カジノの入退室管理にマイナンバーをという悪夢

恐ろしい記事を見つけた。カジノの出入りにマイナンバーカードをつかえばいいじゃないかというのだ。だが、なぜ恐ろしいのかわからない人が多いのだろうなあと考えると余計恐ろしくなった。

システムを作る時には機能、セキュリティ、ネットワークなどの要件を決める。マイナンバーカードの当初の目的は、国民の財産や収入を把握することだろう。つまり、国家が納税などを管理するためのものだ。当然国民には何の利益もないが、効率的な政府運営のためにいやいや協力してあげているというのが正直な気持ちだろう。

財産はプライバシーの最も重要なものなので、そもそも国家がそれを把握するのはどうかという議論があるが、安倍政権はとりあえずその議論は「ネグって」しまった。だが、もう決まってしまったことなので、あとは政府がことの重大さを十分意識した上で、なんとかしてくれることを期待するしかない。

だが、政府は国民のプライバシーをかなり軽く見ているようだ。そのあと様々なIDとしてマイナンバーカードを使ってはという意見が出てきた。IDとして便利だからだろうが、それは機能が次々と変わることを意味する。

ただでさえ厳しめの要件のあるマイナンバーシステムを年金の記録もれなどでおなじみの(記憶が確かならまだ解決していないはずだ)日本政府が実施するわけである。何か起きないと考える方がおかしい。ただ、やると決めた以上は、最善の努力を払ってセキュアなシステムを作るべきだ。

だが、政府は次々に新しい要件を加えようとしている。この例だとカジノの運営会社がマイナンバーシステムに接続するようになる。いわばパチンコ業者さんが銀行と同じようなシステムを扱うという提案だ。ポイントカードや消費税の払い戻しにも使うと言う話もあったので、小売業者にも開示するつもりだったのだろう。普通に考えるとどこかから漏れることになる。ごめんなさいでは済まない。

「要件を決めないままでシステムを作る」というのはプログラマにとっては悪夢でしかない。これをまともにやろうとするとセキュリティを甘くすることになる。技術力を結集して素晴らしいシステムを作るのも不可能ではないだろうが、お金と労力がかかる。要件が変わるたびにすべてやり直す必要が出てくる。こうした余分な費用はすべて国民の税金だ。役人の思いつきのためにいくら使うつもりだということになる。

過去の要件がすんなりわかればいいのだが、大きなシステムだと過去に何を決めたかがわからないということが起こる。担当者がいなくなったとか、定年したとか、過労でぶっ倒れたなどということはしょっちゅうだ。過去の要件がよくわからないままシステムを継ぎ足すことになるだろう。悪いシナリオしか想定できない。

多分、霞ヶ関の人たちは「お金を積めばなんとかなる」と考えているのだと思う。一次受けもシステムベンダーに頼めば何とかなると考えているはずだ。そうやって危険にさらされるのは国民のプライバシーだし、穴埋めをするのも国民ということになる。

だから、こうした思いつきのような提案は今すぐやめるべきだ。

友達でもないのにツイッターで話しかけてはいけないのか

面白いツイートを見つけた。背景はよくわからないが、プロのライターさんで雑誌がバックグラウンドだと思う。知らない人から「ちょっと調べればわかる」ことに関する指摘が来るのが嫌らしい。普段から余白のあるツイートをしているので、それに突っ込んでくる人がいるのだろう。

余白があるということは知的だということなのだが、現在のツイッター事情には合わない。現在のツイッターは自分の主張を叫ぶ人たちばかりになっており、知的な余白を残す余裕はない。昔の雑誌というものに知的な余白があったのかという点はよくわからないのだが、今よりはおおらかだったのかもしれない。

もう一つ感じたのは雑誌とネットの違いだ。雑誌は送り手側と受け手側が分離しているが、ネットはそうではなかった。ゴーファーあたりから使い始めた人は、掲示板の割と平等な仕組みが新鮮に映ったはずだ日本人は文脈依存だがそれほど上下格差が強くないので、ネットの平等な仕組みに居心地の良さを感じた人も多かったのではないかと思える。

個人的には葉巻の掲示板を(HTMLベースで)運営していたのだが、すぐにファンとお店の人が集まるコミュニティができビギナー、ベテラン、業者が交流していた。バーチャルとリアルのつながりもあり、掲示板を作ったということで美味しいワインを飲ませてもらうこともあった。

