非デュシャンヌの笑い – 偽りの笑顔

親戚に女の子がいる。いま1歳。この子がかわいい。多分血がつながっているからだろう、とは思う。この子がかわいいのは、時折見せる笑顔のせいだ。この子に限らず子どもの笑顔はかわいい。大抵、あかちゃんは見つめると笑い顔を返してくれるのだ。しかし顔は口ほどに嘘をつくによると、この笑顔生後10か月を過ぎると「人が近づくと自動的に」笑うのだそうだ。
人間が作る事ができる表情は10,000程度。意識して動かせるところと、意識しなければ動かせない筋肉がある。笑ってみるとわかるのだが、笑い顔に関係する筋肉は2つ。口の周囲と、目のまわり。口は意識して動かすことができる。しかし目は楽しくないと動かないのだという。赤ちゃんの笑い顔にも2種類があって、母親に笑うときには目と口が動く。知らない人(たぶん親戚のおじちゃんも含む)への笑いは口だけだ。
あかんぼうが嘘をついているとは思えないのだが、別に楽しいから笑っているわけでもない。別に誰かに教えてもらったわけでもないのだが、とりあえず笑ってみる。すると回りが和み、襲われる危険が少なくなる。こうやってあかちゃんは身を守っている。襲われないどころか、遊んでもらえたり、運が良ければ食べ物がもらえたりする。
怒りや不安は「完遂しない経験」だった。完遂しない経験が積もり積もって、悪い場合には世代間を越えて伝わるのだった。一方、笑いも何もない所にうまれる。とりあえず、笑ってみる。すると場が和み、私たちが本来持っている「可愛がりたい」というような感情が刺激される。するとさらに場が和む。このように、感情には、スパイラルの起点としての役割がある。
こうした、目が笑っていない状態を「非デュシャンヌの笑い」(non duchenne smile)と呼ぶそうだ。Wikipediaによると、デュシャンヌの笑いは不随意筋である目の回りが動くので「純粋な笑い」であると考えられている。一方非デュシャンヌの笑いは口角だけで笑っているのだから、本当に楽しい訳ではない可能性がある。つまり嘘が介在する余地があるというのだ。
笑いのトレーニングに「口角を上げる」というものがある。割り箸を使って口角を上げる訓練をしろというのだ。残念なことに口角だけを上げても、目が怖いままでは笑っているようには見えない。笑顔のトレーニングに割り箸を使うのは口角が意思の力でコントロール可能だからだ。つまりお愛想笑いの練習ができるわけである。
口角を上げるトレーニングが重要なのは、筋肉がこわばっていて半分しか上がらなかったり、右か左のどちらかしか動かなくなっている場合が多いからだと思う。普段使わなくなっているか、抑圧されていて笑えなくなっている場合には、こうした訓練は重要だろう。しかし実際にこの練習をしてみると、楽しくないのに笑うことに違和感を感じるようになる。そして訳もなく落ち込んだりする。口をかたく結ぶのは「緊張」の現れだからだ。緊張が続くと却って弛緩してしまうのだ。怒りは完遂しない経験だ。本来は怒るべき場面で笑っていると怒りの経験が完了しないから、お愛想笑いは有害かもしれない。
一方、目を使った笑いは楽しい事を思い浮かべないと作れない。これは緊張を緩和するのに役に立つ。実際に笑いには緊張の緩和という役割がある。たとえば、誰かがスピーチでとんでもないことを言う。一瞬何が起こったのか分からない。緊張がその場を支配する。誰かが「わはは」と笑うと、それが冗談だったということが分かる。この場合人は楽しいから笑っているわけではない。緊張が臨界点まで高まり、それを緩和するために笑うのだ。そして笑うとだんだん楽しくなってきて緊張があったことを忘れてしまう。
雑誌などでいろいろな人の笑いを観察すると、口角だけを使った笑いは到る所に見られる。たとえば選挙のポスターは、たいてい口角だけの笑いだ。不自然にならない程度に目尻が下がっていたりする。これが失礼にならないのは、笑いが相互作用によって成り立っているからだ。
たとえば私がまじめに話しているのに、あなたがデュシャンヌスマイルを振りまいたら、きっと私は怒り出すだろう。それは私はまじめに話しているのに、あなたがそれをまじめに受け止めなかったと考えるからだ。しかし口角だけを上げて微笑みながら聞いてくれれば、私の興奮は収まるかもしれない。それは「楽しいから笑っている」わけではなく、その場を円満に納めるための笑いだからだろう。このように人はノンバーバルコミュニケーションを通じて感情のコントロールを行いながら会話を進める。
Twitterではこうした非言語のコミュニケーションチャネルが塞がっている。だからオフラインのコミュニケーションに慣れている人は、Twitterを不完全なチャネルだと思うだろう。一方、Twitterに慣れている人は、言語的な要素(たとえばエモティコン :-))を使って感情を捕足するのに慣れているか、こうした感情的な要素を排除してニュートラルな会話ができる人ということになるだろう。たぶん、感情を排除しているのではないかと思われる。最近はウェブカメラを使って非言語的なコミュニケーションを導入することが可能なのだが、こうしたやり取りは却って「生々しい」と敬遠されることが多いからだ。
生々しい会話に慣れている人は、こうした会話を「ぱさぱさして」抑圧的だと感じられるのではないかと思う。これは都市と農村の人間関係に似ている。農村の人から見ると、都会の人間関係は稀薄で「ぱさぱさしているように」見えるだろう。しかし都市の生活に慣れた人にとって農村の人間関係は濃厚すぎて煩わしいと感じられるはずだ。これは群れの密度と交換される情報の多さに関係しているのであろう。農村よりも都市の方が人口密度が高い。交換される情報量も多いので、農村と同じ密度で情報を発信するときっと疲れてしまうに違いない。同じようにインターネット上を流れる情報量は飛躍的に大きく、濃密な関係を不特定多数と結ぶと疲れてしまうのかもしれない。
コミュニケーションの中に「笑い」をうまく織り込むと、効果的に意思を伝え、対立を解く事ができる。楽しいから笑う場合もあれば、笑うから楽しくなるということもある。そして、笑いは状況によって意味が異なり、不適当な時や場所で笑うことが侮蔑の意味に捉えられたりする。オンラインメディアではこうした非言語を使ったコミュニケーションがうまく使えない場合があり、それを代替する機能が必要になるかもしれない。

アクティブリスニング

アクティブリスニングは問題解決のための対話

アクティブリスニングは積極的に聞く技術なのだと説明される。しかしネット上のアクティブリスニングの解説には部分的なものが多い。また、結局の所「相手に話を聞いてもらえたと考えてもらえたら勝ち」とか「相手は学習の宝庫なのでトク」といった損得、勝ち負けに落とし込んだアクティブリスニングの解説も見られる。実際に、アクティブリスニングの原典の一つであるトーマス・ゴードンの本ゴードン博士の人間関係をよくする本―自分を活かす相手を活かすを読むと、どうもそれが誤解なのではないかと思えてくる。アクティブリスニングは問題解決のための対話手法の一部らしい。

