なぜ安倍政権で忖度が横行するのかを探るヒント

こども保険のニュースが断続的に出ている。そこで記事を読んでいて時事通信の記事に面白い記述を見つけた。

下村氏らが動きだしたのは、日本維新の会が改憲項目の一つに教育無償化を掲げ、首相が前向きな姿勢を示したのがきっかけ。

記事は、小泉進次郎議員が仲間と取りまとめたアイディアの賛同者を集めるために、下村さんたちにピッチに行ったという内容なのだが、面白いのは「忖度の現場」がさらっと書かれているということだ。気がつかない人も多いのではないかと思えるほどさりげなく描写されている。時事通信のようなオールドメディアの人たちにとっては当たり前のことなのだろう。

だが、この現場を捉えることで、忖度と言われている現象が何であって、何が問題なのかということが分析できると思う。

記事によると下村さんたちは教育国債を押しているようだ。これは負担増が選挙に悪影響を与えることを下村さんらが知っているからだろう。自民党は国民を説得して態度を変えさせるのが苦手で代わりに水面下で物事を自分たちの有利なように運びたがる文脈限定型の意思決定を行っている。だから、負担増につながる保険は政治的な壁が高い。一方で安倍首相は明確な指示を与えないままで「教育の無償化いいんじゃないか」と仄めかしたという状態になっている。

ここから下村議員たちは「提案」を行うのだが、すでに二つの要望が織り込まれている。それは「国民は負担を嫌がる」ということと「安倍首相には気に入られるような提案にしたい」というものである。さらに「民進党の提案を潰したい」という思惑もあるだろう。ポイントになるのは安倍首相は方針を明確に示していないということだ。つまり、本当に教育を無償化したいのか、それとも維新の会のご機嫌をとっただけなのかわからないのである。だから下村議員たちはそれを「想像で補っている」のである。

うまくいっている限りにおいてはこの関係はすべてのメンバーを満足させる。下にいる人たちは自分たちが組織を動かしているという有能感に浸れるし、上にいる人たちは自分に気にいる提案ばかりが持ち出されるから上機嫌で決済することができる。相互依存(甘え)がうまく成り立っている状態だ。

一部で忖度は「指示がない命令だ」というような言説が出回っているのだが、日本の場合には相互のあやし合いという側面があり、必ずしも「命令」だという意識はないのではないかと考えらえれる。

もし安倍首相が自分のプロジェクトを強引に進めたいタイプであればこうした「自分が組織を動かしていると思いたい」人々の機嫌を損ねることになりかねない。安倍首相は自分たちの周りをイエスマンだけで固めているので大きな混乱が生じている。例えば稲田防衛大臣のような無能な政治家が安倍首相の周辺が描いためちゃくちゃな振り付けにしたがって安保法というダンスを踊るとするととんでもないことになる。だが、その周りにはもう少し曖昧な人たちがいて、それなりの調整機能が働いている。だが、その関係は極めて曖昧であり「読み間違い」や「誤動作」を起こしかねない。

誤動作の一つは、愛国を唄う支持者たちが虐待まがいの教育者で、詐欺まがいの行為を役人に強要していたという例に端的に現れている。安倍首相は慌てて関係を切ったのだが、大炎上してしまった。また妻もコントロールできないので遊ばせていたところ、実はとんでもないプロジェクトに首を突っ込んでいた。公私の境が曖昧で自分の理想のためには手段を選ばず、善悪の判断もつかない。公務員を選挙に稼働したと騒ぎになっている。

「一事が万事」というが、実は下村議員もマネジメント能力には問題がありそうだ。小池都知事と東京都連の問題を解決できておらず、公明党との関係にひびを入れている。小池都知事は自民党をやめたと言っているが「誰も離党届を受け取っていない」という状態になっている。混乱は極めて深刻で「出て行けるもんなら出て行ったらいい」と記者の前で口走る国会議員さえ出ているそうだ。無能なマネージャーが組織を掌握できないと問題が出てくるわけで、却ってボスのご機嫌をとる必要が出てくる。これがさらに組織がガタガタにさせるのだ。

つまり、仄めかしに近い漠然とした指示を出す弱いリーダーと猟官を狙い身勝手なダンスを踊りたがる官僚的な組織があるところには、今日本で言われている「忖度」が横行することになる。しかしそれは「忖度」に問題があるわけではなく、組織のグリップが取れなくなっているところを「非公式なコミュニケーション」で補っているところに問題がある。だから「指示した・指示していない」とか「言った・言わない」が問題になり、なおかつ誰も責任を取らないということが起こるのだ。

これに加えて、痛みを伴うような改革ができない点にも問題がある。小泉議員らの提案は国民の負担増を求めるので、当然政府与党も引き締めを図り有権者・納税者を納得させる必要がある。しかし国民は冷めた目で政治を見ており「負担が増えないなら少々めちゃくちゃでも放置しておこう」と考えているのではないかと考えられる。そもそも厳しい意思決定はできない。また、組織は「自分たちの好き勝手にさせてくれるから」という理由で曖昧な指示しかしないトップを担いでいるのだから、組織はなりゆきのままで漂流することが予想される。

つまり、安倍首相が危険なのは彼が戦争ができる国づくりを目指しているからではなく、政府が無管理状態になった挙句、問題が次から次へと出てきて何も決められなくなってしまう可能性が高いということなのだ。すでに「言った言わない」が面白おかしくワイドショーネタになるような状態が続いている。日本は重要な局面で意思決定ができずさらに漂流するかもしれない。

 

巻き込みリプを嫌う人たち

Twitterの仕様が変わり「巻き込みリプ」が増える懸念があるということが問題になったらしい。ちょっと不思議な騒動だと思ったが、これを考えて行き着いたのは日本のコミュニティの特徴だった。どうやら個人主義と集団主義が入り混じっており、円滑にコミュニケーションをとるためにはこれを意識して使い分けなければならないということなのではないかと思う。さらに考えてゆくと社会で円滑にコミュニケーションをとるための経験と知識が失われつつあり、新しい形を模索しているのかもしれない。

巻き込みリプというのは、調べたのが正しければこういうことのようだ。AさんがBさんと話している。Cさんがやりとりに加わりAさんが抜けた。しかしAさんとBさんの名前が残っていると、Aさんにも通知が行く。これを巻き込みリプといい「迷惑行為」だとみなされるという。

