説得するためには何が必要か

日経サイエンスの別冊に、ケヴィン・ダットンの説得についての短いエッセイが掲載されていた。『瞬間説得』というタイトルで本にもなっているのだそうだ。ダットンによれば、説得には「意外性」や「共感」などの欠かせない5つの要素があるのだという。これを「ジーンズを売るため」に活用してみたい。手のこんだジーンズには価値があるのだと説得するためにはどうしたらよいのだろうか。

現在、ジーンズ産業は不況なのだという、かつてジーンズを作るためには、よい生地屋や染色屋とのネットワークを確保する必要があった。ところが、こうしたネットワークが一般に知られるようになると、価格競争が一般化した。2012年の矢野経済研究所の調査によると、2011年の全体の市場規模は急激には縮小してはいない。ところが、ジーンズ専業の会社の業績は急激に落ち込みつつあるらしい。

こんな中で面白い動きを見つけた。美大出身の俳優が「再生」をキーワードにした活動を展開している。在庫になっているジーンズ生地を見つけ出して、これに新しいデザインを加えるというものだ。最近の朝日新聞で見つけたのだが、2010年にこのプロジェクトを紹介した記事も見つかった。俳優の一時の気まぐれではなく、継続性のある取り組みだ。

朝日新聞によれば、成功したプロジェクトらしいのだが、このプロジェクトのおかげで、このジーンズブランドが復活したという話は聞かない。何が良くて、何が悪かったのかを考えてみたい。

再生をキーワードにしたのは良かった。社会に対して彼らなりの理解があり、それを実際の形にしているという点だ。これは、社会に対して同じような理解を持っている人たちに対して共感を呼ぶだろう。あの有名人が…という点にも意外性がある。意外性が重要なのは、これによって普段振り向いてくれない人が振り向いてくれるということだ。また、ラベルには馬を蘇生させるというアイコンが使われているらしい。ユーモアのような感情も重要な要素だろう。

ここに不足している要素は – あくまでもケビン・ダットンの説によればだが – ユーザーにとっての利益だろう。つまり、意外性に基づいて振り返っても、ユーザーが自分にとって利益があると感じなければ、その関係性は長続きしないのである。

確かに環境問題は重要な問題なのだが、現代の消費者たちがこうした問題に継続的な共感を寄せているとは思えない。やはり、このブランドが有名でさりげなく自慢できるとか、価格的に手頃であるとか、簡単に理解できるベネフィットが必要だ。また環境に関心を寄せるために、消費者を教育することもできる。

このプロジェクトで気になるのは、いろいろな人たちが「作り手の夢」を乗せてしまうところだ。朝日新聞は近頃の若いモノの中には気骨があって環境に関心がある人がいると思いたいのだろうし、ジーンズメーカーも起死回生の策として期待を寄せてしまうところがあるだろう。朝日新聞の場合には企業活動に対する潜在的な不信みたいなものも読み取れる。

消費者にとっての一番のベネフィットは、自分の価値観に合致するメーカーがいつまでも存続することではないかと思う。つまりなんらかの協調関係を築く事ができれば、そのブランドは存続しやすくなるはずだ。

ここから見えてくるのは、消費者と企業の間にある冷めた関係性だ。消費者は企業に絡めとられることを望んでいない。価格だけをコミュニケーションの媒介とした、その場限りの契約を好むようになった。例えば同じ価格で缶コーヒーを買うなら、話をしなければならない個人商店より、自動販売機の方が気楽だ。コンビニで店員と話をするのすらなんだか面倒だ。

また、高いだけのジーンズを買うということは、その間に中間搾取をしている人が多いということだと理解されている。で、なければこのジーンズプロジェクトで見たように不効率な在庫管理のツケを払わされているのだ。消費者はその1本のジーンズだけでなく、裏にある失敗作も買わされていることになる。

悲観的なことはいくらでも書けるのだが、「企業や経済活動そのものに対する不信」に陥っている産業程、差別化は簡単にできるのだと読み取る事もできる。プロセスを見直して価格を見直し、なおかつ対象となっている消費者への提案ときちんと向き合う体制さえ作ればよいのである。

厳しい経済環境の中「そんな簡単なことで企業再生ができるならみんなやっているよ」という声が聞こえそうだ。

と、すると次の疑問は「説得すべき相手の顔が具体的に見えているか」という点だ。このあたり、不振におちいっている業界の方はどのように考えているのだろうか。

橋と情報の島

Facebookのタイムラインに「モノが売れない」とか「不景気だ」と言っている人たちがいる。モノが売れないのは確からしいが、いつも同じメンバーで情報を交換し合っていても結論は変わらないのではないだろうか。

こうした一群を「クラスター」と呼ぶ。だいたい、同じような人たちで形成されている集団だ。ところが、実際のネットワークを見ていると、クラスターとクラスターの間に線が伸びている様子が分かる。こうしたネットワークを再現するためには「似た者同士」の集まりの他に「ランダムな線」を加えてやるとよいことが知られている。

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島と島を結ぶ橋(5)と情報のコネクタになっている橋(8)

橋はバイパスの役割を果たしていて、世界をより小さくて緊密なものにしている。こうしてできたネットワークの性質を「スモールワールド性」と呼ぶ。世界が小さくなると、異質な接触が増えて新しいアイディアが集りやすくなる。

だから、ランダムな結びつきの果たす役割は大きい。ランダムな結びつきがなければ、人々のアイディアはどれも似たようなものになってしまうだろう。

ここではクラスターを「島」と呼び、それを結ぶランダムな存在を「橋」と呼びたい。

有名なグラノベッターの説(『転職 – ネットワークとキャリアの研究 (MINERVA社会学叢書)』など)によると、弱い紐帯(ちゅうたいと読むのだそうだ)ほど、新しい転職先を探すのに有利なのだという。弱い紐帯は「橋」や「ランダムリンク」と同じような意味合いだと考えてよい。これは新しい機会が異質なところにあるという前提があって成り立つ話である。ただ、日本は同質性の高い社会なので、弱い紐帯が転職活動に有利なのかという点については合意がないそうだ。

「ランダムリンクを増やしてイノベーションの機会を増やそう」という論はあまり人気がないようだ。代わりに集団内の統制を強めたり、樹状の組織を再編成して効率的な運用を目指そうという論が多い。マネージャからみると、この方が効率的に見えるからだろう。ただしこうした組織が効率的なのは、集団が同じ目的を共有しており、なおかつ適当なインセンティブを与えて操作できる場合だけだ。インセンティブを与えるということは望ましい結果が分かっている場合だけなので、そもそも正解を探索する必要のある組織に向いた形状ではない。

均質すぎる集団は「正解探索行動が取れない」ので、「閉塞して答えが見つからない」状況を作り出す。

実際に日本の組織は下部組織に自発的なリンクがあり、それが組織を活性化させていた。自発的なリンクは家族的な経営が作り出したものだった。しかし、終身雇用は過去のものになり、同じ組織の中に正社員と契約社員が混じり合うようになった。故にこうした自発的なリンクはなくなりつつあるのではないかと思う。これは、1980年代にアメリカ人が日本型経営を観察した結果得られた知見だが、日本人は自分たちのことをあまりよく知らないのかもしれない。さらに最近社会人になった人たちは、そもそも家族的な組織を知らないのではないかと思う。

