NHKはどのような気持ちで連合の猿芝居を伝えたのか

NHKがひどいニュースを伝えていた。印象として思ったのはNHKスタッフが抱えているだろう無力感だ。

ニュースは安倍首相の力強いリーダーシップを讃える内容である。面子にこだわる経団連は繁忙期の労働時間100時間を基準にするという表現にこだわっていた。一方、連合は100時間未満にするという表現を主張した。そこで力強い領導様である我らが安倍首相が調停なさり連合の主張を支持なさったというのだ。

実はこの話いくつもの食い違いがある。連合が勝ったということになっているのだが、連合の代表は「100時間が目安になるのは困る」と言っているだけで実際は押し切られている。本来は労働者がすり減ってしまわないもっと短い時間を主張すべきだったのだが、それをやらずに(あるいはできずに)経営者と政府に押し切られてしまったのである。つまり連合は交渉に負けてしまったのである。これで民進党は100時間には反対できないので、高橋まつりさんを例に挙げて政府の無策を追求することもできなくなる。つまり民進党も負けた。

経営者は勝った側なのだが相撲と同じようにガッツポーズはしない。神妙な顔で「持ち帰ります」と言った。彼らは交渉には勝ったのだが「労働者を使い倒す以外に有効な経営手法を知らない」と言っているだけなので、経営者としては負けているというか終わっている。これは栄光ある大日本帝国陸軍が兵站は維持できないので兵士は飢えて死ぬだけだが戦線は維持できていると言っているのと同じことなのである。

さらにNHKも嘘をついている。ロイターは次のように伝えている。

[東京 13日 ロイター] – 政府が導入を検討する残業時間の上限規制を巡る経団連と連合の交渉が100時間を基準とすることで決着したことについて、安倍晋三首相は13日、「画期的」と評価した。

また安倍首相は「100時間を基準としつつ、なるべく100時間未満とするようお願いした」ことを明らかにした。

実は安倍首相は100時間を基準にと経団連を支持しており「なるべく〜お願いした」だけで決めすらなしなかった。時事通信はもっとめちゃくちゃなことになっている。首相の裁定を強調しつつ、結果は「玉虫色」と認めている。つまり政権が事実上過労死ラインを許容しているのだ。

つまり、この交渉は安倍首相のいうように「画期的」なものではない。誰も勝った人がいないだけでなく、伝えた人まで負け組になるというひどい内容だった。

しかし、NHKは「俺たちは報道機関だ」という気持ちが残っていたのだろう。過労死した家族の声を複数伝えて「到底納得できない」と言う声を伝えている。NHKはエリートなので今の地位を失うわけに行かず、したがって偉大な領導様のよき宣伝機関でいなければならない。そこで、過労死の犠牲者を表に出しておずおずと抵抗して見せたのだろう。

このようにこのニュースは受け手のリテラシーによってどのようにも取れるようになっている。つまり、騙されたい人は安倍首相の力強いリーダーシップを信じられるいうになっているし、そうでない人はそれなりの見方ができる。さらに複数ソースに当たれる人はそもそもこれが事実を調理したフェイクニュースだということがわかるのだ。フェイクと言うのが屈辱にあたるとすれば元の料理を子供の口にもあうように仕上げたインスタント食品と言って良いかもしれない。

NHKは主な受け手が子供ニュースすら理解に苦しむリテラシーしか持っていないことを知っていながら「隠れたメッセージ」を受け取ってくれることを祈っているように思える。

日本のマスコミってジャーナリズムの歴史とか教えないんだろうかという話

不思議なコラムを読んだ。長谷川幸洋さんという自称ジャーナリストさんが怒っている。どうも会社ともめているらしい。だがこれを読んでもさっぱり意味がわからない。いろいろ考えているうちに2つ不思議な点が浮かんだ。東京新聞ってジャーナリズムの基本的な歴史を社員に教えないんだなという感想を持ったという点と、日本の組織らしく職掌の文章化がされていないんだなという感想だ。

まず疑問に思ったのは東京新聞では一記者が会社を批判する記事を書いてそれが掲載されなかった時に「言論の自由」を盾にして掲載を迫る文化があるのかという点だ。もちろん内部での議論はするだろうが最終的には責任のある人が決めるのではないだろうか。そもそも紙面が限られているのですべての意見は載せられない。

もし記者がジャーナリストの良心として会社の方針に従いたくない場合には自分で発言の場を作るべきかもしれないし、そもそも新聞は記者の意見を発表する場所ですらない。新聞は経営的な判断から新聞の論調を決めなければならない。東京新聞のような後発は既存の新聞が持っていないニッチを探さざるをえないのでその傾向は強いだろう。

