ネットでの情報伝達を観察する

昨日無党派層に関する記事を書いた。あまり一般受けする話題ではないのだが、意外な程流入が多かった。ソーシャルメディアを通じて広がる。どのように広がるのか、またソーシャルメディアによって違いがあるのかを調べてみた。

広がった原因は分かっている。テレビに取り上げられた話題で田崎史郎さんという人名が入っているからだ。過去の投稿でも「山本太郎」とか「麻生くん」のような人名での検索が多いことが分かっている。呼び込み文で使った文面を読むと「SEALDsの若者に狼狽する田崎史郎さん」というように読める。テレビ番組名(みんなのニュース)と「奥田愛基」という名前は入っていない。

毎回のお約束としてFacebookとTwitterで呼び込みをすることに決めている。最初に流入したのはTwitterではなくYahooだった。Twitterの投稿がそのままYahooで表示されるらしい。あとで見るとほとんどがモバイルユーザーだった。年齢層は比較的若年に偏っているが、全てが若年層というわけではない。わざわざ「田崎史郎」で検索しているらしい。どうやらYahooユーザーは時間単位で情報を追っているようだ。1時間程でピークはおさまった。

最初のピークがYahooで、そのあとしばらくしてFacebookからの流入が始まった。
最初のピークがYahooで、そのあとしばらくしてFacebookからの流入が始まった。

しばらく時間を置いて今度はFacebookユーザーが流入し始めた。比較的緩やかなのだが、Yahooに比べると長時間続くので全体で75%を占めるまでになった。Facebookは少し工夫がいる。通常の呼び込みは60名程度に流れるだけなのだ。ハッシュタグ(#付きの単語)をクリックすると関連したニュースを閲覧することができる。そこで関連する記事が目にとまるのだ。今回はSEALDsにハッシュタグを付けたので、この人たちはSEALDsに興味があるのだろう。この流入は日付を越えても続いた。パソコン経由の閲覧が多いので、眠れずにパソコンで情報収集している人が多いのかもしれない。

全体のモバイル比率は55%だった。このうちの半数がiPhoneだ。また、男性が75%、女性25%だった。細かな数字は下記の通り。年齢層は意外と高い。

  • Facebook (PC) 45%
  • Facebook (Moblie) 18%
  • Twitter 5% (PCが70%)
  • Yahoo 25%
  • 18-24 6%
  • 25-34 20%
  • 35-44 31%
  • 45-54 27%
  • 55-64 16%

この流入者が、田崎さんを応援しているのか、SEALDsを応援しているのかは分からない。なお、本文はどちらかを味方する形式にはなっていないので、その後シェアされることはなかった。平均滞在時間は1分30秒ほどもある(ただし、1ページのみで退出した人がどれくらいの時間滞在したかどうかは仕組み上分からない)のが意外だった。

どちらかに乗るとバイラルで広がる可能性は広がっただろうと思われる。安保法制を巡る議論は二極化が進んでいるのだが、少しでも閲覧数を多くしたい全てのメディアが二極化に加担したくなる気持ちがよく分かった。特に人名を入れると人々の関心が高まるのだから、広まりやすい文章は自ずから誰かに味方し、誰かを悪者にして罵倒することになるだろう。

出先(まさか職場では見ていないと思うのだが)でモバイルフォンを見ながら、じっくりと考察できるとは思えない。時間単位で情報ハンティングを行っているのだから、1分程度で分かる「エレベータートーク」でなければ、アイディアは伝わらないだろうし、容易に誤解されるだろう。

韓国には未来永劫謝罪しつづけよ

韓国と北朝鮮が「一発即発」の事態に陥った。すわ朝鮮戦争の再開かと思ったのもつかの間、対立はおさまった。北朝鮮が謝罪したからだ。これには拍子抜けした。「ゴメンですむなら警察は要らない」という言い方があるが、朝鮮半島では「ゴメンですむから戦争しない」わけだ。

日本人は形式上の謝罪ではなく本当の気持ちが大切だと考える傾向がある。心がこもっていない謝罪は屈辱である。だから、軽々しく謝罪してしまうとますます誠意を見せなければならなくなるかもしれないと警戒する。どこまでも譲歩をしなければならないと覚悟するのだ。だから、日本人は軽々しく謝らない。