子どものカウンセリングから生まれたアクティブリスニング

トマス・ゴードンは子どものカウンセリングを行なっていた。しかし子供たちが口を揃えて「問題があるのは親の方だ」ということに気がつく。親にカウンセリングを受けさせるわけにもいかないので、親業とはリーダーシップであるという路線で、親に「聞く技術を教える」ことにしたのだという。あいづちをうつ、距離を取る、批判をしないなどという個別のメソドロジーについては、様々なウェブサイトや解説本が出ているので割愛する。

操作しないことが重要

キーになるのは、相手の話を聞くふりをして「相手を操作しないようにする」ことの重要性だ。たとえば会社を辞めたいと言っている人にたいして「僕はそういう人は好きじゃない」と自分の価値観を押し付けたり、「世の中はそんなに甘いものじゃないんだよ」と説教したりすることが他人を操作することにあたる。また「僕に相談されても…」と話題を変えてしまうのも聞かない行為だろう。ゴードンはこうした一連の行動を「非受容の言語」と言っている。アクティブリスニングでは、相手を「好ましい方向に向かうように援助」したりもしない。この行為そのものが操作に当たるからだ。
相手は自分で問題を解決する。聞き手はそのための手助けをするだけだ。それではどうして相手は人に話をするだけで問題を解決できてしまうのだろうか。

経験を完遂する

人が怒りや不満を持つというのはどういう状態なのだろうか。それはある感情が完了しないことから生まれるようだ。つまりその感情を整理し、それがどこから来ているのかを捉えるか、別の経験が起こりその感情が上書きされてしまえば、怒りは消えてしまうということになる。経験を完了させてしまえばいいわけだ。他人に何かを話すことでこうした経験を(少なくとも頭の中では)完了することができるのだ。
ここで非受容の言語を聞いてしまうと、話し手は自分の経験を完了できなくなる。そればかりか自分の言い分に対して防衛をはじめてしまう。すると問題が解決できなくなってしまう。するとイライラが募るので、いつまでも怒りや不満を抱えたままである。
たとえば女性が何人も集って喫茶店で話をしている。相手のいうことを聞いているようなのだが、実は全く話を聞いていない。大抵「それでさあ」といいながら全く関係のない自分の話をはじめる。このように、誰かに聞いてもらえるだけで満足してしまうのである。居酒屋でも同じことが起こる。愚痴を言い合っているだけなのだが、それでも参加者はなんだかすっきりした気分になる。こうした時に「自分の価値観を押し付けるのはよくない」し「自分が聞き手に回っては疲れるだけ」である。しかし無反応なのもよくない。相手のいうことを聞いてやる必要はない。ただあいづちを打てばいいということになる。話をすることで「経験を完遂している」ということになる。
アクティブリスニングはそれだけでは「対話」ということにはならない。なぜならば、相手は一方的に自分の話をしているだけだからだ。

アサーティブ – 自分のことは明確に伝える

アクティブリスニングは実はもう一つの技術と対になっている。それは自分の問題を明確に伝えることだ。トマス・ゴードンの本には出てこないのだが、これを「アサーティブ」とか「アサーティブネス・コミュニケーション」と言ったりする。私の気持ちを「私」を主語にして伝えるのだ。つまりアクティブリスニングとは、ただ聞き手に回るだけの技法ではないのだということになる。喫茶店や居酒屋の会話とは違っているわけである。
大抵の場合この二つは別々に言及される。だから「アクティブリスニング」だけを見ていると「ただ聞き手に回る技術」だということになり、「アサーティブ」だけを見ていると、ただ自己主張しているだけということになる。しかし実際はコミュニケーションなので、相手のことは相手に話させる、自分のことは自分で伝えるという二局面が一つのコミュニケーション術になっている。

相手と自分の問題を切り分ける

自分の問題を解決できるのは自分しかいない。トマス・ゴードンが強調するのはこの問題の切り分けだ。相手を操作してしまうのは、相手が抱えている問題をつい自分のモノだと認識してしまうからなのだ。聞き手が相手の問題を解決してやれるのは、その人よりも一段高いところに立って、問題を俯瞰的に見ているからだろう。逆に「我々」の問題について、相手の言い分を一方的に聞かされるのはかなり苦痛だろう。さらに悪い事に、相手に自分の意見を伝えるのはさらに苦痛だ。だから利害関係がある会話においては、ついつい相手の話に自分の考えを紛れ込ませてしまうことになる。ここに相手を操作する余地が生まれる。
本では「私が持っている問題」「相手が持っている問題」という図式がくり返し使われる。そして「自分が持っている問題」について許容できない場合にはそのことを相手に自分の問題として伝えることが大切だと、ゴードンは主張するわけだ。
つまり、アクティブリスニングを使ったコミュニケーションでは、相手と自分の問題を切り分け、さらに問題が何なのか(つまりどんな経験が完了していないのか)を明確にすることが重要なのだ。

個人主義社会と集団主義社会

この「誰が問題のオーナーか」という概念はかなり受け入れがたい。理解するのに「ん」と一呼吸置かなければならない。これはなぜなのだろうか。
個人主義であるはずのアメリカでさえ、相手の問題に絡めて自分の願望を伝えてしまうことがある。英語は主語がある言語なので「私」「あなた」という切り分けは容易にできるはずだ。しかしながら実際には彼らにとってもそれは難しいことだということが分かる。まして、我々が日本人と日本語のコミュニケーションを考えるときには「私」と「あなた」がなく、「我々」とか「世間では普通は」とかいう主語(しかも隠しながら使う事ができる)の存在が問題になる。そもそも言語的なコミュニケーションがどれくらい重要なのかという視点も出てくる。
日本人のコミュニケーションを考えるにはまた別の視点が必要なようだ。それは、相互依存的で「私」と「あなた」がない世界だ。明日は、英語にはこうした相互依存の関係性を肯定的に現すコトバはないのだという主張を交えながら、日本人のコミュニケーションについて考える。こういった信頼関係は一度でき上がると非常に強固なモノなのだが、作り上げるのに時間がかかる。アクティブリスニングは、バーバルコミュニケーションを軸にヒントとしてノンバーバルコミュニケーションを使う。しかし、日本人の関係性構築は「ノンバーバル」が中心なのである。こうした一連の特徴が多分、日本人を「コミュニケーションべた」にしているのだろうということが洞察できそうだ。

mixi

光浦靖子さんは今東洋医学にはまっているそうだ。あまりにもはまり過ぎて、ついに学校に通っているのだという。大竹まことのゴールデンラジオで、そんな光浦さんがおもしろい話をしていた。学校で宿題が出されている。パソコンが苦手な光浦さんは課題を仕上げるのがむずかしそうだ。そんなとき、友達たちが手を差し伸べてくれた。宿題を一緒にやりましょうというのだ。なんて親切なのだろう、と光浦さんは思う。しかし、ふと気がつくと、光浦さんはある「危険」を冒していることに気がつく。クラスには2つの友達の集団がある。一つはすでに職業にしようとしていたり、関連したシゴトをしているプロの人たち。もう一つはそうでもないグループだ。一つのグループで「あっちのグループにも助けてもらっている」という話をしたところ、一瞬気まずい雰囲気が流れたのだそうだ。
これが本当にあったことなのかは分からない。ネタという可能性もある。しかしなんとなく「ありそうだなあ」と思わせる話だ。光浦さんはこのとき「そういえば学校でも似たようなことがあったなあ」と思ったそうだ。

