ブログ用にキーワードを見つける

このブログは趣味で書いているので、好きなことを書けばよい。だが、アクセス数目当てでコンテンツを開発するとなるとそうも行かない。ある程度作戦を立ててコンテンツを作らなければならないだろう。マーケティングに活かしたいならなおさらだ。さて、そのためにはどのようにすればよいのだろうか。

ここでは、ガーデニングについてのブログ用のキーワードマップを作ってみる。必要な技術はネットワーク図を書くツールと表計算ソフトだ。今回はCytoscapeとOpenOfficeを使った。

まず、いくつかの種になるキーワードを抜き出してGoogle Trendで調べてみる。例えば、ガーデニング、ハーブ、などである。これをGoogle Trendで検索すると関連キーワードが出てくる。芋づる式にキーワードが出てくるので、これをノートに書き出す。最後Open Office(もちろんExcelでも構わない)にワード,関連,ワードという形でまとめてゆく。最終的にCSVデータになる。これをCytoscapeにかけるとネットワーク図が作られる。プロセスは実に簡単である。Google Trendから直接CSVデータをエクスポートすることもできるのだが、今回はやらなかった。全ての用語を拾うと単語数は爆発的に増える。

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リサーチの目的は表データを作った時点で半分ほど完了している。例えばガーデニングや庭などのトレンドは2004年をピークにして下がっている。一方、プランター、ベランダ、観葉植物、野菜などはトレンド化している。花を育てるよりも、実用的な野菜を育てることに関心が移っており、なおかつベランダやプランターなどに関心が向いているようだ。ガーデニングで玄関に寄せ植えを作ったりするのだが、これもダウントレンド傾向だ。代わりに人気が集まっているのは「玄関の風水」らしい。アパートの玄関は北側にあり日当りが悪く植物を育てることができないのかもしれない。

以外と植物の名前で検索する人は少ない。代わりに人気のあるワードは「レシピ、育て方」などの用事語である。つまり、ユーザーは(当たり前なのだが)用事を済ませるために検索をするわけだ。だから「リシマキア、バラ、キュウリ」などのワードで検索する人はそれほど多くないわけだ。バジルなどは育てるのは簡単なので、できた後どう料理するかが気になるのだろう。「レシピ」や「ソースの作り方」などの用事語が重要なのだ。

ということで、発見もある。例えば日陰の庭を持て余している人は多いらしい。またむき出しの地面をどうにかして植えたいという人も多いのだろう。グランドカバーという言葉がある。これも用事語の一つだ。それに付随して、クリーピングタイムとかリシマキアなどというグランドカバープランツが検索されている。スターになるワードもある。グランドカバープランツ界のスターはヒメワレダイソウである。リッピアとも呼ばれて育てるのが簡単にな割に強いとされている。

よくマーケティングの教科書に「人々の用事を満たすために」商品を開発せよなどと書いてあるのだが、実際に用事を見つけるのには手間がかかる。かつては高いお金を出してパネルとモデレータを雇って特別な部屋を借りてリサーチするのが一般的だった。しかし、現代ではある程度のリサーチであればGoogleで検索すればよいのである。もちろん、それまでにワードの蓄積があるだろうから、おおざっぱなトレンド把握以上のことができるだろう。逆に商品を目の前にして「次のフェアでどのように売り出そう」などと考えると、ユーザーの用事を見失うかもしれない。

このようなチャートはブレインストーミングの材料としても使えそうだ。もう、やっている人も多いかもしれないが。

多様性の排除に加担するNHK

NHKがひどい洗脳報道を流していた。編集段階で多様な検証がなされなかったことを示唆しておりきわめて危険である。ニュースは次のように展開した。

  1. 上司の「とりあえずこれやっといて」が分からない人がいる。
  2. これはコミュニケーションの問題だ。
  3. そうした人にはASDと呼ばれる「障害」が多い
  4. 発見するためには機械にかけると良い。まだ開発途上だが……
  5. 障害だと認定されたら特殊支援学級に入る。他の才能があるかもしれないけど、効率的な教育には耐えられないので仕方がないのだ。

