいろなメディアで取り上げそうなきがする。今回印象に残ったのは「政治ニュースに自分の思いを乗せてしまう人たち」の姿だった。

デモの概要

さて、まず今回のデモの概要だが、普通は次のように解説される。

また、香港では6月9日、刑事事件の容疑者を香港から中国本土に引き渡すことを可能にする「逃亡犯条例」改正案をめぐって、大規模なデモが起きた。これは香港の自治を保障する「一国二制度」が骨抜きになることへの危機感のあらわれだ。

香港デモで懸念される”天安門事件”の再来

ABCニュースもプロテスターの映像を流していたが、なぜこれが一国二制度の崩壊につながるのかについて議論している人はいない。Quoraで聞いてみた。

要約すると、昔からの不満や不信感が今回の条例改正案をきっかけに爆発したということのようだ。

不完全な民主主義社会 – 香港人の不満とは

まず香港の人たちは自分たちのことを中国人だとは思っていないのだが、中国の社会主義体制に飲み込まれてしまうのではないかという不安がある。BBCが詳しく解説している。香港は「限定的民主主義」の世界を生きていて自分たちの運命を自分たちで決めることができない。

香港政府トップの行政長官は現在、1200人からなる選挙委員会で選出される。この人数は有権者の6%に過ぎず、その構成はもっぱら中国政府寄りだ。

【解説】 なぜ香港でデモが? 知っておくべき背景

香港特別行政区立法会も普通選挙枠の他に職能枠があり香港住民の意思が完全に反映される仕組みになっていない。完全な民主主義のように見えるが親中派が歯止めを聞かせるという変わった仕組みになっているのである。これは却ってフラストレーションがたまるかもしれない。

これまでも中国に批判的だった書店員が次々と消えるという不可解なことが起きていているそうだ。表向きにデモを鎮圧するというようなことを共産党はやらないだろう。裏で影響力のある人を潰すのだ。

究極の自由主義社会だった香港

しかし、香港はもともと植民地だったのだから、限定された民主主義でも一歩前進なのではないかと思える。ところがそうではないらしい。

中国と香港は真逆の世界だった。中国は共産党が国民の安心・安全を考えてくれるという建前の共産主義社会なのだが、香港はイギリスが「港を使いたいから支配していただけ」という植民地だったのである。このためイギリスは香港の経済には不介入でだったし、年金制度も長い間なかった(ZAIオンライン)ようだ。つまり国に頼れないが経済的には豊かという地域だったことになる。香港政庁は最低限のことしかしてくれなかったが、香港の平均寿命は世界一なのだという。

ところが、この放任主義は長続きしないかもしれない。珠江デルタの大規模開発(粤港澳大湾区発展計画)が始まり社会主義的な開発が行われれば国の関与が増えることが予想される。また、米中貿易戦争の影響で仕事が東南アジアに流れたりすれば中国への反発も強まるはずである。こうした経済的な不満も政府への不満につながっていったようだ。

ついに台湾の情勢ともリンク

さらに複雑なことも起こっている。香港人の不満が台湾独立問題とリンクし始めているそうである。台湾独立問題とリンクすれば中国共産党は香港の民主化運動を無視できなくなるだろう。

我々は見たいフィルターをかけて他国の状況を見てしまう

このようにそれなりに複雑な香港情勢だが、先に引き合いに出したプレジデントオンラインの記事は「中国共産党が香港を抑圧している」という単純化された論調になっている。実際にデモを鎮圧しているのは香港政府なのだが、その辺りは無視されてしまう。一応ジャーナリストとして訓練されているはずの江川紹子もこのような調子になる。

中国は影では抑圧するかもしれないし間接的には指示も出しているのかもしれないが、あからさまにデモを鎮圧して国際世論の非難を集めるようなことはしないだろう。でも、時期が近いことで天安門事件と重ねた論考が出てしまうし、我々は思い込みからは完全に自由になれない。行政長官は審議を継続すると言っているが、ブレーンからは「今回はやめたほうがいいのでは?」という意見も出ている(香港の逃亡犯条例改正案、行政長官顧問「審議継続は困難」)ようだ。