ネットは「リアル世界で知り合いだから気安く話しかける」などという文化ではなかったが「知らない人だからよそよそしく対応する」という文化でもなかった。

例えば葉巻という趣味はクローゼットの中のスノッブな趣味で、社会的には認知されていない。例えば上席が開示してしまうと「部下に押し付けた」ことになりかねない。ネットは好きな人だけが見ればいいわけで、社会とは違う文脈が選択可能だった。

逆に言えば社会では「好きでなくてもお付き合いしなければならない」ということが多かったのだと言える。

リアルとバーチャルを組み合わせるという文化(つまりはネット広告だ)もアメリカから持ち込まれた。例えばある葉巻会社は原宿にあるお店が新装開店するという案内を送ってきた。しかし、日本人スタッフにはぴんと来なかったようだ。日本人が集めた人たちは「自分たちのつて」で選んだリアルコミュニテイの人たちで、ネットの「見ず知らずの人たち」に訴求するという発想はなかった。ワインと葉巻の会を主催したのも香水などを扱っているマーケティング会社で、これも外資系だった。日本人はリアルのコミュニティから抜け出すことが本質的にできないのである。それだけコンテクストに依存しているということになるだろう。

最終的に日本ではバーチャルとリアルが窮屈に結びついてしまうことになった。最初に窮屈なつながりを目にしたのはあだ名でつながり合うmixiだった。職場の人からほのめかすように誘われたが「なぜと匿名でなければならないのか」意味がわからなかった。この結果、日本には3つのコミュニテイができた。

  • 匿名のままつぶやきに近いことをいい合う掲示板。リアルな空間に影響を及ぼすことを恐れていて防波堤を作っている。
  • リアルのつながりがそのまま持ち込まれたLINEのような空間。
  • 現実世界を反映しつつ正義がぶつかり合う世論。

リアルとバーチャルが強く結びついてしまうのはなぜなのだろうか。これはバーチャルでの関係性によってリアルが侵食される(つまりリアルでも同じ行動を取らなければならなくなる)と感じるからではないかと考えられる。つまり日本人は2つ以上のコミュニティを持てずに全てを同期しなければならないという前提を置いているということになる。例えばプライベートと仕事空間は別という気持ちになりにくいということだ。

さらに、相手に意見をされるということはそれに対する態度を決めなければならないという思いもあるのだろう。個人主義的な文化では「あなたはそう思っているのね、でも私は違うの」で済んでしまうのだが、日本人は「言霊」を置いてコミュニケーションが現実に影響を受けると考えている。

これは言葉だけではなく視線でさえも起こりえる。挨拶をすると目を背ける日本人が多いがこれは視線がその人を侵食すると考えるからだ。アメリカの場合は挨拶か笑顔が返ってくる。これはアメリカ人が礼儀正しいからというよりは、挨拶には防衛の意味もあるからである。視線を送ったからといってそこで関係性ができるということはありえない。

最近ではマンションで子供に挨拶をしないという申し入れがあったことが話題になった。これは日本人が挨拶=世界への侵入だと考えるからだろう。挨拶はたんに敵意のなさ(つまり攻撃しないという意思表明)に過ぎないという文化もあるのだ。

コンタクトが瞬間に関係性を作るという事例は他にもある。日本の電話機には「迷惑電話撃退機能」が付いているものがある。機械の声で「最初に名乗るように」と依頼してくれるボタンだ。もし名前を名乗らなかったり、売り込み電話だったりすると別のボタンを押す。すると丁重なガイドが流れて電話が切れるのである。論理的に考えるとボタンを押すのも「あんた誰だ」と聞くのも同じことなのだが、悪く思われたくないという気持ちがあるのだろう。

コミュニケーションが成立した瞬間に文脈が発生するということになる。これがいろいろな軋轢を生んでいるのだろうと考えることができる。

 

この際日米同盟は解体しては?