すると長谷川さんの特異性が浮かび上がってくる。論説委員という特殊な立場なので個人名で発言ができ、かつ新聞の論調を形作ることができる。さらに外部にも発言の場を持っており東京新聞の名前を使って個人的に収入が得られるはずだ。これらは特権的な地位と言える。そしてそれは個人の言論の自由の範囲を超えて東京新聞という組織を前提にしている。人々が長谷川さんの話に耳を傾けるのは「この人が東京新聞の論調を作っていて影響力がある人なのだな」と思うからだ。

もちろん社外でのプレゼンスを作ったのは長谷川さん個人の努力なのだろうから、それは最大限尊敬されるべきかもしれない。東京新聞が長谷川さんに社の名前を使うことを許しているのは東京新聞の宣伝になるからであろう。ゆえに長谷川さんが東京新聞の想定する読者が気に入らないことを言って東京新聞の商業的価値を毀損しようとした場合、新聞社はそれを差し止める権利は持っているはずである。

もちろん東京新聞が想定する読者を変えることもできるわけだが、それは内部で議論すればいい話であって、読者には関係がない。ここで「俺が正しい」とか「俺は正しくない」という価値判断が持ち込まれても外からは判断のしようがない。読者は「好きか嫌いか」しか言えないだろう。もちろんなんらかのイシューがあり、それが合理的かそうでないかということなら判断ができるわけだが、沖縄に基地を作るべきかなど言う問題は価値判断を含んでおり一概には決められない。

あるいは、東京新聞は末端の記者が黙々と記事を書き、偉くなった人たちがバラバラな意見を戦わせる言論プロレス的な見世物にするということはできるわけだが、それは言論の自由ではないし、読者も興味を持たないだろう。同じようなことを政党ベースでやっているのが民進党だが、有権者はもう民進党には興味を持たない。「決まってからお知らせしてね」と思うのみである。

ジャーナリズムはお金儲けなんかじゃないなどと思う人がいるかもしれないが、実は重要な要素だ。もともとは政党のビラのようだった新聞は、広告収入などを得ることで徐々に言論の自由を獲得してゆく。もし読者やスポンサーがジャーナリズムを支えるという文化がイギリスで発明されなければ、日本人は北朝鮮のように政府広報と自民党の機関紙だけを読まされていたかもしれない。

政党パンフレットが新聞になる過程ではできるだけ意見を偏らせないという方針が採られたようだが、それは貿易のために政治に影響されたくないという実利的な理由だったようである。

つまり「想定読者を決めて意見を整える」というのは言論の自由に大きく貢献しており、長谷川さんは知ってか知らずかそれを逸脱して騒いでいるように見える。自分の意見が同僚に否定されて頭に血が上っているのかもしれないし、体制に沿った意見のほうが儲かるのに、わざわざ儲からない反体制側にいる新聞社にいらいらしているのかもしれない。

もちろん、長谷川さんが外で意見を言うことに対して箝口令がひかれたりなんかすれば、それは言論の自由の侵害になるだろうが、東京新聞はそうは言っていない。もしそれに類することをすれば長谷川さんが大いに騒ぐことは明白だ。できるだけ刺激したくないのが本音なのではないか。

さて、ここまで書いてもやっぱり東京新聞は長谷川さんの言論の自由を侵害しているという人がいるかもしれない。長谷川さんは東京新聞の人なのだとすれば、東京新聞が東京新聞の言論の自由を侵害しているということになる。実際には東京新聞の中の人(仮に鈴木さんとしようか)と長谷川さんが対立しているわけで、東京新聞が長谷川さんを侵害することはできない。ということで「東京新聞の長谷川さん」は主語を巧みに使い分けて、あたかも集団が個人の自由を侵害しているような印象を与えているが、実際には新聞社内部の権力闘争に過ぎないのではないだろうか。

この件は「誰が悪いんだろう」と考えたのだが、東京新聞が悪いとしかいいようがない。下記のようなことが取り決められていないことで問題が起きているからだ。

  • 社員にどのような範囲で社外活動を認めるか。
  • 論説はどの範囲で個人の意見を伝えるか。あるいは個人が意見を言うのか、集団で論調を決めてから個人が請け負う形にするのか。
  • 最終的な経営判断と新聞論調は誰がどのように決めて兼ね合いをとるのか。
  • 論説委員というステータスはどのよう(定年とか規約違反とか)に獲得され、どのようになくなるのか。

責任と権利が曖昧なのでこうした問題が起きている。社の内部に闊達な議論がないと言論が萎縮してしまうという気持ちがあり、あまり明文化したくなかったという理由があるのではないかと思うのだが、やはり経営が危うくなり社員を処遇できなくなると、名前をつかって稼ぎたいという人が出てくる。現在の言論空間にはプロレス化欲求(一暴れするとお客が集まる)があるのでそれに巻き込まれたのかもしれない。

そして東京新聞が悪いというときには当然「東京新聞の長谷川さん」もその中に含まれることになる。

奥野総一郎議員の辻立ち

愛生町の道端で民進党衆議院議員奥野総一郎さんが辻立ちしていた。先週も殿台のローソンの前で拝見したので多分週末にはやっているのだろう。こういうことでしか日本は変わらないんだろうなあと思いながら通り過ぎた。