ところが日本にはこれと別の流れがある。

日本では香港でもへの支援が広がっているようだが「自分たちの運動が見向きもされない」ことに対する代償を求めて集まる口実を作っているようなところがある。

さらに、1960年代の学生運動に批判的だった人・当事者として関わったが人生を棒に振ったと思っている人や、朝日新聞に代表されるインテリが嫌いな人たちがいる。彼らはリベラルが嫌いなので「民主主義国でデモを起こすのは彼らがわがままだからだ」と主張したくなるようである。ただ、彼らが本当に非難したいデモは日本の反原発デモや安倍打倒デモなのだろう。

相手が中国共産党ということになっているので、日本のデモを非難する体制よりの人が香港のデモを応援するというねじれも起きているようだ。

今回の件は香港特有の事情があって起こった問題のはずなのだが、我々はどうしてもそこに自分の意見を乗せて見てしまう。事実をそのままに見るのはなかなか難しいのである。

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ViViの自民党キャンペーンが「炎上」する

ViViという雑誌の自民党キャンペーンが炎上しているという。Twitterだけで見ると確かにアンチしか反応していない。みんなが怒っているのに景品欲しさに「自民党いいね」という読者がいるとは思えないし「政治は面倒だから関わらないようにしよう」と考える人が増えるのではないかとすら思う。




この件にはいろいろ不思議な点が多い。

まずViViがなぜこのような「キワモノ」に手を出したのかが不思議である。ViViの自民党キャンペーン「#自民党2019」は、読者への裏切りではないのか。 元編集スタッフの私が感じたモヤモヤ。という軍地彩弓さんが書いた記事が見つかった。

日本の雑誌の総売上がピークを迎えた頃だ。1号あたりの広告費は数億円になることもあり、“赤文字雑誌”はまさに出版社のドル箱だった。しかし、2009年以降スマホが普及し、TwitterやInstagramなどのSNSが雑誌の役割を奪うと、雑誌の部数は減少する一方になり、当然広告収益も下がった。

ViViの自民党キャンペーン「#自民党2019」は、読者への裏切りではないのか。 元編集スタッフの私が感じたモヤモヤ。

軍地さんは書きにくいだろうから代わりに書くと「ViViは食うに困って政治に手を出したんですね」ということになる。モデルを使って読者を誘導するというのはファッション雑誌お得意のスタイルなのだろう。「みんなやっているよ」と言われればなびく読者は多いだろうからだ。

普通のマーケティングならギリギリ許されていた行為が政治に結びつくと「政治的扇動」ということになってしまう。だが、普段から政治や暮らしなどを考えたことがなく「ふわふわと生きている」大人たちにはそんなこともわからなくなっていたのであろうし、これからも理解することはないだろう。

大手雑誌の編集者といえば「憧れの仕事についたステキな勝ち組」として上からファッションを語る。こうした人たちは自分が才能があるから成功していると思っているはずで社会や政治に関心を向けたり困窮者に同情を寄せたりすることはないだろう。だが、実際の経済事情は火の車であり、なんとか虚栄の市(バニティ・フェア)を守られなければならない。そこで覚悟なく手を出したのが政治だったのだ。

さらに調べたところYahooに分析記事が見つかった。こんな一節がある。

米国とは異なり、日本のファッション「雑誌の広告主は政治関連記事掲載を許容」はしない気がする。今回、講談社が「政治的意図はなかった」とすぐに表明したのも、広告主の反応を気にしたからといってよい。

雑誌は政治的発言をして良いはず 『ViVi』と自民党のコラボが炎上した背景とは

こちらは「スポンサーを気にしているのではないか」という。つまり色がつくのを気にしたというのだ。政治を他人事と考える人たちはやっかいごとに巻き込まれるのを恐れて政治に近づかない。しかし軍地さんの分析と合わせると「そうも言っていられなくなった」ので大勢に媚びていったということになる。

ただこの記事は伝説のアナ・ウィンターを引き合いにしており、日本の「そんじょそこらの」編集者たちと比較するのはちょっと酷な気もする。

そう考えると、今まで「私は実力で成功でいるから政治なんか関係ない」と言えていた「キラキラした人たち」がそうも言っていられなくなり、「ステキな政治」を演出しようとして炎上したということになる。かなり救い難い話である。