これが問題になるのは、Twitter上の会話がそれほど愉快なものではないからではないかと思った。もし「そうですね、すばらしいですね」という意見だけであればそれほど問題にならないのだろうが、クレームなどの場合には不愉快な体験を拡散してしまうことになる。

だが「不愉快仮説」だけでは解決しない。そこで、そもそも同質ではない人たちと会話をすること自体に苦手意識を持っている人が多いのかもしれないという仮設に行き着いた。フォロー・被フォローの関係でやりとりしているうちはある程度の親密さが確保されるのだが、これがワンホップするだけで「知らない人」になる可能性が高いからだ。つまり、Twitterでは日本人が持っていた、集団主義と個人主義を使い分けるというやり方が通用しないのだ。

知らない人を不快に思う態度は、子供などでによく見られる。多分コミュニケーションとしてはある程度の緊張が伴い、それに耐えられないのだろうし、自我が発達していないので何を主張して何を引くべきなのかということが分からないのだろう。

例えば、かつての日本人は敬語を使うことで距離を置いていたのだが、そうした距離のとり方も理解されていないのではないだろうか。

公共圏での距離のとり方は日本独特のもので、集団主義的傾向の強い韓国人や中国人たちからは「冷たい」と感じられることが多いようだ。韓国人は日本人に対して「この人とはとても仲良くなれた」と感じたあとで裏切られた感覚を持つことが多いという話を聞いたことがある。日本人には「親密な態度を装っているが実は距離をとるためにそうしている」だけという場合がある。

一方で意見調整型のコミュニケーションは西洋系の人たちからは「遠慮しあっていて」正直ではないとみなされることがある。相手の意見を聞いているだけのように見えてしまうようだが、実は聞き返されることを期待しているということが分からないのだ。

つまり、日本人が距離をとってばかりというのも間違っている。古くからある職場ではかなりあけすけな意見が飛び交っているはずで、上から下に対するものもあれば、下からの突き上げもある。このため旧来の日本は稟議書社会で下からの提案を上が決済することになっていた。最近あった、三越・伊勢丹での社長放逐もその一例だそうだ。上からの改革を労働組合が嫌ったのだ。

つまり、古くからあるコミュニティを知っている人は、うわべだけで距離をとったり、下から自分の意見を通したりというように、形式的な関係と本音をうまく使い分けてきたということが分かる。集団主義の体裁をとっていながら、実はとても個人主義だったり、やはり集団主義的な行動が求められたりするわけだ。つまり、明示的な関係と暗黙的な関係をうまく読んで成り立っている社会なのだ。

ここからTwitterで個人が情報発信するというのは、日本でこうした複雑な社会が壊れつつあり、個人として意見形成したり、集団を形成したいというニーズがあるこことが分かる。

しかしながら、明示的な個人主義を体得していないままでこうした情報空間に放り込まれる(自ら進んで参加しているわけだが)さまざまな軋轢が生まれるということになる。

Twitterは、自分の意見を押し付けてくるが何を言っているのかさっぱり分からない人を良く見かける。経験を共有している集団では自分の意見を表明できなくても、周囲が補ってくれる。また共有された価値観のセットも豊富にあるので意見を形成する必要すらない。こういう人が裸で個人主義社会に突入するとこうなってしまうのだろう。

その意味では「Twitterなど無駄」ということもいえるわけだが、スピリチュアル的に言えば「人生は修行なのです」ということになる。つまり、壮大な路上教習なのかもしれない。

 

日本のお笑いはなぜくだらないといわれるのか

はっきり言って、エイプリルフールなんてウザいだけの行事だと思っていたのが、今年はちょっと状況が違った。Twitterのタイムラインに朝から厳しめのツイートばかりが並んでいたからだ。「朝生」の森友問題で興奮した人が多かったようである。そこで、ちょっと場を和ませたいなあと思って嘘ツイートとネタ投稿をしたのだが、当然のことながらタイムラインの緊張を和ませることはできなかった。

そこでいろいろ考えているうちに、茂木健一郎と松本人志氏のお笑い論争にゆきあたった。「なぜ日本のお笑いは面白くないのだろうか」というものだ。

それを考え出すと「よいお笑いとは何か」について考えなければならないのだが、今回の議論を聞いていると「よいお笑い」に関する理論的な構築は全くといっていいほどなされなかったようだ。茂木さんは最近でも「小沢一郎が民主党に復帰すると日本がよくなる」という何の裏打ちもないネタを披露しており、本来たいした学者ではないのかもしれない。これが議論が成り立たなかった原因だろう。

実は現在のTwitterの状況は「よいお笑いとは何なのか」を考える上で大きなヒントを与えてくれる。それは緊張だ。この緊張が不景気からきていることは間違いがない。だが、安倍首相とそのお友達は国家の私物化計画を着々と進めておりデタラメな理論で攻めてくる。それを不快に思っている人たちが騒ぎ、不快に思っている人たちを不快に思っている人たちが反撃するという状態である。つまり、政治は人々に緊張をもたらしているが、解消の糸口がないのだ。こうした極端な状況下でなくても、社会は緊張に満ちている。そこで笑いが必要になる。群れが窮屈だとそれだけで緊張が生まれるのだ。

では、笑いとは何だろうか。犬をくすぐると犬は逃げるかくすぐられても気持ちがいい場所を当ててくる。くすぐられるのが嫌だからだ。しかし人間は別の反応を示す。それは笑いだ。つまり、笑いには緊張の緩和という生理的な目的があるのだ。これは人間が群れで生活しており、逃げ場がない空間で緊張を処理する必要があったからだろう。Twitterも逃げ場がない情報空間を作っているが、人間にはそれを緩和するための手段をまだ獲得していないのだ。

つまり、笑いの基本構造は、緊張とその緩和であると言える。

日本のお笑いももともとは西洋喜劇の流れを汲んでいる。悲劇が劇空間が消滅することで緊張を緩和する一方で、劇中で緊張が起きて劇中で解消するのが喜劇である。例えば「フーテンの寅さん」もこのフォーマットに則っている。寅さんが恋に落ちて緊張する。また、マドンナも何らかの問題を抱えている。これを寅さんが解消すると見ている人たちはほっとできるだ。だが、寅さんは必ず振られるので劇空間が消滅して、緊張は完全に消滅するのだ。

だが、平成期に入って「群れ全体が緊張から解き放たれる」という笑いと並んで台頭したのが弱い人を叩いて笑いを取るという「いじめ型の笑い」だ。いじめられている人をみることによって「自分が攻撃対象でない」ことを知り、なおかつ生活で感じたストレスのはけ口にするというタイプである。いじめられるのは、知的に劣っている人や、見た目の著しく崩れた女性などである。これは「競争意識」に基づいて、かなり緻密に計算されている。