ソーシャルネットワークでも異なる価値観を持った人たちとつながるネットワークは作成可能なのだが、それを実践する人は少ない。

隣の島に渡る人が少ない最大の原因は「島の地図がない」ことにあるのかもしれない。それぞれのメンバーは「個々人」に見える。実際には紹介者のネットワークのようなものがあるのだが、これは解析してみないと分からない。ただ、この障壁は「地図を作るために島を渡ろう」と思いさえすれば乗り越えることができるだろう。

もう一つの原因はメディアに対する人々の固定観念だ。テレビ型のメディアに慣れているせいか「受け手は聞きっぱなし」という姿勢が身に付いている。ここから選択的に好きな情報をピックアップする。これはお茶の間でテレビを見ているような状態だ。寝そべっていようが、裸であろうが関係ない。だから、メディアの方から働きかけがあると「恥ずかしい」と感じるのではないだろうか。テレビ型のメディアは一方通行なので、橋の役割は果たさない。ソーシャルメディアと放送の違いはこの「双方向性」にあるのだが、双方向のメディアのあり方に慣れていないのかもしれない。

さらに集団に対する警戒心や疲れのようなものもあるだろう。たいてい誰かが積極的に働きかけてくるのは「何かを売り込みたい」ときか「損を押し付けたいとき」だ。故に働きかけられると「何か裏があるのではないか」と思ってしまうのかもしれない。組織はしがらみだと感じているのである。

ジャーナリズムと場

ジャーナリズムの衰退が語られている。もう新聞の需要がなくなったという人もいれば、ジャーナリズムは民主主義の要であり新聞は重要だという人もいる。そもそも、新聞はどのように始まり、どういった読者に受け入れられたのだろうか。

ヨーロッパにおける新聞の祖先には二つの説がある。政治パンフレットと商業出版物だ。政治パンフレットの歴史は国民の知る権利を巡る闘争の歴史だ。ヨーロッパでは国が出版を管理する時代が長く続き、政治パンフレットの発行を理由に死刑になる人もいた。一方、商業出版の歴史では広告宣伝とニュースの間の線引きが問題になる。

イギリスのアン女王時代に出版された最初の日刊新聞デイリー・クーラント(リンクはwikipedia)の出版部数は1,000部以下だった。特定の政治信条を主張するパンフレットと違い「ニュース編集者の主観を入れない」という方針で知られていた。

この時代1712年に新聞税が課税されたのだが、人々はそれでも新聞を読みたがった。その読者はどのような人たちだったのだろうか。

イギリスではトルコから入ってきた流行の飲み物であるコーヒーを楽しみながら新聞や雑誌を読むコーヒーハウスが人気だった。ここで議論が交わされ、世論が形成された。商人たちは情報を交換し合い、ビジネスも生まれた。新聞はコーヒー・ハウスで読まれていたから、1,000部以下の部数でも世論に対する影響を持つ事ができたのだ。

仲間と一緒に新しいビジネスに取り組むとき、海外から入ってきた新しい事物に関する情報には需要があった。デイリー・クーラントが「ニュースに編集者の主観を入れない」と宣言したのは、読者ができるだけ中立な情報を望んでいたからだろう。

残念なことに、現在の新聞が特定の場にいる読者を想定して記事を記事を書くのは不可能だ。だから、現実や読者はこうあるはずだという像を作り上げるしかない。しかし、新聞が態度を変えない一方で、読者を取り巻く環境は大きく変化し続けている。ネットが台頭し広告収入が減った影響で、大規模なリストラを行う新聞やネット版への完全移行を決めた雑誌もある。

ジャーナリストの多くは、ジャーナリズムの伝統を所与のものとして捉えており「ジャーナリズムがどうやって成立したのか」という歴史に思いを馳せる人は少ない。日本ではジャーナリズムの崩壊は民主主義の危機だというような本が出版されているのだが、そもそも伝統がどう作られたのかを研究している人もほとんどいないようだ。

場の成り立ちがそれに相応しいメディアを生むのであって、メディアが場を作るわけではない。基本的なところだが、ジャーナリズムの危機を考える上では重要な視点ではないかと思う。

「爪はぎ魔女」の正体

北九州市八幡東区の病院で、認知症の老人の爪を剥ぐ「残忍」な看護士が捕まった。告発状がきっかけだった。彼女は裁判にかけられる。関係者やマスコミは「どうしてそんなことをする必要があったのか」とに関心を持った。警察の捜査で浮かび上がったのは、彼女がストレスを抱え込んでおり、そのストレスをはらすために、老人の爪を剥いでいたということだっだ。告発状のおかげで、虐待を訴えることができない「かわいそうな」お年寄りは救われたが、ストレスの多い現場環境の改善が望まれる。
これだけを聞けば、この看護士を糾弾し、ストレスが多そうな介護現場の改善を訴えたくなるのではないだろうか。しかし、この看護士は第二審で無罪判決を勝ち取った。第一審の頃から「爪はぎ」という事実すらなかったのではないかという証言も多く集った。専門家たちによれば、これは「爪はぎ」ではなく「フットケア」だったからだ。
つまり問題は、なぜこの看護士が訴えられ、第一審で「執行猶予付きの有罪判決」を受けてしまったのかということだ。
看護課長がいた部署は、短い間に何回か責任者が変わっている。訴えられた看護課長は、その任についたばかりだった。彼女の行為が「ケアではない」と考えたスタッフもいたようだが、意識が低かったのはスタッフの方だった。老人の爪は折れやすく、処置の際に血がにじむ事もある。むしろ放置しておいた方が危険ということもあるのだった。この「意識の低い現場」と現場を改革したいと考えるマネージャーの対立は時に深刻化することがあるだろう。特にトップマネジメントの関心が薄ければ、問題はカプセル化され、内部では軋轢が生まれるのではないかと想像できる。
病院トップマネジメントの関心の薄さと専門知識のなさが魔女裁判の最初のきっかけになった。多分、市の担当者は細かな介護現場の事情は知らなかったのだろう。そして、市の側も「調査に時間をかけていて、身内をかばおうとしているのではないか」と批判されたくなかったのではないかと言われている。この「事件」の前に京都である事件があった。派遣の看護助手が患者の爪を剥いでいたのだ。
この「仕事には厳しいが、同時によき母親でもある」看護課長を取り調べた側は、ギャップを埋めるために「ストレスが溜まって、弱者いじめに走った」というストーリーを創り出す事になる。いわゆる認知的不協和を埋める必要があったのだろう。取り調べて疲れ果てた看護課長はふらふらと取り調べ調書にサインしてしまった。「サインしなければ一日が終らない」からなのだと説明している。地裁はこの調書に従って判決を出したのだった。
裁判が始まってから、看護課長の無実を訴えかける証言が相次ぎ、日本看護協会も「これはケアであって虐待ではない」という支援表明をした。にも関わらず、地裁は「執行猶予付き」の判決を出した。調書を否定すれば「取り調べが間違っていた」ことになってしまうからだ。この「事件」を防ぐためには、調査委員会が早くから専門家の意見を求めていればよかったのだろう。また、医師が「看護士にケアを依頼」していれば、「ケアか虐待か」という疑念も生まれなかったに違いない。看護の現場にとって、この「事件」の影響は少なからずあったのではないかと思う。「ケアか虐待か」という極端に判断が別れるケースが頻発すれば、多忙な看護現場は回らなくなってしまうだろう。
誰が告発したかはよく分かっていないのだが、現場のやっかみから始まったのかもしれない。これにマネージメントの知識のなさと「事なかれ主義」が加わる。さらに、警察、検察、裁判所が作った物語が加わると、簡単に「現在の魔女裁判」ができ上がってしまう。(※この構造分析も「想像による」ということを、念のために付け加えておく。)
マスコミはこれをセンセーショナルに報道するだけで、関係者の言い分を取材したりはしなかった。「事実」が報道されたのは、第二審で看護課長が無罪判決を受けた後だった。「爪はぎ魔女」は実はシゴト熱心なよい母親だったと申し訳程度の追加報道がなされた。テレビ局の中には、今度は「えん罪事件」として、警察・検察当局を批判する番組を流したところもあった。この裁判は3年以上かかり、無罪判決が出たあとしばらくの間北九州市はこれを「虐待」だと認定したままになっていた。
私たちは、最初の「爪はぎ事件」について短くコメントした後、この事件を忘れてしまった。センセーショナルな事件は次から次へと報道されて「視聴者を飽きさせない」ことになっている。私たちが持っている「社会正義」とは多くの場合「エンターティンメントのスパイス」のようなものだということは知っておいても良いだろう。