二番目の論考にでてくるように、ファッション雑誌も「自分の頭で考える人」が作れば、政治的意見を持てないわけではない。アメリカではセレブが政治的な発信をするのは当たり前だし、それがマイナーな意見であっても「勇気ある発言だ」と賞賛されることがある。日本の場合は「周りの目を恐れて浮かないように」生きてゆくのが当たり前だとされている。ファッション雑誌にはその国の価値観が出る。

叩かれるのを恐れずに個性を出してゆくというのがアメリカだとすれば、日本は周りの目を気にして生きて浮く社会であるといえる。政治的な意見を持つというのが忌避されて当然なのだ。ただ、それはもう成り立たなくなりつつある。

今、雑誌よりも影響力が強いのはInstagramだが日本ではローラが世界標準に乗せてセレブっぽい社会問題を発信し続けている。仕込まれた感じはするが、これを見ている日本の読者は「社会問題に関わるのはかっこいい」と思うようになるはずである。韓国のタレントも社会奉仕活動や寄付には熱心でInstagramをフォローしているとその様子がわかる。結局取り残されるのは雑誌の方なのである。

今回のTwitterの反応を見ていると「広告には理想的なことが書かれているが自民党のやっていることと真逆だ」というようなコメントがついている。なるほどもっともだなとも思うのだが、考えてみればこれも不思議な話である。

女性が政治に興味を持って一定の塊を政党は無視できない。つまり、女性から政党という意見の流れはあるはずだ。今、自民党の政治が女性を無視しているのは女性があまり政治的な声を挙げないからである。そしてそうした雰囲気を助長しているのは大手の会社に守られた「周りに浮かないように素敵な人生を送りましょう」というメッセージである。つまりそれこそが政治的洗脳なのである。

「みんなと同じように生きていれば自動的に幸せが得られる」という社会ではなくなっていることを考えると、いわゆるみんなと同じね安心ねという「ファッション雑誌」というステキはもう存続できないのかもしれないと思う。

今回のキャンペーンがViViの読者にどれくらい響いたのかはわからない(読み飛ばされている可能性は極めて高い)のだが、もし彼女たちがそれを意識したとしても「なんか面倒だな」としか思わないのではないだろう。

だが、ViViの読者たちもすぐに子育てとキャリアの両立というような政治的課題に直面することになる。そうなると世の中から置いて行かれるのはファッション雑誌である。彼らはもはや時代の最先端ではないのだ。

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古いAppleTVでアメリカのニュースを見る

アメリカのニュースを見たいのだがCSにお金を払ってまで見るのもなあと思っていた。ところがひょんなことからABCニュースが見られるようになった。中古のAppleTVを手に入れたのだ。




小さな黒い箱がAppleTV

このAppleTVは第二世代と呼ばれる古いものだ。「セットアップができない」という理由で1,000円で売られていた。セットアップには専用のAppleリモコンが必要なのである。

Macのガラクタを集めているウチには古いAppleリモコンがある。セットアップができるなあと思って買って帰った。セットアップは簡単だ。手持ちのAppleIDを入れると全てが終了する。難しい設定は何もない。テレビはCOBYの中古で1,500円である。

最初は「おもちゃ」としてiPhoneやiPodの映像を映してみた。だが、それは一度やったら「ああ、できたね」で飽きてしまう。昔はこの世代のものでもYouTubeが見られたようだがアプリのサポートが終わってしまって見られない。また、自分でアプリを追加することもできない。かなり使えない箱なのだ。

AppleTV第二世代はiOS5.3時代にはジェイルブレーク(脱獄)ができ自分でアプリを追加できたそうだが、6.2にアップデートするとそれができなくなるらしい。だから今あるコンテンツ以外は見ることができない。できるのはiTunes Storeから映画を買ったりレンタルしたりする(これはこれで楽しめそうだが)くらいのようだ。

YouTubeがどうしても見たければMacのSafariを使って中継するかiOS系の機器をストリーミングするというやり方もある。ただ、これもやり方を勉強したら飽きてしまった。iPhoneに入っている写真をみんなで見るというような使い方はできるかもしれない。かつてのようにホームシアターシステムに音楽を送るという使い方もできる。

「やっぱりおもちゃだからそんなに使えないなあ」と思ったのだが、ひょんなことから新しい使い道が決まった。ABCとBloombergが見られるのである。YouTubeでも同じようなものが見られると思うのだが「見たいものを選んでくれ」という形式なので何がイチオシなのかよくわからないという欠点がある。