オスプレイの墜落事故がまた波紋を呼んでいる。今度は在沖縄米軍のトップが「感謝されるべきだ」と言ったというニュースが断片的に飛び込んできた。もう、なんか無駄にどきどきする。日本人が怒るに決まっているからだ。そしてアメリカ人がなぜ日本人が怒るかがわからないことも容易に予想できる。だったら、この際日米同盟は解体してはとすら思う。

沖縄は今回も「植民地的だ」と敵意をあらわにしている。意思決定に沖縄が絡めないことに対する苛立ちだろう。高官はニコルソンという名前なのだそうだが、明らかに外交官的なスキルや感覚はなさそうで、怒りをあらわにしたそうだ。これは日本人には受け入れられない。関係性に挑戦していると考えられるからだ。実際の映像を見たが、一生懸命事実を説明しているという感じだった。だがこれは伝わらないだろう。日本人が求めているのは実は事実ではなく「心象的事実」だからだ。

「心象的事実」とは何だろうか。日本人は事故を起こした時にまず謝る。それは客観的事実とは全く関係がない。世間を騒がせたことをお詫びするのである。不時着だろうが墜落だろうが関係がない。みんなの心が騒いだことにお詫びをする。それはマイナスとなり「どんな不利益でも引き受けざるをえない」ということになる。だから日本人は失敗するくらいなら何もしないことを選択する。だが、世間を騒がせたことをお詫びしない限りいつまでもバッシングが続く。日本人は一貫して関係性を生きている。関係性に起こった変化が事実なのだ。

ところがアメリカ人は現象を説明しようとする。説明した上で次に起こらないためになにをするのかを考えるのが普通だ。それはアメリカ人が対象物に焦点を当てているからだ。加えて、アメリカ人が物事をリスクで計算する。だから「感謝されるべきだ」という言葉の意味はわかる。本土に落ちていれば被害が出たかもしれない。だが、身を挺して海に持って行ったことで、兵士のリスクは増えが沖縄県民のリスクは減った。そもそも軍隊は地域を守るためにいる「正義の存在」なのだし、これは「美談」なのである。なのに日本人はその「事実」が理解できないと苛立つ。

「感謝してほしい」と考えた時、アメリカ人は盛んに「事実」を説明しようとする。彼らは正しいことをしているから説明したいというわけだ。しかし日本人には事実はどうでもよいことで、関係性こそが重要だ。「墜落・不時着問題」も構造としては簡単な誤解なのだが、関係が悪化しているので「いいわけだ」ということになる。日本人は「聞く耳を持たない」のだ。

沖縄を納得させるためには、沖縄を米軍の運営上の意思決定に加える必要がある。だが、ステイクスホルダーとして日本人を加えることはできない。安全保障上のリスクになってしまうからである。あとは金目の問題ということになるが、これも関係性を考えて「地域の貢献に感謝して」というような言い方が必要だ。金額も重要だが、意味づけ(これを文脈という)が重要なのだ。

さらにややこしいことに、日本人(東京)も日米同盟を関係で捉えている。だから代理人にはなれない。沖縄と東京の関係は違っているから沖縄の代理もできないし、アメリカ人が事実を説明したい時に関係性にこだわってしまうのでアメリカ人の代理もできない。

最近、面白いニュースがあった。オバマ大統領が「安倍さんが来たいというなら真珠湾に来ればいい」と言った。安倍首相はこれを快諾したが、それはオバマさんとの関係を重要視して忖度した(あるいはトランプ次期大統領との間でバランスをとった)からにすぎない。そもそも「自分の気持ちで行動する」ということが日本人には理解できない。それはマスコミも同じだったようだ。アメリカ人には逆に関係のために自分の気持ちを曲げるということが理解できないし、重要なことなのに「自分の気持ちがない」ということも理解はできない。そこで「単に安倍首相はアメリカの歓心を買いたいだけで、真珠湾の慰霊などどうでもいいのでは」と考えてしまうのだ。

日米はこれだけ文化が違うのだが、違いは2つしかない。文脈依存・非依存という軸とリスクについての考え方だ。たったこれだけのことなのだが、アウトプットはかなり違ってしまう。それを乗り越えるためにはまず「日米には違いがありお互いに理解できなくて当たり前なのだ」ということを理解する必要がある。安倍首相のように「日米は価値観を共有する」などと考えてはいけないわけである。

トランプ次期大統領とは仕事がしやすいかもしれない。彼は事実にだけフォーカスを当てている。アメリカ人は理解できないのに「日本人の文脈」を理解しようとしてきた。これがまずかったということも言えるだろう。

オスプレイ – 不時着か墜落か

また、いつもの無益な言い争いが始まった。オスプレイが墜落したらしい。それが「不時着」だと説明されたために、オスプレイ反対派が「あれが不時着だったら、御巣鷹山の事故も不時着だ」と騒ぎ出した。それを聞いて体制に乗って安心したい人たちが「左翼が騒いでいる」と騒ぎ出す。おきまりのコースだ。