リスク社会とは皆様のNHKが正解を提示できなくなった社会のことだ

木曜日のあさイチは面白かった。室井佑月さんが政府の御用学者とみなされている中川恵一氏の見解にかみついたのだ。詳細はコチラから。そもそも20msvという値に対する学識者の対応がばらばらなのに加えて、食べ物から入る被爆量は考慮されていない。各官庁が縦割りで基準値を出しているからだ。だから室井さんは「福島県では郷土愛から子供たちに地元の農産品を食べさせているようだが、せめて食事だけは地域外のものを」と発言したのだろう。

ここでNHKはジレンマに悩まされる。「みなさまのNHK」としては、福島の野菜や魚の安全を疑問視されては困る。風評被害につながるからだ。

ここで色々な人の思いの思いが錯綜する。ここで飛び出したのが柳沢秀夫解説委員である。他の出演者の話を遮って話を進める。いっけん、中川さんを批判しているような調子で「火消し」に走った。これがどきどきした理由である。そして、テレビって面白いなあと思った。声の調子や表情からかなり明確に場の葛藤が伝わる。

原子力発電所の問題は科学技術に属することなので正解がわかりそうだが、実際はそうではない。なぜならば、今後20年になにが起こるかは誰にも分からないからである。今、原子炉の中でなにが起こっているかすら分からない。セシウムの挙動についてもよく分かっていないようだ。

番組の途中から中川さんも、口に出しては言わないものの「俺もどうなるか分からないもんね」的な態度を見せ始める。そして、お得意の「野菜を食べない人」と「受動喫煙」を持ち出して、話をそらそうとした。しかし、2か月以上こういうお話に付き合わされて来たNHK側の人たちは、もはやこの手法には反応しない。

室井さんが主張するように厳しく基準を当てはめると、避難区域はさらに広がるだろう。もしかしたら福島県全域に人が住めなくなるかもしれない。そして福島県の農産物や水産物は深刻な風評被害に晒されるだろう。財界と株主は負担しないことを決めたようなので、そのコストを支払うのは国民と東京電力圏内の人たちだ。

誰も正解がわからないのだから、この問題に関してNHKは「みなさまの」(つまり万人が満足して、良かったよかったと喜び合える)ポジションを取りえない。「情報をお伝えする事によって視聴者に安心していただく」こともできない。もしNHKが「みなさまの」ポジションを取るならば、NHKは最初からこの問題を扱ってはいけなかったことになる。

新しいことに踏み込む前に、西洋文化では、確率を計算する。中央に「起こりそうなこと」の山ができ、左右両端に「起こりそうもないこと」が位置する。起こりそうもないことを過度に心配しても仕方がないので、リスクを考慮しつつ両端を排除する。これを信頼水準と呼ぶ。「過去の統計上95%の信頼水準で健康に被害は出ない」というような言い方をするけだ。これが「確率は0でない」の正体だ。

大竹まことのラジオで、ウルリヒ・ベックが朝日新聞に書いたというエッセー(インタビューかもしれない)が紹介されていた。どうやら起こる可能性は低いが、いったん起こるととんでもない事態を引き起こす事象にあたると言っているようだ。意思決定の際に捨てさるのが「テールリスク」だ。テールリスクとは数学的には正規分布に従うと仮定して、0.03%エラーが起きる可能性をさすのだそうだ

大竹さんは、テールリスクについて肌感覚では分からないようだった。日本人の「安全確実」は100%安心だからだ。が求められる。NHKが目指しているのは「正しい情報を伝えれば、確実に安心安全に行き着くだろう」という地点だったのだと思う。ところがこの件に関しては、正しい情報はなく、確実な安心安全も担保できない。日本人は貴重で豊かな国土を失うという経験をしてはじめてこの「リスクの世界」に踏み込んだといえる。

家庭によって受け入れられるリスクは違うので、一律に提供する給食システムは崩壊するだろう。

そのあとの雰囲気はさらに気まずかった。有働アナウンサーが「さらメシが何の意味か、レギュラーの室井さんだったら分かりますよね」と質問すると室井さんが「サランラップ」と叫んだのだ。NHKでは商標は使ってはいけないとされる。人ごとながら背筋が凍った。

社会の不確実性が増すと、誰でも不安になる。やがてこれは行動につながるだろう。

俳優の山本太郎さんがドラマのキャストを外されたということでTwitterが盛り上がっている。20msvを撤回させようという運動に発展するかも知れない。彼が政治家ではないところが求心力を生んでいるように思える。

日本はいきなりリスクのある世界に放り出されたのだが、日本人はリスクについて理解できない。したがって根本的な解決はできず、怒りは他のところに転移するだろう。

日本ではソーシャルメディアを通したジャスミン革命のようなことは起きないと思っていた。しかし政府や財界のあり方に疑問を持っている人は多い。自分の利害のためには声を上げない彼らが「大義」を見つけたとき、事態は思わぬ方向に向かうのではないか。

こうした運動体を甘く見ない方がいいだろう。

計画停電と混乱

一日街を歩いた。計画停電があるかないかで街中びくびくしている。役所も報道情報とウェブサイトから情報を作っている。当の報道は、紙面や画面の都合で部分的な情報しか流していない。停電を前提としてガソリンや食料の不足(これはデマから来ている買いだめなのかもしれないが…)もある。電気が止まれば水道も止まる。下水道も止まるかもしれない。故に東京電力の責任は重大だ。
まず、最終的に分かった事実は「うちは計画停電実施地域」には含まれていないということである。これは「丁目」単位では分からない。契約番号を告げた上でどこのネットワークに入っているかを調べる必要がある。そして現場は情報を持っている。僕は契約番号を持っておらず、現地事務所で調べてもらったのだが、住所と近所の目印になる建物名を教えたら3分程で出て来た。それくらいの情報なのだ。