ところが、韓国や朝鮮の人はそうは考えないらしい。彼らにとって大切なのは「体裁」と「体面」である。どのように処遇してもらうかが大切で、相手から謝罪を勝ち取らなければ「弱腰だ」と非難されるのだろう。韓国の民衆は力の強い相手に対しては強くでられずに、屈折した気持ちを持つ。これを「恨(ハン)」と言う。指導者が「謝罪」を勝ち取ることにより、民衆は溜飲を下げることができるのだ。

だったら、日本の政治家や外交官は韓国政府の首脳に会うたびに、挨拶の代わりに謝罪すればいい。身振り手振りなどを交えてできるだけ大げさに謝罪するのが良いだろう。だからといって、何もする必要はないし、罪悪感を感じる必要もない。謝罪は彼らの体裁を満足させてあげているだけなのだ。

70年談話については、日本国内で様々な議論が交わされた。これは、日本人が戦争についてとても真面目に考えているという点では好ましいのだが、実際には「謝罪」という言葉が入っていれば、そこにたいした裏打ちがなくても良かったのだ。また、これは指導者に対する民衆の感情なので、日本国民が韓国人に謝る必要はない。

これは「韓国人をあげつらっているのだろう」とか「蔑視だ」と考える人もいるかもしれないが、単なる文化差によるもので、どちらが正しいというわけではない。もう少し例を挙げてみよう。

ドナルド・トランプ氏は「日本はタフな交渉者だ」と主張し、アメリカ人の歓声を浴びた。日本人はこれを聞いて「日本はアメリカにこれだけ遠慮しているのに、なぜ非難されるのだろうか」と思うかもしれない。

これには理由がある。日本人は遠慮がちで相手に慮った言い方をしがちだ。また、会談の席では表情を表に出さずにいるのが礼儀だとされる。そこでアメリカ人は「表情はよく分からないが、自分の言い分は認められているのだろう」と推測しがちである。ところが、日本人は「自分の一存だけでは決められない」と言い結論を持ち帰ることが多い。その結果、結論が覆ることも多い。それを見たアメリカ人は「日本人はポーカーフェイスで相手を騙そうとしている」とか「良い条件を引き出そうとしている」とか「タフな交渉者だ」と感じるのだ。

こうした文化差には注意が必要だ。安倍首相は4月に訪米し「日本はアメリカを防衛できるようにします」と言って喝采を浴びた。ところが、国内では「日本が攻撃されない限り、他国防衛はしません」と説明している。持ち帰りの結果、結論が変わりつつあるわけである。

安倍首相は相手に配慮して、日本の細かい事情を説明しなかっただけのかもしれない。しかし、相手にしてみれば「約束が違う」ということになりかねない。アメリカ人は率直さを好み不正直をとても嫌うので、彼らを怒らせることになるだろう。

日本人として謙譲の美徳を持ち、相手に誠意を示すのはとても大切なことだ。しかし、その誠意がそのまま伝わるとは限らないのだ。

集団的自衛権と有権者の意思形成

無関心期

長らく、アメリカの保守派やジャパンハンドラーは日本政府に対して集団的自衛権の行使容認を訴えてきた。安倍晋三は第一次政権時代から集団的自衛権の行使容認に意欲を見せていた。当初は憲法を改正して、集団的自衛権の行使を容認する計画を持っていたものと思われる。その後、民主党の野田政権が集団的自衛権行使容認を議論した。

一方、集団的自衛権に関する国民の関心は強くなかった。一部の右派系雑誌が中国の脅威と絡めて日本の軍事的プレゼンス強化を訴えるのみだったが、雑誌の部数が少なく、議論の広がりはなかった。

その後、第二次安倍政権が発足し、2014年7月1日に憲法解釈を変えて集団的自衛権の行使容認を決定する。しかし、国民の関心は必ずしも高くなかった。安倍政権は2014年12月に「アベノミクスの成否と消費税増税の延長」を争点として衆議院議員選挙を行った。自民党のマニフェストには小さな字で集団的自衛権について書いてあったが、大きな争点にはならなかった。

コンテクストの不在

第三次安倍政権は2015年になって、アメリカの議会で集団的自衛権の行使容認を含む約束をした。公の場でコミットメントしたために、その後妥協の余地はなくなった。

その後、10の安保法案に1つの新しい法律を加えて国会に提出した。この頃から新聞での報道が多くなったが、国民の大半は「分からない」と考えていた。支持率は25%から30%といったところだ。