これを読んでも「なんだ当たり前じゃないか」と思う人がいるかもしれない。とても危険だ。既に洗脳が相当程度進んでいると言ってよい。

第一に「とりあえず、これやっといて」と漠然とした指示を出す上司はマネージャー不適格だ。指示は明確であるべきである。これは上司が無能であるという描写でしかない。NHKにはそういう上司が多いのかもしれないが。

次にこれを即座に障害に結びつけることには問題がある。事例の中には会話の意味が読み取れない重度のASDの人が出てくるのだが「漠然とした上司の指示が分からない」こととコミュニケーション上の障害(グラデーションがあり一続きなのかもしれないが)には大きな隔たりがある。イントロとしては不適切である。

さらに「障害があれば機械で発見して取り除け」というのは、工場で製品を製造する時に使う考え方であって、人の育て方に当てはめるのには問題がある。これに何の疑問も持たないということは、後発工業国型のマインドセットにどっぷりと浸っていることを意味する。

また、効率的な(大勢の生徒を一人の教師で見るというような意味だろう)教育になじまない人は「とりあえず」特殊学級にという姿勢にも問題がある。多分、普通教育の方を見直すべきだろうが、それには予算が必要になりそうだ。もしくは特殊学級で才能を発見したら、それを伸ばせるようにすべきだろうが「とりあえず社会の片隅で生きてゆけるようにする」という姿勢には問題がある。

ここまでで十分グロテスクだ。本当に誰もこの報道方針に疑問を抱かなかかったのだろうか。NHKは多分「右から左に業務を流すこと」をジャーナリズムだと考えているのだろうということは伝わってくる。

この話の一番の問題は多様性の排除だろう。漠然とした空気が読めない人は「障害がある」として排除される。話の中に該当者が数字に興味を持つ子供が出てくる。母親としては「この特性をうまくいかせないか」と考えるのだが、医者は「普通学級にはなじまない」としてしまう。この子に数学の才能があるかどうかは分からないのだが、試してみる価値はある。実際に、資産のある家であれば、充実した教育を受けさせることもできたかもしれない。つまり「何が優秀か」ということは一つの尺度では図れないはずで、多様な価値観があってはじめて才能が生きることになる。

しかし教育費がかけられなくなると、こうした多様性に配慮ができなくなるわけだ。つまり、NHKは多様性を排除し、この国をよりいっそう退屈でつまらない国にするのに加担していることになる。

記者としては「かわいそうな両親や空気を読めずに苦しんでいる人を助けたい」とよかれと思って報道しているのかもしれないのだが、視聴者はこの姿勢を大いに非難すべきだろう。

 

その人に構ってはいけない

さて、職場や近所に口うるさい人がいる。いろいろと不満があるらしくいろいろ言ってくる。「うるさい」とは思ったが、邪険にするわけにも行かないから、手みやげを持って挨拶に行く。いろいろ話をすると笑顔が戻った。

あなたはそこで「良かった、丸く収まった」と思うだろう。だが、それは間違いだったということに気がつくはずだ。その人は、また何か別のことを見つけてやってきて、あなたの仕事を邪魔するのである。何が悪かったのか。分かり合えたのではなかったのか。また、おみやげを持ってゆくべきなのだろうか。

こうした誤解が生じるのは人間の行動原理についての理解が不足しているからだろう。その人は問題の解決を求めているわけではない。代わりに求めているのは「社会的待遇」なのだ。平たく言えば、相手にしてもらうことを望んでいるのである。文句を言うことで、社会的待遇が得られることを学習してしまったことになる。またおみやげを上げれば次を要求してくるだろう。頻繁に報告や連絡するのもやめたほうがいい。「うるさく言うと待遇が得られる」ということを学習してしまうからだ。火に油を注ぐ結果になってしまうのだ。

この手のクレームを防ぐのはなかなか難しい。そもそも目をつけられた時点で「この人にはフリーライドできる」と思われていることになる。期待に応えないとますます逆上する。唯一考えられるのは「その人が何を要求しているか」ということを明確にすることだ。実際に被害を被っている場合はそれを改善してやる必要がある。しかし、それ以上のことを聞いてやってはいけない。