この話、当初は「希望はないけど、だったら気持ちが大切なんだよな」という筋で話を考えていたのだが、一晩寝かせてみて「意外とチャンスなのでは」と考え直した。ポジティブなアイディアというのはとても重要なように思える。

さて、話を元に戻す。正直言って民進党には全く期待していない。信号待ちの間の一分くらいで聞いた内容は「明治期に戻って人に投資すべき」という内容だったのだが、ぱっとしない内容だ。民進党のこの「人に投資しろ」はその後消費税の増税議論につながる。しかも自分たちで言い出すつもりもなく自民党にやらせてがっかりした有権者の票をもらおうというさもしささえ感じさせる作戦なのだ。日教組がバックの議員もいるので、教育現場に利益誘導するつもりではなどと考えてしまう。

にも関わらずこの辻立ちがいいなと思ったのは、多分誰にも知られないような活動だからだ。多分、駅(田舎とはいえ、駅くらいはある)とかショッピングモールみたいなところで演説したほうが効率的なわけだし、場所を決めて予め告知するともっと集客ができるだろう。人気がある議員や著名人を呼んでくるという方法もある。

ではなぜそういう演説会がつまらないのか。それは「安部打倒デモ」みたいな内容になることが大いに予想されるからである。この「安倍倒せ」は一部では猛烈に盛り上がっているが一般的な広がりは一切ない。つまり、予めトピックを決めてしまうと、想定の範囲にしか話が広がらない。

であれば「国会議員なのに、こんなところにも来るんだ」という驚きがある。一回や二回では変わらないかもしれないのだが、続けているうちに少しづつ印象が変わるかもしれない。

今の民進党には「何も期待しない」という人が大半だろう。蓮舫代表になってから「民進党って口先だけだよね」感は増した。多分テレビ的なパフォーマンスはできるんだろうが、全く驚きがない。テレビ慣れしすぎた人を起用したのはよくなかった。「地道さ」とか「実直さ」は今の民進党にもっとも足りない資質だろう。

Twitterを使って民情を煽るという方法ももちろん考えられるし、これは有効に使ったほうがいい。しかしTwitterは破壊行為には向いているが建設的な議論はできない。それは人々が「予め想定された範囲」でしか発信もリアクションもしないからだ。

さて、ここまでが寝る前に考えた話の筋である。驚きと実直さのアピールからはじめるのがよいのではないかというものだ。しかし一晩寝て考えがちょっと変わった。

これに車載(自転車で回っているのだが)カメラとPCと通信装置をつければライブ配信ができるわけだ。これをYouTubeなどで流しておいて人を集めるという手があるよなと思ったのだ。国家議員YouTuberという人はいないと思うのだが、国会議員に言いたいことがあるやつはここに集まれなどとやれば、ライブイベントの出来上がりである。

この国会議員YouTuberのメリットは、今までにないアイディアや不満などが直接聴取できるというところだろう。民進党は「言いたいことだけいう」という一方通行的な政党なのだが、彼らがいうことを誰も聞いてくれないという状態にある。

Twitterに欠けているのは「話を聞いたり、読んだりしてくれる」受け手だ。辻立ちは人の話を聞くよいチャンスなのだが、単にのぼりをもって演説している人に話しかけるのはなかなかハードルが高い。ライブ配信はイベントとして楽しそうだし、話しかけるきっかけになるのではないか。

意外と地道で地味な活動が最先端に近いのだなあと妙に感心した。まあ、民進党の議員がやるかどうかはわからないが、街頭演説をやっている議員は多いので、そのうち誰かが始めるだろう。

 

もう着るものに迷わないシステムの構築

もともとは 「向こう一週間の最低気温が5度を超えたら植物を外に出す」というようなシステムを作りたかったのだが、ライブドアのAPIでは最低気温・最高気温も今日と明日のものしか分からない。そこで今日の気温をもとに何を着ればいいのかを薦めてくれるというシステムを作ることにした。

まず下準備として写真にコートやジャケットなどというタグ情報を追加しておく。気温が7度以下になったらコートを着るなどというように決めておくのだ。ポイントになるのは10度近辺だとコートもジャケットも着られるが、7度くらいになるとコートしか着られないというように条件が細かく変わる点だ。

次にライブドアのWeather Hackからお天気情報を引っ張ってくる。今回は千葉市(120010)を選んだ。リクエスト結果がJSONで戻ってくる。PHPの受け取りは意外と簡単でfile_get_content($url)で受け取り、エンコーディングを整えた(多分UTF-8なのでそのままでもよいと思うのだが)うえで、 json_decode($json,true)する。すると配列に情報が入るのであとはprint_rで中身を確認しつつ必要なデータを取り出すだけ。意外と簡単だ。