送信者 Keynotes

昨日のソーシャル・リンクのピラミット上では、学校の知り合いは「標準のリンク」ということになりそうだ。一生をかけるほどのコミットメントとはいえなそうだし、お互いに助け合っているので相互性は確保されている。しかし、それでも「どっちと仲良くするか選んでよ」というような無言のプレッシャーがある。けっこう縛りがきついのだ。
ある職場で働いていたとき、同僚の一人からmixiのおさそいを受けた。ほのめかすようにやって来て「それとなくこのアカウントが私のものである」と気づかせる。名前はハンドルネームだし、顔写真も出ていない。それはまるで秘密結社の入会儀式のようだ。そこから友達関係をたぐってゆくと、どうやら「このハンドルネームがこのヒト」みたいな類推ができる。この同僚ラインマネージャークラスの人たちで40代だ。たぶん一人ミドルマネージャーが入っているのだが、シニアマネージャー(マーケティング事業部長といういかめしいタイトルだった)との間に溝がある。会社の外でこの人たちが楽しそうにやっていることは気づかれてはならない。誘ってくれたヒトはインナーサークルに加入してほしいという気持ちがあったわけではなく、どうやら仲良くしていることを見せつけたい気持ちがあったようだ。観客がいないショーもまたむなしい。別のラインマネージャーは「オンラインに強い」という自負心があり、mixiの中でマーケティング活動を行なっている。この人のリンクポリシーはすこしオープンだった。
よく、日本のインターネットコミュニティは「匿名だ」という話がある。確かにそうなのだが、mixiは厳密には匿名とは言えないように思える。実際に内輪に入ってみると、誰がどのハンドルネームを使っているのかというのはかなり自明だからだ。しかし、外からは分からないようになっている。匿名が障壁の役割を果たしているのだ。
光浦さんの例で見たように、日本社会の普通のつながりはかなり濃密だ。ある種の忠誠心さえ求められることがある。しかし、こうしたつながりなしには生活できないのも事実だ。地域や会社などのつながりが稀薄になったり、力を失ってくるとその影響力はより強くなる。例えば、どこの保育園に空きがある、どの医者が親切だというようなことが分からないと子育てすらできない地域では、お母さん同士の口コミはかなり重要だ。
強いコミュティに属していて、そこに満足している人たちは「実名」で交際ができる。それはある種、特権のようになってしまっている。特権を与えられているのは、会社の社長、重役クラス、起業家、作家などといった人たちだ。その他の人たちは符牒を使って話をするわけだ。ある種、普通のつながりが地下化してしまっているようだ。こうした人たちにとって「実名で友達同士のネットワーク」は「あり得ない」ということになる。
「マイミク」という言葉にはちょっと強迫的な響きがあって、実生活上の友達関係を反映しているようだ。
もちろんmixiでも弱いつながりは機能しているようだ。ここにも既存のチャネルを補完する役割がある。例えば人気のあるジーンズのコミュニティでは、輸入ものや通販が本物かどうか、今人気の形はどんなものか、カタログはもう発送されたか、バーゲン品はまだ残っているかといった情報が交わされている。店頭では聞けない情報ばかりだし、お店のない地方もある。中には「アルバイト店員」と思えるような人たちもいるようだ。しかし、Facebookが企業のオフィシャルサイトを積極的に誘導しているのに比べると、mixiのコミュニティは公認度が低い。どこの誰かだか分からない人たちの間で非公式の情報が飛び交っているといった状態だ。
mixiは楽しく、まったりと過ごす場所だ。日本人は実名でくつろぐことはできない。背景には人間関係が稀薄化したというよりは、人間関係が濃密すぎて気軽に名前が出せないという事情があるようだ。
そんなコミュニティに登録しているヒトは現在1700万人。稼働率は60%程度らしい。すると、使っているヒトの人口は1000万人程度ということになる。(ちなみに2009年5月のTwtter登録者数は50万人程度だったようだ。流行する前なので、もう少し増えているものと思われる)
このエントリー、昨日の続きなのだが、こうした環境で「自分の意見を他人に分かるように表明して、相手の言う事を理解しつつ、妥協して結論を導きだす」ことができるだろうか。まず、自分をコミュニティの中から浮き立たせることを忌避しているし、つながる相手はかなり慎重に選んでいる。これは裏返せば、一度コミュニティが確定してしまうと妥協の余地が少ないことを意味しているように思える。これが「議論」だ。ディベートは「競技」のように捉えられることが多いのだが、実は妥協点を探る擦り合わせの作業だ。
そしてさらに重要なのは、この特性を作ったのはmixiではないということだ。mixiは日本人のコミュティに対する感性によって作られ、多くの人に支持され(1700万人が多いかは議論の別れるところだが)た。実名が前提になっているFacebookが日本に入って来ることができないように、多分mixiもこのままでは外には出てゆけないだろう。