対応してくれた技術者によると、うちが地域に入っていない理由は次の通りである。送電ネットワークには階層がある。階層があるだけでなく、中継回路になっているものもある。今回の「計画停電」は途中でブレーカーを落とすようなものなのだが、中継回路のブレーカーを落とすと、末端まで全てが止まってしまう。故に中継点は階層の下位にあったとしても止められないそうだ。故に止まるのは「ネットワークの末端にある」地域だけだということになる。うちはたまたま中継点にあり、東京電力の公式発表ではグループ2に入っているのだが、いずれのグループにも入っていないのだそうだ。家の根元にあるブレーカーを止めると影響が大きいので、各部屋のブレーカーを落としているような感じです、と図式を使って教えてくれた。今回は(あとで分かることなのだが、この区は夕方から夜間にかけて停電が実施されたので、多分裏では準備していたのだと思う)入っていないということかと聞くと、この家は地域ではないですねえという。「グループの組み替えをしないかぎり計画停電はない」ということですかと聞くと、「そうだ」という。

2011/03/18追記:その後情報はさらに錯綜している。本当のことは市民生活がもとに戻るまで分からないのではと思う。この後、千葉県は多くの地域が災害地域なので計画停電の区域から「外した」という情報が出た。Googleが協力して地図が出た。東京電力はデータだけ管理し、プレゼンテーションをGoogleに任せたのは良かったと思う。
千葉市内では稲毛区の西千葉から若葉区の愛生町あたりが計画停電区域に入っており、Twitterによると西千葉は実際に停電したようだ。花見川流域(八千代など)も停電区域に入っていようだ。都賀駅周辺は区域から外れている。実際にいままでのところ停電していない。
ところが、実際に被災(液状化して水道もやられているらしい)している浦安の情報が錯綜している。「停電区域から外せず」「交渉の余地がない」という記事がありTwitter上で非難が集りそうだった。しかしGoogleの地図では浦安は停電区域から外れたようだった。良かったなあと思ったのだが、文化放送によると「停電した」というリスナーからのメッセージが読まれた。隣の市川でも連絡なく停電したそうだ。
技術者は「ブレーカーを落とすように」と説明してくれたが、機械的にそんなブレーカーがあるわけではないのだろう。極めて機械的な操作に政治的な配慮が入るとオペレーション(つまり現場)が混乱する。かといって、被災地の停電は社会的に非難されるだろう。
多分「情報が錯綜」しているわけではないと思う。現場そのものが少なからず混乱しているように思えるのである。
このエントリーは多く読まれているようだ。しかしここで東京電力の非難で終ってはいけないということを改めて強調しておきたい。(いま読み直してみても随分感情的に思えるのだが、一応このまま残しておく)
最初の情報にほとんど無意識であっても恣意を加えると、その後そのストーリーを維持しなければならなくなる。情報発信側にあったのは「受け手は状況を理解してくれないだろう」という不信だったのではないかと個人的には考えている。
緊急時には情報がもたらすインパクトを考えて情報を操作してはいけないし、コントロールできているフリをしてはいけないというのがこの件の教訓だ。

ここまでが技術者から聞いた話。あとは発電ネットワークと送電ネットワークは区切られているということを教えてもらった。停電が戻って(復電というのか?)も「ブレーカーを落として上げたときに壊れないのであれば」機器に余分な電気が流れることはないのだそうだ。(この技術者の話を念頭に新聞広告を読む。分かりにくさに愕然とした。これ言いたいのは「事前にいろいろ言ったから壊れても文句言うなよ」にしか思えない)多分発電側のネットワークを守るために送電側を調整してるんでしょうねえと聞くと「ええそうですね」といっていた。
報道されているリストはすでに「サマリー」情報で、実際は地番単位で確認しないと本当のことは分からない。その晩見える範囲からは停電は確認できなかった。テレビはこのサマリー情報をまたサマリーする。故に「区域全体が停電します」となるわけだ。情報が根元から下流に来るに従って、どんどん大雑把になってゆくのがわかる。
地方自治体はかなり末端で情報を取得している。しかも、それぞれ独自に情報を収集しているようだ。区役所を2つ、政令指定都市の市役所、県庁を回ったのだが、2の区はそれぞれ違うリストを使って停電情報を把握していた。市役所(というよりは市民情報センターみたいなところだが)も独自で資料を作る。これはどうして一本化できないのか。なぜ、この期に及んでも情報を共有しようとしないのか。普段からこうした非効率なやり方をしているのだろうか。
ここからは推測。中継点にあたるネットワークがどれくらいの割合あるかは分からない。しかし、今回計画停電するのは、電気ネットワークの末端ばかりのはずだ。今回の区分けを変えるとは思えない。それは物理的なネットワークに依存しているはずだからである。故に「止まる地点は何回も止まる」ことになるだろう。しかしこんなことは発表できないだろう。なぜならばたまたま作られた電気ネットワークの構成に依存して地域に著しい不公平が生じるからで、土地の値段にすら反映する可能性がある。今回の計画停電に文句がでないのは「大抵の家が停電する」と考えられているからだ。もし「うちだけが止まります」だったらどう感じるだろうか。
故に今回発表されたあのリストが真実を反映しているかどうかは分からないのではないかと思える。良く類推すると時間内に技術者からの情報をまとめ切れなかったということだ。しかし、表面上の平等を保つために全ての地域(23区は入っていないわけだが)が掲載されたリストが作られたのかもしれない。そもそもこうした「大人の事情」が含まれていたとすれば、効率的な広報などできないだろう。加えて社会保険事務所と同じように「電気を作ってやっているのだから、お前が聞きにこい」という姿勢も見られる。計画停電が実施される地域への通報はなかったのだが、これは社会保険庁が「年金については受給予定者が問い合わせて来てください」と言っているのに似ている。実際には戸別に「お宅はどこに入っている」と周知しなければ情報は伝達できない。多分、電気代の請求書に書いて送ることはできるはずであるが…受付電話すら増設しないところを見ると、あまり費用はかけたくないのだろう。
どうやら今回使われている(そうして全く電話がつながらない)電話番号は普段から使われている受付電話のようだ。実際に計画停電が始まってからはNTT側が制限をかけている。止まってから初めて「うちはいつ復電するのか」と問い合わせする人が多かったのかもしれない。そもそも「自宅が対象になっているか」が分かれば不安は解消されたはずで、契約番号だけ教えてくれと事前にガイドした上で電話を増やせばこうした混乱は起こらなかったはずだ。
Twitterを見ると「千葉と茨城は被災地なので全県が対象外になった」と誤解している人がいる一方、予告なしに電気が止まったと言っている人もいる。自治体の問い合わせ窓口はパンクして、徹夜で対応をした地域もあったそうだ。ニュースによると3/15の計画停電実施区域は500万世帯だ。(そもそも、どのリストをもとにした情報かは分からない。第2グループの世帯数を独自集計しているのであれば、実際の停電世帯はもっと少ないはずである)日本の世帯数は5000万弱なので、1/10の家で停電したということになる。
事前に一生懸命システムを作り東京電力の情報を見やすくした人もいる。こうした事実を知り類推すると、こうした努力が「バカみたい」に見える。メディアの制限で記載できる情報が限られている。新聞ではXX区は「〜グループに入る」とされている。ウェブサイトは「X丁目」は「〜グループだ」という。でも実際には地番単位で分かれているわけだ。丁目別の情報を見てもそもそも意味がないのである。Twitterではこの時間も「情報はここ」のようなつぶやきが展開している。彼らの善意を返してあげてほしい。そして自分たちの地域が停電しないと分かれば無駄な買いだめをしなかった人も多いのではないか。
多分、発電ネットワークの過負荷を避けるために、ありもののネットワークをそのまま使い「落とせるところを落としましょうよ」という話になったのだろう。そもそもそこで情報のスキミングが起きている。対応電話回線はすぐに増やせるはずもない。ブース増設にはお金がかかる。社会保険庁の例でもわかるように臨時に電話オペレータを雇っても教育して、対応できるようになるまで何日かはかかるはずだ。彼らはこれを「まあ、いいか」と思ったに違いない。これがフォールバック(つまりあふれたものが外に行く事だ)する。フォールバックした先は地方自治体で、復旧対策を行う必要がある旭市も含まれており、情報伝達もできない。人々は諦めて自前で情報を共有しようとしているわけだ。これをそのままテレビが伝え、さらに混乱した。地震は国難と言っている人がいるが、首都圏の混乱は人災だ。
このエントリーの現実的な教訓は「情報は最も根元で入手しろ」だ。この場合、送電側の部署に聞くのが一番手っ取り早い。しかし、それでいいのだろうか。彼らは実務を行っている。問い合わせが殺到すれば実作業に影響が出るだろう。
東京電力は潰れない。地域の電力供給事業は独占されているからだ。故に彼らにはこうした失敗を未然に防ぐインセンティブはないのである。福島の件で、菅直人さんが100%潰れますよと言っているが潰れない。そしてそのことは彼自身も知っているはずである。社会主義体制は一長一短だが、これは最も悪い側面の一つだろう。
さて、ここまで書いて来て「結局東京電力の事務方の悪口」を書いて終わりにしていいのかと考えた。そこで、どうすべきだったかを考えてみる事にする。情報の流れを見ると、技術者から伝わった情報は、いったん本部に上がる。そこでいろいろな大人の事情による制約を受ける。またメディア上の制限もあり細かな情報がながせない。その限られた情報は無数の人たちの努力で見やすく加工される。しかしもともとの情報が限られているので正確にならない上に、変更がかかっているらしい。変更の理由は定かではないが、送電ネットワークの物理的事情に依存するのであればこれが組み替えられる可能性は少ない。すると、急いで発表した文書の間違いを修正しているのかもしれない。
情報的な問題点は明確だ。つまり途中で人の手がかかるとエラーが増えるのである。ということは解決策も簡単に見つかる。情報はあるわけだから、これを公開してしまえばいいわけである。東京電力はプレゼンテーションをしてはいけない。つまりHTMLやPDFに加工しない。彼らの役割は2つだ。1つは元データを一括して管理すること。できればバージョン情報を付ける。技術側の停電情報をメンテナンスしたら元データとヒモづける。これをボランティアが加工し見やすくする。もう1つは元データの配信が滞らないようにすることだ。こうした情報共有のやり方は、インターネットでは普通に行われる。例えばIPアドレスとURLを結びつけるネームサーバーはこのモデルで情報を管理しているのだ。
実際に歩いてみて感じた問題点は、この期に及んでも情報を他部署と共有しない行政と、「情報が欲しければ取りにこい」といいつつ情報を発信のキャパシティを確保しない企業に集約できる。「正確な情報が分からない」し、「発信もできない」のに全て自前でコントロールしようと考えてしまう。これに情報に関するリテラシー不足が重なると混乱が生じるわけだ。