お天気情報配信はRSSが多いようでこれだと少し使いにくい。Yahoo! はこのタイプ。

さて、個人的に使うものを世界中に発信するわけにもいかないので、いつものようにログイン情報がないと「使えない」旨の表示を出す。ただしお天気情報そのものは商用利用しなければ使っていいですよという仕組みのようなのでそのまま表示する。

ログインすると写真が表示される。例えば気温が7度以上で10度未満だと、コートは表示されないがセーターとジャケットが表示されるようにする。if($max < 7){コート}elseif{ジャケットとセーター}のようになる。とても簡単。

気に入らないコーディネートが表示されたら、ボタンを押して別のイメージをランダムに表示する。データベースをもう一度読むことはなく、予め該当する写真のURLをブラウザ側で蓄積しておく。JavaScriptを利用している。

同じことを、ファッション雑誌でやろうとすると朝起きたときに雑誌をひっくり返して、好みのコーディネートを確認するということになり現実性がない。例によってスマホで見てみたのだが、お天気とコーディネートを一覧するのには明らかに不向きだった。ただ、画像そのものをボタンにするなど工夫をして、とりあえずコーディネートを表示するようなシステムを作ることは可能だ。

このようにファッション雑誌もオンライン化すれば工夫によって様々な再利用ができることがわかる。

タグシステムを作る

ということで、1システムを作り終えたので、ためしにもう一つ作ってみた。だいたい2日くらいで50枚の写真(今度は寄せ植え)をタグとカテゴリーで管理するシステムを完成させることができた。

散発的に作っていると「あれどうやって作るんだっけ」ということになるのだが、一通りレビューしてからやるとその時間が節約できる。こういう技術が集積したミニシステムは意外と重要なのかもしれない。一つの作業に入るまでの時間を「オーバーヘッド」と呼ぶのだが、役職が明確でない現在の正社員層の人たちは大変なんだろうなあと思う。

発想と作業が不可分に結びついているということもある。着手する前にあれこれ考えたのだが、結局パソコンの前に座って作り始めたほうが早かった。最初はjQueryを使った難しいシステムを考えていたのだが、フォームにボタンを足したり外したりすればいいのだということに気がついた。で、小さなスクリプトを書くと動いた。こういう集積が大きなプログラミングにつながってゆくのだ。逆にいくらやっても動かないとモチベーションが下がる。今回作った仕組みは標準のjavascriptでできてしまう。と同時にリクエストを発行しサーバー側で管理することにした。

実際にはデータベースがエラーを返すことがある(あるいは動いていない可能性もある)ので、ボタンをサーバー側で発行してajaxで戻してやってもいい(というより本来そうすべき)なのだが、できちゃったし使えるからいいやと思った。

実際に難しいのはUIの部分かもしれない。ボタンなので押すとデータが消えてしまうし、間違いが許されない。Wordpressではタグの横に小さな×印がついている。PHPで整形してから戻してやるとか、javascriptだけで構成する必要があるのだろう。文字が入力されたフォームを消したり、Enterキーだけでフォームをサブミットしたりと、細かいところで使い勝手のよさが変わってくるはずである。こういうのは職人技の集積なのだろう。

いずれにせよいったんタグが作れると、すべてのタグを取り出してメニュー化できるので写真の一覧システムが作れる。今回は寄せ植えなので「使っている植物」がタグになった。

前回のシステムではカテゴリーもデータベースに入っていたのだが、今回は配列で対応した。前のシステムではカテゴリが数字になっていてそれに対応する名前を付ける仕組みなので後からカテゴリ名が変更できるのだが、今回は配列を変えてもデータには反映されない。カテゴリ名を試行錯誤しなければならない場合(カテゴリ作りそのものが学習の一環になっている)とそうでない場合(今回は季節と植木鉢の種類)では、作り方が違うということになる。

しかし、何かを分類するためには「タグ」と「カテゴリ」があると良いということは分かったので、さまざまな写真の分類に利用できると思う。

ライフログの大切さ

今日はライフログの大切さについて考えたい。ライフログとは毎日の生活を記録したものだ。ライフログはどうして大切なのだろうか。

モチベーションの維持

第一に習熟度が分かる。去年の秋からダイエットをしている。徐々に体重を減らして5kgくらいやせた。とはいえ1カ月にikg減るか減らないかというペースなのであまり面白くない。だが、去年秋に買ったトップスを着ると「うわ、こんなに体型が違うんだ」と思うこともある。例えば毎日写真を撮影していればその進捗が中期で分かるだろう。写真を撮影してもダイエットそのものにはつながらないのだが、モチベーションの維持はできる。見た目で成果が上がらない場合にはライフログはきわめて有効だと思う。

無駄な買い物をなくす

次に計画上手が立てられるようになる。これはライフログに学習効果があるからだ。例えば、過去に作った寄せ植えの写真を撮影している。何気なく作ったものを後から見直すと意外と絵になっていることがある。作っているときにはあまり良さ(悪さもだが)が分からないのだ。これを時系列に並べると計画も立てやすい。いつごろ何を植えればよいかが分かる。