Twitterが顕在化させたもの

たとえば、みんながスクーターに乗るようになった。一方、車の売り上げが減って来ているようだ。だから、近い将来には誰も遠くに出かけなくなるに違いない。こういう推論があったらあなたはどう思うだろうか。僕は、この推論は少し乱暴なのではと感じる。この議論を正しく行なうためには、スクーターは主に町で使うものであって、車は近くからかなり遠い町をカバーするということを理解する必要がある。もっと遠くの町にでかけるためにはバスを選ぶだろうし、海外へ出かける場合には飛行機を使えばいい。このように乗り物は目的にあわせて選ぶべきだ。車が減ったとしてもバスに乗る人は増えているかもしれない。
グロービスの堀義人さんの心配はまさにこれにあたる。ご本人はつぶやきだと言っているが、ごちゃごちゃした議論ほど、考察の起点としては面白い。堀さんが問題にしているのは、議論の質とコミュニケーションツールだ。堀さんは議論の質が下がり、速報性が増すだろうと考えているようだ。その結果ロジックよりも別のもの(例えば情操的ななにか)が重要視されるようになるだろうが、Twitterは一時の熱狂に過ぎないので、やがてはTwitterそのものが別の流行に取って代わられるだろうと考えている。
乗り物の例で、議論の質に当たるものは「距離」だった。そして何をツールとしてつかうかにあたるものが「乗り物の種類」だ。しかし、ここで問題が出てくる。車はコンビニに行くのにも使えるし、日本一周にも使える。もっと極端な話をすると、自転車を使って日本一周をすることも可能だ。しかし、この場合は全国紙の社会面くらいを飾るかもしれない。ここから示唆されることは、ツールが使える範囲は、設計された意図を越えて拡張しうるという事実だ。
青木理音さんは堀さんに答える議論の中でTwitterの140字を使って議論をすることは不可能だろうといっている。これは「自転車を使って日本一周をすることはできないだろう。少なくとも俺にはムリだ」と言っているのだ。(詳細には議論しないが、自転車で日本一周が可能なように、Twitterを使った議論のプラットフォームを作る事は可能だろうと思われる。Twitterは部品だからだ)ここには堀さんの議論を越える種のようなものが見られる。
議論の質というのは難しい問題だ。堀さんの議論では「量」を増やせば「質」が低下するという前提があるが、青木さんは「量を増やす事によって上がる質もあるのではないか」ということを言っているわけだ。
さて、議論を進める前にSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)について考えてみる。ここで取り扱われるのは「議論の質」ではなく、「つながりの質」についてだ。Linkedinの日本語コミュニティである質問が出された。Linkedinでのリンクリクエストをどのように処理するかという問題だ。ほとんどのメンバーが「実際に会った事のあるヒトだけに限定しています」と答えていた。僕も実際に会ったことがあるヒトしかリンクしていない。しかし、LinkedinにはOpen Networkerと呼ばれる人たちがいる。LIONと称されていて、ほとんど手当たり次第にリンクを申請するわけだ。営業目的で使っているヒトと、表示される数を競う競技型のヒトがいる。LIONはLinkedinでは推奨されておらず、半ば黙認状態にある。そしてこうしたつながりから営業をしかけられるのをほとんどのヒトは嫌っている。
しかし、議論の中に変わった方がいた。このヒトはリンク申請を基本的に断らないのだという。話を聞いてみると「たくさんのつながりがあり、その中から1%か2%程度のモノになるつながりが生まれればよいのだ」と考えているようだ。
人間が把握できる関係性の量は限られている。群れが円滑に機能するのは150人くらいだそうだ。優秀な営業マンであれば5,000人くらいの名刺を管理できるかもしれない。このスレッドの中で教えて貰った話によると、大阪のホテルマンは地道な努力の結果4,000名のお客さんの顔と職場を把握したのだそうだ。
しかし、Linkedinはこうした不特定多数のつながりを維持するようには設計されていない。名刺にはいろいろな整理方法があるだろうが、コネクションを整理する機能は備わっていないのだ。
大抵のヒトたちはLinkedinをシゴト関係の普通のつながりを維持するのに使う。これを普通のリンクと呼ぶ事にする。普通のリンクには相互性が強い。シゴトの問い合わせをしたり、ヒトを紹介しあったりすることができるくらいの関係性だ。終身雇用で一生会社の外から出られない職場のつながりはこれよりも強い。こうした運命共同体(他の選択肢を諦めて、ある集団にコミットする)に関わるものを強いリンクと呼ぶ。一方、LIONが求めたのはそれよりも一段弱いつながりだ。相互性が消えて、頼み事をするにはちょっと弱いのだが、情報収集をしたり、今まで自分のつながりの中にはなかった新しい発見ができる可能性を持っている。たくさんのつながりを受け入れているヒトの実感では、1%か2%くらいが標準的なつながりに発展する。
こうした弱いつながりを持つ事の意味を発見したのが、マーク・グラノベッターだ。グラノベッターは、職探しにおいて、普段やり取りがある人たち(職場や家族)よりも接触頻度が低いつながりの方が有用だということを調査した。これが複雑系研究の中で再評価された。「スモールワールド仮説」では、こうした弱いつながりが、世界がばらばらになるのを防いでいるのだと考えている。
グラノベッターは、普段接触しない人たちとの関係性を、弱い靭帯の強み(The strength of weak ties)と呼んだ。強い靭帯のメンバーは同じような環境にいて、似たようなことを経験している。意思疎通は簡単だが、新しい発見はない。一方、弱い靭帯から入ってくる情報は新しいものが多い。シゴト探しで求めたいのは「新しい情報」なので弱い靭帯の方が有用なのだ。
これはアイディア開発にも当てはまる。強い靭帯よりも、弱い靭帯の方が多くの情報を集めることができる。発見の現場においてはアイディアの質はコントロールできないので、数を集めることが唯一質を担保することになる。やがて学習のフェイズに移る。すると意思疎通がしやすい組織で運営した方が効率性が増す。
最初の堀さんの議論に戻ろう。堀さんは量が増す事で議論はますます感情に左右されるようになるのではないかと考えた。取り扱う情動(一時的な感情)性に関する問題は別途議論する必要があるだろうが、量を増す事で得られるのは情報のバラエティーなのだ。これは新しい発見が重要な議論では非常に重要な要素だろう。つまりTwitterは時と場合によっては議論の質に貢献するわけである。
ここまで、強いつながり、標準のつながり、弱いつながりという3つの層を見て来た。強いつながりは運命共同体であり、弱いつながりは相互性が希薄化しているのだった。しかしTwitterの作るつながりはこれとは異なっている。いわゆるFollowというやつだ。単純な機能なのだが、予告も自己紹介もなくFollowして、いらないと思ったら勝手に切ることもできる。どうしてこのような使われ方がされるようになったのだろうか。

送信者 Keynotes

地方都市では、三軒先に住んでいる娘さんの情報はかなり詳細に知れ渡っている。地方の高校を卒業し、東京に行って、3年間OLをしていたのだが、2年結婚した後離婚した。そういえばあの人のおばさんも…、という具合だ。やや強いつながりに近い標準的なつながりとはそのようなものだろう。
地方都市と東京の違いはこのつながりの質にある。都市部ではアパートの隣人がどんなヒトなのかを気にする事はあまりない。また、知られたいとも思わない。しかしこれとは別の知り合いの形態が生まれる。「いつもコンビニのバイトにはいっている青年」とか「電車の中でとなりに座るおじさん」といった類いの人たちだ。また日曜日の新宿に行けば、歩行者天国でパフォーマンスをしている人たちがいる。観客は投げ銭をしたり、拍手をしたりするが、面と向かって「あんたのパフォーマンスは面白くない」というヒトはあまりいない。パフォーマンスの代わりに日曜演説会を開くヒトもいるかもしれない。多分反応は似たようなものだろう。ここで形成されるつながりは、弱いつながりよりもさらに弱い。これを弱い弱いつながりと呼ぶ事にする。弱いつながりと弱い弱いつながりを分けているものは、観客になる人たちの視認性だ。弱いつながりではお互いの顔は見えている。しかし弱い弱いつながりでは視認性がぼやけはじめる。社会学的に「群衆」という用語は別の意味を持っているので、「観衆」とでも呼べばいいだろうか。(ここに集る人たちは暗黙のルールに基づいて行動している。これが無目的化して制御できなくなったとき、その集団は群衆と呼ばれることになる。)
観衆がいるのが都市で、いないのが(きんじょの公園に紙芝居を見に来るコドモの素性はすべて知れ渡っているだろう)地方ということになる。
Twitterが出てくる事によってインターネット上のつながりは一気に都市化した。Twitterは弱い弱いつながりを表現する装置として機能しているのである。故にこの流れは不可逆的なものなのではないかと思われる。問題は、こうした都市的なつながりが、新宿でパフォーマンスを見るお客さん達のような統制を自発的に獲得できるかにかかっているように思われる。
今回のシリーズでは、ソーシャル・メディア、リンク、議論などについて、このつながりのモデルを使いながら考えてみたい。