また、その人の言う通りにしてやってはいけない。代わりにその人に自分で問題を解決するように促すべきである。できないことはできないことが分かるので、意外と文句を言わなくなる。手助けをするのは良くないし、関心を持つのも好ましくない。親切のつもり(あるいは問題を早く片付けたいと考えて)手助けすると「あなたのやり方が悪い」などと言い出す。そうすることで相手の傾聴を引き出すことを覚えてしまっているのだ。

こういう面倒な人はどこにでもいる。決して罰しようと思ってはいけない。その人が受ける罰は「誰からも手助けしてもらえなくなる」ことである。結局「自分だけが課題をうまくやり抜くことができる」と確信している。たいていの場合、周りに同じように思っているはずで、距離を置かれているはずである。

こういう人が上司になると厄介だ。できるだけ傍観者に徹して、自分の達成すべき問題に集中すべきだろう。

SNSとは何か

SNSはソーシャルネットワーキングの略。SNSをうまく使うとその場にいなくても友達関係を維持できる。この友達関係を維持することを「ソーシャルネットワーキング」と呼んでいる。ITツールを使うことで、年賀状のやり取りをしなくても、昔の郷里の友達が今どこで何をしているのかが分かるようになった。中には何年も音沙汰がなかった人が見つかり交際が復活することもある。また、学校の友達と学校の外でもお話ができる。SNSを使うと場所を選ばずにいろいろな人とおつきあいができる。

SNSとはパソコンやスマートフォンを使っていつでもどこでもおつきあいが継続できるようにする道具のことである、ということになる。

黙っているとおつきあいにならないので何かを話す必要がある。SNSを使うようになったら、時々近況(今何をしているか)を報告するべきだ。年賀状のようにかしこまったことではなく、毎日のちょっとしたことを記録するとSNSを続けられるだろう。難しいことのように思えるが、友達とおしゃべりするのと同じことだ。

また、友達の近況を見るためには、接続するための住所を知らなければならない。この住所のことを「アカウント」と言っている。SNSを始めるためには、どんな道具を使っているかを知り、相手のアカウントを教えてもらう必要がある。

SNSには様々な種類がある。Facebook、Twitter、Lineなどが有名だ。パソコンでもできるがスマホを利用する人の方が多いようだ。それぞれの道具の使い方は異なっている。例えば、Twitterは自社のサービスをSNSとは定義していない。かしこまって発表するまでもない小さな考えをこまめに発表する道具だった。だが、使う人たちがおつきあいの道具として使うようになり、SNSの一つとして認識されることになった。Facebookはもともと大学生が近況を報告するために作られた。LINEは文字でのやり取りができる無料通話がもとになっている。他にもInstagramという写真を投稿できるSNSもある。多くの人が食べたものや行ったところを記録して友達に見せるのに使っている。

「友達関係を結ぶこと」にはいくつかの呼び名がある。FacebookやLINEでは友達申請と呼ぶ。一方、TwitterやInstagramは一方的にフォローすることになる。お互いがフォローしあったら友達申請と同じことになる。Facebookは実名が前提だが、LINE、Twitter、Instagramは実名である必要はないなど違いがある。

知っている友達だけでやり取りをしていると問題は起りそうにないのだが、いくつかの原因で問題が起ることがある。まず、宣伝の為に不特定多数の人を「友達」として接続することがある。また、顔が見えないことで感情のすれ違いが起ることも多い。さらに、大人の監視がないためにいじめが横行する可能性があることである。大人でもいじめに発展することがあるので、子供の場合には家族の人が使い方を教える必要がある。子供の方がスマホを使いこなしているからといって放置するのは危険だ。自宅で楽しむことが多いために「誰にも見られていない」気分になることが多いのだが、おつきあいにも礼儀があることを覚えておくべきだろう。