これとは別にクローゼットの中身をすべて撮影している。このブログでも何回か書いているが、ファッションが分からないので勉強したいと思っているのからだ。システムを組んで何をいつ着たかがわかるようにしている。必然的にクローゼットの一覧ができるのだが、これを見るだけでも「こういうアイテムはよく着ているんだな」とか「これが足りないな」ということが分かる。現在登録アイテム数は170程度なのだが、これくらいであれば一覧処理は可能である。こうして記録すると無駄なアイテムを買う必要がなくなるし、失敗したものを再び買わなくてもすむ。ファッションの場合「こなせないけど好き」というアイテムがあり、そういうのばかり買ってしまうことがあるのだ。

歴史的価値

大げさだと思うだろうが、ライフログには歴史的価値がある。例えばジーンズはめまぐるしく変化しているが、このアーカイブが意外と残っていない。雑誌が記録しているはずなのだが、ファッション雑誌は1年くらいで売れなくなってしまうらしく、廃棄されてしまう運命にある。逆に1990年代のMen’s NON-NOなどが3000円くらいで売られている。不景気のせいなのか古本屋も淘汰されていて通販でしが買えないことも多い。意外と「ちょい前」の情報がないのだ。

普段着ているもののような「下らない素材」はほかにもある。例えば高度経済成長期の超合金なども現代であればアーカイブの価値があるだろう。こうした情報がまとまっているというのは大きなことなのである。

情報はあふれているが見たいものがない

現在、Twitterなどで情報があふれている。さぞかし必要な情報が手に入れやすいだろうと思うのだが、意外とまとまった形で保存されていない。これはTwitterなどのSNSが引用形で流れてゆくメディアだからである。

さらにコンテンツ制作のためにお金をかけないことが流行しており、まとめサイトが氾濫している。これも引用なので情報の集約には役にたっていない。偽情報を拡散しているだけだったりする。これは彼らのいう「情報」が一次情報ではないからだ。で、あらためて一次情報って何だろうかと考えると、それぞれは、作った弁当とか、着た服とか、歩いた距離と方向とか、こどものおもちゃなどの下らないデータの集積なのだ。

それでも、意識して選んでいると、すこしづつ何かが分かってくるのは楽しい。多分、学習には快感が紐づいているからなのだろう。画像アーカイブはWordpressなどを使ってもそれなりに楽しめるが(エントリーにカテゴリーとタグが付けられるので1枚1エントリーにすると良いのかもしれない)、手作りでデータベースとプログラミングが楽しめると、柔軟な画像データベースが作れる。サーバーは1カ月ワンコインくらいから手に入る。

Twitterで社会正義を追求したり有名人の不正を正したりするのも楽しいのだが、現実が1mmも動くわけではないし、情報が拡散されるだけだ。情報を拡散したら集約する側に回ってみるのも悪くないのではないだろうか。

画像をストックするサービスを作る

ファッション雑誌を集めている。コーディネートの参考にするためだ。スキャンしてウェブサーバーにアップロードする。「公開」状態になってしまうとまずいので、ユーザーIDを入力してアクセスを制限する。

スキャンの自動化

スキャナーした写真はそのままでは使えない。多分ページをバラバラにしてそのまま保存すると言うこともできるのだろうが、コーディネートだけを切り取って色彩を補正する。これは手作業が必要だ。リサイズは自動化できるのだがエラーも多いので手作業でやっている。しかしファイル名を整えるのにはアップルスクリプトが使える。ファイルをドロップすると連番と日付を付けてくれる。

メタ情報が重要

写真が100を超えてしまうとどこになにがあるか分からなくなる。そこで、データベースに情報を入れておくのが重要だ。付加する情報は試行錯誤の後、次の4つになった。

  • 時期(年・月)
  • どの雑誌(あるいはカタログ)から抜いたのか:出典
  • カテゴリー
  • タグ

時期の情報は意外と大切で、例えばジーンズの形が時代によってかなりめまぐるしく違ってくるなどと言うことが分かる。だが実際には雑誌によってかなり時代性が異なるので、出典ごとに並べたほうが分かりやすい。

すべての写真はなんらかの目的のために収集されているので、何らかのカテゴリーに分類できる。カテゴリーはある程度の決まりを作ったうえで分類しないと収拾がつかなくなる。一方タグはいくつでも思いつくままに作れる。1つの写真に複数のタグということも可能なのだがUIはやや複雑になる。1つに写真に1つのタグでもそれなりに使える。

つまり自由に使える分類と固定化した分類の2つがあると利便性が増すのだ。

インターフェイスとスマホ対応

レスポンシブルデザインができて当たり前みたいな風潮があるので、最初は両対応にしようとしたのだが、これはやめたほうがよさそうだ。PCは一覧性がメリットだが、これをスマホで再現すると写真が良く見えない。ポイントは「予め写真の大きさやプロポーションが決められない」という点であり、既存のグリッドデザインでは対応できない。ただ、ウェブでみるためには写真の高さは640px程度に抑えておいたほうがよい。