安倍政権は、中国の脅威とアメリカの依頼という重要な2つの文脈を国民に説明しないままで安保法制の説明をした。コンテクストが不明だったので、多くの国民が唐突な感じを持ったのではないかと考えられる。安倍首相は「敵に手のうちを明かす」という理由で、国民への説明を拒んだ。

権威ある第三者の登場

「潮目が変わった」のは、6月4日の憲法審査会だった。安保法制とは関係のない審査会で、自民党が推薦した憲法学者を含む3人が、安保法制は違憲だと表明した。これをきっかけに、安倍政権が秩序に挑戦しているのではないかという疑念が広まった。これを表現するのに「立憲主義に違反する」とか「憲法違反だ」という表現が使われるようになった。安保法制の内容に反対しているのか、安倍政権の態度に反対しているのかは判然としない。

態度を決めかねている有権者は、意思決定のために党派性のある意見を使わなかった。憲法学者は政治的に中立なポジションにいるものと信じられており、権威もあったので、態度を決めるのに役に立ったのだろう。

その後も「賛成派」や「反対派」の立場の人が国会の内外で自説を述べたが、世論には大きな影響を与えることはなかった。そもそも安倍首相が「敵に手のうちを明かすから」という理由で説明を拒んだために、賛成派も反対派もそれぞれの理由付けをして自説を補強しただけだった。

新聞とNHK

長い間日本では新聞は中立だと考えられてきたが、今回の安保法制では意見が別れた。政権に好意的な新聞(読売、産経)と批判的な新聞(朝日、毎日)である。態度が決まっている人は、同じ意見を持っているメディアを紹介する可能性が高い。故に、中立を装うよりも、ポジションを明確にした方が一定の読者にアピールする可能性が高まるのだろうと思われる。

NHKの評価は芳しくない。中立を装いつつ安倍政権を擁護しているのだという見方が一般的だ。NHKへの「言論封殺」が直接指示されたわけではないものの、結果的にNHKは萎縮した。安保関連の企画が通らなくなったという声もある。このため、政府にとって有用な説明もなされず、賛成派にとっては必ずしもよい結果をもたらさなかった。

これまでの観察から類推すると、メディアには党派性があるために、態度強化の役には立つが、態度変容のためには役に立っていないのではないかと思われる。

政党離れ

安保法制への反対が増えるに従って、反対表明をしている共産党や民主党への支持が増えてもよさそうだが、支持は広がらなかった。60%程度が無党派になっている調査もある。この点についての調査や分析は行われていない。

民主党は野田政権時に集団的自衛権行使容認を目指したのだが、現在は反対を表明している。また、民主党の中にも「反対派」と「実は賛成派」が混在しており、ツイッター上で自説を述べ合っている。対案が出せないのは民主党内の意思が表明されていないためと思われる。

安保法制を「戦争法案だ」と考える主婦や学生が「戦争反対」のデモを開始した。賛成派はこれを「共産党の影響を受けている」と攻撃したが、デモを主催する人たちは「共産党とは関係がない」と反論した。

一連の出来事から、既存の政党への拒否反応が広がっている様子が感じられる。政治的なイシューと政党が必ずしも結びつけて考えられていないのである。特にデモを起こして反対する人たちにとって「党派から独立していること」が重要だと考えられている。

ツイッター上の部族とニュースイーター

安保法制の議論がエキサイトするにつれ、ツイッター上では「賛成派」「反対派」が明確になり、相手を攻撃するような光景も目にするようになった。このことから、ツイッターのフォロワーは必ずしも賛意を意味するものではないことが分かる。反対の意見を持った人を監視し、攻撃するためにフォローする人が少なからずいるのである。

一方で、態度を決めるためにツイッターを利用している人も多くはなさそうだ。むしろ、ツイッターは態度強化の為に利用されている。賛成派と反対派では、もともとのストーリー構成が違っている。このため、部族が異なると、相手の言っていることがよく分からないのだろう。いったん意見表明してしまうと自分の発信に対するコミットメントを深めてしまうので、態度変容が難しくなる様子も分かる。

一方で、態度を折り合わせるために共通のストーリー作りを目指すという声は聞かれなかった。

ごく少数ではあるが「事実はどこにあるのだ」という当惑の声も聞かれる。ここでも「中立性」が求められている。ストーリーによって見方が異なるので「ただ一つの真実」というものはないのだという見方をする人は少ない。つまり、比較が重要だということ を考える人はほとんどいない。