いじめ型の笑いは他人の犠牲を必要とする。だから笑いとしては低俗である。また、いじめによって緩和の緊張は起こらない。単に緊張が持続するだけである。

もちろん、その他の笑いも残っている。例えば権威を持っている人(校長先生)の口調を真似て見せるのには権威がもたらす緊張を無効化する役割があるわけだし、みんながもやもやしていることに言葉を与えて「腑に落ちる」形にするお笑いもみかける。中には力技で「そんなの関係ねえ」という人もいる。これらはすべて緊張の緩和に関連している。ダチョウ倶楽部では「キス」が緊張緩和に役立っている。

これらがすべて「くだらない」のはどうしてだろうか。それは、緊張緩和というオブジェクティブに日本人があまり関心を持たないからではないだろうか。関心は手段の緻密化に向かう。大元の原理には関心を向けず、精緻化に心を砕くのが日本人なのだ。そこで、自動化が起こってしまうのだろう。緊張緩和で笑いが起きたとしても「なぜ笑ってスッとしたのか」ということは考えず、次も同じ動きをしたら同じ感情が得られるのではと感がてしまうのだ。このため、一度流行ったネタを繰り返しやらされて消えてゆく芸人は多い。それは、笑いに理論的な裏付けがないからなのである。

さて、エイプリルフールで乙武洋匡さんが「車椅子を売っぱらった」というネタを披露していた。これにレスがついていたのだが、「センスがいいか松本人志さんに判断してもらおう」という書き込みを見かけて面白いなと思った。ネタを分析するとあまり面白くないのではないかと思う。なぜならば、笑いの前提になる緊張がないからである。緊張しているのは不倫がばれて自虐ネタを披露しなければならないと考えている本人だけで、その緊張を社会と共有しているとは言い難い。

しかし見ている人にも評価の軸がない。すると権威化と原理化が起こるようだ。つまり、松本さんがすべらないネタだと認定したら、それは笑うべきなのだということになるのだろうし、過去の累計で権威化することも起こるのではないか。

松本さんは今回の議論の中で茂木さんをいじろうとしたが、どのようなお笑いが良いものなのかという評価はしなかった。原因は二つ考えられる。松本さんはお笑いの実践家であって評論家ではないので論評を避けたか、お笑いについて構築的な議論なく「何が面白いのか自分でもわかっていない」という二点だ。

もし、後者が正しいとしたら、松本さんは過去に流行ったネタをみんなから飽きられるまでやってゆくしかなく、やがてはとんねるずのように「あの人オワコンだね」と言われるようになるのだろう。だが、松本さん自体のお笑いは「状況の無効化」を狙ったものが多いようだ。いわゆる「シュールな」というものだ。多分、原理があっていくつかの表現を駆使しているのではないかと考えられる。

ちょっと長くなったが、エイプリルフールの軽い嘘が楽しめるような世の中は健全な世の中と言えるし、他愛のない嘘は場を和ませる。来年こそはフェイクニュースやオルタナティブファクトなどに惑わされずに、くだらない冗談で笑いあえるような状況になっていて欲しいものだと思う。

 

道徳の文部科学省検定の何が問題か

道徳が教科になるということで教科書検定が厳しくなったようだ。パン屋が和菓子屋に改められたというのが反発を呼んでいる。そこでハフィントンポストの記事を読んでみたのだが、問題はそれだけではないようだ。ただ、いろいろ考えた結果、道徳って我々が思っているより暮らしに密着しているんじゃないかと思った。イデオロギー対立の道具に使って<議論>しちゃっていいのかというのが最終的に訴えたいことになってしまった。

ハフィントンポストによると「指導要領の内容を網羅するため」ということで、消防団に参加するパン屋のおじさんがおじいさんに改められたりしているという。国粋主義が強まっているという疑念はそれなりにあるのだが、それ以前に気になるのはフォーマリズムだ。

道徳の目的は、円滑な社会生活を送るために必要な姿勢を作り出すことだ。だから、子供の内部に社会や個人に対する肯定感を育てる必要がある。つまり、道徳教育でで語られることは「例示」にすぎず、多くの例示のなかから内部に「価値観」を作ってゆき、実践することが大切ということになる。

ところが、文部科学省の人たちは、内在的な規範の大切さがわからないようだ。外形的なことを暗記さえすればよいと考えるから「網羅」を目指すのだろう。記事によると教科書を作った人たちはこの点に大いに戸惑ったようだ。心でなく形ばかりが重要視されているというのだ。

同じような教科が英語だ。日本の英語教育は「教科書に書いてあることを覚えさえすればそれでよい」ということになっていて、それを英語が話せない先生が教える。だから英語が話したければ、学校教育をすべて忘れて英語を学び直すことになる。そうしないと実践的な英語が学べないからである。具体的にはアカデミックイングリッシュとかビジネスイングリッシュなどの語彙を覚えないと実践的な英語は話せない。そしてこれは受験英語とはかなり異なっている。

さて、ここまで書いてちょっと寝かせておいた。その間にバイト敬語を耳にする機会があり、道徳というのは思っているより言語性が強いのかもしれないと思い直した。

敬語は待遇表現なので、動詞とか形容詞の変格を勉強しただけでは身につかない。学校の敬語教育が型どおりのものでも構わないのは、我々が学校の外で待遇表現について学ぶからだ。主な通路は家庭と会社なのだが、家庭で基礎的な待遇に関する知識を学べないと敬語が身につかない。すると就職活動で不利になり最終的には経済格差につながる。

我々がそれに気がつかないのは実はかなり恵まれた家庭環境にいるからなのだが、バイト敬語の人たちは待遇表現の基礎を家庭で学ぶことができなかったはずだ。すなわち親も敬語が使えない可能性が高い。つまり社会格差は親から子に引き継がれてしまうということになる。社会的格差の誕生だ。

英語にも同じ側面がある。言葉が話せても裏にある個人主義文化が学べないと面接に対応できない。英語の面接では「御社のためになんでも頑張ります」などと言っても落とされてしまう。自分のスキルを例示して、だから御社に貢献できると言わなければならない。これはチームプレイに対する考え方が異なっているからなのである。つまり、言語には社会性があり、それによって選択肢が変わってきてしまうのである。