PC版で異なる大きさとプロポーションの写真を並べるためにはmasonryというプラグインが使える。Pinterest(あるいはテトリス)のように写真が並べられるのだが、可変グリッドと言う名前がついているそうだ。jQueryを利用している。メニューはアンカーで並べたほうが全体像が掴みやすい気がする。

一方、スマホは写真を一枚づつスワイプしたほうがよい。FlickityというjQueryのプラグインが使える。写真の高さをCSSで(imgタグではなく)100%指定した上で並べるとそれなりの閲覧性が得られる。メニューをアンカーで並べるとうるさいのでプルダウンメニューを多用することになる。リストをプルダウン化するプラグインもあるのだが面倒なので利用しなかった。

これを切り替えるのだが、ありものを継ぎ足して作ったためにかなり場当たり的な構造になっている。切り替えにはJavascriptを使う。自作したほうがよいのだろうが、ネットには簡易的なものが落ちている。ただし、当たり前だがPCではスマホのデザインも使える。ということで実際にはスマホでアクセスしてきたときだけ、スマホ専用のデザインに切り替えるようになっている。

後作業

今回は数年に渡って開発したものを継ぎ足しながらシステムを作った。当初はlightbox.jsなどを利用していた。これはprototype.jsを使うのでjqueryベースのスクリプトとはあまりコンパリビリティがない。またタグ付けのシステムは画像をリストアイテムとして扱うのだが、可変グリッドシステムはdivを使っている。このためこの2つのインターフェイスには互換性がない。

本来ならば、使われているスクリプトやメニューを外部化したり整理したりということが必要になるのだろう。データベースのアクセスも2つのやり方が混在していたりする。こういうリファクタリングをやらないとプログラミング上手にはなれないと思うのだが、なんとなく「動けばいいや」と思ってしまうところがある。最初から別のシステムを作り直してもよいかもしれない。

行動が楽になる

画像データベースに限らないと思うのだが、こうしたシステムを作ると行動が楽になる。例えばカーディガンを着るときに「過去に見た写真」を数ある雑誌から探すのは面倒だが、このシステムを使えばスマホの画面から一発でほしい情報に到達できる。

NHK大阪とオルタナティブファクト

べっぴんさんを見ている。大して面白いわけではないが、なんとなく時計代わりというかつなぎになっている。嘘もあるのだが、嘘ではなくファンタジーだと思えば気にならない。

これについて面白い感想を持っている人がいた。時代設定と学生活動家の扮装が合わないと言うのだ。単に設定ミスともいえるが、意味づけまで考えてみるとちょっと見逃せない点もある。

もともと日本の学生運動家はそれなりの意識を持って活動していたはずだが、時代が経つにしたがって「ファッション化」してゆく。専門的なことは分からないが、まだ切実さがあった時代を扱っているはずなのに、ファッション化しつつあった時代の学生運動家を扱っている点に違和感を感じているのではないかと拝察した。さらにひどいことに「冒険したいから一生懸命バイトする」などと言い出しており、大して反体制の意欲はないことになってしまっている。

ある意味これは普通の人たちが学生運動にもっている感想なのだと思うが(ヘルメットと角棒でなんかしてはるわ)やはり専門的に見ている人たちから見ると失礼なのかもしれない。

ただ、NHK大阪が<蹂躙>しているのはこれだけではない。ヴァン・ヂャケットの創業者について、闇市でふらふらしていた若者が十年経って戻ってきたらトレンドセッターになっていたみたいな話にしている。モデルになっている人物はもともと裕福な家の出で大学でもいろいろな遊びを経験した人だ。これが戦後アメリカの上流階級と接触しそのライフスタイルを日本に紹介した。その途中でアメリカ流のマーケティングが日本に持ち込まれることになった。つまりアパレル業界から見ると、この人物設定はかなり乱暴な改変なのだ。いまだに信者も多い人なので、NHKは誰がモデルになったか明かしていないはずである。

さらに今朝は使用人だった2名が「二人で冒険に出る」ことになっているが、これは使用人の死を扱わずに捌けさせるためだろうが、冷静に考えてみるとかなり乱暴だ。「最後まで面倒見ろよ」などとつっこんでしまった。

このようにかなり乱暴なドラマなのだが、NHK大阪が考証に手抜きをしているわけではないだろう。例えば「ごちそうさん」では食べ物に並々ならぬ関心があり念入りに時代考証もされていたはずだ。つまり専門的なことに対してはとても大きな関心があり、それ以外のことにはまったく関心がないということが伺える。

昭和の暮らしを描くということは、本来ならば専門家集団の考証が必要なはずなのだが、自分の守備範囲以外の点にはまるで興味がない。それだけではなく、自分の印象でいとも簡単に情報を操作してしまうのである。見ている人もアパレルとか活動かとか老人の行く末などには興味がないのでそれほど違和感を感じないのだろう。