普通のソーシャルネットワーキング(つまりおつきあいのことだ)では、気まずくなったらそこに行かなければよい。関係は徐々になくなってゆくだろう。ところが、SNSは場所を選ばないので気まずくなっても関係を断ち切ることができない。それを防ぐために「ブロック」という拒絶する機能がついているものがある。しかし、ブロックされてしまうと人によっては突然拒絶されたように受け取ってしまうだろう。すると実生活で嫌がらせをする人が出てくる訳だ。

SNSは楽しく使えば便利におつきあいを楽しむことができる。中には知らない人と仲良くなれるチャンスもある。しかし、法律が追いついていないことも確かだ。ストーカー規制はメールだけを対象にしており、SNSによるつきまといには対応してくれないとのことである。早急な対応が求められる。それまでは、気をつけて使った方が良いかもしれない。

Googleのツールでサイトのモバイル対応度を計測する

Googleがモバイルサイトの使いやすさを計測するツールを公開した。早速、自作のテンプレートなどを試してみた。

現在では多くのユーザーがモバイルに依存している。モバイルユーザーの注意力は散漫で、ロード時間が3秒以上だと約半数のユーザーがドロップしてしまうのだという。スコアは3つある。モバイルの使いやすさ・モバイルのスピード・デスクトップのスピードである。

サーバーのスペックが低ければスピードは遅いだろうという仮説を立てた。現在低価格のサーバーで運用しているのでスピードには自信がなかったのだ。だが、これは間違っていた。

自分のサーバーのWordpress 95 59 71
WordPress.com上のWordpress 99 64 79
X Domain上のWordpress 95  60 70
自作固定長 72 74 90
自作可変長 96 97 98
自作可変長・jQueryあり 100 64 81

意外なことにWordpressでもサーバーによる違いはあまり見られなかった。広告の有無も関係なさそうだ。つまり、wordpress自体が速度低下の原因になっているようなのだ。一方でスクリプトがないサイトは成績が良い。CSSだけで組んだ可変長対応のサイトは良いスコアだった。いろいろな要因はありそうだが、特にjQueryはGoogleからは嫌われているらしい。モバイル対応としてよかれと思いやっていること(折りたたみ式メニューなど)がスピード上で悪影響を及ぼしていることもありそうだ。これを防ぐためにはナビゲーション構造をできるだけシンプルにするなど、設計上の工夫も必要なのではないかと思う。

安倍首相が嘘をついても誰も気にしないのはなぜなのだろうか

松田公太さんという参議院議員が怒っている。文章を読んでもよく事情が分からないのだが、原発政策に反対していた同僚議員が、そのサブセットである核燃料サイクルスキームを維持する法律に賛成していて「支離滅裂だ」というのだ。

この主張は普通の日本人にはなぜか奇異に見えるはずだ。では何が奇異なのかと考えてみてもよく分からない。いろいろ考えを巡らせると、日本人の「はい」の使い方と英語の「Yes」の使い方の違いという点に行き着いた。

「あなたは学生ではありませんか」と聞かれると、日本人は「はい、私は学生ではありません」と答える。当たり前だ。あなたの言うことが「正しいか」ということが問題なのであって、私が学生かという事実はその次になる。ところが英語では「私が学生かどうか」という点に焦点があるので「いいえ、私は学生ではありません」となる。単に事実が問題になっているからであり、それ以上の意味はない。

しかしこれを日本人が聞くと「私が否定された」と感じる。「お前は間違っている」と言われたように思うのだ。実際にこれで立腹する人が出てくる。

英語話者は「事実」を中心にコミュニケーションを組み立てているのに対して、日本語話者は「あなたが正しいかどうか」という関係性を中心にコミュニケーションを組み立てていることになる。松田氏が怒っているのはそこだ。多分、対象物を見ているのっだろう。ところが同僚議員は「どのように対応すれば、ノーと言わずにすむか」ということを基準に意思決定している。これがお互いに「デタラメ」に見えるのだろう。

安倍首相は有権者や支持者たちに「ノー」を言わない。有権者や企業が税金が払いたくないと言えば「そうですよね」と言い、財務官僚が財政規律が大変だと言うと「そうですよね」と言う。そこで全体の論理が破綻し、立腹する人が出てくる。だがそれは「敵」なので言うことを聞く必要はない。頂点がそうなのだからフォロワーである議員たちの言っていることもめまぐるしく変わる。その場に応じて都合のよい「事実」をパッチワーク的に当てはめてゆく。