同じことがが倫理にも言える。文章を書いているような人間が「学校の道徳教育なんてくだらない」などと言えるのは、実は家庭で基礎的な道徳を学んでおり、その結果として就職活動にも困らなかったからだ。ところが中には親に倫理観念があまりなく、従って面接などでも「どう振舞っていいかわからない」子供もいるはずだ。敬語と同じでよい規範を持っている人は他人と信頼関係が結べるのでよく処遇される可能性が高い。すなわち、どのような倫理規範を内在的化したかというのは経済問題に直結してしまうのである。

学校で型どおりに道徳を学ぶということは、ほぼインスタントラーメンだけを食べさせられているというのに等しく栄養が得られない。普通の家庭に育った人はそれでも構わないわけだが、そうでない人は大きな影響を受ける。

例えば敬語が使えなかったり道徳的でない人が偉くなることがあるだろうという反論もありそうだが、どう振る舞えるかということが重要で、どう振舞っているかということはあまり関係がない。バイト敬語の人たちは使いたくても正しい敬語が使えない。マニュアル通りの対応はできるだろうが、それではマネージャークラスの面接には受からない。これを国際的に展開すると国粋主義的な道徳観を身につけた人は複雑さを扱う多国籍企業には採用してもらえないだろう。嘘だと思うなら、金日成絶対主義の教育を受けた人が北朝鮮の人が一人で東京で働くことを想像してみるとよいだろう。

つまり、道徳には極めて実務的で排他的な側面がある。だから、道徳の議論をするときにイデオロギー的な側面だけを考えるのは実は有害なのではないかと思う。

 

できるだけ手間をかけずに趣味の写真をまとめる

Webサイトを使ってコレクションの写真をまとめて発表したい。でも、できたらシステムのメンテナンスではなくコレクションそのものに集中したいですよね。そこで写真の管理を極力簡単にするようなワークフローを考えてみました。準備するのはPHPが動くウェブサーバーとMacintoshです。globは4.3以上で動くそうですがもうPHP5じゃないシステムは残っていないと思います。最新のバージョンではWeb共有はなくなってしまいましたが、ローカルでAppacheを走らせることは可能だそうです。

まずコレクションの写真を撮影したら作品ごとにフォルダーを作ります。Macintoshはフォルダーに写真を貼り付けられるのでフォルダーのサムネイルを写真にすると整理が楽です。Windowsの人はどうやって写真を管理しているのだろう。

  1. フォルダーを作る。
  2. コマンド+iで情報を表示しフォルダーアイコンを選択。
  3. 好きな写真をコピーして、貼り付けます。

前回作ったシステムに導入してゆくのですが、今回はあらかじめディレクトリとタイトル情報を配列化しておきました。こうするとデータベースを作らなくて済むので楽です。管理画面を作る必要もないし、phpMyAdminを毎回叩く必要もありません。で、コアになるコードはこれだけ。ファイルはアルファベット順に読まれるので時系列順に名前をつけておいたほうがいいです。これでファイルを追加するたびにデータベースを書き換えたりHTMLを書き換えたりする必要はなくなります。

foreach (glob($dir,GLOB_BRACE) as $imagefiles){
echo <<<EOF

<div class=”item”><a href=”$imagefiles” rel=”lightbox[images]”><img class=”centerimage” src=”$imagefiles” alt=”image”></a></div>
EOF;
}

<script src=”masonry.pkgd.min.js”></script>を使うと自動でグリッド上に並びます。Masonryなどは別途ダウンロードしてください。スマホでの表示を考えると横幅280ピクセル位がよさそうです。帯域が狭いときはサムネイルとなどを作ったほうがいいのかもしれませんが、面倒なので今回はやりません。回線が早いと読み込みにさほど時間もかからないので便利な時代になりました。サムネイル作りはPHPで自動できると思います。

<script src=”lightbox2/src/js/lightbox.js”></script>をライトボックス化のために導入します。面倒なので自分でプログラミングはしません。ライトボックスを使うとこのように大きな画像が表示できます。スマホで試したら自動で表示変更してくれました。ただスワイプじゃないのでちょっと気分が出ません。スワイプで使えるプラグインも探せばあるかも。 Masonryは最初の読み込みで不具合がでることがあるので、イメージがロードされた時に並べかえが必要です。そのためにもプラグインを導入します。<script src=”imagesloaded.pkgd.min.js”></script>です。イメージがロードされたらこれを読み込むと画像が整列するという仕組みです。

$(function() {
var $container = $(‘#container’); $(‘#container’).imagesLoaded( function() {
$container.masonry({ itemSelector: ‘.item’, isFitWidth: true, isAnimated: true
});
});
});

で、グリッドが自動なので縦と横の写真が混在していても大丈夫です。スマホでもなんとか表示できます。

DISQUSを使えばコメント欄もつけられます。Twitterでシェアなどもできますが、その場合にはmetaタグなんかを整備しておいたほうがいいです。これで、写真を軸にしたSNSも簡単に作れるわけです。今回の例は植物なので時系列で並べてますが、ジャンル別にディレクトリを分けてもいいと思います。

フリーランスが協力するということ

不思議な文章を読んだ。ブログで食べている人がいたが、Googleでの検索順位が下がってしまって食べられなくなったという話だ。ブログはGoogleがつくったエコシステムにあるので、収益がGoogleに依存してしまうのだ。つまりブログで食べて行くのはリスクが高い生き方でありお勧めできないという結論になっていた。

確かにブログで文章を書いても大した収入が得られるわけではないし、Googleが作ったプラットフォームに依存していただけでは不安定だ。だから活動を何らかの形でリアルに結びつけることが必要だという結論は容易に得られる。だが、どうもそうはならずに「やっぱりやめておこう」というのは、やめる理由を探すのが得意な日本人らしいなと思った。

リアルに拡張する方法はいくつもある。例えば、ブログ発信のスキルがあれば、オンラインコミュニケーションのプラットフォームが作れるようになる。Wordpressを使う技術やサーバーの管理方法の基礎などが学べるからだ。

また別の何かを紹介するブログも作れる。例えばおもちゃのコレクションが好きな人はそれを成果物にしても良いのではないだろうか。収入が得られたら個人的な趣味の分野の資金に使える。サーバー費用+趣味の費用くらいだったらそれほど無理なハードルにはならないだろう。いきなり「生計を立てよう」とするととてつもなく高いハードルになるが、月にワンコインくらい稼ぐのは「なんとか頑張ればできる」範囲だろう。