トヨタとソーシャルメディア

1996年、勤めていた会社の人がうれしそうにやってきて、新しいホンダの車を見せてやると言った。もちろん僕が日本人だからだ。会社の周りを一回りして「どうだ、静かだろう」という。僕は正直当惑した。日本人の僕にとって、車が静かなのは当たりまえだったからだ。アメリカ人にとって、日本車を持つというのは自慢のタネだった。という事で、トヨタがこの何ヶ月で吹き飛ばしたものの重みは大きいようだ。
Newsweek ( ニューズウィーク日本版 ) 2010年 2/17号 [雑誌]の今週号にトヨタの一連の対応についての記事が載っている。ことの発端はアクセルを踏み込んだ状態になり、車が止まらなくなってしまったことだった。ディラーに持って行ったところ「問題が見つからなかった」ということになってしまう。こうした事態が全米で起こり、今では19名が亡くなったという数字が一人歩きするまでになってしまう。この後日本で今問題になっている、ソフトウェアの「問題」が起こった。プリウスのブレーキの設定によりちょっとした誤差が発生する。
ずれは1秒にも満たない。ソフトウェアは修正すればいいようだし、深刻な問題ではない。トヨタによって不運だったのは、このソフトウェアの問題とアクセルの件が結びつけられてしまったことだった。例によってこの件についてLinkedinで聞いたのだが「最初はアメリカ人(と、その部品)のせいにしようとしたのだが、ソフトウェアの問題だということが分かった」と指摘する人がいた。雨だれ式にいろいろな情報が出てくることによって、事態が混乱してしまったようだ。この人は、アメリカ人の現地社長が引っ込んでしまって、日本人が出て来た事も気に入らないようだ。
トヨタがこういう事態に陥ったのは、皮肉にもこれまでこうした問題が起こらなかったからのようだ。トヨタの安全神話は完璧だった。神話が裏切られると怒りに変わるというのは、何も日本人に限ったことではない。「あのトヨタが」というのが今回の事態をややこしくしている。また、こうした問題が起きなかったことで、社内には連絡体制や対応マニュアルがなかったのかもしれない。するとちょっとした情報が経営陣に伝わりにくくなる。
問題の根本にあるのは2つのコミュニケーション上の問題だ。一つは「外国人とのコミュニケーション」であり、もう一方は「ソフトウェアエンジニアとの擦り合わせ」の問題だ。Harvard Business Review (ハーバード・ビジネス・レビュー) 2010年 01月号 [雑誌]は最近大野耐一論をやっている。大野さんはトヨタの品質第一主義を語る上でグルとも言える人物だ。記事の中で、大野さんは問題が見つかってもそれを現場のマネージャに指摘しなかったという逸話が出てくる。大野さんはチョークで線を引く。そして、現場のマネージャに一日ここで現場を見ているようにと指導したのだそうだ。現場のマネージャは自分で考えることによって問題を発見し「成長」する。こうした地道な努力によって、社内に自分たちでカイゼン運動を推進してゆく文化が作られた。
こうした「言わなくても分かる」文化はモノ作りの現場で同じ文化を共有するマネージャには有効だったことだろう。これは言い換えると暗黙知を暗黙知のまま伝えてゆくやり方だ。このコミュニケーションのスムーズさが、日本の産業界の強みになっている。これを裏返すと日本が何に乗り遅れてしまったのかが分かる。
日本の自動車エンジニアは半ば自嘲気味に「内燃機関を使った車より電気自動車の方が仕組みが簡単なのだ」ということがある。「だから誰でも作れるだろう」というわけだ。確かに駆動系はそうなのかもしれないが、トヨタの件で分かったことは、車が走るコンピュータになりつつあるということだ。バグのないプログラムは考えられない。ブラウザーやワープロならクラッシュしてデータがなくなるだけですむが、車の場合にはそうは行かない。
コンピュータプログラムを作っている現場で大野さんのやり方を採用することはできない。一日見ていてもキーボードを叩く音が聞こえてくるだけだ。確認するためにはテストが必要だ。テストは順を追って行なう必要がある。ちいさな部品で問題が起きないことを確認したら、それを組み合わせてテストを行なう。最初の段階を「完璧」にしておかないと、どこに問題があるのかが分からなくなってしまう。分からなくなったら、最初からやり直しだ。ひどいときには改行コードや空白といった「見えない文字」が問題を起こしている場合すらある。つまり見ても分からないわけだ。プログラミングの現場では一人ひとりが自己管理できるかどうかが重要だ。逆に天才プログラマが作ったプログラムも問題を引き起こす。後で開いてみても分からなかったりする。
同じことが外国人とのコミュニケーション上にも問題を引き起こす。ある文化圏では「暗黙知」を使った指導が「日本人以外にチャンスを与えない」という印象を与えることがある。日本人はこれを見て「いちいち口に出さないと何も分かってくれない。怠けているに違いない」と考える場合がある。トヨタはアメリカでの生産に熟達しており、この問題は克服しているものと思われていた。しかし、実際に問題は起きた。そして、問題が起きると「アメリカ人のプライド」にまでエスカレートする場合がある。これは東洋と西洋の間に起こる問題とは言い切れないようだ。ダイムラー・クライスラーの場合はドイツとアメリカの経営陣・従業員の間にコンフリクトがあったのだとも言われている。お互いに学ばないことで溝が埋まらないというわけだ。ニューズウィークにはGMを抜いてアメリカ1の自動車メーカーになってしまったことと結びつける分析があった。
さて、トヨタにとって今状況は「燃えている」と言ってよい。こうした中で、積極的に識者のブログに投稿したりソーシャルメディアのコミュニティに投稿すべきだという記事もニューズウィークに掲載されている。火事の最中に燃えている家に突っ込むようにも思えるだが、本当にこれは得策なのだろうか。ここにも「透明性」と「開放性」(英語ではオープンネス)を重んじるアメリカの文化的な背景があるようだ。Linedinは「トヨタは正直でなかったし、死者まで出ているのに、もうソーシャルメディアなんてどうでもいい」という人もいるのだが、やはり正直に「できる事をやるのだ」という宣言をこうしたメディアでも行なった方がいいという人もいる。
ソーシャルメディアというとTwitterを思い出す人が多いと思うが、ここでソーシャル・メディアを使えというのは、「Twitterを使って、安全性をささやけ」ということではない。心配や疑心暗鬼でいっぱいになっているブログライターやコミュニティに参加して「トヨタは安全だし、顧客に聞く姿勢を持っている」ということを直接表現しろということのようだ。とはいえ、普段からこうしたメディアの動向に詳しくないと、いざというときにどういうメッセージをどういうトーンで伝えればいいかということは分からないかもしれない。例えばメディアに「コピペ文」でメッセージを送りつけると状況は悪化してしまうだろう。
ソーシャルメディアの誕生とともに、ウェブを使ったマーケティングは「広告」から「PR」へと広がりつつある。ソーシャルメディアを使ったコミュニケーションは文字情報が中心だ。暗黙的なメッセージは伝わりにくい。「言わなくても分かる」文化からの脱却は日本人が得意とするところではない。また、伝統的には、出入りの業者(新聞記者とか雑誌記者を業者と呼ぶのは恐縮なのだが)に情報を流し、あとは「よしなに」とお願いするのが日本流だった。これは記者クラブ制度を見てもよく分かる。ウェブを業者に任せている企業は、こうしたメッセージを代理店を通さずに伝えるチャネルを持っていないかもしれない。PRが広告と違う点は、普段からのプレゼンス(日本語でいうところの「おつきあい」)の重要性だ。
トヨタに限らず日本企業は言わずもがなですませてきたコミュニケーションを言語化する必要があるだろう。