英語でいうアカウンタビリティ(日本語では説明責任と呼ばれる)という言葉が日本で成り立たないのは、そもそも説明する事実が存在しないからである。あるのは関係性だけなのだ。

厄介なのはそれに反対している人も状況に応じて「ノー」を言っているだけということだ。消費税増税に賛成だった民進党が「増税延期せよ」と言い出すのは、それは敵対者が「増税を実行する」と言っていたからであり、それ以上の意味はない。つまり両者は全く違うようで、実は車の両輪なのだ。関係が変われば「何がイエスか」も違ってきてしまうのである。

両陣営はお互いに「整合性がない」と罵り合っているが、それはお互いの文脈から外れているからだ。

では、日本にいる人たちは全て「関係性重視」のコミュニケーションを目指すべきなのだろうか。それはそうとは言い切れない。二つの明らかなデメリットがある。

一つ目のデメリットは状況をフォローしていないと、何が賛成すべきで何に反対すべきかが分からなくなってしまう。松田さんの文章では、なぜ野党側が今回の法案に「反対しなかったのか」がよく分からない。透明性がなくなり多様な意見が受け入れられなくなる。それはつまり解決策が限られるということになる。

明らかに間違った進路を進んでいる場合にお互いを忖度して進路を変えなければどうなるだろうか。最終的には崖にぶつかるか、海に落ちてしまうだろう。このような態度は「グループシンキング」の状況を生み出しやすい。いわゆる「集団無責任体制」という奴である。日本の歴史で一番顕著なグループシンキングは大量の餓死者と都市空爆を許した第二次世界大戦である。

ここから我々は何かを学ぶことができるだろうか。それはもし問題解決したければ「コンテクストベース」の議論をやめて「事実ベースの議論」に集中すべきだということになる。つまり、人格と事象を切り離して考えるべきなのだ。コンテクストベースの現場で状況を変えるのは不可能に近いし、残念ながら日本人は訓練や強い危機感なしに事実ベースの議論ができない。

次善の策は何もしないで、帰結を受け入れることだ。日本人の最大の防御策は意見の対立があり、状況が膠着することだ。意思決定や変更ができないのだから、動かないことが最大の防衛策なのだ。状況が破綻するのは「強いリーダーシップ」とやらを発揮して無理に動いてしまった時だろう。

Nuke is Cool!

昔、アメリカでマルチメディアタイトルの制作に携わったことがある。インターンとして学校からアサインされたのだ。多分、選ばれたのは日本人だったからだろう。そのマルチメディアタイトルは原爆に関する物だったのだ。そのときに驚いたのは、同世代の人たちが「Nuke is cool」だと考えていたことだ。核カッコイイくらいの意味合いだと思う。かなり感情的に反抗したのだが、英語がつたないせいもあったのか全く分かってもらえなかった。

ポイントになるのは、この人たちが特段強い反日感情を持っているわけではないということである。もし反日感情があればそもそも日本人など雇わない(インターンではあるがアルバイト程度のお金はもらっていたので)だろう。また、彼らはユダヤ系だったので、戦争に対する知識は平均のアメリカ人以上には持っている。さらに、マルチメディアタイトルを作るためにそれなりに勉強もしている。それでも放射能のあのマークをクールなシンボルとして扱い、ロック音楽に合わせたグラフィックスを作り「核カッコイイ」と日本人に悪気なく言ってしまうのだ。つまり、この言葉が日本人の心情を傷つけるなどとは考えていないことになる。彼らはかなり驚いたようで日本人を加えてしまったことに当惑していた。

今回オバマ大統領が広島を訪問したとき「アメリカは原爆投下を正当化している」と考える人が多かったようだが、若い世代はそこまでの知識を持っている訳ではない。どちらかといえば、スターウォーズのようなノリで捉えているのではないかと思う。日本人は広島・長崎を「悲惨な現実」と刷り込まれているので、そこに大きな文化的摩擦がうまれる。海外に出ている人は日の丸を背負っているような気分になりがちだ。