た海外の人たちは自分の知識をためておいてレジュメ(職務経歴書)のようにして使っているようだ。日本では弁護士などが専門知識の解説をやっていることがあり、IT技術者が技術文書をまとめておくポータルサイトもある。ただ、日本の会社はジョブディスクリプションがはっきりしないことが多く、専門分野を持っていることが疎んじられたりすることはある。なおかつ会社が知識を持っているという意識が強いので会社が専門的な情報発信を嫌うのかもしれない。これは社員のネットワーキングを阻害し、知識の陳腐化を招く大変危険な行為だがなかなか気がつけないのだろう。

また、アメリカではフリーランスの労働人口が1/2に達するという統計もあり、専門知識を開示するニーズが高いのかもしれない。

ブログを書いている人とプラットフォームを提供しているGoogleやYouTubeはサプライヤーとバイヤーの関係にあるのだから、同じ分野の人たちと協力してより良いニッチを作ることも可能だ。お互いの文章を紹介しあったりするだけでもよいはずである。特に政治的なブログを書いている人たちは専門家を集めてネットワークを作り、お金を出し合ってディレクトリサービスを立ち上げたり、腐敗した政治家の調査を分担してまとまったレポートを書いたりできるはずである。

ところがいくつかの理由でこれは難しい。日本人のフリーランスはコンサルタント商売が多い。企業の下請けとして何でもやるが、自分では何も作れないという人たちだ。おのずからフリーライダー志向が強くなりボランタリーなネットワーキングを私物化したり、客を奪おうと考える人が増える。そこまでの悪意がなくても専門知識(デザインやプログラミングなどが多い)を無料でもらおうとする人も多く見かける。これは自分たちがそのような使われ方をしているからだろう。形にならないものはタダというもっとも悪い文化を継承しているのだ。

次に社会人的スキルがないことがある。いったんフリーとして成功してしまうと「俺は周りに気を使わなくても生きていけるのだ」というような気分になってしまうようだ。さらに成果主義にたいする間違った考え方があるので、アフィリエイト収入を自慢してみたり、企業で真面目に働いている人をバカにするような発言を目にすることも多い。フリーランスの専門職が当たり前のアメリカと違って、やはりフリーでも生きて行けるのは特別すごい人に違いないという思い込みがあるのかもしれない。個人の能力に対する過度な自信があると、確かに協力してニッチを作ろうという気持ちにはなれないかもしれない。

さらにパイが限られているという幻想もある。例えば総放送時間が限られているテレビで俳優がやてゆくためにはテレビ局に気に入られる必要があり、結果的に労働環境が悪化する。そこで組合を作ればよいのだが「非組合員が優先して使われるのではないか」という恐怖心からなかなか協力関係に踏み出せない。ネットには総放送時間の縛りはないはずなのだが、どうしても同じような発想から抜け出せないのかもしれない。

バブル崩壊の過程でITバブルが起きた時、パートナー企業やフリーランスが台頭するのではないかという期待があったが、それはうまく行かなかった。結果的に非正規雇用が発展し、企業は労働者を囲い込みつつ、必要がなくなったら切るというような雇用慣行が横行することになった。結果的には知識が停滞するという現象が起きており、経済自体が縮小を始めた。本来なら普通にやっていても少しづつは成長するはずなのだが(日本人は優秀なので先進国と同じレベルで成長しないはずはない)それが起こらない。そこで現実を見渡すと「疲れているからもうどうでもいいよ」という人たちを多く見かける。

つまり、組織に属さない人たちがどのように協力してゆくかというのは個人の問題だけではなく社会にとても大切なテーマなのだが、意外と見過ごされているのではないだろうか。

石原慎太郎氏をバカにすることは脳梗塞の方々をバカするということだという言説について思うこと

石原慎太郎氏が証人喚問された。冒頭に「脳梗塞を患っているから過去の記憶が曖昧である」というようなことをおっしゃった。その時「海馬が不調なので」というような説明をしていた。とても胸が痛んだ。

胸が痛んだのは海馬の働きを知っていたからだ。人は何かを体験すると情報が海馬にゆき、必要な情報を洗い出したあと、大脳新皮質でファイリングする。海馬は入力装置と記憶装置をつなぐ場所にある。だから海馬が壊れてしまうと新しいことが覚えられなくなるが、古い記憶は残る。ハードディスクは残っているので情報そのものは残っているからだ。なお、情報が残っているということと取り出せるかということは違うのだが、情報を取り出すのは海馬ではない。

ここから理屈ではなく即座に分かることは、石原さんが「知っている人が聞けばすぐに嘘と分かることを言っている」ということである。多分、自分の症状を医者から聞いてよく理解できていないのではないだろうか。字が書けないというのは本当かもしれない。すると、ファイルそのものが壊れているか、ファイルを取り出すところが壊れている可能性はある。しかしそれは「海馬」ではない。

ここからさらに、この人は自分にとって重要である症状についてさえ、科学的知識を理解しておらず、専門家(つまり医者)が言っていることもわからないということになる。従って豊洲問題についても核心部分については理解していないであろうという見込みが立つ。つまり専門家や市場長などが専門的なことを伝えても「右から左に聞き流して」いたんだろうなあということがわかってしまうのだ。彼にとって重要なのは土地の移動が子飼いの部下や協力者に何をもたらすかということだけなのだろう。

さらに胸が痛んだのは、かつては一世を風靡した作家が、その一番大切であるはずの言葉を歪めてまでいろいろなことを隠蔽しなければならなかったという点である。政治家でいるというのはそういうことなのかもしれないが、であったとしてもそれは隠し通して欲しかった。

確かに発語のしにくさはあるようで声が嗄れていた。歩き方が不自然だったという感想を持った方もいらっしゃったようだ。だから、石原さんが全く健康体と主張するつもりはない。ある程度の配慮が必要なことはいうまでもないだろう。そもそも先のエントリーで観察したように尋問する側も「グル」のようなので、尋問が儀式に終わることも容易に想像できてしまう。

石原さんはペラペラと過去の自分の業績を開陳していたのだが「自分に都合が良いことはよく覚えており」「都合の悪いことを合理的に判断して隠す」ほどの知性を維持していることは明らかだった。仮に記憶の一部が欠落してたとしても、記憶が選択的であるということを意味している。パリの街で誰と食事をしたかとか隅田川を誰と歩いたとか記憶はかなりのディテールを持っているようだ。つまり記憶の取り出し機能が障害しているというのもかなり疑わしいように思える。