死者はなく2名が怪我をしただけだったのだが、政府はことの重大性を認識しているようで、事故原因が究明されるまではオスプレイを飛ばさないようにと要請し、安倍首相は「重大事故」と表現したらしい。

英語のニュースではクラッシュと表現されているので「あれは不時着ではなく……」という非難が出るわけだが、意外なことに英語には不時着に当たる言葉はない。コントロールが利かずに落ちたというか、落ちたがなんとかコントロールしたという説明的な言い方になるようだ。そして、墜落事故でもコントロールが効いていれば日本語では「航空機不時着」と訳すことが多いようだ。中には死者が出ているのに「不時着」と表現されているケースもある、だが、全くコントロールを失って墜落したなら「墜落」で、誰かが落としたなら撃墜となる。大韓航空機はソ連に撃墜された「撃墜事件」と内部から北朝鮮の工作員に爆破された「爆破事件」がある。「爆破事件」は爆破された時点でコントロールを失っているので「墜落した」と表現されるようだ。「ハドソン川の奇跡」はハドソン川に誘導したので「不時着水」とされるようだ。英語版ではクラッシュでなくグライド(滑空)とされている。

現在は原因がわかっていないのだから「不時着」とは言えないことになるのだが、日本語で墜落と言ってしまうと「コントロールがきかずに落ちた」ということになるわけで、それは避けたかったということなのだろう。

不時着した結果として機体がバラバラになるということも考えられるので、必ずしも不時着とバラバラが相反するとも言えない。(その後、不時着を試みたが大破というわけのわからない表現になったテレビ局もある。)

なんとかコントロールできたとすれば海ではなく陸に落ちるのではないかとも考えられるし、逆に周辺に適当な場所がなく(本島南部で落ちたら市街地に突っ込むことになる)わざわざ海に落ちたということもあり得る。だが、それはこれからの調査によるわけだし、そもそもちゃんとした結果が国民に知らされるかはわからない。

こうした混乱が起こるのは、日本語に強力な造語能力があるからだ。見出しには漢字が使われることが多く「オスプレイが落ちた」という見出しは作りにくいのだが、実際に言えるのはそれだけだということになる。

今の時点では「コントロールを失って落ちたに決まっている」という人と「いやコントロールはできていたはずだし、そうあってほしい」という人がいるわけで、どちらもフェイクニュースということになってしまう。

プレミアムフライデーの憂鬱

プレミアムフライデーという試みが始まるそうだ。無能な経営者に役所が加わるとなんだかめちゃくちゃなことになるんだなあと思った。

プレミアムフライデーのニュースをみたのはNHKが「毎月末の金曜日に午後三時退社を推進する」と伝えていたからだ。これをみて「早く帰っても使う金がなければどうしようもないのではないか」とテレビにツッコんだ人は多かったのではないだろうか。だが、新聞を読むと少し印象が変わる。

ブラックフライデーという言葉がある。アメリカは感謝祭からホリデームードが高まり、家族と過ごす一ヶ月がクリスマスまで続く。クリスマスが終わると通常シーズンで日本のように正月が盛り上がることはない。ブラックフライデーは感謝祭後の月曜日を指すそうで、感謝祭ギフトの売り残し処分とホリデーシーズンギフトの売り出しを兼ねているのである。アメリカの小売はホリデーシーズンに25%近くを稼ぐという統計もあるそうである。

プレミアムフライデーはつまりホリデーシーズン前提にしているので、小売業界が「毎月正月が来たらエエのになあ」と夢想ことから始まっているようだ。

これに早期退社が加わったのは何故なのかはよくわからない。安倍首相が働き方改革を進めているので、そこから連想されたものではないかと考えられる。安部側近の世耕さんの頭の中は「どうやったら首相に気に入ってもらえるのか」ということで一杯いっぱいなのだろう。それを自動的に忖度するNHKが伝えることで、なんだか支離滅裂なメッセージが生まれてしまったわけだ。

給与者の所得は減り続けている。つまり使う金がないわけで、年に12回正月が来ても使う金はない。自民党政権になってやや上向いているものの、トレンドを解消するまでには至っていない。単にリーマンショックで過剰に落ち込んだ分が戻っている程度のことだ。

加えて、小売には智恵がないので、小売シーンを盛り上げるということになれば安売りに走ることは間違いがない。セールを企画する手間は省けるだろうが、単にそれだけに終わりそうである。