今回の件は「オバマ大統領が広島を訪問したことでアメリカ人の意識が変わった」などと捉えない方がよいと思う。アメリカは銃を所持する権利が認められている国なので「自衛のためには核を持つ」と考えることに抵抗感が少ないだろう。そもそも、覚えていないとか意識していない人も多い。殴った方は殴ったことを忘れてしまうものなのだ。日本人もアジア各国で行ったことを覚えていないが、被占領国はいつまでも覚えている。

あまりショックを受けないように、一般的なアメリカ人が原爆に対してそれほど強い意識を持っていないことは知っておいた方がよいのではないかと思う。それでも相手を変えたいと思うなら、なぜ原爆が馬鹿げていて危険な兵器なのかということを「日本語で」説明できるようにしておいた方がよいと思う。だが、これはなかなか難しい。日本はアメリカの核兵器に頼った自国防衛を行っている。被害だけをクローズアップしたり、一方的に「悲しいお話」にすることもできないのだ。

もっとも、公の場で日本人にあえて「原爆は正当だった」などという人は多くないと思う。唐突に政治の話をしたり過去の諍いを蒸し返したりはするべきではないというのが、ポリティカル・コレクトネスだからである。

オバマ大統領と演劇的才能

オバマ大統領の広島訪問が終わった。終わってみると、その見事な演出家ぶりが印象に残った。メディアはオバマ大統領が被爆者代表と抱き合う<感動的な>写真を載せた。これはオバマ大統領が標榜する「リコンサリエーション」の見事な象徴といえる。ハバナ訪問に続いて「かつての敵国と和解した偉大な大統領」というレガシーが作られたのだ。

加害者であるはずの日本人と抱き合うとは何事かという声は当然出るだろう。そこでオバマ大統領は見事なツイストを用意していた。実はアメリカ人にも原爆被害者がいる。その人たちに光を当てたのが、この抱き合った人なのだ。決して謝罪しているわけではない。アメリカ人の恩人に感謝を示しているのだと主張できるわけだ。この人選が偶然であるはずはない。計算された筋書きだろう。

これは国内向けの対策であるだけではない。原爆は(当然のことながら)その場にいた人たちを分け隔てなく殺す。人類に対する罪であり、アメリカ軍だとか日本軍という隔てを超越してしまう恐ろしい兵器なのだ。アメリカ人は「日本人を殺したから正当だった」と考えるのだが、実は同胞も殺していたと知り、少なからず動揺したはずである。

スピーチ自体はあまり意味のないものだったが「アメリカ人にも被害者がいる」という話が予め知られていたら、このような演出は成り立たなかっただろう。演劇は新しい発見による緊張とその緩和が要点なのだ。

演出は偉大なリーダーにはなくてはならない資質だ。アメリカは1年以上もかけて大統領を選ぶので、こうした演劇的な才能が正否を分けるのだろう。オバマ大統領とスタッフたちが演出家としての才能を持っていることは間違いない。

一方、安倍首相は日米同盟は盤石なものであることを見せつけて、国内の支持を盤石なものにしようとした。いつでもバラクの隣に座りたがるその姿は、クラスのイケていない学生がスポーツ万能で勉強もできる学生と友達になりたがっているようにも見えた。その見事な小物ぶりがますますオバマ大統領を引き立てることになった。オバマ大統領はそんな晋三の肩を叩いて「これからもがんばろうな」と言ったそうである。

安倍首相はG7を自らの失敗を糊塗するのに利用しようとした。しかし「リーマンショック級の事態が起きている」という主張(妄想と言っても良いだろう)は世界のメディアから嘲笑された。日本のマスコミは消費税増税延期を既定路線として捉えており、描かれたシナリオを淡々と伝えるだけである。マスコミはもはや反対や論評すらしてくれない。意図は見え透いており、誰も驚かないのだ。安倍首相とそのブレーンに演出の才能がないのは明白だ。