つまり、質疑が進むにつれて「病気を利用したんだ」ということが明らかになってゆく。これは同じ症状に苦しむ方にとってはとても不誠実な態度と言えるのだが、そんなことにかまってはいられないほどの事情を抱えているのだろうということがうかがえる。

さらに小池百合子都知事を糾弾するためにいろいろな勉強をされたのだろう。これは新規記憶だから海馬に影響があるなら難しい作業だが、難なくこなしていた。

唯一「障害」を感じさせるのは、自分と意見の異なる相手の言っていることは全く理解できていないという様子を見せたところだ。複雑な文節は理解不能のようだ。だが、これは脳梗塞の影響ではなく、そもそも自分と異なる相手のいうことを聞けないのではないだろうか。相手の意見を聞いてこなかった人が老年になって相手を理解できなくなることは珍しくない。こういう人たちには特徴がある。相手から話を聞いたあとワンポーズあって、表情に「?マーク」が浮かび、自説を騰々と述べるということだ。つまり、人の話を聞いてこなかったので、相手の会話を理解する能力を失っているのか、そもそも相手を理解する共感能力を持ち合わせずそれを隠蔽する能力を失っているのだ。

ついには精神科医まで動員され「傲慢症候群」という診断さえ下されてしまった。

「自分の言いたいことだけを言いたい。都合の悪いことには答えたくない。批判は受けたくない。特権意識が強く、自分勝手です。石原さんは、イギリスの政治家で神経科医のデービッド・オーエン氏が『傲慢症候群』と名づけた典型のように見えます。権力の座に長くいるとなる人格障害の一種です」

ここからわかるのはかつて一世を風靡した作家が、ちやほやされた挙句に相手への共感能力を失い、身内においしい思いをさせるために無茶をした結果、世間から叩かれているという構図だ。確かに石原さんは自分たちの仲間のためにとても一生懸命に働いたのかもしれないのだが、その結果は都政に様々な混乱をもたらしている。

石原さんは右派のスターだったので擁護したい気持ちはわかるのだが、彼の「愛国」が実は単なる身びいきに過ぎなかったということを認めるべきだろう。さらに、時々自分と違う意見を聞いて理解する訓練をしないと、最終的には石原さんのようになってしまうということも記憶しておくべきかもしれない。

日常を演じる人たち

デフレが進むロードサイドがいやでたまらない……のだが

家の近所にショッピングセンターがある。GUとハードオフと100円ショップがメインの典型的なロードサイドだ。常々「都心のおしゃれなところに行きたいなあ」とか「デフレ嫌だなあ」などと不満に思っている。ファミリー層がメインであり、当然なんとなく都心に出るのではない普段着のスタイルの人が多い。東京が羨ましいとまでは言わないが、美浜区いいなあ位は思う。

なんとなく変な日常

コンビニという名のコンビニの前に咲く早咲きの桜

早咲きの桜が咲き始めた暖かい三連休ということもあり、中央部にあるガーデニングショップでイベントをやっている。ピザとかマフィンなどの屋台が並び、家族連れが来ていた。その様子をなんとなく眺めていて、あることに気がついた。

ファミリー層に帽子着用率が高い。ぷらっと買い物に行くのに帽子を着用することなどないわけで「見られることを意識しているんだなあ」と思った。子供を撮影するカメラが一眼レフだったりもする。報道の人みたいだ。で、認識が180度変わってしまった。彼らは都市のアクターとして見られることを意識した上でわざとリラックスした格好をしているのではないかと思ったのだ。つまり、ゆるい日常がトレンドなのだ。

情報発信されることを意識した店が増えている

このガーデニングショップはちょっと変わっていてスマホで店内を撮影していいことになっておりインスタ映えする植物が飾られていたりする。右にある花の寄せ上は特に見るべきところがなく「花がたくさん咲いているね」くらいで終わりそうだが、実は中央に植わっている葉っぱが高い。ガーデニング好きはこれをみて「うわーいいなあ」などと思ったりするのだ。

つまり「見られることを意識する」作りになっているわけだ。そこに見られることを意識した客がやってきて子供を遊ばせることになる。いわゆる「顕示行動」だが、それはとてもさりげない。SNSが発展し「見られること」が一般化してきているのだが、その中でさりげなさを演じるという組み立てになっている。昔のトレンディードラマの主人公が「ナチュラルな演技」をしていたのと同じことが郊外のショッピングモールで起きているともいえる。つまり、店は品物を提供しているわけではない。これらは単に舞台装置に過ぎないのである。

本当の日常は緊張に満ちている

なぜ彼らはリラックスした格好をしたがるのかということはすぐにわかった。帰ってきてTwitterをチェックすると安倍政権打倒のツイートが途切れることなく流れてくる。ワイドショーは森友ネタで埋め尽くされる。知らず知らずのうちにかなり緊張した毎日を送っていることが分かる。トレンドは一般層とは違う方向を目指すのだから、当然普段通りの暮らしとか、リラックスして緊張がない状態というのが嗜好されることになる。

トレンドと非トレンドの逆転現象

バブル世代にとって「おしゃれをする」というのはちょっと頑張って私鉄に乗って渋谷あたりに繰り出すことを意味した。住んでいる地域では浮いてしまいそうな「ちょっと頑張った格好」をすることがおしゃれなのである。これを「格上げ」などと言ったりする。そういう頭があるので「ファッション=頑張ること」になりがちで、個人的にも「ああ、リラックスがトレンドなのかあ」と思うまで、その図式を疑うことはなかった。

しばらく観察していたのだが、体型が崩れていたり、ポイントがなくだらしなく着こなしている人もいる。つまり汚く見えないようにリラックスした格好をするのは実はかなり難しい。そもそも普段考えるおしゃれとベクトルが180度真逆なので、どうしていいのかが全くわからない。つまりリラックスして「気を使ってませんよ」という格好をするのはかなり難しいのだ。そのちょっとした差異に使われるのが帽子なのかもしれない。

ここから類推するとあからさまな「トレンド」は忌避される傾向にあるのではないだろうか。つまり、足が長く見えるとかモテるいう触れ込みのデニムなどは好まれそうもない。一番トレンドと離れたところにあるとさえ言えるのかもしれない。かといって古着屋で安い服を寄せ集めましたなどというスタイルは嫌われるだろう。実際にここから程近いホームセンターはそういう人たち(主に高齢者だが)であふれている。