この2つが加わることで「いかに安く手に入れるか」ということはゲーム化しているように思える。例えば通販サイトは定期的に「値段を下げた」品物に関する情報が送られてくることがある。これは価格情報だけが行動のトリガーになっているからだ。

最近、近所のパルコが閉店した。多くのお客が閉店セールに通っていたのでさぞかし盛況なのだろうなあと思ったのだが、出口で袋を見るとABCマートとGUの袋を下げている人が多かった。そのうち主婦たちがワゴンに群がるようになる。つまり、一部のカテゴリーキラーとワゴンだけが盛り上がっているという状況だった。「安さがプレミアム」という状態が痛感できる。

給与所得が上がらない中でテレビが盛んに生活防衛術を喧伝したためにすっかり消費者行動として根付いてしまったのだろう。

もし、プレミアムフライデーを定着させたいなら、非正規雇用の給料を大幅に引き上げて(非正規転換が進んでいるので正社員の給与をあげても給与総額は変わらないだろう)金曜日に休めるようにしなければならない。仮に正社員が金曜日に退社するようになると、非正規の人たちは金曜日に休めなくなる。増加するお客に対応しなければならないからだ。さらに、毎月正月が来ればいいのだとすれば、平日に3日くらい休みがあれば良いのではないかと思う。

しかし、そんなことをしなくても昔は「花金」という言葉があり大いに消費していた。花金だけでは飽き足らず花木(はなもく)という言葉さえあった。週休二日制度が定着しゆっくり休めるようになったことで、金曜日に遊ぶようになったのだ。プレミアムフライデーにはその頃の記憶があるのではないかと考えらえる。

プレミアムフライデーは、過去の成功体験と海外のイベントに極端に弱い今のおじさん世代の痛々しさが感じられる企画である。

DeNA – パクリサイトより怖いのは何か

DeNAがパクリサイト疑惑でまとめサイトを閉鎖して謝罪会見を開いたらしい。ネットではいろいろ話題になったようだが(ネットの人たちがDeNAの経営陣について詳しい情報を持っているのにはちょっと感心した)、改めて調べてみようという気にはならなかった。

メディアが存続するためには信頼を維持しなければならない。しかしDeNAをはじめとしたネットメディアには信頼維持のための仕組みがなかったようだ。その場で儲けることができればそれでよいと考えているからだろう。

パクリが悪いかどうかは議論が分かれるところだ。最近は「引用」という体裁でコンテンツを持ってくることが横行している。これが許されてしまうのは引用がトラフィックを作る可能性があるからだ。例えば、Pinterestは全てが「パクリ」なのだが画像の引用元にトラフィックを返す仕組みがある。こうした行為はキュレーションと呼ばれる。

DeNAが炎上したのは、トラフィックを返す仕組みがなく、かつ信頼性も担保されていなかったからだろう。なかには勝手に情報を改ざんされた上に引用元としてクレジットされていた人もいるそうだ。情報を盗まれた上に信用まで傷つけられ、それを改善する仕組みもなかった。だから炎上迄止まらなかったのである。

ということで、炎上しなければ同じようなことが続いていたことになる。ネット企業で怖いのはビッグデータだ。ビッグデータは統計的データなのだが、一つひとつはプライバシーの塊といえる。プライバシーを保護しつつ、新しい知見の創出につなげるのがビッグデータのよいところだ。

新しい知見が必要なのは、暮らしをよりよくしたいという意欲があるからだろう。もし、それがないとしたら「今稼げればよい」ということになってしまう。一番手っ取り早いのがビッグデータに加工しないでリストを売り払うことだ。個人情報保護法ができて以降、リストの取得は難しくなっている。例えばベネッセは長期凋落傾向にある。ベネッセは住民票からのデータで成功した会社だが役所が情報をださなくなった結果新一年生にリーチできなくなってしまった。こうした会社はリストを欲しがっている。「リスト開拓にネットがつかえないか」とか「ただでリストをもらえないか」などとかなり真顔で考えている。

DeNAは今日が儲かれば良い会社だということがわかった。多分、ばれなければ個人情報を売り渡すことでもなんでもするだろう。バレれば企業の信頼は崩れるかもしれないのだが、日銭が稼げる。上が「やれ」といえば下はやるだろうし、実際に手を下すのは社員ではなく、契約アナリストのような人だろう。