オバマ大統領と安倍首相の一番の違いは何だろうか。それは、緊張を生み出す力とそれを解消する力の有無だろう。オバマ大統領にはリーダーシップがあるので人々の反対を押し切って状況を打破しようという意欲があった。一方安倍首相は基本的にはアメリカのフォロワーなので、独力で緊張を作り出すことはできなかった。むしろ、支持者たちの関心を惹き付けるのに腐心している。状況に振り回されているのである。

一方で、作り上げられた緊張は緩和させられなくてはならない。そのために使われるのが「共感力」なのである。安倍首相は基本的に空気が読めないので共感力がない。だから、安倍首相が作り出した緊張は単に状況を混乱させるだけなのだ。反対者と対話していないのだから当然だ。

つまり、シナリオを作り、状況をコントロールする人だけが演劇的才能を駆使できるのだ。

とはいえ、オバマ大統領の演劇的才能が良いことだったのかどうかは議論が分かれるところだろう。演劇的才能に頼りすぎるあまり「出落ち」のようになってしまい、現実を変えることはできなかった。大統領のピークは間違いなくYes We Canだろうし、ノーベル平和賞の受賞だろう。だが、その後、せっかく作った健康保険プランはうまく機能せず、銃犯罪もなくすことができない。演劇は他人の緊張を見ているから楽しいのであって、自分自身について考えるときには別の回路が働くのかもしれないし、大統領の手足となって実務を進めるパートナーに恵まれなかったのかもしれない。

消費されるニュースとブログメディア

オバマ大統領が広島を訪問するニュースが大きく報道された。これを見ていきなり「なぜ、オバマは謝らないんだろう」と考えた人が多かったらしい。検索での流入がリアルタイムで増えたのだ。そこでそれをタイトルにしたエントリーを30分で書いたところ、流入があった。

本来ならば「今回の歴史的な訪問を考えるきっかけにしてほしい」などときれいにまとめたいところなのだが、そうはならないだろう。テレビ中継が終わって流入はぴったりと止まった。NHKはニコ生のようにTwitterの反応を流せば面白かったのかもしれない。ニュースはその場のイベントとして共有されて、そのまま忘れされれてしまう。ユーザー(というのか視聴者というのか)はニュースに反応して消費したら、捨ててしまうのだ。その意味ではニュースはチューインガムに似ている。後には何も残らない。

もう一つ面白いのは検索ワードだ。本来なら「なんでオバマ謝らないんだよ」というのは、友達や家族に向けての言葉だろう。そういう話をする相手がいないことになる。代わりに、ソーシャルネットワーキングサイトで似たような人をフォローし、エンジンで似たような意見を探すのではないかと考えられる。本来の集団主義的な指向が崩れつつあるのではないかと考えられる。

これが良いことなのか悪いことなのかは分からない。ユーザーの時間は限られており、考えなければならないことはたくさんあるのだろう。いずれにせよ、送り手になる人はこれを現実として受け入れる必要がありそうだ。

そもそも「なぜ、オバマ謝らない」で検索した人がいるのだろうか。もともと広島・長崎での謝罪がなかったのは、アメリカに占領されアメリカを責めることができなかったことが出発点になっている。敗戦国なので戦争犯罪として断罪することもできなかった。また、物質的な豊かさに圧倒されて複雑なあこがれを持つようになった日本人も多かった。その上で被害者たちは苦しみ抜き、最終的に許すことを決めたわけだ。その一方で多くの日本人はそれを天災のように捉えることにした。決して他人ごとだったわけではなかっただろう。多くの都市が空襲に会っているからだ。

現在「オバマはなぜ謝らないのだろう」という疑問を持つ人が出てきたのは、占領の記憶が薄れ、アメリカが特別な国ではなくなりつつあるからだろう。そもそも、日本とアメリカが戦争をしていたという認識さえ、確かに共有されているかどうか怪しい。マスコミはある思い込みのもとに作られるので、こうした素朴な疑問や足下で起りつつある変化を見逃してしまうのだ。