緊急災害時とネットメディア

地震から1日経った。人間は情報量が多くなると適切な行動ができなくなるというNewsweekの記事を読んだばかりで、テレビから一日中流れてくる被災情報とテロップに圧倒されながらちょっと怖くなった。情報に圧倒されていて「情報疲れ」を起こしているのが実感できたからだ。地震の経験は2分くらいしかないわけだから、そのあとは「〜が来るかもしれない」という情報に圧倒されることになる。そうした中「多分デマだろう」という情報に接した。ということで、地震後の雑感をまとめたい。

情報は錯綜する

どうやら、いろいろな情報が流れてくると、テレビで聞いた事・実際に見た事・人から聞いた事などが区別できなくなるようだ。これには著しい個人差がある。故に情報は錯綜すると考えたほうがいい。多分「情報」よりも「行動指針」を示したほうが、情報弱者には優しい。情報に強い人は「何らかの事態を想定し」「それに対する情報を探し」「関係ある情報を選択している」のに対して、情報弱者は「とにかく来る情報をすべて受け入れ」「それを感情的に処理し」「圧倒される」というプロセスを踏んでいるのと思う。感情的に処理とは「かわいそう」とか「こわい」とかだ。そして、いざ何か行動を取らなければならなくなったときに「なんだか分からない」ということになる。そして情報強者も情報量が増えるのに従って判断力を失って行く。
しかし情報の収集に慣れている人は「何か隠しているのではないか」と考えてしまうかもしれず、これらを整理して流すのはなかなか大変そうだ。情報リテラシーが低下すると、漢字の見た目で「これはひどい事になっているに違いない」と感じるらしい。テレビは情報を蓄積できない。何時間かごとに「高速道路が止まった」とか「動いた」という情報が出て来たり、1日前の情報がテロップで出ると判断に必要な情報が取り出せなくなる。次回のために文字情報のルールを作っておいたほうがいい。死者数を流すときと、高速道路の情報を流すときに背景色を変えるとか、できることはいろいろあるはずだ。少なくとも「起こったこと」と「現在の行動指針のための情報」は明確に区別したほうがいいだろう。

人は情報を交換するがその通路は様々

最初に地震が起きたとき、年配は積極的に声をかけてきた。「地震がありましたね」とかその程度だ。僕は40歳代なのだが「何か崩れましたか」とか「震源はどこですか」とか「余震が続いていますね」とか声を返す。これが安心を生み出す。後は近所の人に声をかけたりする。しかし、いわゆるロスジェネの人たちは、年齢で固まって内輪で情報交換をするようだ。家に帰りつくとTwitterなどでは情報を交換しあっている様子が分かった。年配者はネットメディアに接していないので、あたかも異なった二つのメディア空間があるような状態になる。「何かをやって協力したい」「いても立ってもいられない」という人たちもおり、助け合いたいという気持ちはどちらともに強いらしい。ある年齢を境に情報交換に対する態度がかなり違うようである。こうした断層はどうして生まれたのかと思った。この「情報断層」は後で説明するようにデマの震源になる可能性があるように思える。

ネットメディアは役に立った

Facebookで海外と安否確認ができた。携帯電話はまったく使えないのにSkypeやTwitterはつながった。これは携帯電話が緻密に組まれているのに比べて、ネットはもともと軍事利用だったからだ。つまり品質を犠牲にしてでも安定性を確保するのである。携帯電話はシステム的には見直した方がいいのではと思う。災害時には品質を落としてもつながり具合を確保するようなことはできないのではないかと思う。これをきっかけにSkpyeの利用は増えるのではないかとも思った。備えとして平時にアカウントを取っておいたほうがいいかもしれない。特に災害時に電気が切れてしまった(いまも切れている)東北地方の事例は研究されるべきだろう。

ネットメディアが危ないのではなかった

今回、噂話が流れた。市原のコスモ石油で火災があり、その浮遊物が降ってくるというのだ。僕が聞いたのは「空気中に有害物質が俟っているので傘をさして歩け」というもので「厚生労働省に勤める兄嫁から聞いた」となっていた。これを「この人の兄嫁が厚生労働省に勤めているのだろう」と受け取ったのだが、どうも曖昧だ。ということで「元ネタを調べないと」と考えた。この時点でTwitterには二通りの話が出ていた。「厚生労働省発表」というやつと「コスモ石油に勤めている人に聞いた所によると」というもの。そして、千葉市長は「そうした可能性は少ない」とTweetしていた。やはりデマの可能性が高いようだ。
既にWikipediaに地震についてのまとめができている。それによれば、コスモ石油で火災があったときにチリが核になり雨が降ったという記述があった。(これも本当に雨なのかは確認されていないのだが…)この話が伝わったのではないかと思える。
既にTweetしたように「噂が広がる」要件を満たしている。以下、列記する。