普段から青山や銀座あたりで生活して、トレンドを扱っている人たちは「普通の人たちはトレンドには興味がないのではないか」などと思うかもしれない。だが、それは必ずしも正しくないかもしれない。憧れのために一歩格上げすること自体がダサいのだ。

体験というよりは演技に近いのかもしれない

こうした行為は体験型として一括りにすることができるのだが、一つだけ違いがある。それは誰かに見られることを意識しているという点だ。仲間内のおしゃべりが楽しいわけではなく、それを誰かに見て欲しいのである。

それは、おしゃれな屋台などで食べ物を買って愛らしい子どもと芝生で食べるというような体験だ。もしそうだとすると、いろいろなものを提案しても「ふーん」と思われるだけで見向きもされないだろう。

植物そのものが欲しいならずっと安いものがホームセンターで買える。そうしたところには高齢者が押し寄せて値段を厳しく吟味して買い物をしてゆく。戦後のもののない時代から急速にものが満たされてゆくという経験をした人たちである。彼らにとって劇場体験というと海外旅行だ。ちょっと無理をして非日常空間を味わい、お土産と一緒に写真を渡すというような行動である。

こうした人たちは「世の中ユニクロとニトリばかりになってものが売れなくなった」と嘆いている。実際には「何を買うか」ではなく「何をするか」ということに視点は移っているのかもしれない。いわゆる産業のサービス化だが、サービスを受けるというよりは日常を演じる演劇に近い。

企画書を書く人こそTwitterをオフにしてリラックスを求めて街に出るべきなのかもしれないと思った。一生懸命ものやサービスを押し付けると消費者は逃げてゆくだろう。消費者ではなくアクターだと再定義した上で、舞台を整えて脚本を書いてあげるのはどうだろうか。

菅野完氏はなぜうさんくさいジャーナリストと呼ばれるのか

立派なジャーナリストの田崎史郎さんがさまざまなワイドショーで菅野さんのことを「あの人の信頼性は……」と揶揄している。田崎さんは安倍さんの寿司トモとして知られており、安倍さんをかばっていることはかなり明白である。だが、報道機関の出身なので立派なジャーナリストとして通る。だが今日は田崎史郎さんのうさんくささではなく、菅野さんのうさんくさについて考えたい。

菅野さんは自分で情報の入手過程などを実況している。普通のジャーナリストは情報の入手過程をつまびらかにすることはなく、あくまでも第三者的な立場で情報の信頼性を確保する。「伝える側」と「伝えられる側」の間に線を引いているのだ。線が引けるのはジャーナリストの生活が確保されているからだろう。ジャーナリストは専業でやってゆけるから、政治のような面倒なことに関わらなくても済む。

菅野さんが自身をどう定義付けているのかはわからないのだが、政権の存続に関わるようになったので自動的にジャーナリストという文脈で語られることになった。しかし、彼は客観的な伝え手ではなく、信条がありアクターという側面も持っている。故に「伝える」役割のジャーナリストの範疇には入らない。これが、伝統的なジャーナリストである田崎さんから見て菅野さんが「うさんくさく」見える原因だ。もちろん、見ている我々も「菅野さんは嘘をついているかもしれない」と思う。それは菅野さんが客観的な語り手ではなく、意図を持っているからである。可能性としては嘘をつく動機がある。

さて、ここで疑問が湧く。田崎さんは報道機関出身という肩書きを持っており「解説」という立場から第三者的なコメントができるキャリアがある。ではなぜ一線を踏み越えて安倍首相のエージェントとして機能しなければならないのかという疑問だ。

なぜこうなってしまったのかと考えるのは興味深い。報道機関の収入源が先細りリタイア後の収入が確保できなくなってしまったのではないかと考えた。同じことは東京新聞内で闘争を繰り広げられる長谷川氏にも言える。自分のポジションを持って組織と対立している。これは組織を忖度する日本社会ではなかなか考えられないことである。

はっきりとはわからないものの、デフレがジャーナリストをアクターにしてしまっているのではないかと考えられる。裏で政権と繋がっていると噂されるマスコミの実力者は多いが、表舞台にしゃしゃり出てくることはなかった。NHKなどは政権との影響が出るのを恐れてか、同じく寿司トモの島田敏男解説委員を日曜討論の政治の回から外しているようだ。

つまり「うさんくさいジャーナリスト」が出てくる裏には、ジャーナリズムの弱体化があると考えてよく、フリーランス化という背景があるのではないかと思えてくる。つまり(たいていの二極化と同じように)これも同じ現象の表と裏なのだ。

だが、こうした動きは他でも起きている。それがYouTuberの台頭だ。もともとブログライターは顔出しせずに記事を書いていたが、最近ではブログライターさえ「タレント化」することが求められているようだ。切り込み隊長のように本当にタレントになった挙句にネタになってしまうこともある。スタティックな文章ではなく動画の方が好まれるのだ。その内容を見てみるとバラエティー番組にもできそうにないような身近なネタが多い。

テレビ局はYouTubeコンテンツをバラエティの出来損ないだと考えるのだろうし、YouTuberたちはタレントになれなかった胡散臭い人たちに思えるかもしれない。しかし、小学生くらいになるとバラエティ番組は退屈で見ていられないと考えるようだ。彼らにとってはスタジオで制作されるのは退屈な作り物で、番組ができるところまでを含めてリアルで見ていたいのだろう。また視聴者のフィードバックが番組に影響を与えることもある。つまり視聴者も制作スタッフ化している。

「既存の番組がくだらなくなったからYouTubeが受けるんだ」という見方もできるわけだが、視聴者の習熟度が上がり、なおかつインタラクティビティが増したからこそ、新しい形態のタレントが生まれ、今までジャーナリストとみなされなかった人が政権に影響を与えるようなことすら起きていると考えることもできる。視聴者が生産技術(安価なビデオカメラや映像編集機材)を持つことで、世代交代が広がっているのである。イノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすとき (Harvard business school press)で書かれたことが現実に起きているわけだが、日本では組織的なイノベーションが起きないという思い込みがある。意外と何が創造的破壊なのかというのはわかりにくいように思える。

つまりうさんくさいのではなく次世代なのである。これは映画から見てテレビがうさんくさかったのとおなじような見え方なのだろう。田崎史郎さんは伝統的なやり方で「大きな組織」を頼ってフリーランス化したのだが、別のやり方でフリーランス化した人もいるということなんだろう。

ただし、菅野さんの存在が無条件に賞賛されるということもないだろう。新しい形態は倫理的な問題を抱えてもブレーキが効かない。YouTubeでは著作権を無視してネットを炎上させたり、おでんに指を突っ込んで訴えられるというような事例が出ている。報道に必要な基本的な知識がないわけだから、これも当然と言える。