投瓶通信

中央公論をぱらぱらとめくっていたところ、蓮實重彦さんと浅田彰さんの対談が載っていた。20年前にも対談をやったそうだ。いろいろ世相を斬った後で、最後に発信する事について論じている。蓮實さんが主張するのは、基本的に評論は「投瓶通信」であるべきだということだ。これは、多くの物書きにとって、励ましと言ってよいかもしれない。

昨日のマーク・ロスコの例で見たように、自分の主張が完全に理解されることはないかもしれない。むしろ、自分の内面を表現ししたいというやむにやまれる気持ちを持っているだけの人もいるだろう。蓮實さんは自分の発信したものに対して評価を貰えるのは10年後でもかまわないという。海に瓶を投じるように自分の思いを発信し、誰かがそっと受け取るのを待つ。まるで祈るような作業だ。

さて、ここまで書くと、なんだか蓮實重彦さんを礼賛しているように聞こえるかもしれない。そうではない。むしろこの表現に違和感を感じた。本当に投瓶でよいのだろうか。

ものを考える作業には2つの種類がある。ある問題を解決するためにものを考えることとそうでないものだ。例えば、中小企業診断士が顧客のために考える場合に「僕の主張は10年経ったら理解されればいいのだ」ということはできない。この人の仕事は今ある経営課題を見つけ出して、なんとか収益をあげることだろう。こうした課題は考えているだけではだめで、いろいろとやってみなければならない。故に、効果が上がらなければ理論的にどんなに優れていてもあまり意味がない。

別の人がもっと優れた解決策を持っているかもしれないが、クライアントにとって受け入れが難しければあまり意味がない。つまり、解決を目指す場合には、必ず意見の交換、現実とのすりあわせが必要になってくる。だからこういうコミュニケーションは投瓶ではいけない。

蓮實さんは評論は投瓶でいいという。評論は課題のない「考える」作業なのだろうか。どうもそうとは思えない。評論家も前段でいろいろな社会事象や政治について考察しているだろうからだ。

この対談は、インターネットの登場で短くなった発信とそのレスポンスを問題視している。

Twitterを考えてみよう。140字程度の短いメッセージが発信されるとそこに短いレスポンスがつく。やりとりが生きているのは、いいところ1時間くらいだろう。こうして多くの考察が発信され、消費されてゆく。考える時間はないからだんだんと脊髄反射に近づく。「いい」「わるい」「すき」「きらい」で仕分けされて終わりである。Twitterが導入されることによって人々はより政治について考えるようになったと言われる。しかし、多分それは間違いだろう。人々は以前にも増して考えなくなった。あまりにも考えることが多すぎて一つひとつのメッセージを吟味しているヒマはないからだ。

政治は世論を聞いて政策を変える。新聞はそれにリアクションする。以前は「マニフェストには必ずしも従う必要はない」といっていたのに、予算がマニフェスト通りに作られないとなると「マニフェスト違反ではないか」という。これはもう脊髄反射だ。そして、居酒屋では政治談義に花が咲き、それが世論となって政治を動かす。この回路の悪いところは、誰も新しいアイディアを投入しないところだ。いっけん大きく反響するように見えて回路の中を同じような情報がぐるぐると流れているだけなのである。

こうした状況を見ていると「いやあ、これは間違っているんじゃないの?」と思ってしまう。みんなちょっとは何か考えろよということだ。しかし、そうしたループから抜けて「俺は、歴史に評価してもらえばいいから、現実なんか知らんもんね」ということになっても良いものなのだろうか。
蓮實重彦さんは、(多分、勝ち組の一人として)東浩紀さんを挙げている。東さんは、多くのヒトにレスポンスを貰うことを指向し、いろいろな仕組み作りを試みているのだそうだ。そして「そんなことは貧乏臭い」と切って捨てるのである。レスポンスを貰うことは下らないことで、メディア戦略ばかりを考えた勝ち組は、むなしい勝利に過ぎないという。

イノベーションの記事で見たように、アイディア・ジェネレーションのプロセスには3つの段階があるだろう。一つは沈思黙考して一人で考え抜く作業だ。これが終わったら、その考えを持ち寄って実行可能な何かを作る必要がある。最後に実行して、それを反省して最初に戻る。つまり考察作業というのは「投瓶だけ」でもだめだし、「レスポンスを待っている」だけでもいけないわけだ。
中央公論がどれくらいの部数を出版しているのかは分からないが、もうあまりメインストリームの人たちからはレスポンスが得られないポジションに落ち着いているのかもしれない。老後暮らしてゆくお金は心配しなくてもいいから、今の経済不況もあまり関係ない。みんなからそこそこ尊敬されていて、あとは歴史に評価してもらうのを待つだけということなのではないか。この記事を読んで考え込んでしまった。

2012年1月10日追記:依然この文章は「投瓶通信」で検索トップにある。この文章を読み返して、さらに投瓶について調べてみた。もともとは政治的に孤立させられた人が、それでも自分の理想に意味があることを信じて文章を発信しつづけることなのだそうだ。少なくとも日本にはこうした孤立は存在しない。むしろ誰でも好きな文章を発信することができる。にも関わらず多くの人が「自分の意見は誰にも到達しない」とか「もはや到達しなくなった」と考えている。何が間違っているのか、どうあるべきなのか、もうちょっと考えて見なればならないのだろうと思う。

最後に蓮實重彦さんと浅田彰さんは、こう結論づける。「結局20年経って思うのは、何も驚くべき事はないということで、これが一つの驚きだった」と。日本の最先端の思想家や評論家が、もう驚く事は何もないのだと結論づけるほどこの国は枯れているのだろうか。それくらい、彼らの考察に対して、下らないレスポンスしか返ってこなかったのだろうか。

マーク・ロスコ

日曜美術館の再放送でマーク・ロスコの回をみた。高村薫がロスコについて語っている。高村さんは「普通に見えているものを、どうしてわざわざこういう風に描く必要があるのか」というようなところから、抽象画への興味を持ったそうだ。いわゆる一般人は「抽象画は評価されているから芸術作品なのだ」と思うわけだから、さすが芸術家の感想だといえる。高村さんはこの疑問を小説にしたそうだ。

マーク・ロスコの作品には説明がない、質感で塗り込められた色にしか過ぎない。絵画というよりは「環境」だ。河村美術館にロスコ・ルームと呼ばれる部屋がある。河村美術館は、絵画というより壁画であり、この部屋にいると何か赤に包み込まれるようだと解説している。環境は特定の精神状態を作りだす。

環境が感情を作るのと同時に、見る人の精神状態も重要な役割を果たしている。実際にこのロスコ・ルームを見に行ったことがあるのだが、その時にはあまり何も感じなかった。美術館は順路ごとに出口を目指す構造になっている。ゴールを目指すことばかりに夢中になると、一つひとつの絵に集中できなくなる。逆に、ちょっと疲れていたり、感情的な揺れがあったりする方がこういった絵に引きつけられるのかもしれない。

ロスコの絵は、もともとシーグラムビルの中にあるフォーシーズンズというセレブなレストランに飾られることになっていたのだが、ロスコはそれを拒否した。もしロスコが「建築家」的な要素を持った人であれば、その場の採光や環境などを考慮した上で絵画を制作しただろう。光が刻々と変われば、絵の表情も変わるはずだ。また、見る人によっては全く違った印象を持つかもしれない。