もう一つの顕著な層は「ニュースイーター」と呼ばれる人たちである。この人たちは、折々のニュースをフォローすることに興味があるが、自身の意見を持っているかどうかは分からないし、態度強化や態度変容を目指して情報収集しているかどうかも分からない。ニュースはタイムラインを流れて行くものなのだ。

Faceboookはニュースイーターを多く抱えているものと思われる。サイト解析から見ると、年代は30歳代より上が多い。今回の場合「安倍君と麻生君の例え話」や「火事と生肉の例」など、テレビで話題になった事案に引きつけられることが多く、必ずしもニュースの本質的な議論に興味があるわけではなさそうである。

「強行採決」

支持率が急落し、賛否が逆転したのは、法案が衆議院議会で採決された7月15日前後だった。法案の中身よりも「世論が納得していないにも関わらず」法案を押し通したという点が、反発されたのではないかと思われる。

この時期になっても賛成派は約25%とそれほど変わっていない。安倍首相自身がテレビに出て安保法制について説明したが、火事になった家の例は国民を困惑させただけで、視聴者に態度変容をもたらすことはなかった。

安倍首相はなぜ国民を怒らせたのか

ひっかかりのない思考的議論

ツイッターで安保法制の議論を読んだ。アメリカ政治の専門家によるテクニカルなもので、とても退屈だった。もし、政府の議論がこのようなものだったら、国民を二分する議論にはならなかったのではないかと思った。感情に訴えかける余地がないからだ。

価値判断に重きをおく安倍首相

一方、安倍首相の説明はよくも悪くも国民の感情に訴えかけた。結果的に、安倍首相は集団的自衛権の議論を混乱させた。

安倍首相は「価値観の人」だ。価値観の人は特定の価値を共有して理解を深めようとする。安倍首相は同盟関係を評価するのに「民主主義、法の支配など普遍的価値観を共有する国」という言葉を使う。一方韓国は「民主主義、法の支配など普遍的価値観を共有する国」ではない。敵味方がはっきりしているのも価値観の人の特徴の一つだ。

安倍さんの主張は仲間内で大きな賞賛を集めた。雑誌WILLなどを読むとこのことが分かる。彼らは安倍さんと価値観を共有しており「そもそも、美しい国を守るのに、面倒な理論は要らない」という主張を持っている。自民党が下野している間も信頼関係は揺らがなかったので、必ずしも利権などの損得で結びついているわけではなさそうだ。

価値判断と損得判断の遭遇

集団的自衛権行使容認派の中には「戦略的思考」を持つ人たちがいた。戦略的な人はいろいろな検討をしたあとで、どのアプローチが得か考える人たちである。彼らは自分たちの主張を通すために「価値観の人」を取り込むことにした。知恵を授け理論構築と整理を行った。アメリカからの要望はおそらく戦略的思考に基づいて発せられたものだろう。外務省にも戦略的な人たちがいて、アメリカの要望を理解したに違いない。

オバマ大統領は様々な意見を聞いた上でどちらがアメリカの国益に叶うかを考える戦略的指向を持っている。時には双方の主張を折り合わせることも検討するバランス型でもある。ところが、安倍首相は価値観の人で「どちらが正しいか」は最初から決まっている。オバマ大統領が当初安倍首相と距離を置いたのは、性格に大きな違いがあったからではないかと考えられる。

直観と感覚の相違

ここで行き違いが起こる。安倍さんが「感覚的」な人だったからだろう。感覚的な人は、背景にある論理を直感的に捉えるのではなく、興味がディテールに向く。戦略的思考の人たちが論理から例示を導いたのに、例示だけが印象に残ったのだろう。

戦略的な人が直感的に捉えれば、個々の例示から背景にある論理を読み取ったに違いない。戦略的思考を共有している外務官僚に任せていれば、それなりの答案が出たはずだ。ところが、細かな例示にばかり気を取られる政治家は「あれもこれも」実現しなければならないと思い込む。政治主導が発揮しているうちに、例外のある複雑な理論が構築されてしまったのではないかと考えられる。

価値観の人が秩序の人を怒らせる

安倍さんが次に困惑させたのは、憲法学者や元法制局長官などの「秩序の人」たちである。秩序の人は損得や正しさよりも論理的な秩序を優先する。彼らにとって正しいのは「法的な整合性が整っている」ことである。安倍首相の「正しければ、整合性はどうにでもなる」という考えが彼らの反発を生み「立憲政治の危機」という発言につながった。