ただし、学生運動に興味があった人もアパレルにはそれほど関心がないわけで「ほかの設定もめちゃくちゃですよね(笑)」みたいなことを指摘すると面倒になったのか「朝ドラには興味がありません」と返信してきた。まあ、専門分野には興味があるが、それ以外のことが分からないというのは特に珍しい現象でもないのだろう。

こうした視野の狭さは日本ではあまり非難されないし「専門的だ」として賞賛されたりするのだが、さまざまな弊害を生み出す素地にもなっている。例えばプログラマはプログラミングにしか興味がなく操作性の悪い仕様を運用側に押し付けたりする。営業もプログラミングに関心がなく「できますよ」などと気軽に言う。かつての日本の企業はこれを防ぐために正社員をローテーションしたりしていたのだが、正社員を削減した結果知識のサイロ化が急速に進むことになった。

専門性のわなについての事例には事欠かない。例えば大本営などはさらに悲惨で、現場で何が起きていても「よく分からないから」という理由で、仲間内の都合のよいストーリーを押し付けてしまうだけでなく、作戦が失敗すると現実を曲げ始めた。悪意を持って騙そうとしたわけではなく、当事者たちは「仕方がなかった」と思っているのではないだろうか。

NHKの朝ドラは「女の人が仕事をするのはとっても大変」ということを描きたいドラマだ。そこで受け手が興味を持つ点については念入りに考証するのだが、それ以外ことにはたいして時間をかけない。多分、日本型のオルトファクトというのは人を騙そうと言う悪意から生まれるわけではないのだろうが、結果として生じることがありえるのだろうし、多くの場合にはそれほど害もないものなのだろう。

JASRAC騒動で思う事

JASRACが音楽教室からお金をとるというのでバッシングを受けている。これを見ていて「音楽業界ってわりといいように思われていたんだなあ」と微笑ましく思った。もともと他人の才能と權利を啜って食べている人たちの集まりだということが完全に忘れられている。

個人的な思い出になるのだが、先輩たちが夜の飲み屋でカラオケマシーンを蹴って回ったという話を聞いた事があった。ネットカラオケが発展する前、カラオケの光ディスクには2つの規格があったのだが、ある規格は振動に弱かったのである。それが壊れれば別の規格が採用される。つまり営業がやりやすくなるのだ。

また別のところではあるアーティストの葬式で築地本願寺の周りに列ができたという話を聞いた。アーティストが偉大だということがいいたいわけではなく、俺が仕切ったから地元の「その筋の方」から文句がこなかったという自慢話なのだ。つまりはその筋の方に対応する人たちが管理職にいたということになる。もともと音楽は興行を仕切らなければならないのだが、興行にはその筋の方が仕切っていたりする。もともと水商売に付随したビジネスであり「カタギ」との仕切りは曖昧だっただろう。

繰り返しになるが「人の権利で食べてゆく」ということはそういうことだということである。そもそもがタレントを搾り取る「興行」なので、きれいごとでは済まないのだ。

その代わりレーベルの權利処理はわりとしっかりしていた。CDは出荷時に「売るもの」と「デモ」に明確に区分される。返品は決してA在庫には戻さないでB在庫と呼ばれて別管理される。なぜこんな面倒なことをしているかというと、原盤印税を支払うためである。返品を元の在庫にもどしてしまうとそれだけ印税が減ってしまうのでアーティストに不利だ。かつてはこれを手計算していたようだが、オフィス用の小型汎用機が入って自前のシステム構築ができるようになった。多分、音楽教室の教本も楽譜の時点ではしっかりと計算されているのではないだろうか。

しかし、演奏の世界はわりといい加減なように思える。テレビでは、二次使用も口頭で(つまり書面を交わさずに)やるような慣行があるようだし、印税も一括で契約して「使っても使わなくても年間いくら」で包括的に契約することがあるようである。

「JASRAC管理楽曲でないと放送してやらない」というような話をたまに聞く。これがJASRAC以外の管理団体が成立しない理由だと思うのだが、テレビ局側は「使ってやっている」といういう意識がありこれを改めようとしない。管理団体ごとに詳細に印税を払うとなると放送の中で使われた楽曲をすべて抜き出してデータベースを作った上で放送件数を数える必要がある。事務処理が煩雑なので「それはやりたくない」のだろう。

放送の優遇があるおかげでJASRACは未だに大きな顔をしており「アーティストの權利を守ってやっている」といいつつ無茶をやるわけである。音楽教室も一括で契約すれば少ない事務処理で印税計算できるという目論見があるのではないかと思う。多分「演奏ごとにいくら払え」というような話にはしないのではないだろうか。しかし、だったら教本を作る時点で計算して払いきりにすればいい話ではないだろうか。