  • このとき、テレビは福島の原発についてのニュースばかりを流していて、千葉には情報空白ができている。災害時の不安な気持ちがあり、ちょっとした情報は「悪いほうに流れる」傾向がある。
  • 多分、雲も出ていないのに地面が濡れていたね→雨だったね→なんか混じってないか心配→なんか千葉市に雨が降ってくるんだってよというように拡大した可能性がある。(これは検証してみてもいいのではないか)これが文章になってTwitterで伝わり、Twitterをやっていなさそうな人に伝聞で伝わったわけだ。豊田信用金庫事件で無線マニアが果たした役割を電話した人が担っていたのではないかと思う。(近所の人は相模原の人から聞いたのだそうだ)ちなみに電車での噂話がTwitterにあたる。
  • よく考えてみると、ある古典的な下敷きがある。それは井伏鱒二の「黒い雨」である。広島の原爆についての小説だ。もしこの推測がただしいとすると、福島の件が影響していることになる。噂が単純化する時、あるプロトタイプを取ることがあるようだ。意図的に噂を流すときにも使われる手法だが、自然発生的にもこうしたことが起こりうるのではないかと思われる。

よく考えてみると千葉市には雨の予報はない。市原は平気で千葉は危ないというのもおかしい。そもそも情報が曖昧である。こうした曖昧さを補完するために、雨で有毒物質が降ってくる→空気中に俟っているになったのかもしれない。情報は単純化しながら悪いほうに傾いて行くのである。千葉市でも火災が起きているのだが、これがごっちゃになったのかもしれない。
この近所の人に「確かにこういうことはないとは言い切れないが」「ネット上でも騒ぎになっているので」「用心しつつも冷静になったほうがいいのでは」と教えてあげた。否定すると躍起になって反論するかもしれない。すでに近所には一通り伝え終わっていたらしいのだが、それで落ち着いたようだ。しかし、家族の一人が、神奈川にいる家族に「毒ガスのデマが出た」と電話する。これが「千葉はデマが出る程混乱している」という心象を与える可能性もあるし「デマ」が消え去り「毒ガス」に変わる恐れがある。情報は単純化するからである。
ネットメディアでは「これはデマなのでは」という自省的なTweetが出始めた。厄介なのは伝聞を聞いた人たちだ。情報修正は行われないなかで、テレビではまったくこれを伝えていない。そしてCMなしで不安な映像が流れ続けている。かなり不安だったのではないかと思われる。

日本人は冷静だった、が

地震後、略奪が全く起きている様子がない。これがとても驚異的だという話は至る所で語られているようである。これは日本人が社会や地域コミュニティを信用しているということだろうと思われる。この時点で怖いのは、我々が政府を信じられなくなっているという点だ。これを書いている時点では目が泳いでいる枝野さんの発言を保安院発表と「一致しない」という分析がなされている。こうした不安はパニックを引き起こす可能性がある。
先ほどの「噂話」が最悪の結末を生まなかったのは、誰もこの情報を元に行動を起こさなかったからだろう。それは我々が社会を信用しているからで、つまり噂話が広がる要件の最後の一つを満たしていなかったのである。噂がパニックになるのは、複数の不確かなソースから同じような情報を取得し(例えば携帯電話ですでに話を聞いていて、そういえば私もそういう情報を聞いたと話し合い)、誰かが何かをしている(例えばとなりの人が血相を変えて逃げて行く)のを目撃した時である。銀行の取り付け騒ぎやトイレットペーパー騒動などはこうした情報が行動に変化した時点で、デマからパニックになった。報道によると、「避難所に食料があるといいね」が「食料がある」に変わっている可能性があるようだ。実際に着いた所、食べ物のない避難所があったそうだ。
ネットメディアを知っている人とそうでない人に断層がある。ここが構造的な弱点になっている。だから、ここが刺激されていれば、パニックが発生する可能性も否定できなかったのではないか。危ないのは携帯電話のチェーンメールではなく、こうした伝聞情報を複数ソースで確認できない人たちだ。故に社会とつながっていて、なおかつネットでの情報収集能力がある人の役割は大きいのである。しかし、こうした冷静な対応も「みんなが走り出した」ら無力になるだろう。