皮肉なことに、安倍さんの憲法無視の行動は、アメリカさえ刺激しかねない。フォーリン・ポリシーは「憲法クーデター」という用語を使っている。「民主主義、法の支配など普遍的価値観」への挑戦だと見なされているのだ。「憲法クーデター」を根拠に動く軍をアメリカが利用するわけにはいかない。アメリカは、少なくとも表向きは「民主主義という価値観」を守るために行動しているからだ。

価値観のぶつかり合いは感情的な議論に火を付ける

秩序の人たちは、価値観の人たちから「合憲であれば正しくなくてもよいのか」と非難され、戦略的な人たちからも「合憲であれば損をしても良いのか」と攻撃された。加えて「平和憲法こそが美しい日本の根幹をなす」という価値観を持っている護憲派の人たちも加わり、議論は思考のレベルを越えて感情のレベルで火がついた。

感情的なぶつかり合いは戦略的思考を持っている人たちに利用されることになる。民主党の枝野さんたちは、戦略的にこの混乱を利用することを考えた。そこで「いつかは徴兵制になる」という感情的な議論をわざと持ち出して護憲派を刺激した。感情的議論はついに主婦にまで飛び火した。

稚拙な論理が聴衆を困惑させる

この時期になって、良識ある人たちは遅まきながら「法案の内容を理解しなければ」と考えるようになった。しかし、最初から理論が複雑な上、安倍首相の意図の全体像も明らかにならなかったので、当惑されるだけだった。

遅まきながら安倍さんはインターネットテレビに登場し「麻生君と安倍君」の例を使って集団的自衛権を説明しようとしたが、理論構築があまりにも稚拙なため失笑を買った。

価値観を中心に議論している人たちにとって「仲間を助けるのは当たり前だ」という単純な議論が伝わらないのは不思議に思えるかもしれない。丁寧に話せば分かってもらえると考えるのも無理のないところだろう。ところが、相手が聞きたがっているのは「彼らの価値観」ではないかもしれないのだ。

リーダーにとってコミュニケーション戦略は重要

「理解」の質は様々だ。価値観の人たちは「どちらが正しいか」を考え、戦略的思考の人は「どちらが得か」を評価したがる。大枠で理解したいと思う人もいれば、細かな状況に注目する人もいるのである。

安保法制の是非はともかくとして、このケースは多様なコミュニケーションを理解することの大切さを教えてくれる。コミュニケーションスキルのないリーダーを選ぶと国益さえ損ねかねないのである。

2号さん更迭

ツイッターNHK PRで「中の人」として活躍していた2号さんが担当を外れることになった。本人から説明はなかったものの、あるツイートが問題になったものと思われる。

当初、NHKは衆議院での安保法制の委員会採決(7月15日)と本会議採決(7月16日)を報じる予定はなかった。これが「強行採決」という印象を国民に与えないためにNHKが配慮しているのだとして批判を浴びる。ツイッター上では「コールセンターに電話しよう」という運動が起き、NHK PRのアカウントにも抗議が殺到した。

そこでNHK PRは「国会中継がないことについて抗議が来ている旨を担当に伝える」というツイートを出した。

結局、NHKは採決の場面だけは報じた。世論がNHKを動かしたのか、最初から予定があったのかは分からない。一方で、NHK PRの「伝えます」ツイートは削除され、ツイートした2号さんはツイッターの担当を外れることになったのだ。

背景にNHKの配慮があるのは間違いないだろうが、政府の「国民にはなるべく知らせないでおきたい」という思惑も感じる。

このNHKの姿勢は「中の人」たちを萎縮させるだろう。自分たちの持ち場で職業的道義心を発揮すると持ち場を外されてしまう可能性があるということになるからだ。職員たちはただ機械のように行動すればよいという暗黙の圧力である。

職業的道義心は大切だ。組織も社会も間違った危険な方向に進むことがある。リーダーが意図して間違った方向に進める場合もあるだろうし、誰も指導する人がいないのに危険な水域に進むこともあるだろう。このとき歯止めになるのは、現場メンバーの良心だけだ。