最初の10分くらいは何を話しているのかわからなかったが、そのうち耳が慣れてきた。今は便利になっていて、わからない単語があるとパソコンなどで調べられる。英語の勉強をしたい人には面白いのではないかと思った。

今はバイデンさんとトランプ大統領の「対決」について流している。トランプ大統領が「バイデンは頭がおかしい」と主張しバイデンさんは「相手にしない」というようなことをやっていた。バイデンさんを支持する人は30%いて民主党ではトップなのだが、それでもまだ20名の民主党候補の1名にすぎないそうだ。だから、トランプ大統領と遊んでいる余裕はないのだという。

普段「マスゴミ批判」にばかりしているのでテレビの否定的な部分ばかりが目についてしまうのだが、今何が起きているのかを知るためには選択式のネットよりもテレビのほうがわかりやすいということもわかる。

バイデンさんのニュースの後には、共和党のEPAがトランプ大統領を批判しているというニュースが流れていた。昔ならEPAが何なのかわからないまま見ていたと思うのだが、今は検索して調べられる。トランプ大統領が環境系の予算を減らしているという話のようだ。

ABCをしばらく見ていて「あれ疲れないな」と思った。変な声色のナレーションとコメンテータがないのだ。あれがいかに人を疲れさせるかということがよくわかる。

「知りたいことだけが簡潔にわかる」というのは気持ちがよいものだが、これができるのは記者たちが自分の言葉で話ができるからだ。このため、アンカーは知りたいことを記者に質問し、記者がサクサクとそれに答えてゆくという形式でニュースが進む。これができるのは記者たちが地方局から選りすぐられて上がってくるからなのではないかと思う。

日本の記者は会社の「おつかい」に過ぎないので自分の言葉で何かを話すことはできないし、何かを話すことも許されていない。さらに、何が起きているかよりも「みんながどう思うのか」ということを気にする日本人はコメンテータの顔色を見ないとニュースをどう評価していいかわからないことになる。

もっともこんな苦労をしなくてもCS放送で好きなチャンネルを購読すれば良いだけの話なのだが、やる気になればいくらでも海外報道に触れられるようになった。マスコミ批判だけしていても日本のメディアが意見を聞いてくれるとは思えないし、そろそろ対応もできなくなっているのではないかと思う。

パソコンで全てをこなすのもいいが、安いPCとモニターを買ってくれば簡単にニュース専用テレビを設置することができるようになっている。

ABCはネットにかなり力を入れているようで、同じプログラムはPCでも見ることができる。また、iTunes Storeでアプリを手に入れることも可能のようだ。たったこれだけのことで、生の英語に触れて時事問題にも詳しくなることができるのである。

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殺人を糾弾するテレビが人を殺すまで

ついに恐れていたことが起きてしまった。川崎・登戸の事件報道が二次被害を生んだようなのだ。正確には最初の事件から「波及した殺人」が起きている。




川崎・登戸の事件は「ひきこもり」が起こした事件として報道された。ひきこもりは社会の役に立たない人たちであるとされている。そのため、世の中はこの決めつけ報道に疑問を持たなかった。

支援者たちはこれに危機感を持ち当事者や家族が追いつめられ「社会とつながることへの不安や絶望を深めてしまいかねません」との懸念を表明していたのだが、実際にはかなり悲惨なことが起きた。最初の事件は福岡で起きた。働かない息子を叱ったら母親と妹を刺して自殺したというのである。ただ、この件はそもそもあまり報道されなかった。

今後、若干派手に報道されそうなのはもう一つの事件である。殺人未遂で逮捕された人が農水省の事務次官という「立派な肩書き」を持った人だったのだ。

「報道との因果関係などわからないではないか」という反論が聞こえてきそうだ。こうした反論が起こる背景には「ひきこもりのような役に立たない人間は殺されても当然だ」という社会に溢れている差別意識に加え、因果関係を認めてしまうとテレビや新聞などの報道を経済的・社会的に制裁しなければならないという他罰的で妙に律儀な意識があるのだろう。さらにその奥には「まともに生きている自分さえ処理されかねない」という危機意識もあるのかもしれない。

続報を読むと「暴力にさらされておりいつ何が起きてもおかしくない状況」だったことがわかる。マスコミ報道は単に背中を押しただけなのかもしれない。早かれ遅かれ問題は起きていたのかもしれない。