今回はライターが社員でなかったことも問題を悪化させた。契約ライターなので、会社がなくなっても別に困らないからだ。持続可能性には関心がない。謝罪会見では次のように語られた。仕組みがあっても利用する人がいなかったのは会社を維持可能にしなければならないという動機を持った人がいなかったからだろう。

「今回、キュレーションメディア事業のみが取りざたされているが、他の事業部において不適切な運営や業務があったら是正される仕組みは整えている。それなのに今回なぜ、外部からの指摘やお叱りを受けるまで是正できなかったのか、その点は改善しなくてはいけない」(南場会長)

この件の怖いところは、一般(NHKくらいしか見ない人)レベルには全く露出がなかったという点だろう。「ネットはうさんくさい」ということにしかならないのだ。第三者機関を作ると言っているがこの結果も大きくは報じられないだろう。

第三者委員会の調査はパクリ問題に矮小化されるのだろうが、実際には儲かりそうな事業に投資して、社の成長にコミットしない契約業者に事業を実施させるという構造自体に問題がある。会社が成長したら分配する仕組みがないと事業は衰退するのである。それが分析できないと改善もできないわけで、同じような問題は再発するだろう。ただこれはDeNAの儲けの仕組みに関わっており、直ちに改善するのは難しそうだ。

DeNAはショッピングデータや医療データ(遺伝子情報)などを扱っているようだ。だから、こういった企業には近づかないに限る。

 

 

金持ちほどSNSを使うという事実

sns_income
グラフ下の数字が間違っている。実際には-75(年収75,000ドル以上)と30-(年収30,000ドル以下)だ。右の方が所得が低い。

昨日、Twitter経由でリクエストをもらったので調べ物をした。「見栄を張るのに画像系SNSを使う」というのが確かなら、画像系SNSをは所得の関係はどうなっているのかという疑問だった。調査結果はこちら

実際にはSNSによってばらつきがあった。所得が高いほどSNSを使う率が高いというのは確かだが、その傾向はバラバラだった。例えばインスタグラムは所得が低い人の方が多く使っているという傾向があるのだそうだ。

ここから言えそうなのは弱い紐帯を持っている人ほど収入が高そうだということだ。弱い紐帯というのは聞きなれない言葉だが、もともと「転職―ネットワークとキャリアの研究 (MINERVA社会学叢書)」という研究に出てくる用語だ。転職に成功した人はあまり強くないつながりを多数持っているということがわかったという内容である。

この傾向は現在でも生きているらしい。つまり、経済的に成功する人は、単に弱いつながりを多数持っているだけではなく、それを絶えずメンテナンスしているということになる。ここでいうSNSというのは、単に政治的な発言を一方的に主張し合う「破綻したカラオケ」や「セレブを一方的にフォローする」というものではなく「承認し承認される」という相互的なつながりである。

実際に高い階層にあればあるほど「パブリシティ」を意識して暮らしているのではないだろうか。パブリシティというと広告費を支払わない広告というような印象があるが、実際には自己のブランド化である。例えばヘルス企業であれば「人々の健康増進に貢献する」という印象を与えるために努力するのがパブリシティだ。高い階層の人は自分が承認されるためには他人も承認すべきだということを理解しているから、ネットワークは「破綻したカラオケ」にはならない。自己のブランド化というといやらしい響きがあるが、実際にはコミュニティの中でどう自分を位置付けるかという作業だ。

日本ではLINEとFacebookの間に違いが見られる。LINEは閉じたネットワークであり承認をめぐる争いが起こりやすい。無視されたから排除したなどというような「LINEいじめ」が頻繁に起こる。これはLINE参加者の社会的な地位が低く、閉じることによってしか環境をコントロールできないからだ。

一方、Facebookは外資系企業に勤めていた人たちや留学生を通じて広まったために「Facebookいじめ」のようなことは起こらなかった。Facebook参加者は「コミュニティに影響力を与える」ためにはどうすればいいのかを知っているのだ。つまりリテラシが高いのである。このためリテラシの低い人が間違って参加して起こる「Facebook疲れ」が起きている。身の丈に合わない生活を維持しなければならず疲れてしまうのだろう。