常々、日本人は変化を拒んでいると書いているのだが、変化は意外なところで起きているのかもしれない。

菅野完さんに学ぶ「人を動かす」方法

菅野完さんがワイドショーの主役になった。事件そのものは冷静に考えると今後どう転ぶかはわからないのだが、フリーランスとして幾つか学べる点があるなと思った。一番印象に残ったのは「人を動かす」手法である。

「人を動かす」は、戦前に書かれて高度経済成長期にベストセラーになった本だ。今でも文庫版(人を動かす 文庫版)で読むことができる。肝になっているのは「相手のほしいものを与えてやる」ことで影響力を与えることだ。盗人にさえもそれなりの理があり、話を聞いてやるだけでなく相手に必要なものを与えることが重要であるということが語られる。作者のデール・カーネギーは貧しい農家に生まれ、紆余曲折を経てコーチングの講師として成功した。

古い本なので複雑な現代社会には有効でないと思いがちなのだが、意外と現在でも通用するようだ。多くの人が(マスコミによると怪しいジャーナリスト・ノンフィクションライターであるところの)菅野さんの主張に動かされて右往左往している。

人を動かすというと相手を説得したり強制したりすることを思い浮かべる。自民党の右派にはこうした考え方を持つ人が多いようで、憲法に国民を訓示する要素を加えたいなどと真顔で語る人もいる。他人に影響力を与えたいから政治家になるのだ。だがカーネギーは「相手を変えることはできない」という。変えられるのは自分だけだという主張だ。

菅野さんは立場としては籠池さんを追い詰める側にいたのだが、インサイダーになって話を聞く方が自分の仕事に有利だと思ったのだろう。そこで取った行動は「相手にじっくりと話を聞く」というものだった。つまり、自分の欲しいものを手に入れるために、自分を変えて相手が欲しているものを与えたのだ。それが結果的に籠池理事長の信頼を得ることになる。

これはなんでもないことのように思えるのだがマスコミから悪者として追いかけ回されて、細かい話のつじつまを突かれることに辟易していた籠池理事長がもっとも欲しがっているものだったのだろう。だから数日で籠池さん一家の「籠絡」に成功してしまった。

もう一つのポイントは、多分菅野さんがお金儲けを目的にしていたことではないだろうか。ご本人も含めて「政府に狙われる可能性があり危険でリスクがあるから儲けにはならない」と否定されるかもしれないしwikipediaを読むと政治運動に傾倒しているようだが、実際の菅野さんには(本人の自覚はともかく)政治的なこだわりはなさそうだ。左右の振れ幅が大きい。

実はこれが良かったのではないかと思う。大義や信条にとらわれてしまうと「敵か味方か」に分かれてしまうことが多い。すると、自分の考えや立場に固執して自分を変えることができなくなってしまう。相手を動かすためにはこれは有利ではないのかもしれない。

菅野さんにはこのような「守るべきポジション」がなく、相手に合わせて変わることができたようだ。つまり政治的信条ではなくお金儲け(あるいは生きてゆくこと)にフォーカスしているからこそ、柔軟な態度を取ることができた。

もちろん、籠池・菅野両氏が嘘をついているかもしれないし、今後「証拠が出てこない」ことで両者が嘘つきとしてワイドショーで消費されてしまう可能性はある。さらにあまり好ましくない行状もTwitterでは指摘もなされている。つまり、人格的に信頼できるかということは全く未知数だ。だからといって人に影響力を与えるという菅野さんの技術が無効ということにはならない。学べるところは学ぶべきだろう。

菅野氏は単なるお人好しではなく「ティザー」という手法を使うことでマスコミやTwitterの耳目を集めることに成功している。情報を一元管理して小出しにすることで期待感を煽って注意を引きつけるという手法を使っている。これがティザー(じらし)だ。なんとなく調べ物をすると「知っていること」や「考えたこと」などを全部言ってしまいたい衝動にかられるから、情報発信者がティザー手法を使うのはなかなか難しいことなのではないかと思う。だが人々は隠されるとより知りたくなる。ポジションや組織がない人は相手が何を欲しがるのかを知っている必要があるが、情報をを全部出してはいけないのだ

さらに菅野さんはマスコミを分断することに成功した。NHKにだけ情報を与えたといい横並びで情報を欲しがるマスコミに「いい子にしていたらあなたにだけ情報をあげますよ」と言っている。すると相手は競って言うことをきくようになるかもしれない。分断するだけでなく餌をもらうにはどうしたらいいかという条件を提示しているのだ

さらに情報ソースは1つしかないにもかかわらず、事前に聞いたことを小出しにしてあとで本人から語らせることによって、あたかも複数ソースから情報が出たように見せかけている。いろいろなところで情報を聞くと「第三者に裏打ちされている」ような印象が残るので信頼性が増すわけだが、実際には一人の話を聞いているだけな。籠池理事長は当初「言うことは全部言ってしまいたい」と思っていたのだろうが、それだと反発されるだけなので「言わない」ことを決めたのだろう。すると不思議と人は聞きたくなってしまう。籠池理事長もまた変わることで相手に影響を与える方法を学んでいるのかもしれない。

さらに貧しいライターがやっとありついたネタを(淀川を電車で渡るお金がなく十三大橋を歩いたそうだ)高給取りだか何もしないマスコミに手柄を横取りされかけているというストーリーを作ることで同情を引きつけるような演出も行っている。田崎史郎氏が早速「菅野さんは信頼できない」という発言をしていたが、これは却って菅野さんの同情論につながった。マスコミは明らかに劣位におり菅野さんから情報をもらいたがっている。菅野さんは勝っているのだがそこでガッツポーズをしてはいけないのである。

このように幾つかのテクニックは使っていらっしゃるようだが、かといって「人に影響力を与える」という手法の技術と価値が失われるわけではない。組織の裏打ちを持たない人は、菅野さんの手法に学ぶべきだろう。

相手が欲しいものにフォーカスするのは重要らしい。個人的には、このところ特に自分が書いたものに関して、相手の言うことを聞かないで言いたいことばかりを押し付けがちだったなあと大いに反省した。実はみんな作者の言いたいことには関心がなく、それをどう読んだかということを伝えたいと思っているだけなのだ。多分、自分が書いたものでさえ自分のものであり、読みたいと思った相手の動機がすべてなのだろう。