一方で、個人のブログメディアは細かな変化を感じ取り、数十分でアップできてしまう。組織の意見に縛られることはないし、事実誤認が見つかれば書き直せば良いのだ。

新しい有権者としての奥田愛基

先日のエントリーでは、新しい顕示的消費という切り口から新しい消費者を眺めた。その延長線上にあったのは生産手段を持った消費者「プロシューマー」とその表現形のインフルエンサーだ。このような動きは様々なところで見られる。当然、政治も例外ではない。

去年の夏頃、学生たちがSEALDsという団体を立ち上げた。有権者の立場から政治運動に影響を与えようという行動だった。TwitterなどのSNSを使った運動と気軽に参加できるイベントが特徴だった。イベント消費は現代の顕示的消費の特徴の一つであり、奥田愛基氏はインフルエンサーと言える。

政治の世界は一般企業から大きく出遅れている。一般企業が消費者を囲い込もうとしていたのは1990年代の終わりから2000年代頃にかけてだと思われるが、政党は未だに「囲い込み」を行おうとしている。つまり、政党の支持者を作ろうとしているわけだ。

ところが有権者には囲い込まれようと言う気持ちはない。代わりに自分の持っている一票をどのように「消費するのが賢いのか」という選択を行おうとしているわけだ。当然、奥田氏側も「野党がしっかりしていればそもそも運動をする必要はなかった」としている。特に一つの政党に囲い込まれたわけではなさそうである。

ところが、旧来型の「囲い込み」にこだわっているとこの絵が見えにくくなる。一つの政策を指示することが、当然別の政党を敵視することだと考えてしまう訳である。マスコミは未だに「支持政党」を尋ねる設問を出し続け、有権者は「支持政党がありません」と答え続けている。そもそも、この絵が間違っているということに気がつくのはいつのことになるのだろうか。

もう一つ興味深いのが内発的動機への嫌悪感だ。奥田氏の運動に反発する人は「こんなに熱心に運動するということは、当然誰かからお金をもらっているのだろう」と考える。つまり、外的要因(お金や地位のこと)によってのみ人は動くという確固たる信念があるようだ。にも関わらず自分の持っている理想像を語らい、楽しげに集まる人たちというものが疎ましく思えるのだろう。

インスタグラムでリア充ぶりを発揮する人に憎悪の言葉をぶつければ「単に寂しい人」に見えるのだが、政治の世界では攻撃が許されている。中にはそれが「賢い」と誤認する人も多い。だが、よくよく考えれば、それは「信念がなくやりたいことも見つからないだけの」単なる寂しい人である。

政党マーケティングの世界は、今やメールマーケティングのような状態にある。一日に何通ものメールが送られるが、直にゴミ箱行きだ。人々が動くのは「お得情報」だけである。外的要因によってしか動かないことになる。ないしは「恐怖」だ。今動かないと大変なことになりますよというわけだが、たいていの場合それは詐欺メールだろう。だが、メールマーケティングが外的要因に依存するのは当たり前で、メールが受動的な手段だからだろう。ソーシャルネットワーキングは双方向性であり「内的動機付け」が重要になる。その人の自己認識とかどう見られたいかということが行動を作る訳だ。

企業がソーシャルネットワーキングに対応するまでには長い時間がかかった。マーケターが「ブランド・ロイヤリティ(ブランドへの忠誠)の醸成」にこだわり続けたからだ。今でもブランドは有効なのだがそれはラベルとして機能しているのであって、忠誠の対象ではない。

例えばAppleには忠誠心を持った顧客が多かったが、パソコンとしてはあまり広がらなかった。現在のAppleユーザーはiPhoneがカッコイイとか見栄えが良いと思うだろうが、決してAppleに忠誠心を持っている訳ではない。つまり、忠誠心を醸成すると広がりが失われてしまうのである。

このことから、野党側も奥田氏のような存在を有効に活用できたとも思えない。プロシューマ的人たちは「企業から独立している」ことが信用の源になっているのだから「付かず離れず」の距離を保っていた方が利得は大きかったはずだ。また、多くのインフルエンサーを集めるべきで、それを組織化してもあまり意味がないのではないかと思う。