ただし、世界的に見ると(冒頭のグラフ)Facebookは所得が高いほど多く使われているということはないらしい。

さて、ここまで見てくると「よりよい暮らしをしたいならミューチュアルな関係性構築の方法を身に付けよ」という結論が出せる。これは最近荒れてきたといわれるTwitterでも見られる。一方的に他人を罵倒するようなつぶやきもあるし、コントリビューション(そもそもコントリビューションということすら理解できない人もいるだろう)なしにRTする人もいる。が、情報の交換を心がけている人もいて、一概に荒れているとはいえない。情報交換はコミュニティに対する貢献で、そのコミュニティは「通りすがり」程度の弱いものかもしれないのである。

唯一心配なのが欧米で起こっている動きである。成功した人の中にはより多くのサイコパスが含まれているという研究が幾つか出ているらしい。こうした人たちにとってはSNSはよい狩り場のように映るだろう。他人が自分の生活や価値観を晒しているので、利用できるからだ。逆に共感が必要な仕事は収入が低く抑えられるという傾向もある。つまり、コミュニティへの共感がいつも収入に結びつくとはいえないのだ。

 

 

ソーシャルメディアと収入の関係

面白い感想を見つけたので軽くまとめてみた。

まず、所得階層とソーシャルメディアの利用率を比べたレポートを見てみる。複数の調査を集めているので母数が調査によって異なるそうだ。

  • 学歴が低いほどソーシャルメディア利用率が下がる。
  • 収入が上がるほどSNSを使う。
  • 都市にいる人の方がSNSを使う。

お金持ちほどソーシャルメディアの利用率が高い理由は幾つか考えられる。いわゆる「弱い結びつき」が多いほど「顔が広く」なり、収入が増えるのではないかというものだ。多様性が収入と結びついているということである。プロフェッショナルほど人脈を作りたがるのだから、Linkedinなどはこうした傾向が強いかもしれない。

sns_income
グラフ下の数字が間違っている。実際には-75(年収75,000ドル以上)と30-(年収30,000ドル以下)だ。右の方が所得が低い。

Facebookももともと大学のネットワークからスタートしているので、ネットワークに偏りがあることが予想されるのだが、2015年の別の調査では違った結論が出た。収入が低い人はFacebookをよく使っているらしい。この調査は世界各国のユーザーをまとめたもののようだ。

インスタグラムについてはこれほどまとまった調査はない。たまたま見つけたものでは全く異なる結果が出た。収入の高さとは逆相関があるという。つまり貧しい人ほどインスタグラムを使っていることになる。これは2015年の調査結果とは異なる。インスタグラムを画像系と定義するなら、顕示性と画像系SNSには相関は見られないという結論が得られそうだ。むしろセレブ達の生活に憧れた人たちがインスタでセレブをフォローしているのかもしれないが、調査結果ごとにやや違った結果が出ているの詳しいことはわからない。インスタグラムは大学生レベルが使っている率が高いという結論も出ている。

日本の場合には労働環境が異なるので人脈作りが収入に結びつくかどうかはわからない。ただ、日このような記事が見つかった。やや古い記事なので外資系のサラリーマンなどを中心にFacebookが浸透したという経緯も考慮に入れるべきなのかもしれない。世界調査とは異なっていたことになる。

同じ画像系でもPinterestは収入が高い人ほどよく使われていることがわかる。ただ漫然と画像を集めただけでは面白くないサービスだし、クリエイティブな人ほど使い勝手が良さそうなサービスだ。Linkedinを合わせて考えると、目的を持ってSNSを使っている人ほど収入が高いのではないかという仮説が得られる。この延長として自己演出の一貫と捉えればよいのかもしれない。

ファッションでも「自分が着たい服」と「人からの視線を意識した服」は違っているはずで、こうした質はSNSの利用率だけでは測ることはできない。さらに「見る専門」の人と「情報発信する人」は異なっているはずだ。こうしたことは調査からはわからないので、有料のレポートを買うか、実感を足して推し量る必要があるのだろう。

今回は30分ほどGoogle検索しただけなので、全体像を掴むことはできない。もし、何かご存知の人がいれば何らかの手段でお知らせいただきたい。

 

ASKA報道は単なるいじめです

先日来ASKA容疑者が再び覚せい剤を使ったということで大騒ぎになっている。とても不思議な気持ちで見ていた。

全体の論調としては「再び使うのはバカだ」ということになっているようである。

しかし、覚せい剤をめぐる制度には問題がありそうだ。初犯は執行猶予がつくらしいのだが、実質的にはそのまま野放しになってしまう。そして覚せい剤を使うと自力で止めることはおろか、自分が中毒になっていることを認めらることすらできないらしい報道されているブログなどを読むと、そもそも現状認識ができなくなっているらしく「自分で正しい判断ができなかった」可能性が高い。