方言が言語か

北九州の出身である。東京で出身地を言うとたいてい「なんばしよっとか」と返ってくる。北九州市は福岡県の都市なのだが、違う方言を話す。しかし、東京の人には博多弁の印象が強いのだろう。博多弁は遠賀川以西から熊本あたりまで広がる別系統の方言だ。この中に東日本方言と同じ(ような)アクセントを持った地域とアクセントが崩壊した(ちょうど北関東なまりとおなじような感じだ)地域がある。北九州市から大分・宮崎あたりまでは別の言語がある。豊日方言と言われたりする。だから福岡県東部の出身者は「博多弁と北九州弁は違う」と思っている。瀬戸内海に面しているので、広島や山口の方言と近い。さらに九州には南に鹿児島弁がある。
ある本に、これを北九州語、西九州語と表現している学者の説を読んだ。日本人は遺伝子的に多様性が高いのだそうだ。これは世界各地から流れて来た人たちが吹きだまりやすい地域にあたるからのように思える。日本人は多様な民族の集まりなのだから、故に言語も多様なはずである、と主張する。
北九州方言は動詞に特徴がある。九州弁一般に言えるのかもしれない。「灯油がなくなりよー」と「灯油がなくっちょー」は違うことを言っている。「なくなりよー」はいまなくなりつつあることを意味する。そして「なくなっちょー」はなくなってしまったことを意味しているのである。だから、これを聞いた人は「いま灯油が入っているのか、入っていないのか」が分かる。なくなりよーは、なくなりつつあるのだから、まだ灯油は入っている。なくなっちょーは「なくなってしまった」であり、故に完了形なのだ。これは過去形に展開できる。なくなりよった、なくなっちょったである。だから、なくなっちょったは過去完了形であるといえる。
ところが、英語を習うとき、我々は「日本語には完了形はない」と習う。これは北九州方言の話者が「自分たちの言葉に完了形がある」ことを意識していないことを意味する。そして、この二つを違う意味として意識しないので、結果的に混用が起こると修正ができない。宿題を「いまやりよー」と「いまやっちょー」を同じ意味で使う人は多いのではないだろうか。しかしなくなるの活用を当てはめると正しくない。やりよーは「いまやっているよ」であり、やっちょーは「もうやってある」であるべきだ。しかし、区別は存在する。「もうやりよー」は「もう開始していていままさにやっている」という意味にしかなり得ない。一方、「もうやっちょー」は「もう開始していてすでに終っている」と解釈される可能性がある。
これは、北九州方言話者が、こうした区別のない標準語を覚える時、動詞が持っている機能をいったんバラしてべつの機能で置き換えていることを示している。この作業は意識的には行われない。「標準日本語には完了形がないから不便だ」と思う九州人はいないのではないか。
大学入学あたりで東京に出てくると、その後社会的に標準語が使えるようになる。しかし大学を卒業して東京に出てくると標準語が使えない人が出てくる。言葉は話せても社会的言語が獲得できない。鹿児島の出身者が小倉出身者を指して「あの人は単語の省略の仕方がヘンだ」とこぼしたのを聞いたことがある。この小倉出身者は大学卒業後地元で就職し、その後東京に転勤して来たのである。この鹿児島出身者はいま米系の企業で働いているバイリンガルだ。
これを説明するのに「東日本語」と「北九州語」は同じ系統の言語なので習得が容易だが、細かい差違は獲得が難しいとは言わない。北九州語は一般に方言扱いだからだ。しかし、この2つの言語を違う系統だと認めると、日本語が孤立的言語であるとは言えなくなる。同時に日本語の話者の数は減るだろう。1億人が同じ言葉を話しているという意味で、日本語は大言語だ。言語圏になれるくらいの規模は持っているのである。
よく沖縄の人たちが「本土扱いしてもらえない」ということがある。これは日本語が単一の言語であるという前提に立っているからだ。九州の人たちは「本土扱いされない」とは言わない。例えばお隣の長州弁は「ちょっと偉そうな」言語として認知されている。これは警官に長州出身者が多かったからだと言われている。これをひきずって「広島弁はやくざ映画で使われる」こうした諸方言は社会方言として認知されている。同じように静岡の影響を受けなかった(つまり江戸ではない)関東方言が「農村の言葉」として社会方言化している。つまり、日本語が(例え標準語であっても)多様な集まりであること意味している。
方言話者は外国語習得にも有利だ。九州方言の話者は文法的な特徴が標準語と違っている。しかし子どもの時からテレビで標準語に接している。基本的にこれを別系統の言語に当てはめるだけである。
一方、東京方言の話者は方言習得や別言語習得には気をつけたほうがいい。どうやら日本語には音声的な多様性もあるようだ。関西方言にアクセントの他に声調があるのは有名だ。これを声調を持っていない九州人や東京人が真似ると「変な関西弁」になる。そして関西人は自分たちが声調言語を話しているという意識はないので「その関西弁は正しくない」とは言えないのである。同じように北九州方言には撥音や濃音があるようだ。小倉弁は「っちゃ」が特徴的なのだが、若干喉が震える。「っとたい」の「た」も同様である。(喉に手をあててみるとわかる。喉をふるわせないで「たい」が言えないはずだ)撥音・濃音は朝鮮半島の言語に特有の特徴であり、こうしたつながりを認めたり、それを公にする学者はいないようだ。東京の人が九州の言語を真似すると平板に聞こえる。喉を使わないからだろう。そして九州人は濃音を意識できない。かなの記述でかき分けないからである。このように記述システムは発音の認知に影響を与えるが、だからといってその発音がなくなるということはないようである。同じように標準語でも「が」の鼻母音をかき分けないので、正しく発音されなくてもそれを指摘される事はない。
このように方言話者は音声的な違いを乗り越えている。この経験は英語習得に役立つ。また別の言語を学んでもいい。例えば英語を勉強するには最初に韓国語をやっておくと助けになる。韓国語には「お」にあたる母音が2つあり「う」も2つある。この違いを勉強しておくと、英語の曖昧母音などが発音しやすくなる。英語には母音文字が5つしかなく、そこに多様な母音を当てはめている。これを母音が5音しかない日本人が真似するので、日本人の英語は伝わりにくい。言語の多様性が大きいほど、別言語が学びやすくなる。日本語の常識をあてはめてしまうと、言語の習得はより難しくなるだろう。
さて、言語と方言にまつわる話はここまでだ。以下まとめる。

  • 「日本語が単一言語である」かどうかは定かではない。見方の違いは、我々の民族観に大きな影響を与える。
  • 私たちは細かな違いを意識しないで方言と標準語を使い分けている。この使い分け方は、英語や中国語などの他言語を習得するときに役立つ。

ここで問題になりそうなのは、多様性のある言語がどうして「同一言語」と見なされるのだろうかという点である。井上ひさしの国語元年を思い出したりするのだが、随分昔に読んだので機会があればまた読んでみたと思う。多様性があるのだが、違いを明確にせずやんわりと包括したのが「日本」という概念だったのではないかと思える。つまり、かつて我々の民族概念は私たちが思っているよりも遥かに柔軟なものだったのではないかと思えるのである。これを知らずに移民政策や日本人論を語ると結論を間違える可能性があるだろう。

プロトタイプ作りの大切さ

イノベーションの達人! – 発想する会社をつくる10の人材の中に、IDEOのモノ作りのやり方が出てくる。デザインコンサルティングの会社なのだが、ただパソコン上で発想するのではなく、実際にプロトタイプを組み立ててみるのだそうだ。
彼らがプロトタイプを作るのはどうしてだろうか。ヒトは「全体像」を把握することはできない。実際に作ってみると抜け落ちている所がわかる。また複数のチームメンバーのアイディアが具体的に伝わるので、知識共有にも役に立つ。
今回、連想型ブラウザーを試作した感想を3回に分けて行っている。これを作って思ったのは、この「実際にやってみる」ことの大切さだった。加えて途中経過を再確認することで、意味合いを考え直すことができる。つまり、実際にやってみる事で「ああこういうことができるな」と思い、それを追体験することで「こういうこともできるだろうな」と考えることができるのだ。
プロトタイピングにはさらにいい事がある。プロトタイプを作るために、足りない知識(今回はAjax= JavaScript)をレビューし直したりもする。しばらくすると忘れてしまうかもしれないのだが、コードを見直せば再利用できる部品を取り出したりすることもできるだろう。
発想を膨らますためには、そこそこ簡単なほうがいい。しかし、できる事だけやっていてもつまらない。境目のぎりぎりの所が楽しい。「楽しい」ということは大切だ。実際に「作ろうかなあ」と考えているときは面倒くさかったりもするのだが、実際に作れると「もうすこしやってみようかなあ」と思ったりできる。また、Facebookの初期のツールキットのように「組み上げたら満足」してしまうが、実際に何に使うのかさっぱり思い浮かばないものもプロトタイピングには向いていない。つまり、試作品を作るにもそれなりの技術が必要ということになる。
プロトタイピングはモノ作りには欠かせない。戦後の日本の製造業を支えたのは、大企業から注文を受けた中小企業だといわれている。彼らは年中「プロトタイピング」をやっているようなものだった。しかし大企業が国内を脱出すると、こうしたプロトタイピングの機会は失われる。代わりにコスト削減圧力だけがかかるわけで「モノ作り」が衰退するのも止む終えない。また、今回の経験から、IT産業であってもプロトタイピングは重要だとわかった。基本的に「モノ作り」には違いないわけだ。
日本のIT産業は基本的にプロトタイピングと独自の発想を嫌うところがあるように思える。ソーシャルメディアなど発想の源が海外にあるからだろう。一から発想するよりも「これを日本風にアレンジする」ことが得意分野だとされる。これに加えて「確実さ」を求める傾向がある。確実に儲かるプロジェクトでないと「腰が上がらない」(つまりやる気にならない)。プログラマやデザイナの現場では、勉強会というと新しい技術やスキルを学ぶことだ。一から発想するのはあまり得意ではない。ビジネスレイヤーではさらに深刻で「課金システムがないと話を進めない」ひという人たちが多い。Twitterが自然発生的に広まったのに比べ、Facebookがビジネスマン発信なのは最初から課金の成功事例があったからだ。
また受注生産的な態度も時には弊害になる場合がある。特に中間マネジメントの人たちは常に課題に追われていて「新しいからなんだか面白そうだ」と考えないかもしれない。顧客ニーズの汲みとりに忙しく、自分から提案することができない場合もあるだろう。
プロトタイピングは、発想を経験としてパッケージしてゆく作業だ。本来なら「市場ニーズ」と「できること」を両方知っている人がやったほうが面白いものができるはずである。しかしこの人たちが「提案を貰う側」と「提案する側」に分かれていると、なかなか面白い発想が出にくい。
転職がないこともこれに拍車をかける。「提案を貰う側」は新入社員で入り、提案を貰い続けて今日まで来たかもしれない。頭の中で「なんか自分にしっくり来る提案がこない」と考えつつもそれを形にする技術がないということがあり得るのかもしれない。
さて、いろいろと考察してきたが、あまり状況を嘆いていても意味がない。新しい産業は河の流れに例えることができる。まず泉があり、それが集って来て川ができる。いくつかの支流が集って、海まで続くが、砂漠の川のように途中で干上がってしまうこともある。このプロトタイピングは泉にあたるだろう。つまり手を動かす技術と、それをお互いに評価し合うネットワークがあってはじめて成長点が作られる。
発展途上の国では「お金持ちになりたい」とか「先進国に追いつきたい」という気持ちが重要だった。これは川の途中で勢いを付けるには重要だ。しかし、発展途上段階を抜けると、このインセンティブを何か別のものに振り替えて行く必要がある。これを「個人の自己実現」や「危機感」に置き換えてきたわけだが、楽しくない作業を長く続けることは難しいだろう。
これに引き換え、何か新しいものを作って、お互いに工夫し合うのは、単純に楽しい。これを収益化するプロセスが面白いと感じる人もいるだろう。こうしたコミュニティが再構成されたところから新しい産業が起こるのではないかと思う。その意味でも、何がが作れる人たちが集まるのは重要な意味があるのではないかと思える。