一方で、政府はNHKの萎縮が自分たちの首を締めていることも自覚すべきだろう。

賛成派の言い分に従うと集団的自衛権の放棄は、憲法上の制約ではなく、時の政権の「政策的判断」だ。そのことは、歴史を検証すれば分かるはずである。

確かに、ベトナム戦争時に沖縄の米軍基地を使用させたことも「後方支援」だと解釈できる。日米安保を維持しながら集団的自衛権の行使を容認しようと言わないのはねじれた対応であり、政府がどうしてねじれた対応をすることになったのかを検証する価値は充分にあるだろう。

しかしNHKは「政府を刺激したくない」と萎縮しており、こうした取り組みを一切してこなかった。その為に、賛成派は安倍政権や外務省の主張も一切知らされていない。だから賛成派のコメントは「自国防衛を強化するためには議論は要らない」の一点張りで、説得力のある議論が展開できなくなってしまった。

議論が噛み合ないせいで、国民の間には集団的自衛権や安保法制はなんとなくうさんくさいものだという印象だけが残った。このため、正義の使者であるはずの自衛隊は、当分の間こっそりと行動することを余儀なくされるだろう。

日本語の母音交替

日本語には不思議な現象がある。例えば稲(いね)は別の言葉(例:穂)を付けると、なぜか「いねほ」とは読まずに「いなほ」と言葉の形が変わる。これを母音交替と呼ぶ。特に多いのが、名詞の語尾の「え」が「あ」に変わるものだ。「あめ」と「あま」のどちらが原形なのかは議論があるそうだ。

  • 雨 => 天の川、雨雲、雨足、雨傘、雨乞い、雨ざらし
  • 風 => 風向き、風上
  • 眼 => 瞼、目の当たり
  • 手 => 掌
  • 胸 => 胸騒ぎ、胸元
  • 声(こゑ) => 声色、声高
  • 金 => 金気、金物
  • 稲 => 稲穂、稲妻
  • 上(うへ) => 上着
  • 酒 => 酒樽
  • 家=>家並、家捜し

このように名詞を足して新しい名詞を作る場合には連濁という現象を伴うものも多い。例えば「あまのかわ」とは読まずに「あまのがわ」とよむ。「か」が濁って「が」になる。声色のようになぜ「わ」が出てくるのか分からないものもあるが、旧かな遣いではこゑ(we)なのだそうだ。

なぜこのような事が起こるかは定かではない。なんとなく読みやすいからそうなると言いたいところなのだが、例えば「稲刈り(いねかり)」のように変わらないものがある。稲刈りは連濁も起さない。また腕(前)、店(先)、壁(際)のように、全く変わらない単語もある。「かべぎわ」のように母音交替はないが、連濁はあるものもある。つまり、ルールらしきものが見当たらない。専門家の間でも意見の相違があるらしく、全ては仮説の域を出ない。

さらに、不思議ものに海原がある。「うなばら」なので、原形は「うね」になりそうだが、実際の原形は「うみ」だ。

普段から普通にしゃべっている日本語だが「これはなぜ」と聞かれると分からないことは意外と多いものだ。

4000人のユダヤ人とNHK解説委員の自殺

ネット上にはさまざまな噂話が流れている。その中の有名なものにダヤの謀略というものがある。世の中がうまくゆかないのはユダヤ人のせいなのだが、それも近々崩壊するだろうというような説だ。この某略説を取るサイトの多くで出回っている4,000人のユダヤ人とNHK解説委員の自殺という有名な話がある。「4000人のユダヤ人」でGoogle検索すると多くのサイトがヒットする。

9.11の際ワールドトレードセンターに勤務する4000人のユダヤ人はすべて病欠していた。これを伝えたNHKの解説委員が5日後に自殺した。多分、ユダヤ人資本に殺されたに違いない。NHKはこれに加担したか、わざと見過ごした。

この話のうち解説委員の自殺は事実らしい。この解説委員が4,000人のユダヤ人の話を伝えたかどうかは確認できない。一部のサイトには『10月10日深夜23時の総合テレビ「特集/あすを読む」』と特定しているものもあるが、情報ソースが単一である可能性もある。

実際にユダヤの謀略があるかどうかは分からない。ただ、この「4000人のユダヤ人」の話はデマらしい。4,000 Jews, 1 Lieによると、イスラエル国籍のニューヨーク在住者(貿易センタービルで働いていたユダヤ人ではない)の数が4,000人だった。情報が錯綜していた当時、「あのような事件を起こすのはユダヤ人に違いないということから、まず中東で伝えられたものがアメリカの新聞に伝わり、ネットからメールで拡散したようだ。