動的な環境の中で絵はさまざまな表情を見せただろう。しかし、ロスコはそう考えなかったようだ。限られた空間の中で自分の絵だけを置いてほしいと願ったのである。つまり、絵の動きは限られたものになるだろう。飛んでいる虫をピンでとめて、標本として飾るようなものだ。

結局、アメリカの絵画のトレンドは移り変わってゆき、ロスコの絵は時代遅れだと見なされる。しかし、彼は作風を変えなかった。その後、体調を崩し大きな絵画が描けなくなり、結局最後には自殺してしまう。抗鬱剤をたくさん飲んだ上で手の血管を切ったのだそうだ。そして死後に、財産分与を巡り、家族と財団の間で裁判が起こった。(以上、wikipedia英語版のロスコ・ロスコ事件の項による)

この一連のドラマティックな出来事がロスコの絵に「意味」をつけることになり、彼の絵は2007年に7280万ドルで落札された。表面的にある意味よりも遠くにある何かを捉えようとしていた絵が、通貨的価値と伝説を付加され、消費されてゆくといった構図がある。そのあたりから出発し、高村さんと姜尚中さんは「意味のある世界を解体して…」というような議論をしていたように思われる。

姜さんはこの絵を実際に見て「癒されるし、我がなくなるように思えるからウチに一枚欲しいなあ」とのんきなことを言っている。しかし、実際のロスコを調べてみると、セレブな空間に飾られることを拒否し、自分のスタイルを曲げることを拒否し、ほかの人たちと作品を並べられることを拒否している。強烈な自我を持っているようだ。

作品がある境地に達すると、周囲にあるものを巻き込む。作者の意思を越えていろいろな感覚をひきおこすのだ。いったん動き出すと、絵から引き出されたものなのか、絵にまつわる意味から引き出されたものなのかは区別できない。これがコミュニケーションといえるのか、それとも内側から来る対話(つまり独り言)なのかは分からない。多くの人が何らかの感情を引き出されるわけだから、人の間に共有する何かがあるのかもしれないし、そんなものはなくて、一人ひとり孤立しているのかもしれない。

高村さんの一言には引っかかりを感じた。高村さんは「本当は現実世界はこうは見えないのに」というところから論をスタートされていた。しかし、もしかしたら本当に世界がああいった抽象画のように見えている人もいるかもしれない。

例えば、ある日突然普通の時間の流れから飛び出してしまったように感じることがある。人によってはパニックを起こしてしまいかねない感覚だ。昔の人たちはこれを神秘体験としていたが、現代人は例えば通勤電車の中で神秘体験を起こすと会社に遅刻してしまうので、精神科で薬を処方してもらうようになった。ロスコの絵のような世界を体験するために、わざわざ違法な薬物を使ったりする人もいる。実際に、「ロスコの世界」を体験している人はかなりいるのではないかと思う。
普通、そうした世界を見た人は、見た事がない人に説明ができない。伝える技術がある人だけが、それを表現できる。とすると、こうした絵は描かれた時点でその役割を終えていたことになるのかもしれない。あるいは「私だけがこんな世界を見たのではないか」と考え、それを瓶に入れた手紙を海に流すようにしてそっと放流する。それを拾った人が「ああ、私の他にもこういう人がいた」と考えるのであれば、それは独り言のように見えてもコミュニケーションの一形態なのだろう。

(2012年9月1日改稿)

インド料理と文化受容のステップ

まだインド料理店が数える程しかなかったころ、六本木のインド料理店でよく見られる光景があった。インド人の店員に向かって「インド料理はそれほど辛くなかった、もっと辛くても大丈夫なはずである」と日本人(まあ、たいてい男性なのだが)が自慢するのである。この人たちにとって、インド料理=カレー=辛いということなのだろう。そして辛い料理が食べられる=エライという図式が成立するのだ。多分。
ここで「インド料理」とか「カレー」と呼ぶのは、主に北インドで食べられているあの料理のことである。その他、チベット文化圏にはモモや焼きそば(なぜか、唐辛子が使われていてとても辛い)と、汁気が多く、魚もよく使われる南インドの料理、そしてペルシャ圏から入って来たシシカバブや焼き飯などの文化がある。
実際にこういうことはよくある。わからないものや異質なものに遭遇した場合、人は差異に注目しがちだ。そしてその差異の程度の大きさによって序列が決まるわけだ。数値で表現できる程度の違いは序列を決めるには都合がいい。例えば「メタボ検診」で注目された腹囲85cmもそんな数字の一つだろう。他に2つの基準があるのだが、それは忘れ去れ数値だけが一人歩きした。身長や胸囲が違えば基準となる腹囲も違うはずである。
しかしこの「六本木カレー野郎」が特別変わった人だということでもない。例えば、カレーハウスCoCo壱番屋には、甘口、普通の他に、1辛〜10辛までのメニューがあり、「とび辛表」という名前がついている。お客のニーズがあるということだろう。
さて、カレーのおいしさの一つに「一晩寝かせたカレーはうまい」というものがある。カレーチェーンの中にはカレーを一晩寝かせてレトルトパックにつめて出荷するところがあるのだそうだ。どうして一晩寝かせたカレーはおいしいのかという決定的な説明はないそうだが、それぞれの具材の味が混じり合い一体となるからおいしいのだろう。日本人や欧米人が煮込んだカレーをおいしいと思うのは、多分シチューや鍋料理などの煮込み料理からの印象があるからだ。しかし、実際にはスパイスの味は一晩寝かせると飛んでしまう。つまり、日本人がおいしいというカレーは本来の味わいをわざわざ飛ばした料理だということになる。
デリーにあるスパイスとお茶の店ミッタル・ティー・ハウスがカレースパイスと一緒に配布するレシピ集によると、カレーは煮込み料理ではないようだ。所要時間は1時間以内で、香りを楽しむために使うスパイス類は最後に入れなければならない。最初に炒めたタマネギの甘み、油、それぞれのスパイスで味と香りを付けたのがカレーのおいしさだ。
「カレーは手で食べるべきだ」というのがある。これも六本木のカレー屋で人が講釈しているのを聞いた話だが、ナンをカレーにつけてはいけないそうである。これ、本当なのだろうか。カレーをナンにたらすのだそうだ。外人が間違ったハシの使い方をしていると、やはり正したいと思ってしまう。同じようにインド人も、日本人の間違ったマナー(つまり、スプーンでカレーを食べる)を苦々しく思っているのではないだろうか。しかし、汁気の多いカレーを手で食べるのはとても勇気がいる。
そう思ってインドまでカレーを食べに出かけたところ、実際には食卓にスプーンがおいてあることが多かった。隣にいたサラリーマンらしい2人づれを観察したところによると、一人は手で食べ、一人はスプーンを使っていた。路上で安いカレー(汁だけで具がない)を食べさせる屋台にはスプーンがなかった。ここはチャパティでカレーを拭うようにして食べるしか手がなさそうだ。列車のお弁当に出てくる料理にはあまり汁気がなく、これは手軽に手で食べることができる。(インド人のエンジニアたちも自分たちで弁当を作って持ってくるが、あまり汁気はなさそうに見えた)そして、インド人はあまり他人がどういう食べ方をしているのかということには興味がなさそうだ。
一応、手で食べる場合には、簡単なルールがある。必ず右手を使い、カレーとご飯を指先で混ぜる。指先にカレーを入れ、親指で押し出すようにして食べるのである。ナンで食べると「辛い」ということしかわからない。しかしご飯とカレーを混ぜると、カレーのスパイスが空気に触れる。するとスパイスの香りが立って別のおいしさが味わえる。別にこれができなければダメということはないが、こういう食べ方に挑戦すると新しい経験ができる。
新しい文化を受容するとき、人はまず自分の持っている経験を使って解釈しようとする。その次に数値のような「客観的」な指標を使っての解釈を試みる。さらに形を模倣しようとする。しかし実際には、いちからその文化に触れてみると、形の裏にある理由が見えて来たりするものである。