つまり、平穏そうに見える家庭にも「やるかやられるか」という状態が持ち込まれている。だから、この件について「マスゴミの姿勢を問う」というような糾弾姿勢は返って逆効果になる可能性が高い。誰が悪いのかと指を指しあっても緊張を高めるだけで問題解決にはならないからである。

マスコミの問題点は「解決策を提示しないで危機意識だけを煽ったこと」だ。例えば老人に蓄えがないと暮らして行けないという報道も別の人たちの背中をおす可能性がある。

ただ、マスコミは問題糾弾だけをしていれば良いという意識もある。日本の報道機関は各社の村の共同体なので問題意識を共有して議論するということがないのだろう。ゆえに、こうした決めつけ報道の歴史は古く根強い。

辿れる源流は1988年から1989年に渡っておきた宮崎勤の事件である。宮崎は今田勇子という名前で犯行声明を出し、これがマスコミの注目を集め続けた。この事件を扱いかねたマスコミは「6000本近いビデオテープが出てきた」ことを根拠に「気持ち悪いオタクは人を殺しかねない」というような報道をし、生育歴を問題にした。つまり家庭を責めたのだ。

当然、世間の非難は家族・親族に向かった。批判にさらされた父親は自殺し、他の親族も仕事を辞めざるをえなくなったようである。報道の二次被害というとこのような関係者に対する直接の影響を指すことが多い。今回の話は「波及効果」なので厳密には違いがある。

宮崎勤は今でいうひきこもりだったのだが、当時この言葉はあまり一般的ではなかった。このひきこもりという言葉も元の意味を離れて一人歩きしてゆく。そして解決策が見つからないまま単なるレッテル貼りに使われるようになってゆく。

ひきこもりという概念の歴史(1) 稲村博先生と斎藤環先生という文章に経緯が書いてある。まず、精神医が不登校問題を考えるうちにアメリカの資料から「社会的ひきこもりという問題があるらしい」ということを発見する。そして不登校の原因はひきこもりかもしれないという解決志向の啓蒙活動が行われた。

ところが、発案者や啓蒙者の思惑を離れて使われるようになってゆく。2000年に入ってひきこもりと犯罪を結びつける報道がなされたという経緯である。

この間、マスコミは根本的な対処はせず「その日の仕事を済ませるため」に「番組や記事の派手なタイトル」を欲しがっていただけだった。そこから継続的に「オタクやひきこもりのような暗い人たちは何をしでかすかわからない」というような報道だけが繰り返され、今回のような事態にまで至ったことになる。

今回の農水省元事務次官の件も「暴力を受けていたから止むを得ず殺した」という情状酌量の方向で短く報道されるのではないかと思われる。なぜこの元事務次官がこの問題を誰にも相談できなかったのかというようなことは語られないだろうし、語られたとしても「行政が悪い」という話で終わるはずだ。

ただ、この「やっつけ報道」は違和感も生じさせているようだ。宮崎勤事件の記憶のあるマスコミは型通りに「岩崎容疑者の自宅から出てきたもの」を「速報」として報道した。テレビを見ているのは主に高齢者なのでいつも通りの報道に疑問を持たなかったのではないだろうか。

ところが、出てきたものがテレビとビデオゲーム機だけだった。宮崎勤の件を知らない人たちは「テレビとゲーム機などどこにでもあるのに」と不思議に思ったようである。J-CASTニュースは山田太郎前参議院議員の違和感を紹介している。

山田さんは「傷つく人がいる」とソフトな表現をされているが、実際には傷つくどころか殺人事件まで起きてしまった。本来社会の問題を解決するために報道があるとすればそれはとても間違った恐ろしいことである。

しかしそれを責めて見ても何の問題も解決しそうにない。「直接的な因果関係は証明できない」わけだし、そもそも「社会の迷惑は死んだり殺されたりして当然」と思う人も多いのではないか。