JASRACが批判されるのは「權利者に食べさせてもらっている分際」なのに大きな顔をしており、なおかつ事務処理が雑というかおざなりだからだろう。宇多田ヒカルのように「学校では無料で使って欲しい」というようなアーティストは「営利であっても使用を許諾する」という契約を結べばこれまでどおりで済む話なのだが、JASRACは個別計算による支払いを嫌がるのではないだろうか。今でも「営利目的で音楽を使う人は自分で調べて申告してこい」と殿様気分なのだから。また、音楽教室も印税支払のためのシステムを組むのに多額のお金がかかると考えるだろう。

音楽教室とJASRACの騒動は当事者同士が納得いく話し合い(ないしは法廷闘争)すればいいと思うのだが、音楽が「カタギ化」することには懸念もある。もともと面では救いきれない感情を慰撫するような役割があった。社会的に認知されない労働者が疲れて酒を煽るときに慰めてくれるのが演歌などの歌舞音曲だったという側面があるわけで、それがTwitterでの罵り合いに変わっていっているのである。やり場のない気持ちを収める場所が減りつつあるのではないだろうか。

マスゴミは偏向しているという人に読んでもらいこと

さて、今日は「マスコミは偏向している」と考える人に読んでもらいたいことがある。教育の無償化について賛成か反対かアンケートを取ってみたい。

あなたは教育の無償化に賛成ですか?

このアンケートに反対する人はいないはずだ。教育はイイコトだし、無償化もイイコトだからだ。ちなみに戦争はワルイコトであるので良くないという人が多いかもしれない。多くの単語には色がついている。

じゃあ、これはどうだろうか。全く同じことを聞いている。

あなたが隣の子供の教育費を負担することに賛成ですか?

もし、あなたが子育て世代であれば賛成するかもしれないが、高齢者であれば反対というかもしれない。しかし、これは無償化のもう一つの側面であることは確かである。が、こういう聞き方をすると誘導であるという批判がでかねない。

さらに具体的なことを聞くと偏向度が強まる。単に具体的なことを聞いているだけなのだが……

  1. 教育無償化のために消費税増税するのに賛成です?
  2. 教区無償化のために成長の果実を使うことに賛成ですか?

これだと2を選びそうなのだが、2は「成長の果実がなければ教育予算を削減する」ということだ。

では、これはどうだろうか。

あなたは国家がすべての教育に介入することに賛成ですか?

明らかに「左翼が歪曲している」と取られかねない聞き方なのだが、実際に「国が教育を無償化する以上「フェアな形」で教育に介入すべきだ」と書いている国会議員の主張を見た。スポンサーがなんらかの形で内容に介入するだろうと考えるのはむしろ自然なことなのである。フェアという言葉が気になるが右翼の人たちにとってのフェアというのは「自分に都合が良いように」ということなので、ほぼ「国が(つまりは俺たちが)教育に介入してやるぞ」というのと同じことになる。中には「憲法は国が(すなわち俺たちが)国民に訓示するものにすべきだ」と真顔で書いている国会議員もいる。

ちなみに現行憲法はこの辺りを実に絶妙に表現している。全ての国民は教育を受ける権利があるとした上で、能力に応じた教育と、義務教育を分けて考えており、そのうちの義務教育は無償だとしている。「私学」が義務教育から廃除されるべきとは書いていない。

ところが今回の無償議論は「私学助成」を含んでいる。高等教育をここに含めてしまうと「最低限アクセスできる高等教育」にどれくらいの価値があるかという議論が生まれかねない。ゆえにこういう質問も成り立つ。義務教育の高等教育版だ。

あなたはだれでも通える大学を国が作ることに賛成ですか?

これ「わからない」という人が多いのではないだろうか。いわゆる駅前大学(県庁ごとに作った国立の大学をそういう)を想起する人が多いだろうし、いわゆるFランク校(偏差値底辺校ともいうそうだ)も該当しそうだ。つまり、選抜されない学校は就職に役に立たない可能性が高い。そんな大学を作って税金でまかなって何の役に立つのだということになる。


さて、ここまで書いてきて「政治的に完全に中立な」アンケートなど取りようがないことがわかる。単純な聞き方をすると「政府に白紙委任状を渡す」ことになる。これでは政府広報と同じである。教育無償化はイイコトだという議論のうらにあるべき制度設計が全くなされていないからである。

かといって、いろいろ疑い始めると「サヨク認定」される可能生が強まる。「民主的に選ばれた政府を疑うならお前は反日だろう」というわけだ。学校に通えない可哀想な子供の話を散々聞かされている市民団体のお勉強会などにいって「教育無償化」について聞いてみるのもいいかもしれない。多分「ムズカシイことを聞いて私たちをバカにしてる」と言われること請け合いだ。

つまり、政治的に中立なアンケートなど取りようがないことがわかる。こんな単純なことを聞くだけでも中立になりえないのだから、政治的に中立な報道などあるはずがない。すべての政治的意見は偏向せざるをえないのであって「単純な正義」などはありえないのではないだろうか。