よく、情報の間違いを防ぐ為には引用元を表示すべきといわれるのだが、ユダヤ陰謀説を唱えるサイトの多くが引用元を表示しているが、あまり役には立っていないようである。全く同じ文章が多くのサイトでコピペされている。

インターネットでは多くのページが書かれたまま残り続ける。それを検索するといつまでも間違った情報があたかも真実であるかのように人々の眼に触れることになる。

最後にあやふやな情報を一つ。この解説委員がなぜ亡くなったのかはよく分からないのだが、アメリカで流行っていた噂に流されて全国放送で噂を流布してしまったのでは、などと考えてしまった。この話の真偽はもはや確かめようがない。

「やらさせていただく」という間違った敬語について考える

最近「やらさせていただく」という敬語が多く聞かれるようになった。この言葉はEXILE関係の人たちがよく使っているところから、私はEXILE敬語と名付けている。だが、これを間違っていると感じる人たちもいるのである。




この敬語表現はまず芸能人が使い始めたように思える。俳優やタレントは自主公演を除けばオファーがあってはじめて何かができる受け身な存在なので「〜する」よりも「〜させられる」ことが多い。彼らにとっては「(〜の役)をさせていただく」というのは自然な表現だろう。例えばダンサーのMABUさんという人はダンサーに抜擢された喜びを次のように表現している。

まさかATSUSHIさんが僕の楽曲に参加してくれる日が来るなんて、、、2014年にATSUSHIさんの”MUSIC”ツアーダンサーをやらさせて頂いてた頃には想像もしてなかったです!ストリートインディーズの僕と、メジャーシーンのトップアーティストのコラボは国内でも今まで類を見ないと思いますし、個人的にも日本の音楽シーンにとっても歴史的な楽曲だと思います!そんな特別な楽曲を僕の大切なアニキと作れた事を心から嬉しく思いますし、本当に感謝の気持ちでいっぱいです!聴いて下さった皆さんの夏が最高な思い出になる事を願っています!

https://dews365.com/newpost/150771.html

これが、テレビを通じて敬語空白の人たちに広まったのだろう。

ところがこれを敬語として正しいかと聞くと多くの人が間違っていてこれはないと答えるのだ。質問サイトQUORAでの答えはこんな感じである。概ね否定派である。つまり面接やビジネスシーンで使うと「これはないよね」と言われてしまうことがあるということになる。

「させていただく」は意思決定ができる範囲の差を示している。「〜させていただく」人には自由意志はなく、つねに相手の許可が必要で、間接的に地位が低いことを表現している。させていただくが増殖するのは自身で意思決定できない人が増えたからなのかもしれない。ダンサーのように指名されて仕事が入るような人にはぴったりの言葉である。

しかし、就職活動のインタビューでは「部長をやらさせていただいた」はいろいろと問題がある。この表現には「受身だった」含みがある。自分が積極意的にやったわけではない。周りからやらされたことになる。過剰敬語を防ぐためにも「部長をやりました」もしくは「部長を務めました」くらいがよい。

さらに丁寧語のインフレもある。旧来、取りあえず丁寧にしておきたい場合には、普通「です、ます」などを使っていた。「させていただく」系を使う人たちにとっては「です、ます」では丁寧な感じがせず不安なのかもしれない。だが、「させていただく」は、旧来の敬語を話す人たちには「過剰」だと考えられている(好感をもたれる敬語入門 第5回 「させていただく」の多用は耳障り)ので、ビジネスシーンでは使わない方が無難だ。

させていただくは「する」の使役形だ。これに動詞「やる」を付けると問題が複雑化する。どちらも英語に訳すと「do」になるが、使い方は微妙の異なる。「やらさせていただく」は、「やる」+「する(使役)」+「いただく」となり重複ができる。「やるする」という言葉はないので「やらせていただく」が正しい。ところが形が複雑になると、正しいのか間違っているのかよく分からなくなる。

この分かりにくさが「さ入り言葉」が慣用的になんとなく使われてしまう背景にあるのだろう。例えば「書くする」という言葉はないので「書かさせていただく」は間違いだ。「食べする」という言葉もないので「食べささせていただく」もない。しかし「動詞+させていただく」で覚えるとついつい使ってしまう。伝統的な日本語では五段活用には「せていただく」を使い、それ以外の動詞には「させていただく」を使うののだそうだが、それが曖昧になってきているようだ。