人を動かす

1月の目標は「人を動かす」というものだ。ということで、安易だが「人を動かす」を読んでみた。とはいえ図書館にある「人を動かす」は、ほとんど貸し出されている。みんな人を動かしたくて仕方がないのだろう。
ブログばかり書いると、むなしさみたいなものを感じることがある。大抵の情報は一時の慰みに過ぎない。芸能情報と同じで消費される存在だ。議論の結果「やはり私は正しかった」という結論になることが多い。つまり、多くの議論は「動かないための理由作り」に使われる。多くの論争は正当化の為に費やされる。最後に「お金」は、誰かに行動して貰った結果生じるものなので「人を動かすこと」抜きには、ビジネスはできない。故に「人を動かす」ことはとても大切なのだ。
ところが当初の期待とは違って「人を動かしたい人」は、この本を読むべきではない。ディール・カーネギーは「人を動かすことはできない」と断言している。人は「自分のやりたいことしかしない」のから、自発的に行動して貰う事はできても、動かすことはできないだろうと言っている。逆に強制されると反発心が生まれる。故に、人を動かすためには自分の心持ちやモノの考え方を変えなければならない。だから「自分が動く」べきなのである。
この本は、1937年に書かれている。自由競争が前提になっているようで、交渉する人もされる人も「決裁権」を持っている。ここが現代の日本との大きな違いだ。現代の日本は経済が縮小してゆくことが暗黙の前提になっている。だから、人を動かすのは「誰かに損を押し付けたいから」であることが多い。
人々には自由裁量権がない。あるドラッグストアで300円の乳液と8,000円の乳液を売っている。中間商品はない。同じ製品を隣では250円で売っている。店員さんには300円のものを250円で売る権限はないし、1,000円くらいの商品を作る事もできない。本部からは高額商品を売るように言われる。だから一生懸命に8,000円の製品の話をする。そこで、パンフレットを出して解説しようとする。あいにく印刷物がない。客は300円の製品を見つけて「もっと安いなにかがあるのではないか」と思って探している。最初から1,000円以上の品物には興味がない。もし1,000円以上のものが欲しいならデパートかどこかに行くだろう。もう少しまともな椅子に座って製品説明が受けられる。客としては嫌なヤツに思われるのも好ましくないので、一応店員さんの話を聞いてあげる。
この店員さんが取り得る戦略は「今抱えているお客さんと楽しく会話して契約時間を過ごす」事だけだ。いずれこの人たちもいなくなるかもしれないが今はしのげるだろう。本部の人たちも「売れれば儲けものだなあ」としか思っていないのかもしれない。だから後方支援はない。来る客といえば「もっと安いものを」と考えているわけだから、てきとうにあしらうべきなのだ。ほったらかしにしていれば、自分でなにか探すだろう。
店員は大した決定権はもっていない。(ついでに、製品についてたいした知識も持っていない)お客もせいぜい500円くらいの予算しか持っていない。この状態で「相手に関心を示して、名前を覚えてもムダ」だろう。
こうした状況では、誠意だけでは人を動かすことはできない。だから現代の日本では「人を動かす」は役に立たないので、この本は読んではいけないのである。
現代日本は「何も変わらないし変わりたくない」社会である。自分が変わらないためには、他人に変わってもらう必要がある。だから「自分が変わらないために他人を変えよう」と試みるのだ。「人を動かす」を読んで「相手が誠意を持って自分に接してくれれば、僕もそうするのに」と夢想することになる。自分に誠意がないのは、世の中が悪いからである。試しに「人を騙す」コールドリーディングの本を読んでみるとこのことが良くわかる。『あるニセ占い師の告白 ~偉い奴ほど使っている!人を動かす究極の話術&心理術「ブラック・コールドリーディング」 (FOREST MINI BOOK)』を読んでみよう。ちなみにガイジンが書いたことになっているが、日本人が偽名を使って書いている。本自体が一つの騙しになっている。
人を信頼させる理屈は「人を動かす」と同じである。誠意を見せて、相手のいうことを聞いてやる。自分が読み取るわけではなく、相手に全部話させる。これも「人を動かす」に似ている。ディール・カーネギーは、対話と提案によって「両方がトクをする」点を探してゆく(だから、両方の自由度が重要なのだ)が、コールドリーディングの本では「相手が変わらなくていい理由」を探して行く。この為に使うのが「前世」だそうだ。「前世でこういうことがあったので、今の状況は当たり前である」という理屈を創作する。
冒頭で「人が動く事によって、お金が発生する」と書いたのだが、コールドリーディングの本のカモは「パーソナライズされた、動かないですむ理由」を聞くためにお金を払う。失恋したのも、ダイエットに失敗したのも全て「前世」に理由があり、仕方がない。こうした「ニセスピリチュアリスト」はアメリカにもいるそうだ。日本人が集団主義的で依存心が強いからこうした占いに頼るのだとはいいきれない。
この2つの本は「だいたい同じ」原理に基づいて書かれている。大きな違いはその前提だ。「人を動かす」は、お互いがトクをする合意点を探す(探せる)世界を前提にしている。こうした前提の元で生きている人はこの本を読むべきだろう。しかし「お互いが合意点を探す自由度がない」世界を生きている人は、「人を動かす」を読む前に、こうした自由度を持つ事ができる環境を探すべきなのだといえる。