ブレヒトと異化効果

NHKの対談番組でミヒャエル・エンデがブレヒトについて語っているのを見て肝っ玉おっ母とその子どもたち (岩波文庫)を読み返したくなった。エンデは役者としてブレヒトの演出を受けたことがあるのだそうだ。ブレヒト=異化効果と習い、無名塾の芝居まで見に行ったのに筋の方はすっかり忘れてしまっていた。当時はあまり興味がなかったのだろう。

あらすじ

舞台は新教と旧教が戦うヨーロッパ。商人「肝っ玉おっ母」は戦場を30年間さまよい続けている。肝っ玉おっ母は子どもを育てるために戦争を生活の糧にしているのだが、子ども達は全て戦争の犠牲になって死んでしまう。彼女は途中で戦争の惨めさに気がつきそうになるのだが、結局覚醒することはない。

観客は、自分の置かれている状態がわからないままさまよい続けるおっ母を客観的に見ることが「要求」される。これがブレヒトの異化効果である。

途中で唖の娘が太鼓を叩いて叫ぶ場面が出てくる。ここが一つの山場になっているのだが、彼女は唖者なのでメッセージを叫べない。これは、劇作として失敗しているのではない。わざとそういう風に作られている。ブレヒトには、観客に感情移入させないことで、批判的に状況を観て欲しいと考えている。これも異化効果だ。

演劇の魔力

肝っ玉おっ母のものすごい所は、ブレヒトの企みにもかかわらず観た人を共感させてしまうところだ。「大竹しのぶの演技に感動した」とか「世界観に引き込まれた」とかいう観劇評を見つけた。(※たまたま見つけたのがこれ。淡々としたト書き(ネタバレになっている)について書いてあるので、演出家は異化効果を意識していたようだ)

観客たちは作者の意図に反して勝手に感動してしまう。演劇は生きているのだ。「感情を揺さぶられることで癒されたい」という観客の抜き差しならない欲求が浮かび上がる。共感を拒絶する演劇を見ても人は共感して癒されてしまうのだ。

ブレヒト劇は、ドイツ共産党入党歴のある千田是也によって日本に紹介された。異化効果の背景には当時劇場化しつつあったドイツの状況がある。偉大な俳優だったヒトラーはドイツ国民を熱狂させた。こうした演劇的空間に批判的になるためには、一歩引いた姿勢が必要になるはずだ。だが知識人の抵抗は市民には受け入れられなかった。ドイツ国民はヒトラーの演劇空間に引き込まれてしまったのだ。

「肝っ玉おっ母」はかなり特殊な状況で書かれた作品だ。これが輸入され、戦後も上演され続けた。日本の演劇にはかつてこのような左派的な伝統と意図があったのだ。

思考の荒野

この戯曲を読んで考えたのは、戦争によって翻弄される人の愚かさ、戦争の惨めさといったものではなかった。独りで考える人がたどるであろう、堂々巡りの荒れ地についてだ。途中に「気付きの種」があったとしても、人は自分が置かれている世界からは容易に抜け出すことはできないのではないかと思うのだ。

「肝っ玉おっ母とその子どもたち」では、娘の太鼓が気づきにあたる。魂の叫びのようなものはあるが、明確には言語化されない。そして、それでもまだ歩き続けるべきなのか、立ち止まって言葉を発するべきなのかという問いに簡単に答えはない。

いろいろな状況にあてはまる何かがあることが、優れた物語の一つの条件なのだろう。共産党、反ナチといった政治的な意図で作られた芝居が、今でも上演されるのはこういう理由もあるように思える。

ブレヒト=異化効果ではないようだ

ブレヒト=異化効果だと習ったのだが、この「異化効果」をWikipediaでひくと日本語にしか項目がない。英語版のWikipediaには、Non-Aristotelian Drama(非アリストテレス劇)だと書いてある。文学作品が持っているカタルシス効果を否定した演劇を非アリストテレス劇というのだそうだ。

ブレヒトが当時の左翼思想によって日本に導入された時点の解釈が、今でも受け継がれているのだろう。

ただ、ブレヒトの芝居が単なる社会批判だったのなら、ここまでの人気を集めることはなかっただろう。「感動」や「共感」を与える素地があったからこそ、現代でも上演され続けているわけだ。

感情に飲み込まれることに抵抗を示すために作られた芝居が、皮肉なことに感情や共感の根深さを浮き彫りにしている。人はそれほど共感しやすい生き物なのだということになる。

 

共感覚 – 2,000人に一人の感覚

Lightという単語という単語は何色だろうか?では、Rightでは? もしこの質問が何のことやら分からない人は私の仲間ではない。私はこの違いは昔遊んだ色付き文字ブロックの違いだと思っていた。どうやらそうとばかりは決めつけられないようだ。

ジョン・ハリソンの「共感覚」によるとこのような現象は色聴と呼ばれ、共感覚の中では一般的なものだそうだ。音を聞くと、音に色がついて見えるのである。私はこの色の違いで日本語の「ラ」と、La, Raの違いを認識している。ラはオレンジ、Lはレモン色、Rは茶色に見える(というか聞こえる)。単語を記憶するときにも使っている。(こういう記事もある。どうやら普通の事のようだ。)色で覚えるわけだ。

色聴者は、見るだけでは音に色はつかない。別の記事によると、読む文字に色がついている人もいるという。また香りを形で感じる人もいるようだ。遺伝するという説もありジョン・ハリソンは「男性の50%に致死性のある伴性優性遺伝」だという可能性を示している。

Wired Visioのこの記事によると、特定の音と形が結びつくのも、共感覚の一つだという。ラマチャンドラン氏が提示するのは「キ」と「プー」の音のうち、どちらが丸みを帯びているか、というものである。こちらの感覚は多くの人が持っているのではないだろうか。

統合失調症の患者にも同じような感覚があり、薬物でも再現できるというのが、ちょっとひっかかるが、別に日常生活には支障がない。

色聴の仕組みはよく分かっていない。脳の混線だという人もいれば、誰でも持っているが意識されないだけだと考える人もいる。これが今回書きたかったことで、意識している世界が我々の認知するすべてではないという可能性があるわけだ。意識のさらに一部が言葉なのだが、言葉だけを使って分析的にコミュニケーションをとると、さらに世界の統合が難しくなることがある。