だから問題を解決するためには、法的に拘束した上で収容施設を作って治療するしかない。そのためには刑務所ではない施設が必要になる。

それではなぜASKA容疑者はそのまま実質的に放免されてしまったのか。それは国が対策費用を削減したいからだろう。刑務所に送り込めば、刑務所を新たに建設する必要がある。社会で監視する人も足りないようだ。ASKA容疑者には家族がいたので「家族に面倒を押し付けた」のだ。つまり、これは認知症の家族介護と同じ状態なのである。

これを「極論だ」という人はいるだろう。だが、認知症と言っても本人に意識が全くなくなるわけではない。中には車の運転ができる人(ただし家には帰れない)もいるし、PCデポに出かけて行って契約を結ぶことができる人もいる。この対処を専門性のない家族に丸投げしているのが現在の制度である。

となるとこの問題には「国と家族の関係」という根本問題がある。自民党の憲法草案にある「家族の相互扶助義務」の憲法条文化だ。だから「安倍がなんかやると(どうでもよい)芸能人の覚せい剤報道が増える」などと被害妄想丸出しのツイートをしている場合ではないのだ。

もちろん認知症の介護と覚せい剤患者は異なる。だから認知症の人を刑務所のような施設に入れろと言っているわけではない。認知症の場合は環境を変えてしまうと症状が悪化する場合があるはずなので、家で見守りが必要になるだろう。つまり、集中的に「管理可能」な覚せい剤使用者以上に高額の費用がかかることになる。

確かに「覚せい剤使用者の面倒は社会でしっかりみるべきだ」などというと、自分の責任で薬に手を出したのに、なぜ俺の税金が使われなければならないのかなどという人がいるかもしれない。確かに論としてはあり得る。で、あれば「他人の問題」なのだから、ほっておけばいい。あなたには関係のないことだ。

確かに覚せい剤患者は事故責任かもしれないのだが、家族はどうなのだろうか。彼らは専門知識も法的拘束力もなく、専門家に相談すれば家族を刑務所に追いやることになる状態で一体何ができたのか。

にもかかわらず、社会的な問題を絡めてこの問題が語られるのだろうか。そもそも他人の転落を見るのは楽しいが、それではあけすけすぎるので、ニュースのような体裁をとっているのだろう。

遠巻きに誰かが苦しんでいるのを冷ややかにみて何もしないのはいじめにすぎない。つまり、あの一連の報道はニュースのような体裁の、家族に対するいじめなのだ。

デザイナーが引き出しを増やすためにできる便利なPinterestの使い方

ファッションについて調べている。現在のファッションは定番化と部族化が進んでいる。だから、普通の人がファッションデザインについて調べると、自分の半径500mくらいで「定番」が決まってしまうことになる。だが、たとえば、定番のカジュアル服と言ってもアメリカと日本ではかなり違っているし、日本でもMens Non-noとBitterでは異なっている。だから、選択肢が狭まるのはちょっと危険なことなのかもしれない。

最近、Pinterestの面白い使い方を見つけた。例として作ったのがアバンギャルドというコレクションだ。多分、正式な名前ではないと思う。アバンギャルドには幾つかの特徴がある。

  • 概ねモノトーンである。
  • ドレープを使っていて芯がない。
  • 形はアシンメトリーなものが多い。
  • パンツが太いことが多く、フードを使ったものもある。

アバンギャルドといっても、全く革新的なものではない。もともとは砂漠の遊牧民と着物からインスピレーションを受けているのだろう。つまり「巻きつける系」の衣服を洋服として再アレンジしたものである。最近ではD Squared2が日本をモチーフにしたようなショーを展開したことからわかるようにメインストリームでもちょくちょくと取り入れられている。

さて、ここまでは普通のコレクションなのだが、Pinterestはコレクションから同じような形のものをお勧めしてくれる。タイムラインに表示されたり、メールでのお知らせが来る。ポイントは「最初のキーワード」と違っても、なんとなく似たようなものがレコメンドされると言うことだ。そこからキーワードを拾って行けば、それがそもそも何のコレクションなのか分かるのである。

アバンギャルドと名づけたコレクションは、もともとパリコレに着物のデザインが導入されたことが源流にあるのではないかと思われる。これがSF映画に乗って広まり「未来風の」デザインという印象が生まれたのではないだろうか。