我々はどうも人が「片付けたり・片付けられたりすることを」仕方がないと思うところまできているようだ。前回の記事にはこのような感想文をいただいた。

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高齢者の嫌韓はなにが問題なのか

韓国について二つの全く違った記事を見た。一つは中高生に関する記事で、もう一つは老人に関する記事である。




最初の記事は「インスタから紐解く、女子高生に「韓国」が人気な理由」というものだ。韓国人は「自分をよく見せることに積極的」な人が多い。SNSを通じてそれが伝わり日本人の中高校生も韓国が好きなるというのである。一度そういう印象がつくと、あのハングルでさえも丸くて可愛い文字に見えるらしい。

もう一つの記事は毎日新聞のもので「なぜ嫌韓は高齢者に多いのだろうか」というタイトルがついている。「よくわからない」とするものの、定年退職などで社会と切り離されたときに嫌韓発言に出会い「社会正義に目覚めた」という人が多いのだという。

韓国という一つの国に対する感覚が世代によって全く異なっているという点が面白い。ある人たちは楽しい韓国で気分が「アガり」別の人たちはコリアヘイターたちに囲まれて日々苛まれ続ける。

日本敗戦当時のアメリカに対する心象を除いてここまで両極端に反応が出る国というのは他にないのではないかと思う。アメリカですら普通の国民はあっさりと親米に転じてしまう。今では一部の人たちが反米感情を持ったまま孤立しているだけである。

反米感情の場合「戦争に乗ってお金儲けをしてやろう」という人たちはあまり傷つかなかったかもしれない。しかし純粋に日本を応援していた人たちには気持ちの持ってゆきようがなかったのではないだろうか。そこから類推すると現在の嫌韓は「企業人生を全うすればいいことがあるだろう」という期待が裏切られたのに行き場がないということなのかもしれない。そう考えると毎日新聞の「いまひとつ納得感が得られない」というのも当たり前の話だ。

もう一つ重要なのはパーソナルな情報空間という現代特有の事情だ。記事を読み比べるだけでも、世代間で接触するメディアが全く違うのがわかる。若い人たちはYouTubeやInstagaramなどできれいな韓国を知っており、自分を成長させるために新大久保に行くのだろう。将来が開かれていると感じている人は楽しいことを探し、自分のためにお金を使う。一方、中高年が触れるのは嫌韓本とそれに付随したSNSアカウントだ。つまり本を売るためのプロモーションに影響されてしまっているのである。彼らは本を売るために利用され続けるのだ。

若い世代は「自分をよりよく見せるため」のモデルを探している。INF危機を経験した韓国は競争社会になっており「他の人たちよりもよりよく見せる」ことが重要な社会だ。良し悪しは別として、まだ変化の余地がある日本の若い世代もそれに適応しようとしているのかもしれない。日本も「個人ベースの競争社会」に変わりつつあり、これまでのように謙虚にしていては埋もれてしまうというという社会になりつつあるのかもしれない。

では、嫌韓の問題は何なのだろうか。

高齢者は家に閉じこもりネットで選択的に限られた政治的な記事を読んでいる。そうしてそのような記事は問題解決ではなく、部数を伸ばすために読者が敏感に反応するコンテンツを提供しつづけなければならない。彼らは蓄積された資産の一部をそうしたメディアを応援するために使い続けることになるだろうが、後には何も残らない。

日本人には強い同調傾向があるのだが、接触メディアによって周りの見え方が全く異なってきてしまっていることがわかる。若年層が重要視するメディアは「解説なしの」ローマテリアル(原材料)であり、中高年層が見ているのは「解説記事だ」という違いがある。これは「憎しみを利用して物を売る」ためにはより多くの加工が必要という事情があるのだろう。

重要なのは韓国に親しみを感じる人はなんらかの自己表現について学ぶということだ。飽きたら韓国への興味は消滅してしまうかもしれないが、自己表現技術は残る。一方嫌韓は「憎しみマーケティング」なので参加者はいつまでも自己表現ができない。自分の気持ちが客観的に伝えられないからいつまでも嫌韓感情に煽られることになる。

嫌韓なら嫌韓でも構わないと思う。ただ、それを表現してみて初めてその良し悪しがわかるはずだ。多分、唯一にして最大の問題は自分の気持ちを語る術を得られなかった人たちが、そのままいつまでも何かに煽り続けら続けるということだろう。

映画「マトリックス」ではないが、眠らされたままの状態でエネルギーを吸い取られ続けて一生を終わるようなものである。多分問題点は嫌韓の果てにある結果だ。憎しみはお金儲けに利用されるが、後には何も残さないのである。

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