「〜させていだたく」は、敬語として新しい形であるだけで、厳密には間違っているわけではないのかもしれない。言語学的には「言葉は生き物である」と考えられており、ある社会方言的な敬語を間違っているというのは正しい態度とはみなされない。だから、今後正しい用法として受け入れられる可能性はある。しかし、過剰敬語でありビジネスシーンではなんとなく間違っているという印象があるのでビジネスの現場で使うのは避けた方がよいだろう。

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豊川信用金庫事件

1973年12月、愛知県の豊川信用金庫に大勢の預金者が押し掛けた。「豊川信金が危ないらしい」というニセ情報を聞きつけたからである。ウィキペディアによるとわずかの間に26億円が引き出された。この事件は日本におけるデマの研究でよく引き合いに出される。警察が捜査を行ったので詳細が知られているのだ。

事件の経緯は次の通りだ。電車の中で女子高生が「豊川信金は危ない」という話をしていた。これが口づてに広がる。この中に情報のハブになる人(美容院やクリーニング店)がおり、主婦の間で評判になった。たまたま「豊川信金からお金をおろせ」と言った人がおり「やはり危ないのか」ということになる。ここまでは豊川市とは離れた土地での出来事だった。

これがアマチュア無線愛好家に伝わり、噂が広範囲に広がる。実際に預金を引き出す人があらわれた。これを見た人たちの間で噂は「危ないらしい」から「今日潰れる」とエスカレートしてゆき、実際の取り付け騒ぎが起きた。

「口伝えの情報はデマになりやすい」と言われているが他にも理由はある。

第一に1973年にはトイレットペーパー騒動があり消費者の間に潜在的な不安があった。次に、噂は離れたところで発生し情報のハブを経由してアマチュア無線で遠隔地に広まったので、情報の多くは曖昧なものだった。曖昧だからこそ情報を埋めるように聞きかじりや空想が練り込まれた。と、同時に単純化も起きる。「〜らしい」は「〜だ」になった。

噂が広がる背景には曖昧さと単純化がある。

噂には構造がある。ハブ、遠隔地への伝播、曖昧さ、単純さ、潜在的な不安などである。

ネットジャーナリズムと新宿焼身自殺未遂

6月29日の午後2時頃新宿南口で集団的自衛権行使容認に反対の演説をしていた男性がガソリンのようなものをかぶり焼身自殺を図った。行使容認への抗議と見られるが詳細は不明だ。このニュースからネットおよびテレビのジャーナリズムの距離感が分かる。

テレビはストレートニュースで伝えたが、その後東京・埼玉・千葉などでゲリラ雷雨のニュースに置き換わった。逆に反応したのはハフィントンポストやTwitter・YouTubeといったネット系だ。検索するといくつもの画像やビデオが閲覧できる。YouTubeにはわざわざCGで作りこんだものもある。

この人の政治的背景が分からないとテレビではうまく伝えられないようだ。右翼や左翼の可能性もあるし、「単なる自殺」なのかもしれない。テレビのような公共性の高いメディアでは男の背景が分からないとうまく伝えられないようだ。

興味深いのは取り上げ方によって全く違って見えるという点だ。「繁華街で焼身自殺するのは迷惑だ」という伝え方と「集団的自衛権行使容認は焼死自殺者が出る程のひどいものだ」という伝え方では、行為の意味が全く違って見える。テレビでは短く伝えられただけなので「全く知らない」という人もいるだろう。

ネットメディアは発信者の責任で好きなように情報を流すことができる。また記録として残る「アーカイブ性」もある。このような利点がある一方、欠点もある。SNS人口は約5,000万人程度と言われており、それ以外の人たちには伝わりにくい。また、最初から発信者の主義主張と結びついており、その人のたち位置によってまったく違った情報として伝わる可能性がある。異なった意見が集らないので問題解決に結びつきにくい。

最も危険性が高いのはこれが噂やデマを引き込みやすいという点だろう。改めて日経新聞の記事を読むと、男の身元や動機などが分からない。曖昧な情報は拡散されやすい(豊川信金事件を参照のこと)ので、元々の意図とは異なったデマになりやすいのである。

一部ではあるが海外のニュースには三島由紀夫や切腹文化を引き合いに出したものもある(New York Post)。